第9限 香耶side: 心のスキマ

 窓から入る月光だけが照らし出す暗い部屋の中、仄かに漂うアルコールの匂い。

 叶に掴まれた手首を振り払おうとした瞬間、

「行くなよ……」

 もう一度さっきと同じセリフを言い、アタシの手首を掴んでいた叶の手は、言葉とは裏腹に力なくほどかれた。

 壁に寄りかかり座り込んで俯く叶の顔は、部屋の暗さも手伝って、まったく表情が読み取れない。それでも、掠れた声と小さく震える肩で、叶が泣いているのがわかった。

 男の子がこんな風に打ちのめされている姿を見たのは、本当に初めてで……「男の子もこんな風に泣いたりするんだ」なんて、アタシの中に走った衝撃。

 同情なのか、母性本能なのか、さっきまでの怒りはどこかに消え、このまま叶をひとりに出来ないと思うアタシがいた。

 叶の気が変わって「やっぱり帰れ」と言われたら、その時は帰ろうと思いながら、壁に背を預けて、アタシもその場に座り込む。そんなアタシに気付いているのか、いないのか、叶は何も言わない。だからアタシも敢えて何も言わずに、ただ黙ってそこにいた。

 口を開いたところで、気の利いたセリフなんて言えそうもないし、それ以前に事情がまったくわからない。その事情を問いただすなんて事は、この状況では論外で。結局、アタシの存在は無意味なんじゃないかと思いながらも、何故か帰る事は出来なかった。

 静寂の中、アタシは不意に、自分がここに来た理由を思い出す。たまたま叶のバイト先に顔を出したら、連絡もなく叶が休んだと、金井さんがとても心配していた。とにかく金井さんには、どんな理由をつけてでも連絡をしておいた方がいいんじゃないかと思い、叶に訊ねてみた。

「金井さんには連絡した方がいいと思う。『風邪で寝込んでる』って言って、アタシが連絡してもいいし……」

 こんな時に、現実じみた話をするのも気がひけたけど、今のアタシに出来る事と言えば、それくらいしか思いつかない。

 何も言わない叶の気持ちを答えない事が答えだと、勝手に決めつけて言った。

「金井さんに電話してくる」

 案の定、叶はアタシを止める事もなく、アタシはバッグの中からスマホだけ取り出すと、玄関へと向かい部屋の外に出た。

 金井さんに「叶が高熱を出して寝込んでいる」と伝えると、金井さんは事故ではなかった事に心底安心し、バイトは気にせずゆっくり何日か休むようにと、アタシに伝言した。

 金井さんの優しさに、アタシの良心がチクリと痛んだけれど、「嘘も方便」って言葉もある。

 金井さんとの電話を終え、部屋へと戻ったアタシに、

「……サンキュ」

 まだ何も伝えてはいないのに、叶がポツリと言った。

「金井さんに高熱で寝込んでるって言ったら、バイトの事気にしないで、何日かゆっくり休めって」

 叶はそれに小さく頷きながら、ほっとした様な溜息を洩らす。スマホをバッグに戻しながら、また座り込んだアタシへと、叶がおもむろに話し出した。

「俺……高一の時から、ずっと好きな女がいてさ……」

 唐突なフレーズから始まった叶の話に、きっと多分あの人だと思った。アタシが初めて叶のバイト先を訊ねた時、店に入って来た綺麗な年上の女性ひと

「でも……そのひとには、出会った時から彼氏がいて。俺はずっと相談相手だったんだ……」

 アタシはそんな叶の話を相槌もなく、ただ黙って聞いていた。

「最初はどんな事でも俺を頼ってくれるって事が嬉しくて、それだけでも充分だったのに……月日が経つにつれ、いつの間にか俺はそれだけじゃいられなくなった……彼氏の事で悲しむ顔を見て、いつか俺が幸せにしてやるって、思うようになってた……」

 明かりのない部屋のせいで、叶の表情は相変わらず読み取れない。けれどその暗さが、普段見せる事のない叶の心を、裸にさせている様な気がした。

「いつかは彼氏と別れて、俺のところに来てくれるって……なんの根拠もないのに、どっかで馬鹿みたいに信じてた……」

 正直、意外だった。

 叶は大学でも、色んな女の子と適度に仲がよくて、気さくに誰かれ構わず話してたりするから、チャラ男だとばかり思っていた。

 叶の恋愛話なんて、突っ込んで訊く事もなかったし、叶も他人ひとの恋愛相談には乗っても、自分自身の恋愛話なんて一切する事がなかったから、そんな切ない一途な恋を叶がしていたなんて、思ってもみないアタシだった。

 いつの間にか「叶」なんて呼び捨てにして、同性の友達以上に、なんでも話せる存在になっていたのに、アタシはちっとも叶をわかっていなかったんだって、ここに来て気付かされた。

「『彼氏と別れる事にした』って、今日言われて……その後に、俺とももう会わないなんて言われて……このざま。女々し過ぎて笑っちまうだろ」

 最後に「フッ」と鼻を鳴らして、暗がりのシルエットの中、横顔の叶は小さくおどけてみせたけど、色をなくした瞳で言っている事くらい、アタシでもすぐに想像が出来た。

「叶はそう言われて、自分の気持ちも告げずに、見送ったんでしょう? そういうのは女々しいなんて言わないよ。男らしいって言うんだよ。そんな風に想ってもらえたら、女冥利に尽きるって思う」

 叶の話を聞いて、アタシは感じたまま、正直な気持ちを口にした。

「こんな時にこんな事言うのどうかと思うんだけど……アタシ、叶ってもっと遊んでる奴なのかと思ってた。だから……なんかちょっと見直した」

 貶してるのか褒めてるのか、そのどちらでもない様なアタシの言葉に、叶が小さく吹き出す。

「言葉悪いかもしんねぇけど、初めて芹沢見た時、お高くとまってるように見せかけて、もっと軽い女なのかと思ってた。だから、成斗の事をずっと好きだったってのがわかった時、俺もちょっと見直した」

 思わずアタシも、小さく吹き出して笑った。

 どうしてか、アタシは彼氏がいつもいる様に思われて、経験もきっと豊富なんだろうとか言われたりするけど、それはみんなの憶測もいいところ。

 だから……なのかな? 叶の言葉が、本当のアタシを知ってくれているって事が、嬉しかった。

「なんか色々悪かったな」

「何が?」

「金井さんに電話とか、みっともねぇとこ見せちまったりとかさ……」

「別に。いつも相談に乗ってもらってるお返しにもならないお返し」

「俺、もう大丈夫だから、サンキュ」

 大丈夫なわけがない叶の力ない言葉は、ストレートに言い換えれば、「もう帰れ」って事なんだと悟る。

「ひとりでちょっと、頭冷やすわ」

「わかった。じゃあ……またね」

 物分かりよく言ったものの、アタシは後ろ髪を引かれる思いで、叶のアパートを出た。

 叶は本当に大丈夫なのかと、なんだか気になり振り返る。だけどこれ以上、アタシがいたところで、何をしてあげられるわけじゃない。そんな自分をちょっぴりもどかしく感じながら、アタシはまたゆっくり歩き出した。

 何故か……駅へと向かう間も、電車に乗ってる間も、真っ暗な部屋の中で俯いている叶の姿が、アタシの頭の中から離れずにいた。

 何にも考えてない様な顔して、いつもヘラヘラ笑ってて。男とか女とか関係なく、誰でも気安く相手する感じで。だから恋愛で落ち込む様なタイプには、全く以って見えなかった。

 あまりにも大きな叶のギャップに、どうやらアタシの心は相当驚いているらしく、家に帰ってからも、ふと気付けば、叶の事を考えているアタシがいた。

 成斗を想う事に、最近疲れ気味だったアタシの心は……成斗を好きでいる事に、切なさよりも苦しさを感じていた。だから、アタシの気を少しでも逸らす様にと、潜在意識が働いていたのかもしれない。

 そんな不安定な気持ちが、この先どこに向かっていくのかなんて、アタシはまた知る由もなかった。


 始まったばかりの長い長い夏休み。

 サークルもバイトも、何ひとつしていないアタシは、特にすることもなく、エアコンの効いた部屋で、ダラダラと過ごす毎日。

 あれから叶はどうしているのだろうと思いながら、電話やLINEをする事もなく、数日が過ぎていた。

 『ひとりで頭を冷やしたい』と言った叶の言葉通り、今はそっとしておくのが一番だと思ったから。

 あと、バイトを何日か休む事になった叶の穴埋めは、成斗がやる事になったらしい。アタシが叶のアパートから戻って来た日の夜、恒例の窓際会合で成斗から聞いた。

 アタシの気持ちなんて、まったくこれっぽっちもわかってない成斗は、どこまでも相変わらずで……だからアタシも、そんな成斗に合わせて、どこまでも装う平静。

カツンカツン――

 昼間だというのに、アタシの部屋の窓ガラスを叩く音。アタシは読みかけの雑誌を閉じると、その窓を開けた。

「よっ」

 成斗が窓の向こうで、片手をあげて呑気に笑う。

「なあに? 暇人」

 自分の事はさておき、出だしからそんな悪態を吐いた。

「叶、明日バイト復活するってさ。香耶も心配してたから、教えてやろうと思って」

「そうなんだ。これで成斗もやっと、毎日のバイトから解放されるね」

「まぁ、俺は夏休みだったからよかったけど、あいつ大学行きながら毎日バイトとかよくやってるなーって、つくづく感心した」

 成斗は両手をあげて伸びをしながら、安堵の様な溜息を吐いた。

「そういえば、金井さんから聞いたけど……」

 成斗はふと思い出した様に、言葉を続ける。

「香耶、叶がバイトの時、店に顔出すらしいじゃん? 俺がバイトの時は、一度も来たことないってのにさ。まったく幼馴染み甲斐のない奴だよな」

「それを言うなら『友達甲斐』でしょ?」

「俺と香耶は『友達』じゃなくて、『幼馴染み』じゃん」

 言われなくても、わかりすぎるくらいわかってる言葉に、アタシの心がまたズキッと疼いた。

「窓開けたらそこにある顔をいちいち店まで見に行くほど、アタシは暇じゃないの。って事で、今日のバイト頑張って」

 アタシは思いっきり愛想笑いをして、オーバーリアクションで手を振ると、話をそのまま終わらせる様に窓を閉めた。

「もう……こんなの嫌だよ……」

 後ろ手に閉めたカーテンを握りしめて、アタシは今にもこぼれそうな涙をぐっとこらえた。


 次の日の夕方。

 アタシは開店前の店先で、叶が来るのを待っていた。

 夏の夕暮れは日が長くて、十八時を回っても、まだ薄い青を残した明るい空。そんな空をポカンと見上げていたアタシの後ろから、からかう様な叶の声がした。

「だから、ここはパチンコ屋じゃねぇーっつの」

 アタシは昼間に『今日、開店前に店行くね』というLINEを叶に送っていて。叶の返信は今と同じセリフの後に『(笑)』と、打たれていた。

 店の鍵を開けた叶の後について、アタシも店に入る。閉め切られていた店の中には、もやもやとした熱気が充満していて、叶に言われる前に、アタシはエアコンのスイッチを入れると、カウンターの席の一番端、いつもの定位置に座った。

 バックヤードの奥で着替えている叶に、少し大きめな声で話しかけてみる。

「ひとりで頭冷やせた?」

 アタシの声が届かなかったのか、叶の返事はない。アタシはすぐに諦めて、叶がバックヤードから戻ってくるのを待つ事にした。

 ほどなくして戻って来た叶が、アタシの座るカウンターの前に、プレゼントらしき小さな包みを置いて言う。

「それ、やる。もうすぐ芹沢の誕生日なんだろ? 生田から聞いた」

「あり……がと」

 あまりの不意打ちに驚いて、戸惑いながらお礼を言いつつ考える。

 叶のアパートで誕生日会をするからと、アタシは音央からLINEで聞いていた。普通アタシへの誕生日プレゼントなら、その時に渡すはずだ。

「これ……」

 言いかけたアタシを叶が遮る。

「気ぃ悪くしたらごめん。いらなかったら、捨てていいから」

「そういう訳じゃなくて、アタシが貰えないよ」

 アタシの言葉に、叶は困った様な苦笑いを浮かべた。

「芹沢に貰ってもらえないとなると、やっぱ俺が捨てるしかないか……でも、これ高かったんだよなー」

 叶はわざとおどけた様に言って、箱に手をかける。

「ちょっと待って。本当に捨てるの?」

「俺がずっと持ってたって、仕方ないだろ?」

 寂しそうな笑顔に、暗い部屋の中、打ちのめされて俯く叶の姿が浮かんだ。

「捨てたりしちゃダメだよ」

 プレゼントと叶の心を重ねて、アタシは言った。そう、自分のしている片想いと、叶の片想いまでも重ね合わせて……。

「俺に『捨てんな』ってんなら、やっぱお前が責任とって受け取れよ」

「わかった。じゃあ、アタシがこのまま、預かっておく。この先、何があるかなんてわかんないじゃん? もしかしたら、いつか渡せる日が来るかもしれないし。だから、その時になったら言ってよ。ちゃんとそれまで、アタシが責任もって預かっておくから」

 珍しく力説するアタシに、叶は呆れた様に鼻を鳴らして笑った。

「お前の好きにすりゃいいよ。そんな俺の事より、お前の方は、成斗とどうなってんだよ?」

 突然出された成斗の名前に、アタシの顔はあからさまに曇る。

「アタシの事はいいよ」

「お前さ、人には『諦めるな』みたいな事言っといて、自分の事はそれかよ。言う事とやる事が違いすぎんだろ」

 思いっきり突っ込まれて、口籠もるアタシ。

「安心させすぎなんじゃね?」

 言葉の意味が理解できずに、小首を傾げながら叶を見た。

「成斗にとって、いつも変わらない距離にお前がいるから、成斗も自分の気持ちに気付けないのかもしんねぇだろ? たまにはちょっと、心配させてみれば?」

「心配させるって?」

「ヤキモチ妬かせてみる、とか?」

「どうやって?」

「例えばわざと他の男の影ちらつかせるとか?……って言っても、そんな簡単に協力してくれる様な男がいない、か……」

「あ、ひとりだけ協力してくれそうな人がいた」

「そんな奴いたんだ?」

 叶が興味津々、悪戯な眼差しを向ける。

 アタシは右手の人差し指を、目の前の人物へと真っ直ぐに向けた。

「はぁ!? 俺!?」

 裏返りそうな声をあげた叶に、アタシは大袈裟な含み笑いをしながら頷く。

「ヤキモチってさ、案外自分に近い人に、強く感じるものでしょ?」

「そうかもしんねぇけどさ……」

「成斗に一番近くて、アタシの気持ち知ってるなんて、これ以上の適役がどこにいんのよ?」

 叶をからかうのがおもしろくて、ついつい悪乗りしてしまう。

 ほんの冗談のつもりだったのに、

「言われてみれば、そうかもな。アシストはしないって言ったけど、仕方ねぇ。今回限り協力してやるよ」

「えぇ!?」

 今度はアタシが、裏返りそうな声をあげた。

「取り敢えず、第一弾は、俺の家でやる芹沢の誕生パーティってとこだな」

どんどん進んでいく計画に、アタシは今更「冗談です」とも言えず……そして心のどこかでは、成斗の気持ちを知るチャンスなのかもしれないと、思ったりもして……。

 この時のアタシは、ターゲットがいつの間にか代わって行く事になるなんて、思いもしなかった。

 どうして人は、痛みなくして、自分のホントの気持ちを知る事が出来ないんだろう。もっと早くに気付けたのなら、自分が傷つく事も、誰かを傷つける事も、ありはしないのに――

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