第8限 叶side:伝えられないコトバ

 ベッドの中、打った寝返りに、ふと目覚めた。ぼんやりと霞んでいた目の焦点が合い、帰り支度をしている穂奈美さんをはっきりと捕らえる。

「もう帰んの?」

 そのままの体勢で声をかけた俺に、穂奈美さんは振り返ると、申し訳なさそうに言う。

「あ、ごめん。叶ちゃん、起こしちゃった?」

 俺は口端をあげて首を振り、上半身だけ起き上がると、ベッドの下に落ちていたTシャツを拾いあげて着た。

「叶ちゃん、私もう行くね」

 小さく手を振り、穂奈美さんが玄関へと向かう。俺は急いでジーンズを履いて、それを追いかけた。

「気をつけてな」

「うん」

 俺の言葉に頷きながら微笑むと、穂奈美さんはドアを静かに閉めた。

 今日は日曜日。昨日、俺の部屋に泊まった穂奈美さんは、俺の部屋から兄貴とのデートに出掛けて行った。

 穂奈美さんと一線を越えてしまったあの日の夜以来、俺達はたまにそんな夜を過ごしながらも、何一つ状況は変わらないまま、気付けば季節は、春から夏になっていた。

 小さな音を立てて閉じたドアに鍵をかけ、無意識の溜息をひとつ。

 部屋へと戻った俺は、テーブルに置いてあった煙草を咥えると、ジッポで火をつけた。

 自分でも不思議なくらい、兄貴への罪悪感はない。だからって俺は、過去も未来も関係なく、今がよければいいなんて、刹那主義でもないけど。

 気持ちを言葉に出来ない今の俺は、穂奈美さんを抱くという行為でしか、それを伝えられずにいた。

 言い訳にもならない言い訳をすれば、俺から求めた事は一度もない。でも結果こうなってしまうのは、穂奈美さんを拒むなんて、俺に出来るはずもなかった。穂奈美さんが俺を求めてくれる事が、本当に嬉しかったから。

 他人が聞けば淫ら極まりなく思える行為でも、俺の中では純愛にも似た気持ちだった。穂奈美さんの気持ちが、いつか全部俺へと傾く事を願い、そしてそれをどこかで信じていた。

 寝不足でありながら、なんとなく二度寝をする気分にはなれなくて。俺はシャワーを浴びて支度をすると、特に目的もないまま街へと繰り出した。

 七月の日差しが容赦なく照りつけるアスファルト。

 あと二週間もすれば、二ヶ月近くある長い夏休みがやってくる。

 九月十一日は穂奈美さんの誕生日。

 穂奈美さんの誕生日に、今までプレゼントなんてした事ないけど、今年は渡してみようかなんて、何気なく通りがかったアクセサリーショップのショーウインドウに足を止める。

「ん?」

 俺はショーウインドウに映った人波に、見知った顔を見つけた気がして振り返った。

「生田!?」

 俺の声に足を止め、ちょっと怪訝そうに生田が振り返る。笑顔で手を振ると、気付いた生田が俺へと小走りに駆けて来た。

「あれ? 叶くん、ひとり?」

「まあな。そういう生田もひとり?」

「うん。今日は香耶の誕生日プレゼント見にきたの」

「へぇ。芹沢ってもうすぐ誕生日なんだ?」

「八月七日。まだちょっと先だけど、下調べしとこうと思って」

「なぁ、昼飯食った? もし食ってないなら、一緒にどっかで飯でも食わねぇ?」

「うん。いいよ」

 笑顔で快く承諾してくれた生田と二人、俺達は並んで歩き出した。

「なんか食いたいもんとかある?」

「うーん。パスタとか」

「いーね。どっかうまい店、知ってる?」

「あるある。ちょっと歩くけどいい?」

「全然オッケー」

 話はすんなりまとまり、生田オススメのイタリアンレストランへ。


「うめぇ!」

 運ばれて来たパスタを口にして、俺は思わず小声で叫んでしまった。

「でしょ?」

 生田は得意顔で、そんな俺を笑う。

「通ってた高校が女子高だったから、友達とよく食べ歩きとかしてて、おいしいお店は結構知ってるんだ」

「へぇ。生田って女子高だったんだ? どこ?」

「……聖女せいじょ

「聖女って……音大附属の? 何で付属の音大行かずに、うちの大学受けたんだ?」

 俺の不躾な質問に、生田が顔を曇らせる。

「あ、わりぃ。なんか、突っ込んで訊き過ぎた」

 生田は「ううん」と薄く笑うと、おどけた様に言った。

「才能ないんだあたし。それに気付いただけ」

 触れられたくない生田の領域を、安易な質問で侵してしまった気がして、俺は敢えて話を逸らした。

「そうだ。夏休みにさ、みんなでなんかやらねぇ?」

「なんかって?」

「海に行くとか、キャンプとか」

「あ、うん。いいね」

 どこか取り繕った様な生田の笑顔に、俺はさっきの事がまだひっかかっているのかと、申し訳なく思う。

「ごめんな……。なんかさっき、余計な事訊ぃちまって」

「あ、ううん。違うよ。そんなの全然平気だから、気にしないで」

「でも、生田に浮かない顔させちまってるみたいだから」

「あたし……そんなに今、浮かない顔してる?」

「何か悩みでもあんのか? 恋愛相談なら得意なんだけど」

 流れる空気を少しでも軽くしようと、わざとおどけて笑ってみせた。

「じゃあ、教えてもらおうかな?」

「おぅ。何でも訊け」

「どうしたら……好きになった人を忘れられる?」

 思ってもみなかった生田の問い掛けに、焦りの半笑いで訊き返した。

「いきなりダークな話題だな」

「だって。『なんでも訊け』って言ったの叶くんだよ?」

「まさか生田からそんな話を振られるなんて思ってもなかったからさ」

 生田は恋愛に翻弄されるタイプには見えなかったから、正直ちょっと意外だった。

「別に、無理に忘れようとなんてしなくていいんじゃねぇの? どんなに必死にもがいても、忘れられないもんは忘れらんねぇよ」

 俺は穂奈美さんを想う自分の気持ちと重ねて答えた。

「相手を自分の心の中で、どう想うかなんて自由なんだからさ。そんなとこまでセーブさせる事ねぇだろ。例えば本当に忘れなきゃならない理由があるとしても、相手に迷惑さえかけなきゃそれでいいって、俺は思うけどな」

「恋愛相談は得意ってだけあって、なんか説得力あるね」

「バイトで女の人のそういう話、聞かされる事が多いからな」

「なるほどね。ありがとう。なんかちょっと心軽くなったかも。あ、でもこの話……」

「誰にも喋らないから安心しろ。それと、あんま自分だけ追い詰めんなよ?」

言葉を遮って先読みした俺に、生田は小さく笑って頷いた。

「そうだ。また叶くん家で、鍋パーティしようよ? 香耶の誕生日会兼ねて」

「別にいいけどさ。今度は生田が何か作ってくれんの?」

 俺は自分の誕生会の事を思い出して、生田に訊いた。

 六月の俺の誕生日に、四人で俺のアパートに集まり、パーティを開いたのはいいけど、まったく料理なんて出来ない成斗同様、生田も芹沢も女子力ゼロ。祝ってもらうはずの俺が、料理まで作らされた。

「まさか。叶くんに決まってるじゃん。それともこの世のものと思えない創作料理を食べる勇気ある?」

 いや、俺はまだ死にたくはない。

「ぜひ、俺が作らせていただきます」

「わーい。叶くんの料理楽しみっ」

 言い出しっぺのくせに呑気なセリフを言い、ケラケラと笑う生田の顔には、いつもの笑顔が戻っていた。


 昼食を食べ終え、生田と別れた俺は、ひとりショッピングモールへ。

 『芹沢の誕生日プレゼントの下見』という生田の言葉に、俺も穂奈美さんへのプレゼントを探そうと思い立った。

 何か身につけてもらえるものがいいと、漠然と思いついたのはいいけど、彼氏じゃない立場の俺は、色々と考える。指輪やネックレスは、いつもつけていてもらえるにしても、目立ちやすい。さほど目立たなくて、身につけてもらえるもので、もし突っ込まれる様な事があっても、「自分で買った」と言えるようなものって、何があるだろう……?

 あっ、そうだ! と俺の頭に浮かんだのは、ピアス。

 ジュエリーショップのピアスが並ぶショーケースの中に、穂奈美さんに似合いそうなシンプルなデザインのプラチナのピアスを見つけた。

 少しはる値にも迷うことなく購入を決め、店員を呼び止める。

 暫くして店員から俺の手に渡された小さな紙袋の中には、プレゼント用にラッピングされた小さな箱が入っていた。

 喜ぶ穂奈美さんを想像して、思わず小さく顔が綻んだのも束の間。休日のショッピングモールにあふれるカップル達を見て、兄貴と過ごしているであろう穂奈美さんを思い出す。今頃二人もこんな風に、どこかに出掛けたりしているのだろうか……?

 そんな事を考えながら、浮かんでくるのは、いつも同じ疑問。

 穂奈美さんの気持ちは、いったいどこにあるんだろう……?

 穂奈美さんは俺をいったいどう思っているんだろう……?

 でもそれを俺が問いただしてしまったら、穂奈美さんがどこかに行ってしまう様な気がして、口にする事は出来ずにいた。そんな気持ちの裏で、穂奈美さんは俺から離れたり出来ないなんて、なんの根拠もない不思議な自信もまた俺の中には存在していた。


 週明けの大学。

 ひとり学食へと向かっていた俺は、後ろから芹沢に呼び止められた。

「きょーぉ

 嫌な顔つきのまま振り返った俺をからかう様に笑いながら、芹沢が横に並ぶ。

「その呼び方、やめろって言ってんだろ」

「なんで? いいじゃん」

「や・め・ろ」

 偶然俺のバイト先で、穂奈美さんと遭遇した芹沢は、時折こんな風に俺をおちょくって楽しんでいた。

 もちろん、俺と穂奈美さんの関係も、俺が穂奈美さんをどう想っているかなんて事も、芹沢は何ひとつとして知らない。知らないからこそ、こんな風に面白がって、言ってるんだけど、さ……。

「俺からかって遊んでる暇あったら、自分の恋愛どうにかしろ。グチグチ悩んでばっかいないで、一歩踏み出せっつの」

 俺のバイト先を訊ねて来て以来、芹沢は俺によく成斗の相談をする様になっていた。

 バイトが始まる前に店へ来る事もあれば、開店後に飲みに来る事もある。

「ちょっと。誰が聞いてるか分かんないんだから、今そう言う事言わないでよ」

「お前が悪い」

「わかりました。『叶ちゃん』って言わなきゃいいんでしょ? 『叶ちゃん』って」

「そう言いながら、何回も連呼すんな! 「ちゃん」付けとか恥ずいだろ!! どうせ名前で呼ぶなら、まだ「くん」付けか、呼び捨てのがよっぽどいい」

「そう言えば…。音央は「くん」付けで呼んでるよね? じゃあ……アタシも『叶くん』って、なんかキモイ」

「キモイ言うな」

 バイト先でよく話すようになった芹沢とは、いつからかお互い、同性の友達と会話をする様な間柄になっていた。


 穂奈美さんから連絡があったのは、それから二週間後。夏休み初日のことだった。

『叶ちゃん? 今、昼休み?』

「俺、今日から夏休み」

『そっか。叶ちゃん夏休みか。もしかして寝てたの起こしちゃった?』

「いや。もう起きようと思ってたし、起こしてくれてサンキュって感じ」

『これから叶ちゃんのとこ……行ってもいい?』

「いいけど。穂奈美さん、仕事は?」

『あ、うん。今日は午前中で終わったから』

「俺、夕方からバイトだけど、それまででも大丈夫?」

『大丈夫。じゃあ、これから行くね』

 そんな穂奈美さんとの電話を切り、俺はベッドから飛び起きると、シャワーを浴びる為に浴室へと向かった。

 ドライヤーで髪を乾かしながら考える。始まったばかりの夏休みと、穂奈美さんのこと。誕生日当日とはいかなくても、どこか旅行にでも誘ってみようかなんて思ったりしていた。

 今までどんな時でも、俺から誘うなんて事なかったから、夏休みを理由に一度くらい誘ってみてもいいよな?

 俺の支度が完了してまもなく、部屋のインターホンが鳴って。俺はそれに出る事もなく鍵をあけると、そのドアを開いた。

「突然、来ちゃったりしてごめんね」

 申し訳なさそうな穂奈美さんに、俺は首を横に振り、部屋へと招き入れた。

 何か飲み物でもと開けた冷蔵庫には、あいにくビールしかない。俺は財布を持ちながら、テーブルの前にちょこんと座る穂奈美さんに言った。

「なんも飲み物ないからさ、ちょっと買って来る。何がいい?」

「何もいらない。私すぐ帰るから……」

 穂奈美さんの言葉に、俺はそのままテーブルを挟んで座り、何か言いたそうにしている穂奈美さんを見た。

「叶ちゃん、あのね……。私、雅也と別れる事に決めたの……」

 思いもしなかった突然すぎる穂奈美さんの言葉に、俺はあまりの驚きで、無言のまま目を見開く。

「だから……叶ちゃんとも、もう会わない」

 「だから……」の後に続いた言葉で、俺は更に言葉を失った。「何でだよっ!?」「どうして!?」今にも叫び出しそうな衝動を堪えた俺の手は、小さく震え出す。

「叶ちゃんには、今までたくさん迷惑かけちゃったから、そのことちゃんと謝りたくて……」

「……そっか」

 俺は言葉を絞り出すと、敢えて軽めに笑ってみせた。それは、今の俺が出来る精一杯の強がり。そんな俺を穂奈美さんに悟られまいと、

「俺には律儀な挨拶なんかいらないし」

 おどけて笑って、付け足した。

「ううん。ちゃんと言わせてほしい。叶ちゃん、本当に今までありがとう」

「だからそういうのいいって。それより、兄貴にはもう話した?」

「うん。昨日の夜に話したよ」

「兄貴はなんて?」

「叶ちゃんとおんなじ。『そっか……』って」

 俺に向けられた穂奈美さんの静かな笑顔に、何かをふっ切った様な、今までとはどこか違う穂奈美さんを見た気がした。

玄関へと向かう穂奈美さんの背中を、俺はゆっくり追いかける。

「それじゃ……叶ちゃん、元気でね」

 「バイバイ」と小さく手を振った穂奈美さんに、「おぅ」と片手をあげ、いつもの様に応えた。ここで引き止めなければ、穂奈美さんは本当に行ってしまうっていうのに……。

 「行くな。俺の傍にいろ!!」そう言いかけようとした時は既に、乾いた軋み音とともにドアは閉じられていた。

 静寂という名の時間だけが、静かに降り積もる。

「行く……なよ……」

 吐き出す様に呟いて、受け入れられない現実に強く瞼を閉じる。俺の頬に、一粒……二粒……と熱い滴がこぼれた。

『だから……叶ちゃんとも、もう会わない』

 何度も俺の耳にリピートする穂奈美さんの言葉。『だから…』の次に、一瞬、とんでもなく大きな期待をしていた俺は……どうにもやってられなくて、冷蔵庫の缶ビールを次々に飲みほした。

 飲みほしては片手で缶を潰し、思いっきり部屋の壁に投げつける。昼間から飲むアルコールは、夜より効きが早くて、いつの間にか俺を深い眠りへといざなう。

 その中でも俺は、現実とまったく同じ夢を見ていた。

 別れを告げて去って行く穂奈美さんの後ろ姿を引きとめようと手を伸ばすのに……俺の体は動かなくて、「行くな!!」と叫びたいのに、声が出ない。

 どんどん遠ざかる穂奈美さんの後ろ姿をどうする事も出来ずに、ただ泣きながら見送るだけ……。

「穂奈美さん……穂奈美さん……穂奈美さんっ」

 穂奈美さんを呼ぶ自分の寝言で、目が覚めた。

 すっかり日が落ちてしまって、真っ暗な部屋に、鳴り響いたインターホン。

 ――もしかして……穂奈美さんっ!?

 俺はまだ酔いの残る足取りで、勢いよく玄関のドアを開けた。

「穂奈美さん!?」

 叫ぶように名前を呼びながら、開けたドアの向こうに立っていたのは……とても驚いた顔をした芹沢だった。

「なんだ……お前か」

 期待していた分だけ、ガックリと肩を落とす。

 芹沢に向かって、この上ない暴言を吐いたまま、ふらつく足取りでまた部屋の中へと戻った俺を追いかけて来た芹沢が呆れた様に言った。

「何やってんの? バイトは?」

「行かねぇよ。ってか、そんな事お前に関係ねぇだろ?」

「たまたま店に行ったら、叶がいなくて、金井さんが連絡がないって心配してたから、様子見に来てやったのに。何その言い草」

「別に誰も、心配してくれなんて頼んでねぇよ」

 芹沢に八当たるなんて理不尽だと思いながらも、今の俺には、それを止める事が出来なかった。

 連絡も入れず、無断でバイトを休んだ事なんて、今まで一度もなかった。でも、穂奈美さんがいなくなってしまった今となっては、バイトなんてなんの意味もない。

 世話になった金井さんの事まで考えるキャパの余裕なんて、これっぽちも残ってなかった。

「あっそ。じゃあ、勝手にすれば?」

 暫く黙り込んでいた芹沢が、そんな言葉を吐き捨て、踵を返そうとした瞬間。俺の手は無意識に、芹沢の手首を掴んでいた。

 夢と現実が交錯する。

「行く……なよ」

 穂奈美さんに伝えられずにいた言葉を俺は芹沢に告げていた。

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