第4限 叶side:トップシークレットラブ
講義室に向かって大学の廊下を歩いていると、誰かが後ろから、俺の首を羽交い絞めにした。
あまりの不意打ちに驚きながらも、誰なのかくらい見当はついている。朝っぱらからこんな事をする奴は、俺のまわりにひとりしかいない。
「離せっ。成斗ッ」
俺が顔も見ずに言うと、
「見ぃ~たぁ~ぞぉ~」
成斗が俺の耳元で、冷やかす様に言った。
「見たって何を?」
半笑いで聞き返した俺に、成斗が意味深な眼差しを向ける。
「何だよ? 朝っぱらから気持ち悪い奴だな」
「まっ、話はじっくり座って聞かせてもらおーか?」
今度はガシッっと肩を組まれ、成斗に引きずられる様にして、俺は講義室へと入った。
出入り口に一番近い空いていた後ろの席に、成斗と並んで座る。
「で? 誰? もしかしてこれ?」
唐突に質問を始めた成斗が、一昔以上前のおっさんみたいに、小指を立ててニヤついた。
「だから。いったいなんの話だよ?」
呆れた様に鼻で笑う俺に、真面目な顔して成斗が言う。
「どこまでしらばくれるつもりだよ。大学まで車で送ってもらってたの見たぞ!?」
「なんだ。見られてたんだ」
心では少し動揺しながらも、俺は平静を装って、サラッと言ってのけた。
「彼女いないとか言っときながら、ちゃっかりいるんじゃねーかよ」
「彼女じゃねっつの」
俺は飽く迄、半笑いで誤魔化す。誤魔化すと言っても、彼女を彼女じゃないと、誤魔化しているわけじゃなく……彼女じゃないってのは、本当で。ただそこにある気持ちを、俺は成斗に悟られまいとしていた。
「またまたぁ」
ニタついた成斗が、肘で俺を小突くから。
「だから。彼女じゃねぇっつの!!」
イラつき気味に声を荒げてしまった。
成斗だけじゃなく講義室にいた奴等までもが、そんな俺をポカンと見る。その視線に気まずくなりながら、俺はあまりの手持無沙汰に、講義の準備を始めた。
そう、成斗が悪いわけじゃない。
ただ、何も知らない成斗が、俺の地雷を踏んだだけ……。
「ホントに彼女とかじゃなくて、親戚の姉ちゃんだから」
俺はバツの悪い苦笑いをしながら、成斗に小声で言った。
「なぁーんだ。だったら、最初っからそう言えばいいのにさぁ」
「この歳で、親戚の姉ちゃんと仲いいとか、あんま思われたくねぇーじゃん」
「そんなもんかぁ?」
俺の嘘に、成斗が小首を傾げる。
「女の幼馴染みと、ずっと仲良しこよしのお前には、そりゃわかんねぇだろうな」
わざと意地悪く笑った俺に、素直な成斗は「そういうもんなのか」なんて妙に納得したりして。どこまでも純粋な成斗に、俺の良心がチクリと痛んだ。
「親戚の姉ちゃん」なんて嘘だけど、考えてみれば、それはまんざら嘘でもなかったり……。
今は他人だけど、将来、自分の身内になるかもしれない人ってのが、正しい表現。もっと分かりやすく説明すると、俺の義理の姉貴になるかもしれない人。平たく言えば、俺の兄貴の彼女。
それを成斗にそのまま話す事が出来なかったのは……。
俺が、その彼女を……。
兄貴の彼女を……。
「好き」だから ――
俺が兄貴の彼女、
その当時、六つ年上の俺の兄貴は大学四年生で、初めて彼女というものを家に連れて来た。それが、兄貴と同じ大学に通う、兄貴より二歳年下の穂奈美さん。
それまでの兄貴は、色んな女と付き合いながら、家に彼女なんて連れて来た事なんて一度もなくて。初めて見る兄貴の彼女って事で、最初は弟として興味津々だったわけだけど……。
穂奈美さんと仲良くなるうちに、いつしか穂奈美さんを、好きになってしまった俺がいた。
もちろん、俺はそんな自分をひたすら隠し続けて、あくまでも兄貴の弟として、穂奈美さんに接していた。
時には、カムフラージュの彼女なんかも、わざと作ってみたりして……。
兄貴の運転する車で、Wデートをした事もあったっけ……。
とんでもなくヒドイ話だけど、そんな時でも俺の目は、心は、気付けば穂奈美さんを追い、穂奈美さんだけを想っていた。
自分の彼女と弟が仲良くなるのを、嫉妬するどころか、喜んでいた兄貴。
俺の兄貴は、これがまた結構な遊び人で。穂奈美さんに俺が懐いているのをいいことに、穂奈美さんと約束をした日に、他の女と急な約束が出来ると、俺に穂奈美さんを任せて、自分は他の女と遊びに行ったりして。俺はそんな穂奈美さんの愚痴を聞いたり、励ましたりしながら、未だにその役割は、何ひとつ変わってはいない。
兄貴と喧嘩するたび、穂奈美さんは必ず俺を頼ってくる。穂奈美さんにとって俺は、一番の恋愛相談者的存在。でも、それでも良かったし、それが嬉しかった。
だけど……。
穂奈美さんを好きになればなる程、兄貴とひとつ屋根の下に暮らす事が苦痛になって、大学進学を条件に親を丸め込み、俺はひとり暮らしを始めた。
『私……叶ちゃんの彼女になっちゃおっかな?』
昔、兄貴と喧嘩をして酒に酔った穂奈美さんが、口にした言葉。
そんなの本心じゃない事くらい俺が一番知っているのに、その言葉は俺の心を余計、穂奈美さんへと走らせた。
まだ高校生で、貯金なんかもなくて、穂奈美さんを兄貴から奪いたいと思っても、何ひとつ出来ない無力な自分。せめて先立つものさえあれば、「俺んとこ来いよ」って、穂奈美さんに言える様な気がして……俺はいつか穂奈美さんに、そう言いたくて、バイトを始めた。
毎日バイトをするのは、そんな俺の無謀な夢のため。
この三年、兄貴に泣かされっぱなしの穂奈美さんを、ずっとずっと見て来た俺は……それがとても幸せとはほど遠く思えて、俺が代わりに幸せにしてやりたいと強く思う様になった。
そんな俺の気持ちを穂奈美さんはもちろん、誰も知らない。そして俺もまた、心の内を誰にも話したくはなかったし、知られたくもなかった。
今日の俺の講義は、二限で終了。
三限も講義があるという成斗と別れ、正門へとひとり向かう俺の目に、少し前を歩く芹沢の後ろ姿を見つけた。
芹沢は成斗の幼馴染み。
学食で昼飯とか一緒に食べる事もあったりして、その流れで俺も話をする様になった。
「よっ」
横に並んだ俺へと、芹沢が成斗を探しながら訊いた。
「ひとり?」
「残念だけど、俺ひとり」
ちょとからかって笑ったら、芹沢はあからさまに嫌な顔をした。
芹沢は本当に分かりやすい。だからちょっとした悪戯心が疼いて、ついついからかいたくなる。
芹沢は幼馴染みの成斗の事が好きなのだ。
もちろん、それは芹沢本人の口から訊いたわけじゃないけど、決してガセなんかじゃない。パチンコに例えて言うなら、まさにボーナス100%確定のプレミア演出。芹沢の言動を見ていれば、俺にとっちゃ一目瞭然だ。
芹沢本人は、隠し通してるつもりみたいだけど、相手が成斗の様なニブチンじゃなければ、本人にもとっくに気付かれてると思う。
俺とはまったく状況も設定も違うけど、芹沢もまた誰にも言えずにいる恋をしている様に見えた。
思う相手が自分に近ければ近い程、それが片想いなら余計辛い事は、実体験から俺もそれはよく知るところで……。
変な仲間意識の様なものを、俺は芹沢に感じていたりする。
だからって芹沢に俺の
芹沢と成斗を見ていると、何故か穂奈美さんと俺の事が、なんとなくダブる。二人の関係というよりは、あまりに近すぎる相手に「好きだ」と言えずにいる芹沢と俺が重なって見えるっつーか……。
芹沢がわかりやすいのは本当だけど、芹沢の気持ちにいち早く気付いたのは、俺が芹沢と似た様な恋をしているからかもしれない。
「成斗、バイト先でちゃんと仕事出来てんの?」
駅に向かって歩きながら、俺の顔も見ず、冷めた様な言葉の響きで芹沢が訊く。
「週一回のわりには呑み込み早いし、それにアイツやっぱ接客の才能あるよ」
「ふーん……ま、愛想だけは昔っからいいからね」
「まだ一ヶ月も経ってねぇのに、成斗目当ての客もいるし。案外、成斗の天職かもな」
つい口走った後、思わずハッとして、芹沢を見た。
芹沢の浮かない横顔に「やっちまった……」と、思ったところでもう遅い。
「つっても、店のお客さんとは恋愛禁止だし、成斗に限ってそんな心配いらねーよ」
俺のフォローに、芹沢はムキになって、口を尖らせた。
「べ、別に。心配とかしてないし」
「女は素直な方が、かわいいぞ?」
「誰もアンタの女の趣味なんて聞いてない」
「俺の趣味ってより、男は少なからずそう思うもんだって話。前も言ったけどさ、恋愛相談ならいくらでも乗るよ? 伊達に女のお客さん相手の商売してないし、結構頼りになると思うけど?おまけに口は堅いし」
冗談めかして笑った俺に、芹沢が呆れ顔を向ける。
「アンタに話すくらいなら、野良猫に愚痴る方がマシ」
「否定しないって事は、やっぱ悩んでんだ?」
「もしもそんな悩みがあったらってこと。何も悩んでません」
「あっそ。けど、野良猫相手じゃすまなくなったら、いつでも聞いてやるよ」
俺はちょうど差し掛かった駅構内の分岐点で、「じゃあな」と手をあげると、そのまま言い逃げをして芹沢と別れた。
俺と芹沢の路線は同じだけど、帰る方向は逆だから、ホームへと降りる階段が違う。俺はその階段を一気に駆け下りて、ちょうど止まっていた電車に飛び乗った。
土曜の夜のバイト先。
「ありがとうございました」
最終のお客さんをカウンター越しに見送り、残った洗いものを片付け様とすると、親父の親友で、オーナー兼店長の
「叶、ご苦労さん。後は俺がやるから、もうあがっていいぞ」
給料はタイムカードだから、こういう時はオーナー泣かせの残業をするより、さっさと上がった方が金井さんの為だったりする。
「じゃあ、あがります。お疲れっした」
「おう。また来週な。気をつけて帰れよ」
そんな挨拶を金井さんと交わして、バックヤードで素早く着替えを済ませると、俺は店の裏口から外に出た。
バイト先は、俺の住むアパートから、徒歩十分くらいの距離。
成斗がバイトの金曜日は、成斗は家には帰らず、俺のアパートに泊まる様になっていて。今日もダンススタジオに行くまで、俺の部屋で過ごしていた。
大通りに出ようとしたところで、ジーンズのポケットの中、バイブレータに設定していたスマホが震動する。
立ち止まり、確認したディスプレイには、穂奈美さんの名前。
「もしもし?」
逸る気持ちを隠して、平静を装った電話の向こう、もう夜中の一時を回っているというのに、やけにテンションの高い穂奈美さんの声がした。
『もしもし叶ちゃん? もうバイト終わった?』
「ちょうど今、終わったとこ」
『じゃあさ、これからドライブ行かない? 夜のドライブ』
こんな風に穂奈美さんがはしゃぐ時は、兄貴と何かがあった時。
「いいけど。穂奈美さん、今どこ?」
『実はもうお店の前』
穂奈美さんの言葉に急いで大通りに出てみると、店の前でハザードをつけて止まっている一台の車を見つけた。
「今、そっち行く」
俺は電話を切ると、足早に歩いて、助手席のドアを開けた。
「叶ちゃん、バイトお疲れー」
俺より四つ年上の穂奈美さんが、無邪気な笑顔を向けてはしゃぐ。俺はそれに鼻を鳴らして笑うと、その助手席に乗り込んで訊いた。
「で? 今日は兄貴と何があった?」
「叶ちゃん、なんでそんなすぐわかんの?」
「穂奈美さんがやけにテンション高いから。穂奈美さんの場合、そういう時のが、結構深刻だったりするからさ」
俺が得意そうに薄く笑ってみせると、穂奈美さんは一気に頼りない笑顔を向ける。
「叶ちゃんには、敵わないな……」
「運転、変わろっか?」
「ううん。運転したい気分だから、ちょっとこのまま付き合って」
俺が小さく頷くと、穂奈美さんはそのまま車を走らせた。
穂奈美さんの運転する車で、やって来たのは埠頭。もう少し早い時間なら、もっと綺麗な海の夜景が見れたんだろうけど、夜中の二時を回ってしまった今となっては、目の前に広がる海も黒にしか見えない。
「なんかね……もう疲れちゃった」
主語のない言葉を横顔で呟いて、穂奈美さんは小さな溜息を
「今日はやけに、らしくないじゃん」
俺はわざと明るめにコメントして、目の前に広がっている黒い海を見つめた。
いつもの穂奈美さんなら、兄貴とこんな事で喧嘩になったとか、一から十まで俺に説明して、怒りながら泣いたり、泣きながら愚痴ったり……。
今日の穂奈美さんは、そんないつもとは違っていた。
俺の心に言いようのない不安な波風が立つ。
「叶ちゃん、ごめんね……。いっつも関係ない叶ちゃんを巻き込んだりして……」
それはいつもと変わらないセリフだったけど、やっぱりどこか、声のトーンも響きも違うように思えた。
「そのセリフ、もう百万回くらい聞いてる」
俺はおどけた様に言い、穂奈美さんを見て笑った。
「別に『迷惑』とか思ってねぇし。ってか、もう慣れた?」
穂奈美さんを少しでも笑わせたくて、そんな冗談もつけたしてみたんだけど……。
力なく笑っただけの穂奈美さんは、すぐに顔を曇らせた。
「
「兄貴は穂奈美さんの事、本当に好きだから…。別れたいなんて、思ってねぇよ」
「本当に好きなら、どうして浮気とか繰り返すの!? 男ってみんなそうなの!?叶ちゃんもそうなの!?」
八つ当たりもいいところの問い掛けに、俺はすぐさま応える事が出来なかった。
「俺は違う」と言ってしまえば、穂奈美さんを慰める言葉にはならない。
「……ごめん。叶ちゃんに八つ当たりしたりして……」
戸惑う俺に気付いた穂奈美さんが涙声で言い、俯いた穂奈美さんの横顔をその長い髪が隠した。
俺は必死で穂奈美さんにかける言葉を探したけど、焦れば焦るほど妥当な言葉がみつからない。
そんな時だった。
突然、俺の胸に飛び込んで、穂奈美さんが顔を埋めて泣き出す。
ベンチシートの車は、運転席と助手席を遮るものが何もない。
俺は不意打ちで預けられた穂奈美さんの体温に更なる戸惑いを感じて、頭の中はパニック寸前だった。穂奈美さんが俺の胸の中で泣き出すなんて、初めてだったから……。
穂奈美さんを抱きしめようとする俺の手は、抱きしめていいのかすら分からずに迷う。でも、何一つ言葉を見つける事が出来ない代わりにと、自分にそんな言い訳を探して、俺はそっと穂奈美さんを抱きしめた。
穂奈美さんを抱きしめながら、ズキズキと疼く心。
穂奈美さんの涙が、今にもこぼれ出してしまいそうな俺の気持ちを押さえこんでいた。
俺はひとり心で葛藤しながら、穂奈美さんの涙が止まるのを待った。
そのまましばらく時間は流れ ……。
「叶ちゃんに……お願いがあるの……」
俺の胸に顔を埋めたまま、穂奈美さんが言う。
「ん?」
「今日はずっと……一緒にいて?」
返事の代わりに、穂奈美さんの頭をポンポンと叩くと、顔をあげて俺を見た穂奈美さんと目が合った。
そのまま俺の方に近付く穂奈美さんの顔。
穂奈美さんの唇が、俺の唇にゆっくりと触れた。
瞬間、俺の理性がショートする。そんな俺を感じとる様に、穂奈美さんの唇が小さく開いて、俺はそこに激しく舌を絡ませた。
言葉に出来ないもどかしい気持ちが、俺を更に掻き立てて、何度も角度を変えながら、穂奈美さんの唇を求めると、まるでそれに応える様に、穂奈美さんが時折、吐息を漏らす。
フロントガラスから覗く青い月だけが、重なり倒れて行く二人を照らしながら、静かに見つめていた。
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