第2話 アイイロラブレター

 ひょろりとした熊が店に入ってきた。

 いや、よくよく見れば熊ではなく、髪と髭をもっさり生やした人間の男だった。


 伊路地店は駅前通りの脇道を入り、更に脇道を入って、そのまた脇道を行ったところにあるこじんまりとした店だ。しかし曲がりなりにも万年筆という人間の使う道具を売っているのだから、お客は人間だけに決まっている。かなり頻繁に閑古鳥も来るけれど。

 熊男は、薫の顔を見下ろして言った。

「万年筆、修理して欲しいんだけど」

 こんな時期に珍しいな、と薫は思った。

 今は一月も半ば過ぎた冬。この時期、万年筆を修理に出す人は少ない。大体は十二月のうちにやってくる。それは何故か。

 机の奥深くにしまっていた万年筆を取り出し、年賀状を書こうとして、書けないことに気づくからだ。

 一月に出しに来る、ということは普段から万年筆を使っているのか、はたまた何かのきっかけで埋もれていた万年筆の存在を思い出したのか。いずれにしたところで猫に小判、豚に真珠、熊に万年筆、のように薫には思えた。

 真直ぐにこちらへ歩いてきた熊男は思いのほか背が高かった。やや猫背気味であるにも関わらず、万年筆を並べたガラスケース越しに立たれると、薫は熊男を見上げる形になる。

「えっと、今、店長は席を外していて……」

「見れば判るよ。君は店長にしては若すぎるからね」

「ですよね」

 大学を辞め、なんとなくここのアルバイトの面接を受けてから三ヶ月。ようやくメーカーの名前ぐらいは言えるようになったものの、店長を務めるにはまだまだ経験も足りない。だが、店長不在時の電話番や、品物を預かるぐらいは薫にだって出来る。

 ゆっくりと息をひとつ吐き、薫はペントレイを熊男の前に置いた。

「ペン、拝見させて頂いてもよろしいでしょうか」

 スーツのポケットから熊男が取り出したのは、矢に似たクリップが特徴的な、黒く細い軸の万年筆だった。イギリスを代表するそのペンは、老若男女、幅広い世代で人気がある。つるりとした軸と金色のクリップは洗礼された高級感を生み出し、持つだけで背筋がぴんと伸びるようだった。もっとも、庶民である薫には、仕事以外では縁のないシロモノであるが。

 トレイの上に乗せられたそれを手にとり、パチッと音を立ててキャップを外す。クリップ同様金色に輝くペン先を見た瞬間、薫の唇からは思わず悲愴さの混じった溜息が漏れた。

「ああ……」

「うっかり、落としてしまってね」

 本来なら真っ直ぐに伸びているはずのペン先が、見事にひしゃげていた。編み物で使うかぎ針のように腰が曲がり、一目でもう使い物にならないことが見て取れる。

 万年筆というのは、ペン先が命と言っても過言ではない。非常に繊細に出来ており、先端が少し食い違っただけでも書き味に大きく影響を及ぼす。勿論落下といった衝撃に大変弱く、こうなってしまえばもうどうしようもなかった。

「えっと、ここまでなってしまうと、店長でも調整は無理だと思います」

「ペン先交換になるかな」

「あ、はい。でも、ペン先交換だと、今までの書き味はなくなりますし、お時間もお値段も、結構掛かりますけど……」

 暗記している「オキャクサマヘノ、チュウイジコウ」を繰り返す。

 そんな棒読みの言葉にも熊男はゆっくり頷いて、「いいよ」と了承を示した。

「それじゃ修理の伝票起こしますので、ちょっと待っててください」

 カウンター内にある机の引き出しから、伝票と商品カタログを取り出す。カタログで熊男の万年筆を探してみると、写真の下に表示された四つのゼロに、薫は思わず熊男を見た。

 身なりはくたびれたスーツ、中に着たワイシャツも生地の薄い安物に見える。ネクタイや腕時計なんかも身につけていない。あの内ポケットからこんな高級品が出てきたのか。

 一本百円のボールペンをノックして伝票に視線を落とし、今日の日付を書きこんだ。壊れた万年筆の二百分の一の値段だが、書き味の差は多分、薫には解らない。

「名入れなし、目立った傷もなし、字幅は細字、と」

 万年筆の状態を書き、伝票の空欄を埋めていく。全体的に外装は綺麗で大きな傷や塗装のハゲもなく、大事に使われていることが伺えた。

「万年筆を見れば、その持ち主のことが解る」

 店長はそのように言うけれど、薫にはこの熊男が几帳面な性格だとはとても思えない。もしかして別の誰か――たとえば彼女だとかの万年筆を、彼が代わりに持ってきたのかもしれない、とさえ思える。

「君、」

「えっ」

 思うよりもずっと、近くから声がした。

 それもそのはず。薫が伝票から顔を起こすと、男の瞳がすぐそこにあったのだ。

「君さ、アルバイトさん?」

 ガラスのケースに頬杖をつき、こちらを見ている。薫のことを値踏みするような、それでいて少し楽しげな焦げ茶色の吊り目。強面にも見える髭面には少し似合わない、キラキラとした少年みたいな目だ。

 その視線に思わず身体を後ろに引けば、男の髭がもそりと動いた。笑みを浮かべたらしい。

「……、アルバイトです」

 なんだか居心地が悪い。気を紛らわせるかのように薫は伝票へ視線を落とし、伝票の続きを書く。字がちょっと歪み、誤字をやらかしたが緊張なんかしていない、はず。

「そうか。この店にも漸くアルバイトが雇える余裕が出てきたんだな」

「いえ、単にあの店長、サボりたいだけだと思いますけど……」

 つい本音が漏れた。しまった、と思うのと同時に、カウンターの向こうで楽しげな笑い声が上がった。

「失礼しました」と慌てて付け足す。そんなに笑わなくても良いではないか。その感情が顔に出たのか、全く悪気のない声で「悪いね」と言って、男は笑いを納める。

「君はお留守番、ってところか」

 この熊男、自分をからかって遊んでいるのではないか。えらいえらい、とでも言い出しそうな口調に、薫はそう思わずに居られなかった。

「そうですよ。店番ぐらい俺にだって出来ます」

 声がつい、トゲのあるものになる。緊張から、イラつきに変わるころ、ようやく伝票が埋まる。お客様控えを引きちぎり、熊男の前に差し出した。

「ではこちら、お預かりしますので。仕上がりは二週間後になる見込みです」

「ありがと」

 熊男が紙を受け取り、丁寧に折りたたんでスーツのポケットに入れた。これで用事は済んだはずだが、熊男は薫の顔をじっと見るだけで、その場から動こうとしない。

「……あの、なにか」

「うん。俺、今から新しく万年筆を買おうと思うんだが、君、見繕ってくれよ」

 使うのか、熊が。万年筆を。

「えっと、……プレゼント用ですか」

 一応訊いてみることにしたが、やはり男は首を横に振った。

「いいや。こいつが使えない間、代わりに使うためさ」

「そうですか」

「意外かい?」

 意外です。と応えるわけにもいかず、薫は言葉を曖昧に濁す。

 しかしながら、見繕うとはまた難しい依頼が来た。なんたって、薫はまだ入社三ヶ月なのだ。いや三ヶ月もすれば店のことはある程度覚えるだろう。だが伊路地店は閑古鳥が鳴くような店で来客はほとんどない。おまけに来客があったとしても店長が居るときは、薫に接客をさせないときた。

 ここの店長は何故か薫に物凄く甘い。アルバイト募集の記事には「業務内容は接客と雑務」と書いてあったはずだが、実際は「このお店は暇だし、接客はいいよ」と、薫にお菓子とお茶まで用意して事務的なことをやらせることが多い。勿論こうやって店長不在なことも多いので接客回数もまったくのゼロではないのだが、なじみの客が多いせいか、店長が居ないと知ると帰る客が大半だった。

 焦る薫の様子に気づいたのか、熊男の髭がまたもそりと動く。

「店長が不在の間、君が店を守ってるんだろ。見繕うぐらい、出来ないとね」

 挑発的な目と言葉に、薫は思わずカチンと来た。そこまで言うなら、やってやろう。

 薫は改めて熊男を見る。顔は髪と髭に隠れてよくわからないが、年齢は恐らく三十代後半から四十代前半だろう。背が高いのに比例して手のひらは大きく、指もほっそりと長い。普段からペンは良く使うのか、中指にはペンだこが出来ている。

 高級筆記は、持ち主を飾るアクセサリーとも言える。洗礼された美しいデザインや、時には宝石も使った装飾。しかしそれらも、持ち主に合わなくては意味がない。相手に似合うものや好みを聴き、なおかつ書きやすい一本を選ぶのが、万年筆屋の接客だと言えるだろう。

「あの、好きな色とか、ありますか」

「別に」

「メーカーのご希望は、」

「特にないよ」

「……」

 特にない、というのは、何でも良いのとは違うのが面倒なところだ。そういう大体のお客は、心の奥底ではキチンと好みを持っていて、適当な一本を出せば「これじゃないんだよねぇ」と言うに決まっている。

 僅かだがオススメの万年筆を見つける方法を店長から教わったことがある。店長いわく、年齢、性別、あとは用途が判れば大体合うペンが見つかるらしい。

 たとえば年配の人なら握る力が弱いため、太めのペンが持ちやすい。目も悪くなってくるから、字も大きく書く傾向にあるので、濃くはっきり見える太字が良いだろう。

 若い女性なら細身の洒落たデザインが良いだろう。色も華やかなピンクや、あるいは年齢に寄っては臙脂というのも悪くない。小さい文字を書く人が多いから、字幅も細い方が文字がつぶれなくてオススメだ。

 では、この目の前の熊男は、どうだろうか。

 手も大きいし、ペンの軸は太い方が書きやすいそうだ、と薫は思う。修理に出した万年筆は本体が黒色だったから、やはり今回も黒の方が無難だろうか。あんまりお洒落に気を使うようなタイプでもないし、奇抜なデザインよりシックなものが良い気がする。

 そんなことを考えながらつい、無言でじろじろと熊男を見てしまったことに気づき、薫は慌てて質問を投げかけた。

「えっと、普段どういったご用途で、万年筆をお使いですか」

 熊男の髭がまた、もそりと動いた。

「ラブレター」

「え」

「ラブレターを書くのに使っている」

「そう、ですか」

 冗談なのか本気なのか薫には判らなかったが、ラブレターということは字はそこそこ大きめに書くのだろう。見た目からして性格も大雑把そうだ。

 薫はガラスケースの中から、黒い樹脂で出来た万年筆を一本取り出した。丸みを帯びたデザインと金のクリップは、いかにも万年筆、という風合いだ。字幅は中字、程よい太さが出る。

「今までのと違って、国内のものです。日本語を書くときは、国内産のがオススメ、だそうです」

 しかしこれもまた、彼が持っていたもの同様、ゼロが四つつく品物だ。震える手でキャップを回して取り、反対側に差し込む。そこから出現した金色のペン先は、これで書けば字も、そして字を書く自分も少しは綺麗に見えるのだろう、と思わずにいられない。

 ボトルインクの蓋を開けて、ペン先を少しだけインクに浸す。まずは自分でためし書き用の紙に永の字を書いてから、熊男へ万年筆を差し出した。

 熊男はそれを受け取ると、へぇ、と声を上げ、興味深そうに手の中のそれを見る。紙の上にでなく、何度か宙に文字を書いてなにやら確かめているようだった。

「舶来物の細字は、国内産の中字ぐらいの太さで出ます。……なので、えっと、今までお使いのものと、字幅は変わらないと思いますが……」

「軽いね」

「えっ」

「ペンの重さ」

「あっ、えっと、……すみません」

「君が謝ることはないよ。確かに俺が今まで使っていたのに比べりゃ軽いけど、軸は太いし、こっちのほうが握りやすいかな」

 熊男は紙の上に、さらりと文字を書いた。淡いブルーのインクで刻まれたのは、今野、という二文字だった。きっと熊男の名前だろうが、活字で書いたようにきっちり揃ったその字に、薫は驚きを隠せなかった。人を見た目で判断してはいけない、とはよく言うが、彼は見た目と中身がどうにもマッチしなさすぎる。

 東京都、だとかをいくつか書いたあと、熊男、もとい今野某の手が止まる。好みにあったのだろうか、薫はじっと今野を見つめていたが、彼は何も言わなかった。

「……」

「……」

「……」

「あの、いかがですか」

 とうとう薫のほうから訊いてみる。しかし紙の上を見つめたまま、今野は何かを考えているようだった。その目は、視線で紙が焦げて煙が上がるのでは、と思えるほど真剣そのもので、そこもまた意外に感じる。

 この男、髭を剃ったらどうなるんだろう。

 ふと、薫はそんなことを思った。あの髭は、この男を武装する鎧のひとつではないか。本心を探られないために「適当」という鎧を身にまとい、軽口を叩いて周りの敵を適当にあしらっているように思えた。それを全て剥いだら、もしかしたらもっと情熱に溢れた姿が見えるかもしれない。その姿を想像すると、何故だかぞわりと背筋が震えた。

 それにしても、こんなにじっと見られていてもぴくりとも動かない今野に、薫はだんだんと気まずさを覚えてくる。もしかして薫が気づいていないだけで、時間が止まっているのではなかろうか。いや時計の針の音が聞こえるからそれはない。これに決めるのか、違うものにするのか、はたまた買うのを止めるのか、今野に何か言葉を発して欲しかった。


 そんな気まずい沈黙を破ったのは、店長の声だった。

「ただいまぁ。薫くん、運ぶの手伝ってよ」

 彼の声はほんわりと間延びした声だけれど、こんなにも頼もしく感じたのは今日が初めてだ。ほっと胸を撫で下ろし、店の出入り口へと視線を向けた。

「浅葱さん」

 薫の視線の先には、白いワゴン車を店の前に止め、荷台からダンボールを降ろす青年が居た。そろそろ三十路も半ば、折り返し地点のはずだが、薫とさして年齢が変わらないように見える。ふんわりと緩くパーマの掛かった茶髪や垂れた大きめの瞳のせいか、花屋でアルバイトをする大学生、と言われても、何の疑問も抱かない。

 彼が伊路地店の店長こと浅葱である。浮浪ばかりしてあまり頼りにならない店長ではあるが、今日の薫の目には、いつもよりもずっと神々しく映った。

「おかえりなさい、遅かったですね」

「ちょっと道が混んでてねぇ。お客さん? ……って」

 今野は「や、」と片手を上げた。

 その姿を見た浅葱の表情が明らさまに曇る。食卓に、嫌いなピーマンづくしの料理が並んだかのような反応だ。

「今野くん、来てたの」

「愛用のヤツが壊れてね」

 浅葱がこの熊男と知り合いだということに、薫は内心驚いた。見た目も性格も正反対のようで、接点がないように見える。たとえ学校で同じクラスだったとしても、全く別のグループに属しているただのクラスメイト、になっていそうだ。しかし雰囲気から察するに、二人はそこまで浅い関係ではなさそうだ。

 勿論熊男も大の万年筆好き、という可能性はあるが、それにしては浅葱の反応は冷たい。常連客には必ずといって良いほどお茶とお菓子を出し、筆記具の話に花を咲かせる浅葱なのに、今野にはそれをしない。

「えっと、浅葱さん?」

 薫は恐る恐る浅葱を見た。温和で優しいはずの浅葱が別人に見える。彼専用の仮面を持っていて、それを身につけたかのようだ。もしかしたら今までが、薫専用の仮面を身に着けていただけなのかもしれないが。

「用が終わったなら帰りなよ。時間ないんじゃないの」

「今日は客なんだ、少しぐらい居させてくれよ」

 浅葱の冷たい態度にもめげず、今野は楽しげな声で語る。それでも「やだ」と浅葱に一蹴されれば、降参、といったように両手の顔の横まで持ち上げた。

「それじゃアルバイトくん。ペン、よろしく」

 そうして踵を返して、今野は出口へと向かう。その背中と、浅葱の顔を見比べても、薫は今野を引き止めるべきなのかどうなのか解らなかった。

 とりあえず、挨拶はしておこう。ありがとうございました、と言い掛けた薫の言葉は、しかし浅葱の声に遮られた。

「今野くん」

 なんでもない風を装っているけれど、やっぱりいつもの浅葱と違う。

 今野の顔を見ないまま、浅葱は訊ねた。

「最近は、眠れてるの?」

 その言葉に彼はこちらを振り返り、髭をもそりと動かす。

「まぁね」




「浅葱さん、今の人と、お友達なんですか?」

 浅葱の買ってきた備品を片付けながら、薫はおずおずと訊いてみる。もしかしたら地雷かもしれないとは思いながらも、好奇心を抑えることは出来なかった。我ながら野次馬根性たくましいな、と、げんなりする。

 友達、と思われるのにも嫌悪感があるのか、薫のその言葉に浅葱は眉間に皺を寄せ、言った。

「あんなヤツと友達になりたくない」

 それでも今野の万年筆を手に取るのは、仕事だと割り切っているのか、万年筆への愛ゆえか。

「あいつ、あんなナリしてるのに、意外と神経質なとこあるんだよね」

 長いこと使ってるヤツなのに、傷もほとんどないし。と、預けられた万年筆を軽く掲げて光に照らす。ラッカー塗装が施されたそれは、きらきらと光を反射して輝いていた。

「そのくせ結構な我侭でさ。それでちょっと、僕とは性格が合わなかっただけ」

 キャップを開け曲がったペン先を見つめ、浅葱が顔をしかめる。やはりここまでなってしまったら、浅葱でも直すのは難しいようだ。そうして検査を終えれば、ぱちんと蓋を閉めなおした。

「メーカーに出して修理。時間は二週間。でもあいつ、時間もお金も掛かっていい、って言ってたでしょ」

「えっと、はい」

「新しい万年筆、見つけたのかな。この万年筆も多分、直したところで棄てられるんだよ」

 この万年筆「も」。

 彼は他にも何か棄ててきたのだろうか。今日も新しいものを買っていったし、もしかしたら次から次へと万年筆を買い換えているのかもしれない。薫が一生に一本手にするかどうかの物を、そんなにぽんぽん買い換えられるとは羨ましいご身分である。

 そっと浅葱を盗み見た。万年筆への愛ゆえか、その横顔は心なしか寂しそうに見える。

 薫の視線に気づいたのか、浅葱はそちらを見て、ふっと微笑んだ。

「薫くんはあんなヤツには近づいちゃダメだよ。僕の大事な薫くんが汚れちゃう」

 冗談みたいな言葉とは裏腹に、その目は全く笑っておらず、この忠告には大人しく従っておこうと薫は思った。




 修理には二週間掛かることだし、暫く会うことは無いだろうな、と思っていた。

 しかし今、今野が薫の目の前にいる。


 翌日、薫はいつものようにひとりで開店準備をしていた。今日は陽気も穏やかで暖かい。とはいえエプロン姿で外を掃くのは少し寒そうだ。椅子に引っ掛けてあった浅葱のカーディガンを拝借し、とホウキとチリトリだけ持って外へ出た。

 店のシャッターを開け、店内と店の周りの清掃を始める。小さく鼻歌を歌いながら清掃をしていると、犬の散歩に訪れた近所のおじいさんが「今日も上手だねぇ」と笑いながら通り過ぎる。あのおじいさん、御年九十になろうかという外見で、腰も直角どころか百八十度近く曲がっているけれど、耳だけは現役のようだった。

 伊路地店は午前十一時というちょっと遅めの時間に開店する。そんな遅くて良いのだろうかと最初のうちは思っていたが、常連客たちも午後三時を回らないと来ないということに、最近になって薫も漸く気がついた。本当に適当な店である。これでどうやって稼いでいるのだろう。

 そうして掃除を終えて顔を上げる。すると目の前に、今野が居た。

「えっと、いらっしゃいませ」

 昨日と変わらずもっさりとした髪と髭で、よれたダークグレーのスーツを着ている。その姿は何度見ても、山から降りてきた熊そのものだ。

 単純に餌を求めて下山してきた、ではなく、単純に店の前を通りすがっただけ、という可能性も捨て切れないと思いつつ、薫はひとまず挨拶をした。こんな路地裏にある店の前を通るのは、お客でなければ、先ほどのおじいさんぐらいなものであるが。

 昨日あれだけ浅葱に睨まれたのにまたやってくるとは、神経質どころか神経が図太い。何をしにきたのだろう。薫は今野の様子をそっと伺った。

「まだ、修理、出来てないですけど……」

「今日は買い物さ」

「入ってもいい?」と今野が店の中を覗いた。電気はまだつけていないけれど日差しは店の中まで届いていて、ガラスケースやインクビンの端々がキラキラと光っている。古びた店の中で輝くそれらは、冒険の末に見つけた宝箱のようで、薫の少年心をくすぐらせるものがあった。

「どうぞ」

「ありがとう。君は浅葱と違って優しいな」

 曲がりなりにも、今野はお客である。彼をよく知らない薫は、浅葱のように追い返すことは出来なかった。今野をガラスケースまで案内すれば、店の電気をつけ、掃除用具入れにホウキとチリトリを仕舞ってからケースの反対側に回る。

 彼は室内の暖かさにジャケットを脱ぎ、ガラスケースの上に置いた。ネクタイこそなかったものの、よれたスーツと違ってシャツは奇麗にプレスされており、案外真面目なところもあるらしい。ダブルカフスの袖口には、縞模様が特徴的なボタンが取り付けてあり、このまま雑誌に掲載されても不思議でない洒落た雰囲気があった。ただし、首から下に限るけれども。

「昨日の万年筆、やっぱり買っていくよ。字幅だけ考え直させてくれ」

「……かしこまりました」

 ガラスケースの引き戸を開けて、例の国内産の万年筆を改めて取り出した。まずは中字をボトルインクにつけ、軽くためし書きの紙の上を走らせる。それから「どうぞ」とペンを差し出せば、今野はそれを受け取った。彼もやはり昨日と同じように「今野」と文字を書く。相変わらず計算され尽くされたよ

うな、見事なバランスの文字だ。

「やっぱりちょっと太いかな。中細字ある?」

「はい」

 中細字、というのはその名のとおり、中字と細字の間のものだ。外国の品はほとんどが極細字、細字、中字、太字の四種類だが、日本のものはその間の中細字や、中字でペン先が柔らかいタイプ、などといった細かな字幅も作られている。几帳面な日本人らしい。

 先ほど同様、ペン先にインクをつければ、中字の万年筆を受け取る代わりに、中細字を差し出す。

 今野は何度か、自分の名前を書いた。そうしてふと、何かを思いついたような顔をすると、その万年筆で「浅葱」と書いた。

「今日は浅葱は?」

「店長は今、席を外しておりますが……」

 席を外している、というより、浅葱は朝は大体来ない。酷い低血圧らしく、いつも出勤してくるのは午後になってからだ。薫を採用する前はどうしていたのか、と時々考えたりする。もしかしたら前のアルバイトは、そんな浅葱の適当さに嫌気がさして辞めたのではなかろうか。

「浅葱に、何か用ですか」

「そんな警戒しなくてもいいじゃないか。あいつに何か言われたの?」

「いえ、別に……」

 言い淀む薫に、今野の髭がもそりと動いた。しかしそれ以上は追求せず、再び中字の万年筆を取れば、今度はそれで「カオル」と書く。

「カオルって、風薫る、の薫?」

「そうです、けど」

 何故名前を知っているのか。薫が怪訝そうに今野を見ると、彼は楽しそうに笑った。

「さて、何故君の名前を知っているのでしょうか」

「調べた、んですか?」

「そう。君のことがね、知りたくなったから、昨晩星に訊いてみたんだ」

「……」

 どうやら人をおちょくるのが趣味らしい。

 不審な目で今野を見ていると、彼は「冗談だよ」と首を横に振り、種明かしをした。

「浅葱が昨日、君をカオルくん、って呼んでただろ?」

「そう、でしたっけ」

 言われてみればそうだった気がするが、薫はよく思い出せなかった。

「しかしどっちもいいなぁ。……カオルくんはどっちがいいと思う?」

 常連客からも、薫、と呼ばれることは良くある。しかし何度お客に名前を呼ばれても慣れないもので、いつだってこそばゆいような、むずがゆいような、不思議な気持ちになる。そんな気持ちを落ち着かせる間、少し考えるフリをしてから薫は答えた。

「今野様は、字も少し大きめですので、えっと、中字ぐらいが宜しいかと」

「そうか。じゃあ中字にしよう。自宅用だから箱は要らない」

「ありがとうございます。それではお先に、お会計失礼致します」

 今野は万年筆をトレイに置いた。そうしてガラスケースに置いたジャケットを漁り、二つ折の財布を取り出す。シャツや万年筆同様、財布も大事にする主義なのか、擦り切れや傷も少ない、ヌメ革の財布だった。長年使われているのか、手の脂が染みこんだ味わいのある飴色になっていた。

 その財布からカードを取り出しながら、今野は呟いた。

「浅葱とは古い友人でね。ただ、ちょっとケンカをしただけださ。今も仲直り出来ていないんだ」

 ふたりの間に何があって、どんなケンカをしたのか。聴きたいような気がしたけれども、浅葱やお客の間に踏み込むのはいけないな、と薫は考え直す。

「そうですか。サービスインク、何色にしますか」

「ブルーブラック」

「かしこまりました。お持ち帰りのご用意をいたしますので、ちょっと待っててください」

 万年筆はボールペンなどと違い、全く同じメーカーの全く同じシリーズ、全く同じ字幅であっても一本一本の書き味が若干違う。最後の仕上げが人の手によるものだからだ。その都合、新しいものを改めて出すのではなく、ためし書きをしてもらったものを水で洗ってそのまま販売する。

 万年筆の乗ったペントレイを持ち上げ、カウンターの後ろの洗浄機へ向かう。そのとき、こん、と薫の腕が何かに当たった。

「あ。」

「あっ」

 振り返ったガラスケースの上に、鮮やかな青色が広がっていた。透明なケースの上に、突然海が現れたようだ。そしてそれはカウンターに肘をついた、今野の白いワイシャツにも向かっていた。

 彼が押し寄せる波に慌てて腕を引き上げたものの、既に手遅れだ。その袖から肘にかけて淡青がじんわりと染め上げていく。

「も、申し訳ございませんっ」

「あぁ大丈夫だよ、シャツぐらいなら。幸いにしてジャケットはそんなに汚れなかったみたいだし。羽織れば判らない」

「でも、えっと、クリーニング」

「君は俺に裸で帰れって言うのかい」

 手を横に振りながら、気にせずに品の用意をして、と笑う。確かに今、代わりに貸せそうなシャツもないし、指示を仰ごうにも浅葱は居ない。仕方なしに保証書とサービスインクをつけて、紙袋に万年筆を入れた。

 今野がジャケットを羽織り、おろおろする薫から紙袋を奪うように受け取る。

「それじゃ、またね」

 片手を上げて出て行く今野の背中を、薫は見送ることしか出来なかった。


 どう浅葱へ報告したものか。考えあぐねていると、入店を知らせるベルが軽やかに鳴った。

「こんにちは」

「水城さん」

 やってきたのは常連客のひとり、水城だった。

 今野と違い、無駄な皺のないパリッとしたパンツスーツを軽やかに着こなす女性で、年齢は二十代後半だろうか。職業は営業職、としか知らないものの、さっぱりとしたショートカットの黒髪と、リムレスフレームの眼鏡が似合う利発そうな釣り目は、「仕事の出来る女」という言葉がぴったり似合う。

「浅葱くんは?」

「今日はまだ、出勤してなくて。あともう少しで来ると思いますけど」

 店の端にある、大きな柱時計を見る。ちょうどそのとき、十二時を示す鐘の音が店の中に鳴り響いた。

「そっかぁ、じゃあちょっと茶飲み席で待っててもいいかな」

 伊路地店の窓際には、木で出来た簡単なテーブルセットがある。一辺に座れるのは一人のみで、天板も五十センチ四方だろうか、そんなに広くは無い。ペンキを塗らず、木目そのままを利用したデザインは素朴で暖かだ。椅子も同様の素材で出来ており、背もたれもない丸椅子に小さな座布団が敷いてある。通称茶飲み席と呼ばれるそこが浅葱の定位置であり、彼が常連客と団欒する場所でもあった。

 そこの一角に水城が腰を下ろす。

「薫くん、このお店には慣れた?」

「お蔭様で」

 こうやってくるお客に、コーヒーと茶菓子を出せるぐらいには慣れてきた。

「薫くんの入れたコーヒーは美味しいね。前のバイトの子はここだけの話、あんまり上手くなくてガッカリしてたの」

 万年筆屋の店番に、コーヒーを入れる技術が必要だとは思わなかったのだろう。とはいえ、その腕前を磨かないまま応募してしまったアルバイト氏を批判するのは、お門違いのようにも感じる。

「浅葱くん、ぼんやりしているけれど、本当は凄い人なんだからね。彼の技、しっかり盗んでいくのよ」

「はぁ」

 浅葱の修理や調整を頼む常連客は、皆口を揃えてそう言う。しかしながら薫はほとんど万年筆を使わないせいか、その「凄さ」というのが未だにピンとこなかった。

 ただ、薫にも、浅葱が淹れるコーヒーは美味く、お茶請けにするお菓子の選び方も絶品だということは解っていた。まさかその技術を盗めということではないだろう。

 曖昧に返事をしていると、噂の店主がやってきた。

「水城さんじゃん。今日は早いね」

「浅葱くんが遅いのよ」

 ダッフルコートを脱ぐと、まだ眠たそうな目を擦り茶飲み席に座る。

「何か急ぎの用?」と浅葱は訊ねるが、まだ頭の中や身体は仕事モードではないのだろうか、彼の後頭部の寝癖も佇まいを直していなかった。

「浅葱くんさ、あのメーカーの限定品、どこか置いてる場所知らない?」

 水城がドイツのメーカー名を口にする。そのメーカーでは毎度季節ごとに限定品が出ているはずだが、浅葱はそれだけでピンと来たようだ。

「あぁピンク色のヤツ?」

「そうそれ。ちょうど友達の結婚式があるからさ、プレゼントにしたいんだけど、見つかんなくって」

「外国人のお客さんがごっそり買い占めてるらしいね、皆探してるよ」

 そうして、薫が水城のために出した茶菓子をひとつ浚い、ひょいと口に放り込んで言った。 

「だいたい水城さん、アンチ吸入式じゃなかったの?」

「そうなんだけど、ほら、彼と一緒に贈るから。彼、万年筆は吸入式以外認めないって煩いのよ」

「あいつ、変なところでこだわりあるよね」

 キュウニュウシキ、とは何のことだろうか。頭の中で漢字変換も出来ずにいる薫を置いて、ふたりは「あのメーカーの書き味は好き」だとか「別のものなら何がいいか」などと万年筆談義に花を咲かせている。

「あの、浅葱さん」

「ん?」

「……いえ、後にします」

「そう?」

 その話に水を差すのも気が引けて、薫はカウンターの中へと下がる。今野のワイシャツのことを、言い出せなくなってしまった。


 その後も訪れる常連客とおしゃべりに興じたり、お客の万年筆を調整したりして、いつものように時間が過ぎていく。結局客足が途切れたのは午後五時

すぎだった。

 声を掛けようにも掛けられないまま、そろそろ閉店時間だという頃、ようやく浅葱の手は空いて、コーヒーと読みかけの本片手に茶飲み席に座る。今がチャンスだ。おもむろに薫も浅葱の正面に座り、両手を膝に置いた。

「浅葱さん」

「なぁに、改まった顔しちゃって」

 浅葱が本を閉じてこちらを見る。その穏やかな視線に耐え切れず、薫はそっと視線をそらした。

「今日、インクを零して、お客様のワイシャツ、汚してしまって」

 すぐ報告しなかったことを怒られるだろうか。

「お客様、って、常連の人?」

「いえ、あの、今野さんって人の」

「なぁんだ今野くんのか」

  その名前を聴くと、浅葱はほっとした顔で胸を撫で下ろした。

「もう。あんまり真剣な顔をしてるものだから、今日限りで仕事をやめます、って言われるのかと思って、緊張しちゃった」

「そんなわけないじゃないですか」

 仕事は暇で、やりがい、というものはあまり感じられない。しかしそれでお給料がもらえるのだ、こんなに美味しい職場はないだろう。

「僕って結構気まぐれだからさ、その適当さに付き合いきれないから辞めますって子、結構居たんだよね」

「やっぱりそうなんですね」

「やっぱりそうなんです」

 しまった、と思うより早く、うふふと意地の悪い笑みを浮かべて、言葉を繰り返された。「すみません」と慌てて謝る薫に、「本当のことだからいいの」と浅葱は首を横に振る。

「薫くん、今日僕が居ない間に、万年筆売ってくれたでしょ?」

「見てたんですか」

「まさか。でもケースの中の万年筆が減ってたから」

 減っていた、と言っても、百本を越す万年筆のうち、一本がなくなっただけだ。店に来てから特別ガラスケースを覗き込んでいたわけでもないのに、それに気付いていたとは、いい加減なように見えてもやはり店長だ。それを浅葱に伝えると、「子供のちょっとした怪我って、すぐ気付くでしょ」となんでもないことのように返された。

「その接客したとき、何か嫌なことでもあったのかな、辞めたくなっちゃったかなぁって思ったんだ」

「嫌な思いというか、そのとき、今野さんのワイシャツを汚してしまって」

「でかしたよ薫くん」

 まるで大口の契約を取ってきたときのように、薫の肩をぱしりと叩いて満面の笑みを見せた。お客に迷惑をかけて喜ぶ店長とはいかがなものか。

「これであいつが二度と来なくなるなら万々歳だ」

「でも、ワイシャツ」

「放っておけばいいよそんなの。薫くんが気に病むようなことじゃない」

「えっと、そういうわけにもいかないでしょう。曲がりなりにも、今野さんもお客様なんですから」

「じゃあこれは店長様からの命令。あいつのことは放っておきなさい」

 それでこの話は終わりだ、と言うように、浅葱が飲みかけのコーヒーに手を伸ばし、読みかけの本を開いた。それで本当に話は終わってしまい、後は何を言ってもどこ吹く風で、薫の言葉を聴こうともしなかった。

 アルバイトを辞めていった人たちの気持ちが、解るような気がした。




 最近、時が経つのなんてあっと言う間だと感じるようになった。

 学生の頃は時間が流れるのがとても遅く感じて、早く放課後にならないものか、とか、早く夏休みにならないものか、早く来年にならないものか、早く大人になりたいだとか。そんな風にいつも思っていた気がする。今は時が過ぎるのが驚くほど早く感じて、時々そのスピードに眩暈がするぐらいだ。

 そんなわけでこの二週間、今野のワイシャツのことが気になりながらも、薫は何も行動を起こせずにいた。

 修理品を預かった際に、電話番号と住所も伝票に書き込んでいたので、謝罪の電話をしたり、菓子折りを持って直に伺うことは簡単だった。しかし明日やろう、明後日行こう、今度の休みに行こう、と思っているうちに、結局出来ずに今日に至る。

 浅葱が店長命令だ、と言ったからでもあるが、それ以上に、薫自身が今野に会うのを迷っている。

 浅葱があれほど言うのだ、今野には何かがあるに違いない。また子供を相手にするような調子でからかわれたり、部屋を訪ねてみたら、そのまま監禁されてしまう可能性だって……いやそれは考えすぎだろうが。

 ともあれ、あまり品行方正とは言いがたい人間ではあるのだろう。しかし、くたびれたスーツの中に隠されていた真白なワイシャツのように、表面からは想像がつかない今野の内面や、あの万年筆を使っているところをまた見てみたいという気持ちにも駆られる。

 そうやって迷っているうちに一週間が経ち、また日曜日が通り過ぎたある日。今野が預けていた修理品が、メーカーから戻ってきた。


 辺りもすっかり暗くなった閉店間際。ぼんやりと光るデスクライトの下、薫は修理品を保護するケースを置き、蓋を開けて中を取り出した。ほっそりとした黒いキャップを引き抜けば、内側に隠れたペン先はしゃらりと背筋を伸ばし、見事な輝きを取り戻している。思わず見惚れること数秒、そろそろ薫も浅葱の影響を受けてきたのかもしれない。

「浅葱さん、明日は用事はありますか?」

「ないよ。一日店に居るつもり」

「それじゃ、今野さんへは今日電話してしまって良いですね」

「どうして」

 電話の受話器を持ち上げたところで、浅葱の不機嫌そうな声が聞こえた。ボタンをひとつ押してからちらりとそちらを見ると、彼の無表情な視線とぶつかった。

「どうって、……修理品、仕上がったので」

 自分が叱られているわけでもないのに、思わずしどろもどろになりながら薫が答える。修理品が仕上がったのであれば、早速電話して、品物を引き取りに来てもらわねばならない。そうしてお代を支払ってもらうことで、この店が潤っているのだ。そんな当たり前のことを訊くなんて、浅葱はどうかしてしまったのかもしれない。

 実際、今野のことが絡むと、浅葱はどうかしてしまっている。

 ふと浅葱が立ち上がり、薫の元へとやってくる。そうして一見して優しく見える手つきで、しかし実情は抵抗出来ないほどの強さで薫に受話器を置かせると、妙に爽やかな笑顔で言った。

「薫くん」

「何ですか」

 嫌な予感がする。

「僕さ、明日風邪引くから」

「はい?」

「僕、明日は風邪引くんだ。だからお店はお休みね」

「……」

 風邪というのは、そんな自由自在に引けるものなのだろうか。急におじいさんが亡くなって葬式が入っただとか、もっとマシな嘘をつけばいいものを。しかしよくよく振り返れば、この三ヶ月で浅葱のおじいさんは、三人ぐらい亡くなっていたような気がする。「先月もお葬式じゃなかったですか」だとか「おじいさん三人目ですよね」だとか指摘してもどこ吹く風で、堂々と店を閉めていた。

 そんなこんなで、浅葱は一度こうと言い出すと、全く退かない頑固なところがあった。たった三ヶ月と少しの間でも、いやというほどその事実に触れてきたので、薫は諦め、もう何も言わないことにする。

「さて薫くん。もう時間だし、今日はここまでにしよう」

 浅葱は、普段とは比べ物にならないほどキビキビと閉店準備を始めた。閉店準備といえど帰りは店のシャッターを下ろして鍵を掛けるだけだ。それを終えれば、浅葱は閉店時間の五分前にも関わらず、仕事カバンを持ち上げさっさと外に出た。

 慌てて薫もエプロンを外して布製のショルダーバッグを取り、後を追う。外に出て、中途半端に引っ掛けた靴を履きなおしていれば、背後で扉の鍵を掛ける音がした。

「それじゃ薫くん、明日はゆっくり休んでね」

 それは病人になる予定の、浅葱にかける言葉ではないのか。颯爽と去る背中にそんなことを思ったけれど、藪蛇になりそうだったので、薫は言うのを止めた。

 そうして店の前で浅葱と別れ、駅に向かって歩き出す。二、三分ほど歩いたところで、薫はふと足をとめた。

「……」

 何故そうしようと思ったのか、自分でも解らない。ただ、気がつけば来た道を引き返していた。自然と早足になる気持ちを抑えつつ、大きな足音を立てないようにそっと歩く。

 店の前に戻り、あたりを軽く見回してみた。脇道の多い路地だ、浅葱の背中はもうどこにも見当たらない。

 シャッターの閉まった伊路地店の裏口へまわる。ポケットから、小さい柴犬と鈴のストラップがついた鍵を取り出せば、鍵穴に差しこみ、ゆっくりとドアノブを回した。

 室内の電気はつけなくても、修理品が仕舞ってある引き出しは判る。机のところまで、周囲に気をつけながら歩いていき、その引き出しをそっと開けた。

 今、引き取り待ちの修理品は、幸いにも今野のものだけだった。中に入っていたそれを取れば引き出しを閉め、再び外へ出る。気持ちが逸るのか手が震え、鍵穴に上手く鍵が差し込めない。それでもなんとか鍵をかければ、駅までの道を今度は駆け抜けた。




 急に出来た休みは、幸いにも晴れた。

 インターネットで検索して出した地図を片手に、小春日和の太陽に目を細めながら薫は目の前のアパートを見た。築三十年は経っているだろう、ポストや階段はところどころ錆びていて、ボロい、もとい、古風な雰囲気を漂わせている。ペンにはお金をかけても、外見にはお金を掛けない彼らしい住処だ。

 カンカンと外階段を軋ませながら登る。登りきったところにある二○一号室の扉には、今野、という手書きのプレートが挟まっていた。インターホンは見当たらず、薫は仕方なしに扉をノックする。

 勢いでここまで来てしまったが、不在だったらどうしよう。いやいやそのときは大人しく引き返せばいいだけだ、と首を横に振ったところで、扉が少しだけ開いた。

「どちら様?」

 玄関は暗く、その隙間から覗く目が、きょろりと光る。まるで熊の巣穴を覗いたようだ。

「あの、伊路地店の、ものですが」

 そう言って、薫は彼を見上げる。その顔を思い出したのか、あぁ、と言って今野は隙間を、もう少し増やした。

「どうしたの」

 ここは熊男の巣穴ではなく、人間今野の部屋だった。

 口許に生やしていた髭はすっかり剃られ、整髪料こそ付けていないものの、髪も短く切られていた。その下の顔は想像していたよりも若く、浅葱と同じ三十代だろうが、彼とは反対に精悍な顔つきをしていた。

 ただし切れ長の目の下には、くっきりとした隈が浮かんでいる。

「その、修理品も仕上がりましたし、あのときの、お詫びにと、思って」

 ショルダーバッグから、今野が預けていった修理品を取り出す。ケースを開いて、中を見せた。

 今野はじっとペンを見つめていたが、ケースごとそれを受け取ると、扉を大きく開いた。

「せっかくだし、あがっていきなよ」

 その言い方が機嫌の良い時の浅葱に酷く似ていた。たとえば好きなメーカーの限定万年筆が発売されたとき、または廃盤になったお気に入りの品が復刻版として登場したとき、浅葱はこういう話し方をする。そしてその品物について、延々と語り出すのだ。

 もしやこれから今野からも、万年筆の長話が始まるのでは、と警戒する。薫のそんな視線に気づいたのか、今野は軽く笑った。

「取って食いやしないさ。丁度ひと段落ついたところなんだ。コーヒー淹れるよ、浅葱のヤツほど美味くないけど」

「……」

 無下に断るのも悪い気がして、それじゃ少しだけ、と玄関に入り、靴を脱ぐ。

 部屋はワンルームだった。扉を入ってすぐ左手にキッチンがあり、右手の扉は恐らく風呂場だろう。正面には七畳ぐらいの洋室が広がり、中央には天板の白い丸い卓袱台と、それを囲むようにクッションがふたつ置いてある。修理品のケースを卓袱台の上に乗せ、クッションの片方に腰下ろすよう薫を促せば、今野はキッチンへ向かった。

 入ってみたものの、お客の家に来るというのはなんだかそわそわする。気を紛らわせるように、薫はそっと部屋を見回した。

 奥の窓際にはベッド、その隣に横長の木で出来た作業机が設置してあるだけの、シンプルな部屋だ。しかし作業机の上は部屋と違って、賑やかだった。引き出しがないようで、机の上にはボトルインク、本、何かの書類が所狭しと散らばっている。机の上でおしくら饅頭をしあい、各々端から落ちないように気をつける中、意外と筆記具は少なく、先日買っていった黒い万年筆が一本、机のど真ん中に転がっているだけだった。

「お待たせ。意外と綺麗な部屋だろ?」

「えぇ、まぁ……」

 確かに、あの熊男姿からは山中の洞窟みたいな部屋しか想像できなかった。しかし今、目の前に座る今野を見ると、物への執着がなさそうなこの部屋が似合っているように感じる。

 今野の持ってきたトレイにはお揃いの白いマグカップが乗っていた。ドリップしたコーヒーの香ばしい匂いがふわりと漂う。片方を薫の前に置き、もう片方を自分の前に置いたが、そちらの中身はホットミルクのようだった。 

「薫くん、今日は仕事は?」

「休みになりました。浅葱さんが我侭言ったので」

「アイツらしい」

 恐らく今野に会いたくなくて我侭を言ったのだろうが、それを本人の前で言うほど薫も無神経ではない。乾いた笑いを漏らし、誤魔化すようにコーヒーをひとくち啜った。美味くない、なんて言っていたけれど、苦味の中に、ほんのり漂う甘さが絶妙だ。

「浅葱さんと今野さん、……いえ今野様は、友人なんですよね」

「今野でいいよ。……友人、だったんだ」

 ふんわりと優しそうなホットミルクをひとくち飲み、今野はひそやかに息を吐き出した。自分が言った、友人「だった」、という言葉に、きっと楽しいだけではない過去を思い出したのだろう。ゆっくりと瞬きをしてから、今野は改めて薫の方を見た。

「あの伊路地店って店、浅葱のじいさんの代からやってるモンなんだけど、うちのじいさんがその頃の常連でね」

 そうしてマグカップを卓袱台の上に置けば、代わりに修理品のケースを手に取る。

「今でこそ千円のものとかあるけど、当時は大体の万年筆は高級品でさ。勿論その分、どの万年筆も宝石みたいな輝きがあった。ガラスケースに収まるシックな黒軸と金色の尖ったペン先。夜の海みたいな藍色を閉じ込めたボトルインク。どれもこれも、子供心にも憧れたモンだよ」

 お陰様で今、どっぷりハマっちゃってるわけだ、なんて言いながら今野は肩を震わせた。

「浅葱のじいさんは魔法使いみたいな人だった。真白い髭面だった、ってのもそうだけど、どんな万年筆も、すぐに書けるようにしてくれてね」

 懐かしそうに語る様子に、もしかして今野が髭を伸ばしていたのはその魔法使いに憧れてなのかもしれない、と薫は思った。ただ今野の場合、色が黒色なものだから、魔法使いより森の熊になっていたけれども。

 万年筆をケースから取り出し、パチッと万年筆の蓋を開けた。仕上がったばかりの初々しいペン先に、今野は愛おしそうに目を細める。それから徐に立ち上がれば作業机で何かを探し、再び薫の前に座った。その手には、万年筆と同じメーカーのボトルインクと小さな黒いノートが握られている。そのふたつを卓袱台に乗せれば、万年筆の胴を捻り外した。中にはコンバーターと呼ばれる、インクを溜めるためのスポイトが付いている。

「浅葱も凄く腕はいいと思うよ。この万年筆も、何度も浅葱に調整してもらった」

 アイツは我侭だけどね、なんて笑いながら、ボトルインクにペン先を浸す。コンバーターのネジを回しインクを吸い上げれば、再び胴を嵌めなおした。そうして黒いノートの表紙を開き、グリッドの引かれたクリーム色の紙に、そっとペン先を滑らせる。

「……」

 文字を書く密やかな音が耳元を掠める。長い指と手のひらに、ほっそり収まる黒い軸。それを操り軽く目を伏せ、物憂げに想いを綴る。それだけの行為に妙に色気を感じ、薫はそっと唾を飲み込んだ。

「やっぱり書き味が違うね」

「……、ペン先、交換ですから」

「ペン先を交換するとさ、全く別の万年筆になるよな。前のペン先で書いた思い出は全部リセットされて、まっさらになる」

 キャップを絞め「いくらだった」と訊ねる今野に、薫は金額を伝えた。財布を持ってこようとしたのか今野が立ち上がり掛けたとき、彼の身体が大きく崩れた。

「っ」

 倒れこそしなかったものの、絨毯の上に片手を付き、もう片手で目を覆った。咄嗟に近寄り腕を出す薫に、今野は首を緩く横に振る。

「ちょっとよろけただけだ。大丈夫」

「体調、良くないんですか」

 横から今野を覗き込む。顔色もやはり良くなく、体調が悪いことなんて、訊かなくても判ることだった。

「体質的に、不眠症気味なんだ。今日も髭剃ったり風呂入ったりしてみたけど、ちっとも眠気がやってこない」

 力なく笑う様子があまりに痛々しい。

 薫も大学に入ると同時に、学校の近くにアパートを借りて一人暮らしを始めた。休みの日に昼過ぎまで眠っていても誰も何も言わないだとか気楽なところもあるけれど、体調を崩したときの寂しさは想像以上の物だった。あまり家族と仲は良くなく、家にいても話すことは殆どなかったけれど、それでも誰かが傍に居るというのは違うのだ。

 何か、自分に出来ることはないだろうか。不眠症には何が効くのだろう。眠りを誘うもの。温かなお風呂、蜂蜜をたっぷり入れたホットミルク、催眠術……

「子守唄、とか、」

「え」

「必要なら俺、歌いますよ」

 薫にも唯一といえる特技がある。それは歌うこと。

 とはいえ中学高校と合唱部だったというぐらいで、素人に毛が生えたレベルであるが、伊路地店の近所に住むおじいさんから鼻歌を褒められる程度には上手いはずだ。

 薫の唐突な申し出に、今野はきょとりと目を丸くして、こちらを見てた。そうしてたっぷり三秒見つめあった後、彼は思いっきり噴出し、声を上げて笑い出した。

「はっはっは、薫くん、君、面白いね」

「……」

 あまりに笑うものだから、自分の言葉が急に恥ずかしくなってくる。薫としては、結構、真面目に、真剣だったのだ。 

「なんか、いきなり、すみませんでした。それじゃ、俺、これで、」

 体調が悪いならばお客は邪魔だろう。さっさと帰ろう。浅葱と知り合いなら、代金は浅葱が取り立ててくれるはず。長居は無用だ。

 顔を真っ赤にしながら薫が立ち上がりかけたとき、突然腕を引かれた。

「わっ」

 今度は薫がよろけ、今野の上に倒れ込む。彼はそれを受け止めるように、薫をふわりと抱きしめた。

「今野さ、」

「子守唄はいい。それより一緒に眠ろうか」

 それはどういう意味か。訊ねるような視線を今野へ向ければ、彼は楽しげな微笑みで応え、薫の耳元へ唇を寄せた。

「俺、人が隣に居ないと、と眠れないんだ。だから」

 一緒に眠って。

 耳元で囁かれる言葉が、まるで魔法のように、あるいは水に垂らした一滴のインクのように、薫へ溶けていく。

 その声に侵された思考では、頷くほかに無かった。



 シーツは洗い立ての、優しい匂いがした。

 薫の服は既にひとつ残らず剥がれ、生まれたての姿のままそのシーツに包まれていた。揺り篭で眠っていた記憶はないけれど、素肌とシーツが触れると妙に心地が良くなるのは、赤子の頃の記憶が遠因かもしれない。

 柔らかな若々しい肌を愛でるように、男の唇が、指先が、点々と薫の上を辿る。くすぐったさに身を竦めていれば、今野の微かな笑い声が聞こえていた。

 ふと、悪戯な指が滑り降りて、薫の隠された場所に触れる。閉ざされた花弁を唆されると、くすぐったさとは違う、もどかしい感覚が湧き上がる。その感覚に脚をもぞつかせているうちに、指はとうとうそこを暴いて、様子を伺うように中途半端に止まった。

「あ」

 異物の侵入に身を強張らせつつ、息を詰めないようにゆっくりと吐き出す。容易くとまでは行かないものの、慣れたその様子に、おや、と今野の眉が上がった。

「こういうこと、されたことがあるのかい」

 耳に、今野の熱い吐息が掛かる。耳朶を舌先で撫でられ、言葉を脳髄へ吹き込むように囁かれれば、ぞわりと背中が粟立った。

「……一応」

「そうか。それなら遠慮は要らないな」

 舌なめずりをする顔すら浮かぶような楽しげな声に、薫は安易に頷いたことを早速後悔した。先刻までの弱々しい姿はどこへ行ったのだろう。今の今野は守りたくなるどころか、逆に殴りたくすらなる。

 言葉の通り、遠慮なく奥へと這入りこむ指に、薫の眉間に皺が寄る。経験はゼロではないとはいえ、この感覚は久しく感じていない。おまけに本来の用途と違う使い方をしているのだ、何度やったところで慣れるものでもないし、慣れてはいけないと思う。

「今野、さん、」

 どこか急いたようなその動きを、咎めるように呼びかける。しかし、優しくして欲しいか、と揶揄されれば、素直に頷くことは出来なかった。

 その腹いせとばかりに、男の身体へ両腕を回せば、背中に思い切り爪を立ててやる。そんな薫のささやかな反抗に気を良くしたのか、今野は笑って、薫の唇から呼吸を奪った。

 カーテンを閉めた、昼下がりの部屋。薄暗いその中で響く、シーツの擦れる音、お互いの吐息、重なる心音。そのどれもに、薫の期待は否応なく高まってゆく。 

 薫を探る男の指が、最奥を掠めた。途端、それで得る悦楽を思い出したかのように、びくりと身体が跳ねる。

「あ……」

 呼吸がふと、甘く解ける。自分の意思とは関係なく漏れる声に、薫は思わず唇をかみ締めた。しかし男はそれを許さず、その声をもっと、と強請るよう

に、しつこくその箇所を指先で押上げる。

「ん、くっ」

 触れる今野の肌が、燃えるように、あつい。このまま夏場のアイスみたいに溶かされて、消えてなくなってしまうのではないか。靄の掛かる頭の隅でそんなことを考えていれば、唐突に、男の指が薫の熱に絡んだ。

「ちょ……っと、今野さん、ダメだって……っ」

 やわやわと緩く握りこむだけの動きにも関わらず、劣情の炎に焦がされた薫の身体は、面白いように反応してしまう。押し寄せる淫楽の波へと溺れれるその隙に、秘所へと含む指がもう一本増やされれば、薫の唇は酸素を求め、より一層忙しなく動く。

「ここ、ひくひくしてる。……やぁらしいなぁ」

 その言葉に「スケベオヤジ」と、思わず罵りたくなる薫だったが、今はそんな余裕がない。弱い箇所を同時に弄られ、じりじりと理性が千切れていく。

 そうして二本の指に散々身体を暴かれた後、今野がずるりとそれらを抜いた。

 唐突に出来た空白に、思わず薫は今野を見上げる。すると、獰猛とも呼べる、欲に塗れた目と視線が合い、思わず唾を飲み込んだ。

 この部屋に入ってくるとき、今野は「取って食いやしない」と言っていた。しかしその言葉は嘘で、このまま欠片も残さず、食べられるのでは。

 そんな眼光に捕らわれているうちに、するりと膝裏を掬われ、脚を抱え上げられる。あらぬ場所をカーテン越しとはいえ、日の光の下に晒されれば、薫の頬が紅に染まった。全てを男の前に晒しておきながら、今更羞恥を感じるのもおかしな話だが、そういう問題ではないのだ。

 そんな薫を見下ろして、男が甘える猫のように身を擦り寄らせた。愛らしいしぐさをする反面で、滾る欲望を無遠慮に薫へ押し付ける。

「あ、」

 薫は思わず身を強張らせる。切先で幾度か表面を擦られれば、そのたびに花弁が震え、男の蜜を絡め取るのが自分でも判った。

「もう良い、よな」

 訊くや否や薫が答える前に、指とは比べ物にならない質量と熱が身体を貫いた。腰を掴まれ、まだ充分に慣れきっていない場所目掛けて一気に押し入る衝撃に背が撓り、悲鳴が漏れる。

「や、ぁんっ……」

 苦痛に上げたはずの声は、想像以上にずっと甘く、淫らなものだった。自分のものだと信じたくないその声色に、思わず目を見開く。こんな、蕩けきった声ではなかったはずなのに。

 戸惑う薫の様子に、耳のすぐ傍で笑う声が聞こえた。「女の子みたい」、そう呟く声が、熱っぽい吐息と共に耳をくすぐる。

 悔しげに眉間に皺を寄せながら、薫は右手で自分の口許を抑えた。

「……っ」

「声、出せばいいのに」

 そんな恥ずかしいこと出来るわけがない。そうやって言葉を拒絶するよう、首を横に振る。あんな声を上げる自分なんて、見せたくもなければ聞きたくもない。

 意地を張る様子が面白かったのか、今野の笑い声が一層楽しげなものに変わった。そうして再び、彼の指先が薫の前へと絡まる。まるで子供をあやすかのような手つきで撫でられれば、声を抑える手のひらがどうしても緩んでしまう。

「ぅ、……んんっ」

 耳元に唇が寄せられ、「声、出してよ」と密かに男の囁く声が聞こえた。途端、背筋にぞくりとしたものが這い、彼の手の中で熱が一層膨れ上がる。先端の敏感を親指の腹で突かれればそこから蜜が溢れ出し、悦から逃れるように身を捩れば、後ろに咥えた男をその箇所へ誘う動きに似た。

「ふ……っ」

「イイ?」

 訊ねられた言葉に、思わず首を横に振った。認めてはいけない。残された理性の切れ端がそう警告する。

 薫の拒む様子に今野は目を細め、乾いた唇の端を舐めた。

「でも、凄くよさそう、だっ」

 前触れもなく、男が大きく円を描くように腰を回す。乱雑なその動きに襞が裂けたのかチリとした痛みが走るも、それ以上に楔の齎す悦が身体を侵食する。逃れようとしていた身体が本能に突き動かされ、前を扱く今野の手の中で自身を研がせた。

 その動きにあわせて、男も薫の奥を執拗に突き上げる。そうされれば更に快感を求めるように自然と腰が揺れ、含む熱をいっそう締め付けた。

 耳元で聴こえる彼の密やかな呻きや荒い吐息。

 くちくちとした淫猥な水音。

 気の狂うような悦に頭が真白になる。

 このままでは身体が散り散りになってしまう。薫は思わず口許から手を退けて、両手で必死に今野の身体にしがみ付いた。

「あ、あっ……!」

「っ、」

 視界が真白に塗りつぶされるのと同時に、胎内の欲望もはじけ飛んで、灼熱が身体を満たしてゆく。

「は……、薫、」

 自身の重さを支えられないのか、今野が薫の上に倒れこんだ。見ると彼は酷く眠たそうで、瞼がとろりと溶けている。

「俺の目が覚めるまで、……ここにいて」

 お願いだから、君まで俺を置いていかないで。

 そう呟く声は迷子になった子供に似ていた。うわ言のようなそれが聞こえた直後、薫の意識も飛んでいた。




 両親ともに、本当は女の子が欲しかったらしい。

 出産前は先生から、女の子だろう、と言われていたようで、どんな可愛い服を着せようかと考えたり、どこにショッピングに行こうかとか、初恋の話はいつぐらいだろうとか、気の早いことに結婚式の想像までして涙ぐんでいたこともあったらしい。

 そんなものだから、薫が生まれて来たときのふたりの落胆ぷりといったらなかった、と叔母から聞いたことがある。

「薫ちゃんが女の子だったら良かったのに」

 妹が産まれるまで、母の口癖はそれだった。期待に応えられなかったことに幼心にも申し訳なく思いつつ、それでも愛情をくれる両親のもと、すくすくと薫は育っていった。

 そう、妹が産まれるまでは。

 薫が五歳になった春、妹の沙織が産まれた。母親似の愛らしい顔と父親似の何でもこなす器用な性格を持つ妹は、小学校に上がる頃には、学年どころか学校中の人気者になっていた。薫のまわりでも沙織の噂はよく聞こえてきて、同級生から沙織の好みや誕生日を聞かれ、一緒に遊ぶ約束をしてくれなどと頼まれたことも一度や二度ではない。皆、薫の誕生日のことは訊いて来なかった。

 両親も、薫も沙織も大事な子供だ、と言っていたけれど、沙織のほうを可愛がっているのは誰の目にも明らかだった。元々女の子の方が、洋服も靴も種類が多い。それは解っているけれど、薫は毎年同じ服にも関わらず、沙織の方はといえば、どこかへ出かけるたび、あるいは何かの発表会に出るたび、いつも新しい服を着ていた。

「母さん」

「なぁに、薫」

「俺、大学辞めようと思うんだけど」

 大学一年生の秋、夕食の準備をする母に思い切ってそう告げてみた。もしかしたら引き止めてくれるかもしれない。何をバカなことを言い出すの、と叱るかもしれない。それでいい。いや、そうなればいい。

 しかし野菜を切る手を止めたものの、母は薫の方は見なかった。そうして、そう、と呟けば、再びトントンとリズムの良い音を刻み始める。

「大学じゃ、夢が見つからないこともあるでしょうしね。薫は薫なりにゆっくり、やりたいこと、探しなさいな」

 そうして薫は、本当に大学を辞めた。


 何で今、こんなことを思い出したのだろう。




 明かりがまぶしい。瞼を押し上げると、しかしあたりはもうすっかり暗くなっていて、明かりは作業机に置かれたスタンドライトのみだった。

 薫はまだ生まれたての姿だというのに、今野はとっくに服を着ていた。丸椅子に座り、机の上に開いた何かに、文字を書いていた。その手に握られているのは直ったばかりの万年筆ではなく、この間薫が薦めたものだった。その横顔は真剣、というよりとても穏やかで、ずっと見ていたい気持ちにも駆られる。

「……何、してるんですか」

 掠れた声でそう訊ねれば、彼は薫が起きたことに漸く気づき、こちらを見て微笑んだ。

「ラブレター、書いてるんだよ」

「ラブレター?」

 そういえばその万年筆を買ったとき今野は言っていた。ラブレターを書くのに使うのだ、と。

 彼は再び机の上、正確には原稿用紙に向かい文章を綴り始めた。急いで書かなくては、浮かんだ文字が全て逃げてしまうとでも思っているかのようだった。

「君と一緒に眠って、夢を見た。そうやって見た夢を、小説にしてるんだ」

「それが、ラブレターなんですか」

「まぁね」 

 薫がベッドから身を起こし机の上を見ようとすると、今野はダメ、と笑いながら、原稿用紙を腕で覆い隠した。その様子は、他の人にとってはガラクタな、でも自分にとってはとても大事な宝物を守る少年のように見える。

「まだ完成してないから」

「完成したら、見せてくれますか」

「無事本になったら、本屋さんでお買い求めください」

 思わず、けち、と言葉に出た。年上の、しかも店のお客に対して言う言葉でなかった。慌てて今野を見ると、彼は気にも留めていない風で、机に頬杖をついて薫を見た。

「しかしアレだね。君、慣れてたね」

 そのニヤニヤとした今野の顔面に、薫は枕を押し付ける。今野は構わず、声を上げて笑った。

「照れなくても良いじゃないか」

「照れじゃないです」

「それで始めてはいつなの」

「……大学のときに。でも、大学辞めてからは、そういうの、なくなりましたけど」

 やっぱりスケベオヤジだと思いながらも、つい本当のことを答えてしまう。

「大学、辞めたんだ?」

「三ヶ月ぐらい前に」

「どうして」

 まさか、この年になって親に心配を掛けたかった、とは言えまい。

 答えずに黙る薫に、今野は目を優しく細めた。そうして薫の黒い髪に、そっと手を伸ばす。

「まぁ、学校で座って授業受けるだけが勉強じゃないからな。君は君なりに、やりたいことを探せばいい」

「……」

 寝癖に乱れた髪を撫でられながら言われた言葉は、母と同じものだった。

 だけれど不思議と、この言葉には頷けた。




 それから度々、薫は今野の部屋を訪れた。あるときは本当に一緒に眠るだけだったり、またあるときは行為に及んだりもした。そして今野はいつも薫より少し早く目を覚まし、机に向かっているのだった。

 開けっ放しのボトルの蓋から漏れるインクの匂いが部屋を満たす。実際、今野が消費するインクの量も多く、何度かボトルインクを買っていったこともある。

 色は決まってブルーブラック。深く、濃淡の美しいあいいろ。パソコンでは打ち出せない、手書きならではの優しさが原稿用紙の上を走り、今野の描く物語を一層引き立てているのだろう。原稿を見たことがないので、想像でしかないけれども。

「あの小説、読ませてくれないんですか」

「未完成だからさ、まだダメ。……続き、作る?」

 求められるままに応えれば、そうやってまた、藍色の海に溺れる。

 いつか薫も、呼吸を忘れるかもしれない。




「最近の薫くん、なんだかいい感じね」

「えっ、そう、ですかね」

「そうよ」

 ある日の午後、水城がやって来てそう言った。

 相変わらず店内には薫のみしかおらず、浅葱が来るまでもう少し掛かるだろう。その旨を告げても彼女は茶飲み席には座らず、ガラスケースごしに薫と向き合った。こんなことは初めてだ。

「実はね私、今度結婚するんだ。彼と一緒に、結構遠いところに引越すから、ここに来ることもなくなると思う」

 よくよく見れば彼女の左手の薬指には、真新しい銀色の指輪が嵌っていた。中央のダイヤモンドは、小さいながらも確かに永遠の輝きを灯している。

「だから最後に一本、伊路地店で万年筆を買いたいの。薫くん、選んでくれない?」

「浅葱さんじゃなくていいんですか」

「そうね、一ヶ月前の薫くんにならこんな話してなかったと思う。でも今の薫くんになら、何か良い品オススメしてもらえそうって思えちゃうんだ」

 愛嬌たっぷりのウィンク交じりにそう言われると、薫の心臓がドキリと跳ねた。水城のしぐさが可愛かった、というのも勿論あるが、どちらかというと、武者震いのそれに似ている。

 深呼吸をひとつしてから、薫は訊ねる。

「水城さんご自身でお使いに、……」

 しかし薫の言葉をさえぎり、水城は挑戦的な瞳を浮かべて言った。

「贈り物用。とてもお世話になった人へのね。相手は三十代後半の男性。予算は……これぐらいかな」

 左手の人差し指を一本伸ばし、右手ではゼロを作る。

 その条件で出せる品物と言われれば、薫の中ではひとつしか浮かばなかった。ガラスケースの扉を開けて、迷わず一本の万年筆を取り出し、トレイの上に置く。

「どうぞ」

 黒色に輝く軸に、ゴールドの三連リングが美しく映える一品だ。キャップの先端には、世界最高峰の雪山を模したロゴマークが刻まれており、その重厚感はまさに「万年筆の王様」と呼ばれるに相応しい佇まいである。

「万年筆といえばこれ、とも言われるブランドの品物ですね。大事にしていただければ、一生お使いいただけます」

 カートリッジを差し込むタイプではなく、軸の中に直にインクを入れるタイプのため、使わずに放っておくと中でインクが固まり大変なことになる。そういった意味でも、値段的な意味でも、初めて万年筆を使う人にはオススメできないが、水城の婚約者なら問題ないだろう。それに確か、彼は「万年筆は吸入式以外認めない派」だったような気がする。

 しかし水城はその万年筆を手に取らず、曖昧に微笑んで薫を見た。

「やっぱりこのメーカーになっちゃうよねぇ……。なんだか無難というか、王道すぎる気がしない?」

 そうだ、水城はこの店の常連客なのだ。おそらく薫なんかより、余程万年筆に詳しいはず。価格もメーカーごとの特徴も知り尽くし、選ぼうと思えば自分で選べるに違いない。

 それでも薫に意見を求めてきたということは、知識について聴きたいのではないのではないか。

「結婚って、奇抜にやってもしょうがないものだと思います」

 奇抜なものは、最初のうちは物珍しくて手に取ってしまうだろう。しかしその分飽きるのも早く、一年と経たないうちに机の奥深くに仕舞われることも多々ある。

 これから何十年もの間、毎日顔を合わせるのだ。そこに必要なのは派手さではなく、ほっとする安心感ではなかろうか。それなら寧ろ、地味で無難な方が長く付き合える気がする。

 そう告げる薫の言葉に、水城は暫く黙っていたが、そのうちにからからと楽しそうに笑い出した。

「私、結婚する彼に贈るだなんて、ひとことも言ってないのに」

「え、違いましたか」

 結納返しで贈るものだと勝手に思っていた。早合点をしてしまったか、焦る薫に彼女は首を横に振る。そうして好きな人の名前を当てられた少女のごとく、面映そうに目を細めて言った。

「んーん、正解」

 そうして万年筆と、それから薫をじっと眺め何かを思案していたが、おもむろに財布を取り出した。

「薫くんを信じて、これにするわ。包装してくれる?」

「……がんばります」

 この店で働くまで、自分で何かを包装したことはなかった。プレゼントに品を買ったとして、お店の人に包装を頼んでいた。しかし今は、自分がその「お店の人」なのだ。入りたての頃、浅葱にラッピングを教わり、それから時間を見つけては練習してみたものの、今でも余り上手ではない。

 なんとか包装してみたものの、ぴったりと箱に重なるはずの包装紙は少しばかりはみ出て、リボンの位置も曲がっているように見えた。それでも水城は満面の笑みを浮かべて言う。

「凄く奇麗。これなら彼も喜ぶわ。ありがとうね、薫くん」

「……、はい!」

 水城の瞳には、それを渡したときの彼の表情が浮かんでいるのだろう。ほんのり頬を染めて包みを手に取る様子に、薫もつい顔を綻ばせた。

 店を出る彼女の背中を見て、薫は自分の胸のうちが、不思議と高揚していることに気付く。

 決して目立つ仕事ではない。自分ではなく、あくまでお客様とプレゼントの品が主役である。しかし、その主役たちが輝ける物語を演出する、その一端を担える仕事ではないか。

 そう考えると、この仕事も悪くないな、と初めて思えたのだった。


 何もかもが上手くいっている。世界中が、華やいで見える。

 そうやって薫は浮かれていたのかもしれない。

「浅葱さん、知ってました? 水城さん、今度結婚するんですって」

「え」

「それでさっき、結納返しの品、買いに来たんですよ」

「……ふぅん」

「水城さんの旦那さんになるぐらいの人なんだから、きっと素敵な人なんでしょうね」

「そうだね」

 そうやって、薫は、浮かれていたのかもしれない。

「薫くんは最近楽しそうだね」という浅葱の声が、冷えたものになっていると気付かない程度には。




 本当に些細なことだった。

 朝、電車が遅れていたので、「今日はきちんと起きてください」と浅葱に電話したことが始まりだ。きっと眠っていたのだろう、叩き起こされた浅葱の声は不機嫌そのものだった。とはいえ本来はその時間に起き、薫と同じぐらいに店につき、朝十一時に開店するのが仕事なのだ。浅葱が電話の向こうで、「それなら今日は休みに」と言いかけていたが、遠慮なく通話終了ボタンを押す。

 幸いにも開店から三十分遅れで到着できた。たとえ浅葱がきていなくても、これならたいした問題にはならなかっただろう。店の裏口に回り、小さい柴犬と鈴のストラップが付いた鍵を取り出す。しかしよくよく見れば、既に鍵は開いているようだった。

「もう、二度と来るなって言ったよね」

 ドアノブに手を掛け、少し隙間を開けたところで聞こえてきた声に、思わず手が止まる。浅葱の声だ。きちんと来て店を開けてくれていた、という驚きよりも、その棘のある声にドキリとした。

「修理品だって受け取ったんでしょ。いつの間にか無くなってたし」

「薫が届けてくれたんだ」

「薫くんが? 君ん家まで?」

 話し相手の声は勿論、今野だった。確かに先日、今野からシフトの予定を訊かれ、今日は休みではない、と答えてはいた。だがよりにもよってこんな日に来なくても良いではないか。今野の運の悪さを、薫は呪わずには居られなかった。

 もう少し扉を開いて中を覗くと、ふたりはガラスケースを挟んで対峙している。ガラスケースの幅は五十センチもなく、手を伸ばせば触れられるぐらいの距離だ。しかしふたりの間にはそれ以上に深く広い溝が広がっているように見えた。

「それで、ふたりで小説書いたの?」

「そんなピリピリするなよ」

「書いたんだ」

 浅葱が鼻で笑う。今、薫が入っていってそれを否定したところで、信じてもらえるような気配ではなかった。そもそも事実なので否定しようもないが。

 浅葱の、むやみやたらと自分を邪険にする態度へ呆れたのか、今野が大きな溜息をひとつ吐いて、言った。

「恋人と上手く行ってないのか」

 唐突なその言葉に、浅葱が怯む。何か言葉を発しようと唇を開いたものの、そこからは何も出てこなかった。「違う」とも「そうだ」とも言いはしないが、明らさまに不機嫌そうなその顔は、今野の言葉を認める結果となっている。

 浅葱にも恋人が居た事実に薫は驚いた。まぁあれだけのルックスだ、外見に騙された恋人がひとりやふたり、居てもおかしくはないだろう。

 もし恋人が居るならば、浅葱の我侭に振り回されて大変だろうな、と常々思ってはいた。しかしその実、振り回されているのは浅葱の方のようだ。

 ふい、と浅葱が今野から顔を逸らす。

「大きなお世話だね」

「今、お前と小説を書いたら、きっと酷い失恋物になる。そんな表情してるよ」

「うるさいなぁ、今野くんに何が解るって言うの」

「解るよ。浅葱のことだから」

 刺々しい物言いの浅葱とは反対に、今野の声は、まるで、子供をあやす親のそれに似ていた。当事者でない薫にも解るほど、言葉の端々から滲む愛情に、浅葱も流石に言葉を詰まらせる。

「別れればいい」

「はっ、今更別れてどうするっての? また今野くんみたいな、自分本位で誰とでも寝るような人と付き合えって?」

「そうじゃない」

「最初から、彼女が居るって知ってて付き合い始めたんだ。結婚するから、って言われたって、僕はもう後戻り出来ないんだよ」

 割れんばかりの勢いで、浅葱がガラスケースを叩く。ガン、と大きな音が響いたのに、思わず薫の肩が跳ねた。

 その拍子に、手の中のキーホルダーが地面へ落ちる。しゃらんと軽い、鈴の音が響いた。

 その些細な音も聞きつけて、室内のふたりがこちらを見る。

「あ……」

 いつから聴いていたのか。盗み聞きとは趣味の悪い。そう詰られるのではなかろうかと足が震える。

 気まずそうな今野を無視して、浅葱はうっそりと笑った。

「ああ薫くん、丁度いいところに来たね。君、今野くんと小説書いてるんだって?」

「浅葱」

「僕もね、昔、今野くんと小説書いたことあるよ」

 薄暗い室内に浮かぶ官能的な笑みに、図らずも薫の心臓がドキリと鳴った。艶かしく動く唇に、思わずその様子を想像せずには居られない。いつもは万年筆を繊細に扱う指先が、男の背に触れ、その下で劣情に身を焦がす。浅葱の物語はきっと、滴るほど甘い毒の味だろう。

 そんな彼が、自嘲気味に笑い、言葉を吐き捨てた。

「書けなくなったらすぐに棄てられたけどね。お前の話は書きつくした、もう要らないって」

「そんなことは言ってないだろう」

「でもそういう意味だったんでしょ。だから僕は、今野くんを置いていったんだ」

 目が覚めるまでここにいて。俺を置いていかないで。そう言った今野の声が、薫の耳元を通り過ぎた。あれは自分に宛てられた言葉ではなく、……。

 浅葱は黙るふたりに構わず続けた。

「そういうヤツなんだ、こいつは。薫くんも利用されているだけだよ」

 口調はあくまで冷静を装っているが声は氷のように冷たい。今野も、そして薫のことも、拒絶しているように。どこで口を閉ざすべきなのか、浅葱自身にも解らず、もう全てを話してしまえばいいと、投げやりになっているようだった。

「小説が書きたいだけ、誰でもいい、誰かが隣に居て欲しいだけ。薫くんのことも、」

「違う!」

 言葉を遮る大声に、浅葱がひゅっと息を飲み込んだ。

 震える声で、今野が呟く。

「俺は浅葱のことは、……薫のことも、利用したつもりはない。誰でも良かったわけじゃ、ない」

 底なし沼のように重たい沈黙と空気が、店内に満ちる。このままずっとここに居たら、足を取られて、抜け出せないだろう。何かをしなくてはいけない。何かを言わなくてはいけない。

 そう焦る心を無視して、薫の足は駅へ向かって駆け出していた。今野が何かを叫んだ気がしたけれど、心臓の音があまりにうるさくて、よく聞こえなかった。


 気づけば自宅のベッドの上で、服もカバンもそのままだった。着替えなくてはいけない、ご飯を食べなくてはいけない、浅葱に連絡した方が良い、そういえば明日は資源ごみの日だ。

 ちょっと考えるだけでもやらなきゃいけないことは沢山出てきた。しかしそのどれもが全部面倒に思えて、薫は目を閉じる。

 今野が自分のことを愛しているわけではないのは、薄々気づいていた。今野が薫の隣で朝を迎えることは無かったし、自分のことより浮かんできたアイディアに夢中なのも解っていた。薫はただの道具で、いわば万年筆のようなもので、他の道具と取り替えたとして、物語の続きは書けるに違いない。

 でもそれでも良いと、心のどこかで思っていたのもまた事実だ。

 自分というペンで書かれた物語。どんな風に仕上がるのか、見てみたいという気持ちがあった。彼の小説のためならば、己が利用されるのも悪くないと、思っていた。

 だけど、気づいてしまった。気づかなければ良かった。今野の気持ちが誰のものでもないと知っていれば、これからも利用されることに迷いは無かっただろう。だけど、だけど、……だけど。

「今野さん、……浅葱さんのこと、好きだったんだ」

 声に出してみれば、その事実はあまりに重く、薫の心に圧し掛かった。




 浅葱と、どんな顔して会えば良いのか解らなかった。解らなかったが、無情にも日付は変わり夜は更け、雀が鳴き始めればあっという間に伊路地店の開店時間である。学校みたいに、行きたくないと言って仕事をサボれるならば今日はそうしたい。だが、曲りなりに日本社会の構成員である薫は、そうするわけにはいかなかった。浅葱ならそうしているかもしれないが。

「おはよう、ございます」

「おはよ」

 午前十時五十分。開店時間の十分前。果たして浅葱は店に居た。オマケに掃除を済ませている。天変地異の前触れだと考えるより、浅葱もやはり、昨日のことが気になっているのだろう。

 その考えは正しいようで、ためし書き用の万年筆をチェックしながら浅葱は言った。

「薫くん、昨日はなんか、ごめんね」

 声を聴くだけでも、明らかに落ち込んでいると判る。あれから色々考えたのだろう。そもそも浅葱だって、今野を前にしてちょっと感情的になってしまっただけだと、薫にも解っている。そんな彼を責めるのは何かが間違っている気がした。

「いいえ、別に。……あぁいう風にいってもらえて、俺も目が覚めましたし」

「そっか」

 その言葉は、薫の本音でもあった。

 利用されているのを判っていても、傍にいたい、と思う自分が愚かなだけだったのだ。

 店内の茶飲み席に薫を座らせ、浅葱が簡易キッチンへ向かう。少しすると、そちらからコーヒーの良い香りが漂ってきた。

「恋人とは、別れたよ」

 ぽつりと零された浅葱の告白に、薫は思わずキッチンを振り返る。コーヒーを淹れるその横顔は、過ぎ去った仮初の春に寂しげだった。しかしどこか憑き物が落ちたような、スッキリとした様子も窺える。

「結婚して、彼女と遠くへ引越すんだって。もう会うこともないと思う」

 そこで漸く気がついた。薫の脳裏に、先日、万年筆を選んだときの水城の笑顔がよみがえる。

『彼と一緒に、結構遠いところに引越すから』

 そしてその日、自分は浅葱と何を話したか。

『水城さん、今度結婚するんですって』

 浅葱は水城の恋人と面識があるようだった。そして自分の恋人に、別に彼女が居ると知っていた。

 引き金を引いたのは、紛れもなく自分だったのだ。

「……すみませんでした」

 薫の謝罪に、浅葱は苦笑しながらも首を横に振った。

「いいんだ。最初から、良くないことだって解ってた。いつか終わらせなきゃって思ってたんだ。むしろ僕の方がお礼を言わなきゃ」

 カップの擦れる甲高い音を小さく立てながら、浅葱は「よし」と決心をしたような声を出してから、薫の方を振り返る。

「重大発表をしちゃうけど、僕さ、実は薫くんのことを、弟みたいに可愛いと思ってるんだ」

「知ってました」

 何を今更言うのだろう。

「えっ、知ってたの」

「知ってました」

「いつから? どうして?」

 浅葱が驚いたように目を丸くした。どうもこうも、日頃の接し方を見ていれば判るだろうに。

 なんとなく、と曖昧な答えを返す薫に、不思議そうな顔をしながらも、浅葱がふたり分のコーヒーを持ってくる。トレイには薫の好きな洋菓子屋のクッキーが乗った小皿も添えられていた。

「まぁ、だからさ。薫くんには、不幸になって欲しくないんだよ」

 自分の言葉をもてあましたのか、浅葱は困ったように笑った。そうして薫の正面に座り、コーヒーをひとくち啜ってから、決意したように言う。

「もし、今野くんと本気で付き合いたいっていうなら、僕は構わない。フリーになったところで、あいつと付き合いなおすってことは考えられないしね」

 今野との関係は、恋人云々のことがなくても、浅葱の中では終わっていたのだろう。きっぱりと答えるその様子に、薫はどこか安堵を覚えた。

「でもね、あいつに助けを求められたからって理由で応えるなら、やめた方がいい。あいつは甘えたで、……誰にでも、そうしてるんだから」

 浅葱は、きっと自分のことを愛してくれているのだ、と、薫は思う。それは薫が今野に対する想いとも違い、どこまでも透明に透き通った愛なのだろう。それこそ先ほど彼が言ったように、まるで弟を心配する兄のような。

 淹れてくれたコーヒーを飲めば、じんわりとした温かさが薫の体内を伝う。ゆっくりと深呼吸した後、薫はおもむろに口を開いた。

「俺、あんまり、人に求められたことってないんです」

「えっ、それはドキドキするような意味で?」

「違います」

 咄嗟に否定してから、「まぁ、そういう意味でも、あまり」と言葉を濁す。 

「子供の頃から親は妹に構ってばっかりでしたし、学校でだって、薫じゃなくて、沙織の兄ちゃん、って呼ばれることが多かったです」

 誰もが見ているのは沙織であって、誰かの目に映る自分は「薫」という名前の人間ではなく、「沙織の兄」である。周りが「沙織のお兄さん」と呼ぶたび、自分は誰なのか解らなくなっていった。

「だからでしょうか。誰かに、薫が必要なんだ、って言われると、応えたくなっちゃうんですよね。今野さんのことだって、そうなんです。今野さんが俺を必要だと言ってくれたから」

 一度だけ見た、今野の寝顔をふと思い出した。

 その日の翌日は薫の仕事が休みだった。そのせいか夜遅くまでふたりして行為に耽り、半ば気を失うように眠りに落ちた。

 まだ、夜も明け切らない午前四時。雀の鳴き声に薫がふと目を覚ませば、なんと隣で、今野が眠っていたのだ。まるで子供のような無防備な寝顔が、酷く愛おしく感じた。

 あの時、彼を起こさないようにそっと髪を撫でた右手を、薫はきゅっと丸めた。

「だから、ただ、それだけで、他に、別に、意味なんてなくて、」

「薫くん」

 薫のコーヒーカップの水面に、小さな波紋が広がる。

「顔洗ってきなよ」

「……はい。」




 次の日も、また次の日も、今野は伊路地店には来なかった。浅葱は勿論、薫も彼には会わないほうがいいと思っていたし、あの時の今野の顔を思い出せば、もう会うことはないだろうな、とも思っていた。

 ただ、未完成のままの小説はどうなったのか、それだけが気になった。新しい道具を見つけて続きを書いていたなら、と考えると酷く胸が締め付けられる。

 こんなことなら原稿を燃やして来れば良かった。

 跡形も残らないぐらい、全部。




 桜前線が、このあたりにも到着したらしい。

 朝、いつものように掃除を終えて、ためし書き用の万年筆をチェックする。お客の持ち物にはまだ手をつけられないものの、最近は店の万年筆をペン先を調整できるようになってきた。自分ではまだまだだな、とは思うけれど、浅葱いわく、「筋はいいよ」という評価だ。

 ふと店先で聴こえた、閑古鳥の羽ばたく音に薫は顔を上げる。

 その視線の先で扉が開き、ひょろりとした熊が入ってきた。

 いや、よくよく見れば熊ではなく、髭をもっさり生やした人間の男、今野だった。

「……」

 言葉を失い立ちすくむ薫に、「や」と今野は軽く右手を上げる。数週間ぶりに見る今野は、髪こそすっきりしたままだったものの、髭は剃っていないのか伸び放題になっていた。よれたスーツは変わらなく、今日は左の小脇に茶封筒を抱えて居る。

 ガラスケースを挟む形で薫の前までやってくると、久しぶり、と今野は笑った。その目の下には、やはり隈がある。

 この時間なら浅葱もいないと思った、なんて楽しげに語る様子も先日までと何も変わらなかった。あの日のことなんて何も無かったかのように振舞うのが、薫を尚更沈鬱な気持ちにさせる。

 否定してくれれば、それが嘘でも信じようと思ったかもしれない。謝ってくれれば、それが嘘でも許そうと思えたかもしれない。でも、今野はそのどちらもしなかった。

「なんで、来たんですか」

「今日は買い物じゃなくて、薫に会いに来たんだ」

 そうじゃなくて、と言いかけた薫の言葉は、喉の奥でつっかえた。

「俺はこれからも、薫と会いたいから」

 そんなこと言われたって困る。薫は首を横に振った。

 まるで水の底に沈んだみたいに苦しい。唇を開いても呼吸は上手く出来ないし、声も上手く出てこない。

 そんな薫の様子に、今野は軽く首を傾げた。

「もう俺と会うのは嫌? どうして?」

「だって!」

 漸く絞り出した声があまりに泣きそうな声だったもので、薫は自分で驚いた。何を迷っているのだろう、だって今野は、

「だって、今野さんは、浅葱さんのことが」

 言いかけたそのとき、優しいキスが降って来た。触れるだけのそれは、しかし薫が言葉を飲み込むには充分だった。

 間近に見る今野の瞳は、真直ぐにこちらを見ている。

「確かに浅葱のことは好きだったよ。ずっと恋していたし、愛していた。だけど」

 薫を突き刺すような焦げ茶の視線が、柔らかく緩んだ。

「薫のお陰で、その物語は終わりに出来た」

 今野がそっと、薫の身体に右腕を回す。背中をぽんぽんと優しく撫でられれば、思わず泣きそうになった。

「最初は浅葱の言うとおり、薫を小説を書くための道具として利用してたと思う。それは間違いない」

 突き放すべきだ、と思うけれど、身体が上手く動かなかった。インクの匂いが染み付いた今野の体温。久しく感じていなかった温かさに薫は瞼を降ろし、深呼吸をひとつした。

「でも、薫が来なくなって漸く気づいたんだ。薫が隣に居ると、よく眠れてたことに」

 言い訳に聴こえるかな。

 そう囁けば今野は薫から離れ、そうして何かをどさりとカウンターの上に置いた。薫がカウンターへ視線を落せば、厚さ一センチぐらいの茶封筒が置いてあった。

「これ、」

「興味がなければ、読まずに捨ててもいい」

 それだけ言えば、今野は踵を返して出口へと向かう。

 何か、言わなきゃいけない。引き止めたい。逃げたい。もう関わりたくない。

 また会いたい。

 ドアベルがむなしく音を響かせる。薫はとうとう、声が出せなかった。




「薫くん、薫くんってば!」

 呼吸の仕方をようやく思い出したように、薫はひゅっと息を吸い込んだ。

「浅葱、さん」

 先刻まで今野の居た位置に浅葱が立ち、カウンター越しに薫の顔を覗き込んでいる。白昼夢から戻ってきた薫に、ふふ、と浅葱の目が細まった。そうして身を引けば、茶飲み席へ鞄を置いた。

「目覚めたかな。薫くんてば、まるで目開けたまま眠ってたみたいだったよ。僕が帰って来たのにも気づかないんだから」

 寝不足なのかな、と笑う浅葱だったが、あまりに反応の薄い薫に、ふっと表情が曇る。改めて薫の方を見れば、軽く首を傾げた。

「体調悪いの? 早退する?」

「いえ、……大丈夫です」

 どのくらい時間が経ったのだろう。もう何日も過ぎたように感じたけれど、視線だけ動かして時計を探せば、あれから一時間も経ってなかった。

 去っていった今野の背中が、まだ目に焼きついている。どうして声をかけなかったのか、と今更ながらに後悔がこみ上げて、思わず胸の茶封筒を強く抱きしめた。

 くしゃりと紙が歪む音。そこで漸く、自分が茶封筒を大事そうに抱えているのに気がついた。

「その封筒、メーカーからの手紙?」

 新製品のカタログかと浅葱が手を伸ばす。その手から逃れるように、薫は一歩後ろへ退いた。

「違いますっ」

 大きな声を出す薫に、浅葱は驚いたようだった。思わず息を呑み、穏やかな垂れ目を丸く見開いた。

「どうしたの」と困った顔をする浅葱に、薫は何も言わず首を振る。今、何かを言おうとしても、上手く言葉にまとめられる自信がなかった。

 気持ちの整理がつかないままここに居れば、浅葱に迷惑をかけることは間違いない。

「……あの、」

「ん?」

「やっぱり、体調が良くないので、早退します」



 アパートの鍵を開けて玄関の地板に座り、靴も脱がずに鞄から封筒を取り出す。急ぐ指で封を切り開けると、中からインクの匂いがふわっと香った。出来上がった本の匂いとも違う、まだ生まれる前の優しい香り。

 原稿用紙を埋める文字は、相変らず繊細な美しさがあった。万年筆で書かれた手書きの文字らしく、ひとつひとつに濃淡がある。にも関わらず、まるで活字のように文字の長さや大きさも揃っていた。普段の格好からは想像もつかない、細やかさだ。彼の万年筆を見ながら、意外と神経質なところがある、と言った浅葱の言葉を思い出す。確かにその通りだな、と思わず笑みが零れた。


 それはありきたりな、ある夏休みの物語だった。

 親に捨てられ、身よりもなくただ独りで山のボロ家に住む少年のもとに、ひとりの少女がやってくる。同い年ぐらいの彼女は、自分のことを生き別れた姉だと名乗り、これからはふたりで一緒に住もう、と提案してきた。

 始めこそ疑いの眼差しで彼女を見ていたものの、彼女の純真さに心を開いていく少年。隣に誰かが居ることとは、こんなにも温かなものだったと知り、ずっとこのまま暮らしたいと思うようになる。

 だがふたりにも別れの時がやってくる。

 ある日、彼女の母親が少年たちの元へやってきた。そうして明かされる、彼女は少年の姉でもなんでもないという事実。彼女は、ただの家出少女だったのだ。温かさも純真さも全ては偽物で、自分が暮らしていくために少年の前で「お姉さん」を演じていただけだ、と母親は言った。

 少女は母へ懇願する。連れ戻されるのは仕方ない、でも夏休みが終わるまでは「少年の姉」で居させて欲しい、と。

 八月三十日の夜。夏を描く満天の星空に、少年は夏休みが終わってもふたり一緒にいたいと願った。彼女が姉でなくてもいい。ただ、傍に居て欲しかった。

 その言葉を密かに聴いていた彼女は、別れの朝の少年に言った。


 彼女の言葉は、白紙だった。何枚か捲ってみたが、何も書いていない原稿用紙が続く。

「……」

 立ち上がり、靴を脱ぐ。そうして居間へ上がれば部屋の電気をつけ、テレビの上のペン立てを漁った。そこにささっている、繭に似た楕円形のペンを取る。つやを消した銀色のボディが優しい、万年筆だ。今野に会って万年筆に興味がわき、自分でも使ってみたい、と思って買ったものだった。

 今野が使っている物とは違い本体は安物であるけれど、中に詰めたインクは同じ、ブルーブラック。

 布団を剥いだ炬燵机に原稿用紙を置けば、薫はそのペン先を上に走らせた。

 紙の上にじんわりと広がるインク。あいいろが紡ぐのは、紛れも無い自分の言葉。

 成程、これは確かに今野の言うとおり、ラブレターみたいだな、と薫も思った。

 この物語のようにありきたりで、でも、自分にとってはとても特別なもの。


 ラブレターなんて多分、そんなもんだ。




「今野さん、今回の新作は、珍しくハッピーエンドじゃなかったね」

「それってネタバレじゃないですか」

 笑う今野の声が、ノイズ交じりのラジオから聴こえてくる。相変らずの低い声だったが、以前より少し、優しく聴こえた。

「発売されてから三ヶ月。もうリスナーの皆様は読んだでしょうし良いでしょ。……今回の今野さんは、何か心境の変化があったの?」

 俺から見ればバットエンドでもなかったんですけど、と前置きしてから今野は答えた。

「俺にとって、小説を書くってことはラブレターを書くのみたいなモンなんです。愛したものに捧げるラブレター」

「えっ、それじゃあ今野さん、いつも執筆中に恋をしてたってこと? これは大スクープだ」

「そうですね。でも相手は万年筆ですけど」

 ラジオの向こうで笑いが起きる。本気だ、なんて誰も思ってないようだ。その笑い声に気にも留めず、今野は続けた。

「今まではずっと同じ万年筆に恋をしていたんです。でも今回初めて、違う万年筆に恋をしたので、きっと作風も変わったんじゃないですか」

「成程、今日はその恋人と一緒じゃないの?」

「小説の主人公と同時に、最後は俺も振られたので」

 万年筆に? と訊ねるパーソナリティの声。えぇ、と頷く今野の声があまりに軽快だったせいか、リスナーはそれを今野の冗談だと思っただろう。本当の意味を知るのは、自分だけかもしれない。

 出かける準備を終えた薫はラジオのスイッチを切った。短くなった髪は整えるのに時間が掛からなくて良いな、と改めて思う。

 今日はお客に、修理が終わった万年筆を届ける日だ。品物は、国内産の黒い軸をした中字の万年筆。どこかで見覚えのあるそれだが、また落としてペン先を曲げてしまったらしい。最近聴いた話だけれど、どうも小説を書いている途中で眠気の限界が来て、手に握ったまま机で眠ってしまうのだそうだ。そうしていつの間にか手が緩み、ペンは机を転がり……ということだとか。しかし薫は、それは言い訳だと思う。だってキャップを後ろに付けていれば万年筆は転がらないはずだから。

 ともあれ約束の時間まであと一時間。伊路地店に寄って、彼の家に向かえば丁度良い時間だろう。

 部屋の鍵を取って外に出る。日差しがいつもよりまぶしくて、風はすっかり季節を衣がえたようだった。


 もうすぐ、藍色の空をした夏が来る。



 了


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