第12限 叶side:TO-BE

 最近よく考える事がある。報われなかった恋の想いは、いったいどこへ向かうのだろう。いつかは水の様に蒸発して、消えてなくなってしまうのだろうか?

 もし消えてなくなる事があるなら、それにはいったいどのくらいの年月がかかるものなのだろう…?

 穂奈美さんと別れてから一ヶ月経った俺はといえば ――

 涙することはないし、笑うことも出来る。今となっては何の意味も持たないバイトだって、相変わらず続けてる。だけど……。

 俺の心に大きくぽっかりと空いた穴はそのままで、無意識に溜息を吐かない日はない。

 こんな俺が前になんて、一歩も進めるわけもなく、やってくる毎日をただやり過ごすだけだった。

 九月に入っても、強い日差しに、空も雲も夏色のままで。

 バイト先での開店準備に、俺は昨日で終わった八月のカレンダーを捲る。思わず目がいく穂奈美さんの誕生日の日付に、俺がまたひとつ無意識の溜息を吐いた時だった。

 まだ開店前の店のドアが静かに開く音がして、入ってきたのは……芹沢。

「おう。久しぶり」

 花火大会以来、会っていなかった芹沢に、片手をあげて言う。芹沢も同じポーズで応えると、カウンターの一番端に座った。

 どことなく元気がない様な芹沢に、頼まれてもいないウーロン茶を出しながら訊いた。

「浮かない顔して、どした?成斗とまたなんかあった?」

「アタシって、そんなに友達甲斐ないかな?」

 俺の問い掛けはまったくのスルーで、芹沢が主語のない質問返しをする。わけがわからないと言う顔をした俺に、芹沢はウーロン茶を一口飲んで話し出した。

「音央、アタシには何も言ってくれないんだぁ。それがちょっと寂しくて」

 成斗から生田と俺の真相を聞いたらしい芹沢は、ちょっぴり不満そうに、結んだ口端を下げる。

 生田の立場から言ってみれば、芹沢に話さないというよりも、話せないわけで……というのも、生田の悩みの元凶が、何をかくそう成斗であり、芹沢の気持ちも生田は気付いていたりする。それで生田は、成斗にさえ想いを伝えないまま諦めようとして、ジレンマに陥っているんだった。

 だけどそんな経緯を俺が芹沢に話せるわけもなく、俺は敢えて言ってみた。

「じゃあ、訊くけど、芹沢は生田に、成斗の事相談したことあんの?」

「ない……けど」

「それと同じなんじゃねぇの? 男友達の方が言いやすい事もあんだろ。俺だって実際、成斗に恋愛話なんかした事ないし」

「そだね……自分は何も言わないのに、人からは相談されたいなんて、そんな都合のいい話ないよね」

 屁理屈じみた俺の話に、芹沢は珍しくすんなり納得すると、薄く笑った。

「今日は随分とやけに素直だな」

「そういう叶も、なんかちょっと元気ないじゃん」

 カウンターに頬杖をつきながら、芹沢が見透かした様な上目遣いで俺を見る。

「べつに」

 俺は鼻で笑ってみせると、さり気なく芹沢から視線を外した。

「話してくれたっていいじゃん? アタシだって叶には話してんだからさ」

「それはお前が話したくて話してんだろーが」

「人の相談ばっか乗ってないで、たまには自分も抱えてる事吐きだしなよ」

「男と女はちげーんだよ」

 俺はピシッと言って、気を逸らす様に、シンクにあった洗いものを始めた。

「誕生日、もう過ぎちゃった?」

 芹沢の言葉に思わず動揺して、俺は洗いものの手を滑らす。運よく割れずにすんだグラスをひろいながら、芹沢を一瞥して言った。

「お前にはデリカシーってもんがねーのかよ」

 図星をつかれて、不機嫌気味の俺に、

「ごめん」

 らしくもなく、素直に謝る芹沢。そんな芹沢に調子を狂わされ、俺は手を止めると、さっきの芹沢の質問に答えつつ訊き返した。

「まだだけど。なんで?」

「プレゼント。やっぱり渡した方がいいんじゃないかと思って……」

「『もう会わない』って言われた女に、どの面下げてプレゼント渡すんだよ」

 そう、俺にだって、プライドってもんがある。

「あっ、そうだ。高校の時の友達と一緒に行こうっていってたライブがあるんだけど、その友達が急に行けなくなっちゃって。叶、一緒に行かない?」

「は? そんなら、成斗誘えよ」

 突然の話題変換に、呆気をとられながらも、そう返した。

「成斗はダメ。だってヴィジュアル系のバンドなんて聴かないもん」

 いつだったか、俺と芹沢とで音楽の話になって、ヴィジュアル系のバンド話で盛り上がった事があったっけ……。

「そのライブっていつ?」

「十一日」

 芹沢が言った日付に、一瞬フリーズしそうになった。

 九月十一日は、穂奈美さんの誕生日。

「ライブって夜だろ? 俺バイトだし」

「一日くらい成斗に代わってもらえばいいじゃん。たまには好きな音楽聴いて、気分転換した方がいいって」

 芹沢の誘いに、俺の心が揺れる。穂奈美さんの誕生日に、俺がまともな心情で、バイトが出来るとも思えない。

「成斗とバイト代わってもらえるようなら、行ってやるよ」

「行ってやる」なんて、わざと上から目線でからかって言ったのに、気付いているのかいないのか、芹沢は嬉しそうにコクンと頷いただけだった。


 九月十一日の土曜日。

 ライブ会場近くで待ち合わせた俺は、まだ来ない芹沢の事を待っていた。

 バイトをすんなり代わってくれて、「楽しんで来いよ」と笑ってくれた成斗。もちろん成斗は、穂奈美さんの一件を知らない。「友達が急に行けなくなったと言う芹沢に誘われた」とだけ、俺は成斗に話していた。

「ごめん。待っ……た?」

 肩で息をしながら言う芹沢に、俺はわざと意地悪く言って笑う。

「人誘っといて、遅せぇっつの。ライブ会場までダッシュな」

「あ、ちょっ……待ってってば」

 必死に追いかけてくる芹沢をからかいながら、ライブ会場へと向かった。


 盛り上がりに盛り上がったライブを満喫して、その余韻に浸りながら歩く、芹沢との帰り道。

 会場で隣り合わせた見知らぬ奴等とまで一緒になって盛り上がれるのも、ライブだからこそ味わえる不思議な一体感。

 俺も頭の中を空っぽにして、今日という日を心底楽しむ事が出来た。

「芹沢、サンキューな。ライブすげー楽しかった」

「アタシじゃなくて、急にライブに行けなくなった友達に感謝してあげて」

「それを言うなら、バイト代わってくれた成斗にもな」

 俺達はお互い見合わせた顔をどちらからともなく逸らしながら、鼻を鳴らして笑い合う。

「なぁ、腹減らねぇ?」

「めっちゃ減ってる」

「なんか食いに行く? 今日の礼におごってやるよ」

「やったね。行こ行こっ」

 俺と芹沢は飯を食べる事にして、繁華街の方へ足を向けた。土曜日の夜というだけあって、街は沢山の人で賑わっている。

 何が食べたいというわけでもなかった俺達は、お互い酒が飲める同士というのもあって、居酒屋に入る事にした。

 店のホールスタッフに案内された席に、向かい合わせで座りながら、芹沢に釘をさす。

「お前、焼肉屋の時みたいに、飲みすぎんなよ」

「大丈夫だってば」

「酔っ払ったら、お前ひとり放って帰るからな」

「何にしよっかなー?」

 疑る様な俺の視線を敢えてスルーする芹沢に、俺は呆れながらも小さく笑い、メニューを一緒に見始めた。

 大学の事や、さっき見たライブの話をしながら、進める食事。ふと途切れた会話に、俺は言っておいた方がいいと思う事を口にした。

「ここにいる俺が言うのもなんだけど。お前さ、あんまり他の男と、二人で出掛けたりとかしない方がいいぞ?」

「他の男って?」

「成斗以外の男ってこと」

「なんで? 別にアタシ、成斗の彼女じゃないもん」

 不貞腐れたように、芹沢が口を結ぶ。

「そういうことじゃなくてさ。お前は成斗の事が好きなんだから、あんまり成斗が誤解する様な態度はよくねぇってこと」

「ついこの間までは、『安心させすぎだ』とか、『ちょっと心配させた方がいい』とか言ってたくせに」

 あの時と今とじゃ、成斗の状況が違うなんて事も言えないし、どうしたものかと考える。手っ取り早く二人をくつけるには、俺が間に入ってどうこうしたらいいのかもしれないけど、俺は他人の恋愛に首を突っ込む事はあまりしたくないし、そういうお節介が好きじゃない。恋愛は当人同士で、自然に結ばれるのが、一番だって思うから――

「恋愛っつーのは、駆け引きが大事なんだよ。安心させすぎもダメだけど、心配させすぎもダメってこと」

 力説する俺に対し、涼しい顔した芹沢は、まったく聞いていないとばかりに、カクテルを飲み干した。

「って……お前なー。人の話を聞け」

「アタシの話はいいからさ。たまには叶の恋バナしてよ」

「俺の話なんかしても、おもしろくもなんともねーよ」

「おもしろくなくてもいいから聞かせて」

「そのうちな」

 もったいぶったわけじゃなく、わざと話を逸らした俺に、芹沢が子供みたいにしつこく突っ込む。

「そのうちっていつ!?」

「そのうちはそのうちだよ」

「じゃあ、そのうち絶対聞かせてよね!?」

「気が向いたらな」

 芹沢をからかいつつ、俺はその話題からフェイドアウトを決め込んだ。

 なんだかんだと二時間くらい居座った居酒屋を出た俺達は、駅の方へと歩き出した。

 俺と芹沢の家は、同じ路線沿いにある。ただ帰る方向は逆だから、乗り込む電車は別なものの、駅までは一緒だ。

 終電が近づいたこともあり、さすがにさっきの賑わいは、繁華街からも消えつつあった。

 もうすぐ今日という日が終わる。ふとそんな事を思いながら、俺の心が穂奈美さんを思い出した時だった。

 会いたさが見せた幻だと、一瞬、自分の目を疑う。

 俺の少し遠い視線の先には、見知らぬ男と腕を組んで、楽しげに笑う穂奈美さんがいた。

 穂奈美さんはまだ、俺に気付かない。少しずつ縮まる距離に、思わず俺の足が止まった。

 急に立ち止まった俺に、少し遅れて芹沢も足を止める。俺の視線を辿り、芹沢は何を思ったのか、突然その腕を俺の腕に絡めた。

 その事に焦りながらも、俺の神経は、すれ違う穂奈美さんに集中する。

 ほんの一瞬、穂奈美さんと目が合った様な気がした。先に逸らしたのは、穂奈美さん? それとも……俺?わからないくらい同時に、逸らされた瞳。

 振り返りたい衝動にかられながらも、振り返る勇気はなかった。

 俺はふと立ち止まり、自分の腕に絡められた芹沢の腕を見る。

「目には目を歯には歯を……って言うでしょ?」

 少し慌てた様子で、芹沢がその腕を解いた。

「さっきすれ違った人、アタシが初めて叶のバイト先に行った時、会った人だよね?」

「そんなこと、よく覚えてんな」

「うん。よく覚えてる。綺麗な人だったから」

 芹沢はちょっぴりおどけると、何も答えずにいた俺に続けた。

「それで、あの人が叶のずっと好きだった人でしょ? お店に入って来た時に、叶の顔色が変わったから、すぐわかった」

「それであの時、まだ俺に何も話してないのに、帰ってったわけか」

「まーね。アタシこう見えて、結構、空気読むの得意だし?」

「だからさっきは、俺と腕を組んでくれたわけだ?」

「だって!! 相手は男の人と腕組んで歩いてて……そういうのって、なんか悔しいじゃん。でも今更余計な事したかもって、ちょっと思ってる……ごめん」

 謝り下手な芹沢が、小さくちょこんと頭を下げる。俺はそれに薄く笑いながら、俯きがちな芹沢の額を指で小突いた。

「バーカ。俺がいつ『余計な事した』なんて言ったよ? サンキューな。お前がいなかったら、俺あのままずっと立ち止まってたかもしんねぇ」

 そう……あの時。芹沢が俺の腕を引いてくれなかったら、俺は他人のふりですれ違うことなんか、出来なかったかもしれない。もしかしたら、穂奈美さんの状況も考えず、呼び止めていたかもしれない。そしてきっとその後に、とてつもない後悔と、今以上の虚しさを感じたはずだ。

 『目には目を…』という、芹沢の突飛な行動に、俺は今更ながら感謝した。

「って…おい。今、何時だ?」

 突然思い出して叫んだ俺に、

「あっ、終電!」

 芹沢も弾かれた様に焦って叫び、どちらからともなく走り出す。

 お互い全速力で走ったにも関わらず、無情にも電車は既に出た後だった。

 俺も芹沢も肩で息をしながら呼吸を整えるのが先で。乗り遅れた終電に、これからどうするかなんて、すぐには考えられない。

 暫くどちらも無言のまま、大きな息を繰り返した。

「どうすっか……」

 ようやく落ち着いた呼吸に、俺は思わず舌打ちをして、独り言みたいに呟いた。

「汗で体ベトベト。お風呂入りたい」

「随分、大胆な事言うな」

 俺がからかった事で、初めて気付いたらしい芹沢が、顔を真っ赤にする。

「ち、違うっ。そういう意味で言ったんじゃないもん」

「わかってるっつの。でもホント、風呂入りてぇな」

 そんな俺の言葉に、芹沢の痛い視線を感じて、

「断じて変な意味じゃねーからな」

 そこは強く否定した。

「とにかく風呂に入りたい」と、俺達の意見はまとまったものの……銭湯なんて気の利いたものが、近くにあるわけもなく。

 運がいいのか、悪いのか……少し歩けばラブホ街。

 俺と芹沢は風呂に入りたい一心で、ラブホテルに行く事を決めた。下心なんて、誓ってないと言い切れるけど、場所が場所だけに、すれ違うカップルに気まずさを感じながら、空いているホテルを探す。

 土曜日の夜ということもあってか、どこのホテルも満室の明かり。いい加減諦めようと思った時、空室があるホテルを見つけて、その一室に入った。

 ラブホテルに来たのはこれが初めてじゃないけど、来慣れてる場所というわけでもないから、部屋のドアを開けた途端、精算機の自動音声に、思わず肩がビクッとなる。

 そんな俺につられる様に、肩をびくつかせた芹沢と、思わず顔を見合わせ、俺達はどちらからともなく吹き出して笑った。

 先に風呂に入る様にと芹沢を促して、俺はひとりになった部屋のソファーで、煙草に火をつける。

 疲れた……なんだか一気に脱力して、とてつもない疲労感に襲われる。

 気を抜いたら今にも閉じてしまいそうな瞼。

 換気用についている小窓を見つけて、俺は立ち上がると、その窓を開けた。部屋の階が少し高いこともあって、目の前に繁華街の小さな夜景が広がっていた。

 微かに揺れて見える光に、また蘇る穂奈美さんとのワンシーン。

 穂奈美さんは今、どうしているのだろう……? 隣に居た男と、同じ夜を過ごしているのだろうか……?

 不意に穂奈美さんと過ごした夜が浮かんで、俺はそれ以上考えるのを止めた。

 大きく吸い込んだ煙草の煙を、ゆっくりと窓の外へと吐き出す。風のない夜に、ゆらゆらと漂いながら消えていく煙を、俺はただぼんやりと見ていた。

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