第7限 成斗side:灯台下暗し?

「もう……歩けない」

 自宅最寄り駅の改札を抜け、少し歩き出した途端、香耶は駄々っ子みたく道端にしゃがみ込んだ。

「あともう少しだから、頑張って歩け。ほら」

 右手を差し伸べた俺に、香耶はブンブンと首を横に振った。

「おんぶして」

「『おんぶ』って……お前なぁ」

「もう歩けない」

「ったく……しゃーねぇな」

 溜息まじりに言って俺は、香耶の前で背中を向けるとしゃがんだ。

 背中にゆっくりと預けられた香耶の体温。

 立ちあがって体勢を整え直すと、俺はゆっくり歩き出した。

「なんか……懐かしい」

 背中に凭れた香耶が、眠そうな声でポツリ言う。

 そう言えばガキの頃、転んで大泣きしてる香耶をおんぶして、帰ったことがあったっけ……。

 数えればそこからもう十年という時が流れていて、時の流れの速さを改めて実感する。

「十年経っても、ホント香耶は、なんも変わんねぇーな」

 香耶をからかいながら、それは俺も同じだと、自分自身に心で突っ込む。

 「成斗にだけは言われたくない」と言う、香耶の口癖にも似た返しを予測していたのに、

「成斗は……変わった方がいい?」

 想定外の答えを返されて、咄嗟のことに困惑した。別にそんな深い意味を持って、発した言葉でもなんでもない。

「マジにとんなよ。冗談だって」

 そんな俺の言葉に、背中の上で香耶も小さく笑う。

「成斗の背中って……こんなに大きかったっけ? 子供の頃は成斗が潰れちゃうんじゃないかって怖かったけど」

「十年前と体の大きさが同じわけねぇーだろ。香耶は相変わらず重いけど」

 俺の失礼な冗談にムキになるかと思いきや、今日の香耶はやけに大人しい。もしかして……マジギレしてる!?

「って、嘘だよ。子供の頃より、ぜんぜん軽く感じる。お前、ちゃんと飯食ってるのか?」

「ねぇ……成斗」

「ん?」

「ずっと……傍にいてね」

「いきなり、何言ってんだよ?」

 いつもの香耶らしくない、改まった様なセリフに、思わず小さく吹き出す。

「帰る家が隣同士なんだから、傍に居るも何もないだろ」

「……そだね」

 少し間をあけて、力ない相槌がちょっと気になったけど、

「だろ。まったくおかしな事言う奴だな。バーカ」

 俺は敢えて軽めに答えて、冗談交じりに笑ってみせた。

 香耶との間に、今まで感じた事のない空気が流れている気がして、なんとも落着かない気持ちになる。それを消し去りたくて、必死になればなる程、何も浮かんではこなくて、頭の中は空回り。

 そのまま何も話さず、気付けばお互いの家の前で……。

「ありがと。また明日ね」

 俺の背中から下りた香耶は、小さく手をあげて「バイバイ」と手を振り、香耶が玄関に入ったのを見届けて、俺も家の玄関を開けた。


 次の日の朝、講義室へと向かう途中、「よぉ」と肩を叩かれて振り返ると、高桑がいた。

「例の話どうなった?」

「例の話って?」

「芹沢さんと三人で、昼飯食べるって話」

「あぁ。わりぃ。まだ話してない」

 どうしても露骨には断れなくて、ついそんな嘘をついてしまった。

「なんだよ成斗。ちゃんと話し通してくれよな。そうだ。芹沢さんてさ、彼氏とか好きな奴とかいんの?」

「さあな。そこまでは俺もよくわかんねぇよ」

「あ、そんな風にとぼけて、実はお前とどうこうとか?」

「あるわけねぇーだろ!!」

 突然大声をあげ否定した俺に、驚いた高桑が一瞬、目を丸くする。高桑以上に驚いていたのは、他の誰でもない自分自身だった。

「いきなりムキになんなよ。ジョークだろジョーク。じゃ、宜しく頼んだ」

 俺の肩をポンポンと叩きながら、去って行った高桑の後ろ姿に、小さな溜息をく。

 何ムキになってんだ!? 俺……。

 今までだって似た様な事あったはずなのに、こんなにムキになって否定する事は今までなかった。そんな自分が、自分でもよくわからない。

 ただ今は、その先を考えるのが何だかとても面倒に思えて、俺は頭を振り、気持ちを切り替える様に伸びをすると、また講義室へ向かって歩き出した。

 何気なく視線を移した窓の外には、一本の大きな桜の木。花はすっかり散ってしまって、葉の緑が風に揺れていた。


 昼休み。叶と一緒に学食へと向かう。

 昼食を乗せたトレイを持ち、叶が陣取ってくれていた席に座る。何気なく見渡した視線の先、ちょうど学食に入って来た香耶と音央ちゃんがいた。

 誰が誰と約束をしているわけでもないのに、なんとなくいつも四人で昼食をとる事が多くなっていて。俺達四人の中で、それは一種の暗黙の了解の様になっていた。

 今日も当然、俺と叶のところに来るんだろうと高を括っていたのに、何故か香耶と音央ちゃんは、昼食のトレイを持ち、テラスの方へ出て行く。俺達に気付かなかったんだと思い、俺はさほど気にも留めずにいた。

「成斗、お前なんかした?」

おちょくりと怪訝がまじった様な目で叶が訊く。

「『何かした?』って誰に?」

 とぼけたわけではなく、素もいいところで訊き返した俺に、叶が呆れ顔をした。

「それは俺が訊いてんの。昨日の帰り道に、芹沢か生田のどっちかと、なんかあったのか?」

「別に。なんもねぇけど?なんで?」

「いつもなら、俺達の席のとこ来るのに、今日は来なかったからさ」

「俺達がここにいたの気付かなかったんじゃねぇの?」

「そっか。ま、なんにもねぇならいんだけど」

 叶は口端をあげて笑うと、途中だった食事を食べ始めた。

 叶に言われた言葉が引き金となり、俺は頭の片隅で昨日の出来事を振り返る。まず音央ちゃんと何があったか考えてみたけど、これと言って何も思い当たる事がなく……香耶とだって特に何もないと思いながら、ふとリピートされたのは……。

『ねぇ……成斗、ずっと……傍にいてね』

 そんな香耶の声は、今まで聞いた事のないトーンと響きを纏っていた。

 今思えば、それを感じ取った俺の心に、拒絶反応にも似た気持ちが渦巻いた様に思う。だから笑って、冗談にして誤魔化した。大切なものがすべて壊されてしまいそうで怖かったんた。好きか嫌いかなんて、改めて考えることもない程、香耶と一緒にいるのが当たり前だったから。

 それは香耶の事を「幼馴染み」という感情以外で、初めて意識した瞬間だったのかもしれない。

 ――だとしたら俺は、香耶を好きなんだろうか……?

 心の中に住むもう一人の俺が、そんな疑問を掻き消そうとする。

「どうした?」

 いつの間にか呆けてしまっていた俺は、叶の問い掛けで、ふと我に返った。

「珍しく考え事か?」

「珍しくは余計だろ」

「で? 何考えてた?」

「別に。なーんも」

 興味津々な叶の眼差しに、俺はとぼけて笑った。


 三限の講義は香耶と一緒だった。

講義室に入ると、先に来ていた香耶の隣には先約がいて、俺は出入り口近くの空いていた席にひとり座った。

 席に着くつなり始まった講義に、俺は慌てて講義の準備をする。

 昼食後の睡魔と戦いながら、何となく向けた視線の先に、ノートをとる香耶の横顔が見えた。

 俯くたびに、香耶の長い髪が邪魔をするのか、香耶はさり気なく髪を耳にかけると、またノートをとり始めた。

 そんな何気ない仕草に「女」を感じて、一瞬、ドキリとする。昔は俺や兄貴と一緒になって、キックやパンチを繰り出す、とんでもないおてんばだったのに。

 そんな事を思ったり、考えたりしてる自分をどうかしていると思い、俺は香耶から視線を逸らすと、プルプルと頭を振った。


 帰宅しての風呂上り。

 首にかけたバスタオルで髪をわしゃわしゃと拭きながら、戻った自室。

 不意に窓の方へと歩み寄り、カーテンを開けた。向かいの部屋は、閉じたカーテン越しに明かりが漏れ、香耶がそこにいるとわかる。

 俺はいつものアイテムを手にして窓を開けた。壊れた釣竿を伸ばし、香耶の部屋の窓を叩こうとした時、ノックされた自室のドア。

 俺は窓やカーテンを慌てて閉めると、ドア越しに「何?」と呼び掛けた。

「よぉ」

 入って来たのは、スーツを着た会社帰りの兄貴。

 兄貴が社会人になってからというもの、生活リズムや時間がなんとなくすれ違って、こんな風に顔を合わせるのは久しぶりだった。

「兄貴、今日は珍しく早いじゃん」

「まーな」

 兄貴はネクタイをゆるめながら、俺のベッドに腰かけた。

「それよりお前、そんなとこ突っ立って、何してんだ?」

 窓際に立ったままだった俺を兄貴が不思議そうに見る。

「別になにも」

「今更隠す事もねぇだろ」

 兄貴は見透かした様に笑い、顎で窓の向こうを指して言った。

「香耶っぺだろ? 相変わらず仲いいな」

「別に隠してるとか、そんなんじゃねぇし」

「で? お前ら、ちゃんと付き合ってんの?」

「付き合ってねーよ。俺と香耶幼馴染だって、兄貴が一番知ってんだろ」

 俺が思いっきり不貞腐れた顔を向けても、兄貴は全然動じない。

「そんな余裕くれてると、香耶っぺ誰かに取られるぞ? 香耶っぺ可愛いしな」

「だいたい香耶を可愛いとか、可愛くないとか、そんな目で見た事ねーから」

「ま、お前等の場合、近くに居すぎるのも考えもんってやつだな」

「てか、兄貴。そんな話するのに、わざわざ俺の部屋来たんじゃねぇだろ?」

 どうにも止まらない兄貴をなんとか止めたくて、話の矛先を無理矢理変えた。

「特に話があって来たってわけじゃないよ。久しぶりに成斗と話そうと思っただけ」

「兄貴、会社入ってどうよ?」

「どうって?」

「楽しい?」

「それなりにな」

「そっか……」

 どこか浮かない顔の俺を察知してか、兄貴は落ち着きのある穏やかな声音で聞いた。

「いきなりそんな事訊いたりして、どうした?」

「いや……。俺は兄貴みたいに、ちゃんと就職する自分ってのが、まったく見えないからさ」

 心の片隅にいつもあるしこりを、俺は初めて口にした。

 言ってみれば、恋愛より何より、俺にはそれが今一番の悩みだったりする。俺は好きなダンスを将来どう続けていけばいいのか、人には見せないところで、いつもひとり考えていた。

「何も俺と同じ道を選ばなくたっていいんだぞ?親父やおふくろに何を言われても、成斗の人生なんだ。好きにやったらいい。そん時は、俺が味方してやるよ」

 兄貴の言葉が切羽詰まった俺の気持ちを一気に軽くして、思わず目頭まで熱くなる。

「さてと。夕飯食って、風呂でも入るかな」

 大きく伸びをしながら言い、俺の部屋を出て行こうとした兄貴の背中を思わず呼び止めた。

「兄貴、サンキュ」

 兄貴は後ろ手に「おぅ」と、軽く手をあげ応えると、そのまま部屋を出て行った。

 俺がダンスを続ける事を応援すると言ってくれた兄貴。もしかしたら兄貴も親父と同じように、俺を諭すのかと思っていた。だから俺はそれが心底嬉しくて、その喜びを噛みしめながら、ベッドにダイブした。

 枕に埋めていた顔をあげ、忘れかけていた事をふと思い出す。俺は香耶の事をいったいどう思っているのだろう……と。

 単に「好き」か「嫌い」かで問われれば、迷わず「好き」と答える。

けれど……。

 恋人になるとか、結婚するとか、そういったたぐいの問い掛けになると、正直よくわからない。

 そしてその答えは、今すぐに見つけ出さなくてもいい様な気がした。焦る事なんて何一つないって思えたし、いつかきっと、自然に答えは出るはずだから。香耶の気持ちを知る由もない俺は、そんな考えに落ち着いた。

 二つの出来事が同時に解決した気分になって、俺はそのまま深い眠りへと落ち……。

 おふくろの声で目を覚ました時は既に、次の日の朝を迎えていた。

 その朝は、激しい雨音が聞こえるほど、あいにくの空模様で。さすがの俺もクロスバイク登校は諦め、駅へと向かう為に、いつもより少し早く家を出た。

 偶然にも同じタイミングで、隣の家から出て来たのは香耶。

「はよっ」

 俺は片手をあげながら挨拶して、歩き出した香耶の横に並んだ。

「今日はクロスバイクじゃないんだ?」

「こんな雨ん中、さすがにそれはないだろ」

「なんか、いい事でもあった?」

「なんで?」

「朝っぱらから、いつも以上にニタついてるから」

 表現はともかく、香耶の鋭い観察眼には敵わない。

「実はさ。昨日兄貴にスゲェ嬉しい事、言われたんだ」

「嬉しい事?」

「俺がダンス続ける事、兄貴だけは認めてくれててさ。俺の味方になってやるって言われたんだ。俄然やる気出たって感じ」

「良かったじゃん。龍兄りゅうにいだけでも、味方になってくれて」

「おう!」

 兄貴の名前は龍斗りゅうとって言うんだけど、香耶は昔から『龍兄』って呼んでいて、まるで自分の兄貴みたいに慕っている。

「これでダンスバカに、更に磨きがかかるわけだ」

 相変わらずの減らず口で、香耶が悪戯に笑って。

「ダンスバカ言うな」

 そして俺も、いつもの返し。

「そう言ってるアタシだって、ちゃんと応援してるんだからね。なんにも出来ないけどさ」

 横顔のまま言う香耶に、気恥ずかしさを覚えながらも、心がじんわりとあったかくなる。

「俺の避難場所は、香耶の部屋だから。そんだけで充分」

 降り続く雨の鬱陶しさも忘れて、香耶と二人、駅へと向かう。

 だんだん霞がかる視界にも気付かず、俺達は「現在いま」という時間ときの流れの中にいた。

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