第10限 音央side:沁みる夏音

 季節が春から夏に移り変わり、ふと気付いたことがある。

 あの日――

 香耶の涙を見たあの日から、あたしの中で少しずつ、そう……何かが変わった。

 成斗くんを諦めようと自己暗示をかけるうちに、成斗くんへと向けられていた刺々しいあたしの態度は、どこか丸みを帯びていて……。

 叶わないと知った恋の開き直りとでも言うのかな? 自分でも不思議なくらい普通に、成斗くんと話せるようになった。とは言っても、やっぱり叶くんを持ち上げて、成斗くんを落っことす様な事を言って、からかってしまうところは、相変わらず健在だったりするんだけど……。

 変に意地を張って自己嫌悪に陥っていた頃より、あたしは今の自分の方が好きだった。

 風が心をさらうみたいに、このまま成斗くんへの特別な想いが、いつの間にか無くなっていたらいいのにって思う今日この頃。


 八月七日は、香耶の誕生日。

 香耶の誕生日パーティをする計画は、既に夏休み前から立てられていて、その開催場所は叶くんのアパート。

 誕生日当日は土曜日で、叶くんがバイトだという事もあって、翌日の日曜日の十七時に、現地集合することになっていた。

 あたしは前もって用意していた香耶へのプレゼントを持って、叶くんのアパートへと向かう。最寄駅の改札を抜けたところで、あたしは偶然にも、成斗くんと会った。

「あれ? 音央ちゃん」

「香耶は? 一緒じゃないの?」

「俺、ダンススタジオの帰りだし。香耶も叶のとこに、なんか早めに行くとか言ってたから」

「そうだったんだ」

 何でもない様に返しながら、頭の片隅では不思議に思う。叶くんのアパートに早めに行って、香耶は何かする事でもあるのかな……? まして主賓の香耶が、叶くんの手伝いをするとも考え難い。

「やっべ。香耶の誕生日プレゼント買うの忘れた!」

 あたしの思考を遮る様に、成斗くんが大声をあげた。ガシガシと頭を掻いた後、成斗くんはあたしを見るなり、頼りない苦笑い。

「今からでも何かプレゼント探したら? あたし付き合ってあげるよ」

「マジ!? 音央ちゃん、サンキュー。恩にきるっ」

 コロコロと表情を変えて喜ぶ成斗くんを見て、あたしも小さく吹き出した。

「音央ちゃんは、何買ったの?」

「香耶と前に行った雑貨屋さんで、香耶が可愛いって言ってたパジャマとちょっとした小物」

「へぇー。じゃあ、俺は何買えばいいんだ?」

「お店とか見て回る時間とかないし……。あっ、花束とか?」

「花束かぁ。誕生日に花とか貰って、女ってそんなに嬉しいもん?」

「嬉しいよ。花束なんて、もらう機会滅多にないし。少なくともあたしは嬉しい」

「そっか。じゃあ、音央ちゃんが見立ててよ」

 成斗くんとあたしは、駅前通りにある花屋さんへと向かった。

 季節の花をメインに、色とりどりの花が、所狭しと並べられている店内。あたし達は思わずキョロキョロとして、その花たちを眺めた。

「やっぱ、花束って言ったら薔薇とか?」

「そんな事ないよ。成斗くんが香耶のイメージに合う花とか、チョイスするのもいいんじゃない?」

「香耶に合うイメージの花かぁ。ちなみに、音央ちゃんなら、何がほしい?」

「あたしなら、あれかな?」

 トルコキキョウをメインにして、色とりどりに可愛らしく生けられている花籠をあたしは指差す。

「うん。うん。なんか、音央ちゃんらしい」

 成斗くんは感心した様に言って、あたしに訊いた。

「ねぇ、その隣にあるやつ、香耶にどう?」

 言われて見た視線の先に、可愛らしい黄色の花が映る。小さな向日葵をメインに生けられた花籠。それはまさに香耶をイメージさせる爽やかな可愛らしさを持ったものだった。

「うん。すごく可愛い。香耶にぴったりかも」

「なら、それに決まり」

 納得のいくものが見つかり、満足そうな成斗くんが、店員さんに声をかける。

「すいませーん。あの向日葵の花籠と、そのとなりのやつ下さい。あ、両方ともプレゼント用にラッピングお願いします」

 香耶の誕生日プレゼントの他に、さっきあたしがほしいと言っていた花籠まで購入する成斗くんに、思わず呆けてしまった。そんなあたしの顔を見て、成斗くんが無邪気に笑う。

「ひとつは音央ちゃんに」

「え、そんなのいいよ」

「香耶へのプレゼント、一緒に選んでくれたお礼ってことで」

 言って成斗くんは、小さくウインクしてみせた。

 店員さんの手で綺麗にラッピングされていく花籠。その花籠を二つ成斗くんは受け取り、店を出てすぐあたしにそのひとつを差し出した。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 成斗くんの優しさが本当に嬉しくて、自然に笑顔がこぼれるというよりも、あまりの嬉しさに思わず涙がこぼれそうになった。あたしはそれを誤魔化しながら、成斗くんの背中を追いかける様にして、半歩後ろを歩く。

 成斗くんへの気持ちが、また振り出しに戻ってしまいそうになったけれど……。 まだ沈まない夏の夕日に照らし出された長い二つの影は、一定の距離を保ちながら、重なる事も繋がる事もなく、アスファルトに映る。たとえこの道がどんなに続いていたとしても、それは変わらない事の様に思えた。


 叶くんの部屋の前、成斗くんが鳴らしたインターホン。

『開いてるから、入って来ていーぞ』

 ドアの向こうから、叶くんの声が聞こえて、あたしと成斗くんは「?」と、顔を見合わせる。

「何やってんだ?お前等……」

 いきなり玄関で立ち止まった成斗くんの背中に、あたしの顔がぶつかりそうになった。

 いったい何があったのだろうと、成斗くんの横から顔を覗かせる、と……。玄関から丸見えのキッチンで、香耶を後ろから包み込む様に立っている叶くんがいた。

「フライパンをこうしながら……」

 どうやら叶くんが香耶に、フライパンの振り方を手取り足取り教えてるらしい。

「香耶が叶に料理教わるなんて、明日雪でも降るんじゃね?」

 からかい口調で笑い、靴を脱ぐとリビングの方へ向かう成斗くん。それは普段と何も変わらない成斗くんに見えたけど、あたしは見逃さなかった。香耶も叶くんも背を向けたままだったから、もちろん気付いてはいない。二人の後ろ姿を見つめる成斗くんの顔は、ほんの一瞬、どことなく曇っていた。

「生田、何そんなとこで突っ立ってんだ?」

 いつの間にか呆けてしまっていたあたしに、叶くんの突っ込みが入って我に返る。

「香耶が料理なんかしてるから、びっくりしちゃって……」

「も~っ。音央までそんな驚くことぉ!?」

 咄嗟に出たあたしの言い訳に、香耶がふざけた口調で噛みついた。

「どんな料理が出来るのか楽しみにしてる~」

 香耶をからかいながら、「お邪魔します」を言うのも忘れ、あたしも部屋へと上がり込む。

 成斗くんとあたしは、リビングのテーブルを挟んで座り、時折他愛ない話をしながら過ごしていた。

 キッチンからはおいしそうな音に混じって、香耶と叶くんのふざけ合う楽しそうな声がする。香耶と叶くんがふざけ合うのは、何も今日に始まったことじゃなし、珍しい事でもなんでもない。男の子に気安くあまり気を許さない香耶は、最初の頃は叶くんにも素っ気ない態度だったけれど、いつの頃からだったか、叶くんに対する香耶のそんな態度も和らいでいた。

 だから何も気にする事なんてないのに、気になってしまうのは……曇った成斗くんの顔を見てしまったから――

「なぁ、音央ちゃん。飯出来るまでゲームやらねぇ?」

 突然、そんな事を言い出した成斗くんに、思わず肩の力が抜ける。

 それからも成斗くんは、いつもと何ら変わらない成斗くんで。ひとり気にしすぎてる自分が、恥ずかしくなった。

 曇った様に見えた成斗くんの顔は、あたしの目の錯覚だったのかな……?

 テーブルに料理が所狭しと並んで、始まった香耶の誕生日パーティ。そこには学食で過ごすのと変わらない、いつもの四人がいて、あたしは心の中で小さく安堵した。

「そうだ。来週の夏祭り、四人で行かねぇ?」

 言い出した成斗くんに、みんなが賛成する。

 海岸で行われる花火大会には出店も多く出ていたりして、この辺りでは結構大きな夏のメインイベント。

「音央、浴衣着て行こーよ」

 はしゃぐ香耶に、あたしも笑顔で頷いた。


 夏休みの一週間は早い。

 香耶の誕生日パーティから、あっという間に夏祭りの当日。

 お母さんに着付けしてもらった浴衣を着て、あたしは約束の時間より、少しだけ早く待ち合わせ場所に着いた。

「よっ」

 後ろから肩を叩かれて振り向くと、そこには浴衣を着た叶くんがいた。

「わぁ。叶くんも浴衣着たんだぁ」

「一緒に行く女の子が浴衣で来るって言ってんのに、男が普段着じゃあんまりだろ」

「叶くんってさ、そういうとこからして、女子の気持ちよくわかってるよね」

「んな事ねぇよ。形から入った方が、祭りごとは楽しいってだけ」

 叶くんはそう言って笑ったけど、「男が普段着じゃあんまりだ」なんて考えること事態、女の子には嬉しい気遣いだったりするわけで。叶くんのモテる理由が、何だかわかる気がした。

 叶くんと何気ない会話をしながら、見渡した視線の先、浴衣を着た香耶と成斗くんが並んで歩いてくるのが見えて、あたしの心が小さな痛みを伴ってトクンと鳴る。

 並んで歩く二人の姿は、見慣れた光景のはずなのに、それが浴衣姿というだけで、あたしにはいつもと違って見えた。

 もう忘れるって決めたはずでしょ!? 自分で自分に喝を入れて、二人に向かって大きく手を振る。

目の前に並んで立つ香耶と成斗くんを見て、本当にお似合いだとしみじみ思った。だけど心の奥底で、悲しいと思ってしまうもうひとりのあたしがいて、そんな気持ちを消し去ろうとするうちに、あたしの口数は減るばかり……。

 そんなあたしに気付いたのは、香耶でも成斗くんでもなく、叶くんだった。

 並んで歩く相手を決める事もないまま、歩き出したあたし達。香耶と成斗くんが並んで歩く後ろをあたしと叶くんが歩いていた。

「生田、どうした? 具合でも悪い?」

「あ…うん。ちょっと……」

 嘘をつくつもりなんてなかったのに、適当な言い訳がすぐにはみつからなくて、あたしは叶くんの言葉に頷いてしまった。

「生田が具合悪いって言ってるからさ、お前等二人で花火見て来いよ」

 叶くんの言葉に、心配顔の香耶と成斗くんがあたしの元に駆け寄る。

「音央大丈夫?」

「音央ちゃん大丈夫か?」

 みんなの優しさに罪悪感を感じながら、あたしは言葉を絞り出した。

「ごめんね……あたしは大丈夫だから、みんなで花火見てきてよ」

「でも……」

 言いかけた香耶を叶くんが遮る。

「ほら、お前等が見に行かないと生田も気を遣うだろ? 俺が生田送ってくから心配すんな」

 叶くんはあたしの肩を両手で支えながら、回れ右をしてゆっくりと歩き出した。

 ――何やってるんだろう、あたし……。

 楽しく過ごそうとせっかく四人で集まったのに、嘘までついて、みんなに心配かけて、おまけに叶くんまで巻き沿いにして……どうしようもなく情けなくなって、涙がこぼれそうになる。

「生田、大丈夫か?」

 俯いたままのあたしに、叶くんの優しい声が降ってきて、その言葉にコクンと小さく頷くと同時に、それはこらえきれずにこぼれてしまった。

 一度こぼれてしまった涙は、簡単に止める事が出来なくて。思わずもれてしまった嗚咽に、叶くんがあたしの顔を覗き込んだ。

「……生田? 歩くのも辛い?」

 驚きと心配が混じった叶くんの優しい声音に、あたしはブンブンと首を横に振る。

「どうした?」

 何かを悟った様な叶くんが、もっと優しいトーンで訊いた。

「ごめん……なさい」

 しゃくりあげながら、必死に告げる。

「なんにも言わなくていいからさ、これだけ答えて。体調は大丈夫なんだな?」

 勘のいい叶くんに、あたしは小さく頷く。

「せっかく浴衣も着たんだし、花火くらい見ていかねぇ? ちょっと花火が遠くなるけど、絶景スポット知ってんだ」

 おどけた様に笑いながら、さりげなく気遣う叶くんに、あたしはもう一度頷いた。

 海岸へと向かう人の波を逆らう様に歩いて辿り着いたのは、少し高台にある小さな公園。

「ここさ、スターマインがちょっと角度的に一部見えなかったりするんだけど、人が少なくて穴場なんだ」

 得意気に笑った叶くんに、ようやく止まった涙顔で笑ってみせると、叶くんも薄く笑い返して、何を思ったのか静かに話し出した。

「俺、ずっと片想いの女がいたんだけど、夏休みに入ってすぐ振られてさ……」

 そんな話の間合いに、大輪がバリバリと音を立てて咲き乱れ、見上げた叶くんの横顔を照らす。

 あたしも空へと視線を移しながら、そんな話の続きを聞いた。

「前に大学まで送ってもらったのを生田と成斗に見られた事あっただろ? 実はそれがその女でさ……俺の兄貴の彼女だったんだ」

 その言葉に驚いて、また視線を叶くんに向ける。そこには相変わらず空を見上げたままの叶くんがいた。

 そのまま黙りこんでしまった叶くんに、あたしの気持ちが既に悟られていた事を知る。今の話をストレートに言い換えれば……「近くで見つめる片想いの辛さは、俺もよく知ってる」と、あたしに伝えたかったんだろう。

 それ以上、何も言わず何も訊かない叶くんの遠回しな優しさが心に沁みて、止まったはずの涙がまた、あとからあとから溢れ出した。

 空につぎつぎと打ち上がる大輪の花は、瞳の中ゆらゆらと歪んで、バリバリと響く音が胸に痛い。

 不意に、笑った成斗くんの顔が浮かぶ。走馬灯の様に次々と成斗くんの笑顔が浮かんで、最後に香耶の泣き顔が浮かんだ。

 頭の中がグチャグチャで、あたしは両手で顔を覆う。

「泣きたい時は、そんな我慢すんな」

 頭の上から静かに降る叶くんの声に、あたしは泣き顔のまま、ゆっくりと顔をあげた。

「泣きたい時は、思いっきり泣けばいい」

 あたしは叶くんの胸に、顔を埋めて泣いた。

 叶くんは強くも弱くもない力で、そんなあたしを抱きしめて。そこにある友情という温もりに甘えながら、あたしはひとしきり泣いて……泣いて……泣いて……。

 忘れられない恋と叶くんの友情と、耳に胸に鳴り響く夏音が、あたしの心に深く沁みた夜だった。

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