第13限 香耶side: 夏の忘れもの
アタシは湯船に浸かりながら、落着かない広い浴室の中を見渡した。
ジャグジーのついた浴槽のボタンを押したつもりだったのに、いきなり浴室の明かりが消え、浴槽に埋め込まれていたライトが変色しながら光り出す。
「何これ……」
思わず独り言を呟いて、急いでさっき押したボタンをもう一度押し、元に戻った浴室の明かりに、アタシは小さく溜息をこぼした。
何を隠そう、ラブホテルに入ったのは、これが初めての体験で。まさか「彼氏」以外の人と来る事になるなんて、思ってもみなかった。
その「彼氏」じたいアタシは今までいたことなんかないんだけど、何故かいつも彼氏がいるとか、遊んでるみたいに見られがちで。どう思われようと関係ないし、面倒臭いから否定もしないけど、本当のアタシは、ちゃんとしたキスさえ知らなかったりする。
ちゃんとしたキスとは認めたくない、アタシのファーストキスは、最悪だった。
あれは……アタシが中学一年生の時。三年生の先輩に人気のない視聴覚室に呼び出され、告白されて。その場で断ったのにも関わらず、アタシはその先輩に、無理矢理キスをされた。
それ以来、気心の知れた成斗以外の男の子とは、どこか距離を置く様になった。そんなアタシの中で、いつの間にか成斗と同じくらい気を許せる存在になっていた叶。
とはいえ、ここはラブホテル。今更ながら変な緊張感を覚え、それを吹き飛ばす様に、アタシはプルプルと首を横に振った。
不意に、ここに来るまでの出来事が、アタシの頭をよぎる。
呆然と立ち止まった叶の横顔。叶は今、どんな想いでいるのだろう……。
アタシはそんな叶に、何が出来る? 何を言えばいい? きっとアタシに出来ることは、何もない。何を言ったところで、下手な慰めにもならない。アタシもこんな時くらい、何か叶の力になりたいのに――
備え付けの部屋着を着て浴室を出ると、ソファーに凭れていた叶が、「待ってました」とばかりに体を起こした。
「ベッド使って、先に寝ていいぞ」
「叶はどこで寝るの?」
「俺はソファーで充分」
叶は浴室へと向かいながら答え、そのドアを閉めた。
「先に寝てていい」と言われたものの、まだ眠る気にはなれず、叶が凭れていたソファーに座る。
テーブルの上の灰皿には、既に数本の吸い殻があり、それが今の叶の心情を色濃く映し出している様に思えた。
落着かない心は、アタシとラブホテルに来た事なんかじゃなく……叶の心にずっと住んでいる、あの
それがわかりすぎるくらいわかるから、アタシは今、叶と一緒にいる。今夜は叶をひとりにしたくないと思った。そんな気持ちを素直に言えば、叶はきっとそれを拒否しただろう。アタシにとって終電に乗り遅れた事は、叶をひとりにしなくてすむいい口実になっていた。さすがに一緒に居るのがラブホテルになるとは、思ってもみなかった事だけど……ね。
手持ち無沙汰を誤魔化す様につけたテレビを観るでもなく観ていたアタシに、
「まだ起きてたんだ?」
浴室から出て来た叶が言い、小さな冷蔵庫の前、しゃがみ込んで覗きながら訊いた。
「お前、何飲む?」
「お茶系がいい」
答えたアタシに缶の緑茶を渡しながら、叶は缶コーラ片手に、少し間隔を空けて座る。
「お前、眠くねぇの?」
「お風呂入ったら、なんか目が覚めちゃった」
「俺も。風呂入るまではスゲー眠かったのに」
叶はおどけた様に言って、コーラを一口飲むと、煙草に火をつけた。
まるで何事もなかった様に、アタシの前で元気に振る舞う叶が、なんだかとても痛々しい。
「別にそんな無理しなくていいよ」
言っていいのか悪いのかもわからないまま、アタシはそれを言葉にしていた。言葉足らずなアタシのセリフに、叶が「ん?」と、不思議顔をする。
「無理して元気なふり、しなくていいってこと」
叶の顔を見て小さく笑ったアタシに、叶は「フッ」っと鼻を鳴らして、苦笑いにも似た力ない笑みを返した。
「お前いつもタイミング悪すぎ」
そんな叶の言葉に、今度はアタシが不思議顔になる。
「穂奈美さんが店に入って来た時もお前が居て、俺が穂奈美さんに振られた時も。そして今も」
「あの
「えっ!? うん。つーか、穂奈美さんの名前なんて、お前が覚えなくてもいいんだよ」
「そっちが勝手に言ったんじゃん」
アタシのもっともな突っ込みに、吸っていた煙草へと逃げた叶は、白々しいスルーを決め込んだ。
「叶ってさ、なんか……アタシに似てる」
「例えばどこが?」
「唐突にそう言われると困るけど。なんとなく似たとこある気がする」
「似てねぇよ。俺とお前は」
言った叶の横顔は、少し寂しそうに曇って、静かに煙草を揉み消した。
「お前はさ、好きでもない奴とキス出来る?」
突拍子もない叶の質問に、慌てながらも正直に答える。
「そんなの出来るわけないじゃん」
「だろ? でも、俺は出来る。出来るって現在進行形より、どっちかっつったら、出来たっていう過去形だけど」
叶の言いたい事がよくわからなくて、困惑気味のアタシに叶が続けた。
「俺、ずっと心の中で穂奈美さんを想いながら、表向きは他の女と付き合って、キスもしたし、セックスもした」
どんな相槌を打てばいいのかわからなくて、アタシは黙りこむ。
「お前と会ったばっかりの頃、成斗にずっと片想いしながら、実はお前も俺と同類なんじゃないかって思った事もあったけど……お前はそんな俺とはぜんぜん違う。似ても似つかねーよ」
叶は苦笑いを浮かべながら言い切って、また煙草に火をつけた。
「穂奈美さんを好きだったのに、どうして他に彼女作ろうって思ったの?」
煙草の煙に目を細める叶の横顔へと、アタシは心に渦巻まく疑問を口にしていた。
「作ろうってより、作らなきゃって思った」
「作らなきゃって……」
「それでも作らなきゃいけなかった。穂奈美さんは、俺の兄貴の彼女だったから……」
アタシの言葉を遮って、叶が放った思いがけない真実に、思わず息を呑む。
叶はそんなアタシを見ることもなく、横顔のまま話し出した。
「俺の兄貴、結構女にダラしなくて。そんな兄貴に振り回されてる穂奈美さんの愚痴聞いたり、相談乗ったり、それが俺の役回りだったんだけど……『兄貴と別れる』って俺に言いに来た穂奈美さんに、だから俺とももう会わないって言われた」
「叶の気持ち、伝えた事は?」
「口に出して言った事は一度もない。でも穂奈美さんはどっかで気付いてたのかも知れねぇけど」
二人の間に何があったのか、もっと深く追求したい気持ちはあったけれど、あまりに遠い叶の眼差しに、アタシはそれ以上、訊く事をやめた。
叶がそんな複雑な恋をしていたなんて、正直、思ってもみなかった。
アタシが知る叶は、学校でもバイト先でも、女の子全般誰でも気安く相手はするけれど、でもそれ以上の事はなくて。どちらかといえば、恋愛なんて興味がないって思わせるくらい。
叶の話の中には、アタシの知らない叶が沢山いた気がして、叶と仲がいいと思っていた分だけ、それをどこか寂しく感じた。
雨城叶という人物像が、アタシの中でぼやける。本当の叶は、いったいどんな人なんだろう……? そんな想いが、アタシの胸を掠めた。
「さすがに、どんびきしたって顔してんな?」
物思いにふけっていたアタシを見て、おどけた様に叶が笑う。
「どんびきとか、そんな風に思ってない」
「じゃあ、今何考えてた?」
「別に何も考えてないよ」
アタシは咄嗟に、嘘をついた。叶はそんなアタシの嘘をあっさり見破って、可笑しそうに鼻を鳴らす。
「どうせ嘘つくならさ、もっとポーカーフェイスで嘘つけよ」
アタシはその言葉に観念して、自分でもよくわからない感情を叶にぶつけた。
「……寂しかった。アタシ叶の事、なんにも知らなかったんだなーって。そう思ったら、なんか寂しかった」
「それ、俺への愛の告白?」
アタシの顔を覗き込む様に小首を傾げ、おちょくる物言いで含み笑いをする叶に、思わず大声をあげる。
「なっ、なんでそうなんのよっ」
「冗談。んな、ムキになんなよ」
ワンテンポ遅れの気恥ずかしさが、マグマの様に込み上げてきたところに、
「お前の気持ちは、俺が一番よーく知ってるし」
叶が更に追い打ちをかけた。恥ずかしさMAXで、もう限界。
「もう寝よっと」
アタシが逃げる様にベッドへと潜り込む、と……。
「おやすみ」
背中越し、叶の優しい声が聞こえた。
次の日。
チェックアウトの時間に合わせてホテルを出たアタシ達は、まっすぐ向かった駅で、そのまま別れた。
階段を下り、ホームに出て、何気なく見渡した景色に、反対側のホームに立つ叶を見つける。寝不足なのかダルそうに、叶が欠伸をしたところで、その姿は入って来た電車に隠されて見えなくなった。
昨日はやっぱり、眠れなかったのかな……?
アタシが起きた時には、叶はソファーで寝ていたけれど、灰皿の中には沢山の吸い殻があって、コーラの空き缶の脇には、缶ビールの空き缶もあった。
暗いアパートの部屋の中、打ちのめされていた叶の姿が、またアタシの頭に浮かんで、ちょっぴり心配になる。だけど、それをどうする事も出来ないまま、アタシは自宅へと向かう電車に乗り込んだ。
夏の日差しを残した九月の太陽の下、駅から自宅へと気怠い体を引きずるように歩く。
慣れないベッドで眠るもんじゃないなんて思っていたところに、突然、掛けられた声。
「香耶?」
訊き慣れたその声に振り返ると、クロスバイクに乗った成斗が「よぉ」と片手をあげた。
立ち止まったアタシのところにやってきた成斗は、クロスバイクを下りると、アタシと並んで歩き出す。
「昨日のライブどうだった?」
「うん。楽しかったよ」
「ってか、香耶、今帰り?」
何気なく訊かれて、心臓がトクンと鳴る。
「あ、うん……終電乗り遅れちゃってさ」
「叶は?」
「叶も一緒に乗り遅れちゃったから、二人でネットカフェ行って、さっきまで爆睡してた」
思わずついてしまった嘘に、成斗は何を疑うでもなく、「そっか」と笑った。
「成斗はどっか出掛けてたの?」
「昼飯買いにコンビニまで。起きたら、おふくろいなくて、食べるもんもなかったから」
「そうなんだ……」
相槌を打った後、言葉がみつからなくて、続かない会話に漂う沈黙。嘘をついた後ろめたさが、余計に重くアタシにのし掛かって、何か話さなきゃと思えば思うほど、何一つ浮かばない。
「あー腹減って限界。俺、先帰って飯食うわ」
沈黙を破った成斗の口から出たセリフに、アタシは小さく吹き出して、そんな成斗の背中を見送った。
アタシ、成斗になんで嘘なんかついちゃったんだろう……?叶とは何もないんだから、本当の事を話したってよかったはず。ましてや、叶がなんの躊躇いもなく成斗に本当の事を話したら、アタシの嘘なんてすぐバレちゃうのに……。
アタシは家に帰るなり、自室への階段を駆け上がると、叶の携帯へ電話をかけた。
『どした?なんか忘れもんでもしたか?』
携帯から流れる叶の呑気な声に、ちょっとほっとする。
「昨日のこと、話合わせてほしいの。『電車に乗り遅れて、ネットカフェで爆睡してた』って。さっき駅からの帰り道に、偶然成斗に会って、アタシ思わずそう言っちゃったから……」
『了解。つーか実は俺もさ、成斗に本当の事言うのやめろって、芹沢に言おうと思って忘れてたんだよね。お前が先に機転きかせてくれてよかったよ』
「なんでアタシ、咄嗟に嘘なんかついちゃったんだろう……?」
独り言みたいなアタシの問い掛けに、穏やかな声音で叶が言う。
『そりゃ、嘘つくだろ。成斗に変な誤解も余計な心配も、させたくないだろ?』
「そう……だよね」
『実際、俺達は潔白なんだから、敢えて勘ぐられる様な場所言う必要もねぇだろ。これからは嘘つかなくていいように、成斗の事だけ考えて行動しろよ。じゃあな』
歯切れの悪いアタシの相槌に、叶はそう付け足すと、電話を切った。
アタシはスマホ片手に、そのまま仰向けで、ベッドへと倒れ込む。
アタシの嘘に叶も同調してくれたというのに、心が何故かスッキリとしない。それは成斗に嘘をついてしまった罪悪感とは、別物の様な気がした。
なんだかモヤモヤとして、気持ちが落ち着かない。その根本をつきとめようとすればするほど、心に
いっそ認めてしまった方が、楽になる気さえするのに、アタシの心はどこまでも、それを拒絶し続ける。そんなアタシの思考の中には、成斗ではなく、いつの間にか叶がいた。
いつからだろう……? 成斗よりも叶の事を考える様になったのは――
自分の心の記憶をゆっくり辿ってみたけれど、その答えはみつからない。「あの時」なんて、きっちりとしたボーダーラインはなくて。いつのまにか、叶の事が気になるアタシがいた。
長い成斗への片想いに、心がちょっぴり疲れていたのも本当だけど……そんな片想いにピリオドを打とうとして、叶を好きになったわけじゃない。もしそうなら、アタシはもっと可能性のある恋をしたはず。
叶を好きになったところで、アタシの片想いは変わらない。好きな
わかってるのに……ちゃんとわかってるのに……それでも人を好きになる気持ちは、自在に操る事は出来なくて……。
理屈じゃないって事に、改めて気付かされていた。
『恋はするものじゃなく、おちるものだ』と、誰が言ったかわからない言葉に、今のアタシなら大きく頷ける。自分の意志とは無関係に、まさにアタシの心は、叶というブラックホールに落っこちていた。
悪あがきと言われても、本当は叶を好きだなんてこと、認めたくなんてなかった。認めたところで、楽になるどころか、苦しくなるだけだから……。
それがわかりすぎるくらいわかるから、アタシの心はそれを拒否し続けてきた。気付いても気付かないふりをした。でも……。
気付かないふりは、きっともう出来やしない。それを悟るだけでも、アタシの心はすでに、キャパシティーオーバーで。どうにもならない現実と、気怠さが抜けない体に、アタシはそのまま目を閉じた。
叶との外泊から、一週間が経ったある日。
ずっと家に引きこもっていたアタシに、「ランチに行こう」と、音央から電話があった。
全てを音央に話したら、少しは気分がスッキリするのかな……? 心の片隅でそんな事を考えながら、叶を好きだと口に出してしまう事を、怖いと思うアタシもいた。
口にしてしまう事で、気持ちは余計、より強い確信を持つ。今のアタシには、それが何より怖かった。
待ち合わせた駅の改札を出ると、先に来ていた音央が、アタシを見つけて笑顔で手を振る。アタシもそれに笑顔で応えて、大きく手をあげながら駆け寄った。
「花火大会の時はごめんね。せっかくみんなで集まったのに」
アタシの顔をみるなり、申し訳なさそうに音央が言う。
「ううん。そんなのアタシも成斗も気にしてないよ。それよりさ、何食べる?」
話を逸らして笑ったアタシに、音央も安堵した笑みを返して。アタシ達はカフェへと向かうことにした。
『花火大会』という言葉がキーワードとなり、アタシの頭には、今更の映像が浮かびあがった。
叶の胸に顔を埋めて、泣いていた音央。あの時のアタシの怒りは、音央を思ってというのは表向きで、本当は音央に嫉妬してた……?
「香耶? どうかした?」
いつの間にか食事の手が止まっていたアタシに、向かいの席に座っていた音央が心配顔で訊く。
「ううん。なんでもない」
アタシは咄嗟に取り繕った笑顔で答えた。
音央に嫉妬するなんて、どうかしてる。アタシの思考はそこでとどまらず、広がるのはネガティブもいいところの妄想。
音央の好きな人は叶で……でも、叶は穂奈美さんを好きで……。
泣き出してしまった音央をどうする事も出来なくて、叶が抱きしめたんだとしたら――もしかしてアタシと音央の好きな人は、一緒なの??
「音央……」
衝動的に呼んだアタシの声に、音央が「ん?」と、小首を傾げる。
「好きな人っている?」「音央の好きな人は誰?」訊きたい言葉は胸に渦巻くのに、やっぱり声にはならなくて……。
「ここのコーヒーは絶品だね」
自分でもぎこちないと思いながら、慌てて探した言葉を口にした。
「でしょ? コーヒー好きの香耶なら、ここのコーヒー気に入るんじゃないかなって思って、ずっと連れて来たかったんだぁ」
ふわふわしたマシュマロみたいな音央の笑顔に、心がまたチクリと痛む。
この時、アタシが思った言葉を口にしていたら……音央が気持ちを打ち明けてくれていたら……アタシ達の未来は、もっと早く、何か変わっていたのかな……?
音央と別れて乗り込んだ電車。
アタシはドアに体を預けながら、流れる景色を見ていた。
アタシのネガティブな妄想は、すでに思い込みへと変わってしまっていて……。 ――きっと音央は、叶が好き。
そう確信して思い返せば、そんな風に思えるところが、大いにあった気さえする。
どうしたらいいのかわからない問題がもうひとつ増えた事に、もう何度吐いたかわからない溜息がこぼれた。
人はどうして、人を好きになるんだろう……?
こんなにもどかしくて、苦しいだけなのに、それでも人は人を好きになる……。
まるで罰ゲームみたい……。
窓越しに見つめた夏の終わりの夕日は、やけに眩しく目に沁みて、思わず涙がこぼれそうになる。
今にも押し潰されそうな心の中、叶の笑顔が浮かんでは消えた。
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