万年筆物語
ミヤマキ リシマ
第1話 白猫
「猫、飼おうかなって思うんです」
「紹介しましょうか」
「えっ。でもここ、万年筆屋なのに」
夏休みも残すところあとわずかという、暑い日のことだ。前々より気になっていた話題を伊路地店の店主、浅葱に話すと、意外な答えが返ってきた。あまりにも意外だったので、翡翠は思わず目を見開く。
伊路地店は駅前通りの脇道を入り、更に脇道を入って、そのまた脇道を行ったところにあるこじんまりとした店だ。出来てから十年と経っていないはずだが、江戸の頃から建っているらしい隣の民家と比べても、見分けのつかないほど古めかしい木造の建物である。商品陳列台の奥には一段高い座敷と、商談用の座布団が二枚並んでいて、洋装の翡翠には少しばかり居心地が悪い。
しかしながら、陳列台の中には今日も、ぴかぴかに磨かれた万年筆が所狭しと並んでいる。日本のものだけではない、船で海を渡り、はるばる数週間かけてやってきたものだってある。それを手に取ると、まるで手のひらに世界中を風を収めているような気分になり、翡翠は日々の不安が吹き飛ぶのだった。
万年筆を眺めるのは後回しにし、陳列台越しに浅葱を見た。昼間だというのに薄暗い店内は彼の年齢の輪郭をぼやけさせるが、恐らくは翡翠の父と同じぐらいの年だろう。常に笑みをたたえる口元や、穏やかな垂れ目の目じりには、そうやって笑うと皺が出来る。
「万年筆屋って猫も売ってるんですか」
「違いますよ。丁度知り合いのところの白ネコが余ってるらしくて。預け先を探してるんです」
「そう、ですか」
さて、なぜ万年筆屋で猫の話を持ち出したかといえば、学友である椋のせいである。
この春から翡翠は一人暮らしをすることになった。自分から望んだわけではない。学校にほど近いところへ住んだほうが良いだろう、という父の進言、と言う名の強制命令によってである。
父が医師、母が教師という家庭で育った翡翠は、眠るときすら子守の婆が傍らに控え一人になったことはなかった。それなのに、この春から急に一人暮らし、だ。見知らぬ土地にひとりでやってきたこともあり、慣れない生活に慌しく毎日が過ぎていくこと一ヶ月。漸く一息ついて辺りを見回してみれば、教室内ではもういくつかの友人集団ができており、翡翠は孤立してしまっていた。
ある日、ほとんどの講義で、同じ少年が隣の席であることに翡翠は気付いた。翡翠同様、教室内でも白いシャツに黒いスラックスという洋装をしている。大学に行ける学生というのは比較的裕福な子供たちであろうが、他の学生たちは当然和装なわけで、悪い風に二人は目立っていた。
しかし彼はそれを気にすることもなく、利発そうな瞳は常に前を向いている。これは神がくれた最後の機会かもしれない。翡翠は思い切って、彼に声を掛けてみることにしたのだ。彼の使う筆記具が、時に伊太利亜で作られた太陽のように赤い万年筆だったり、時に英国で作られた世界に千本という限定品の万年筆だったりしたのも理由のひとつであるが。
それ以来、仲良くなったその少年の名前は、椋という。
椋は、子供のころから猫を飼っているらしく、椋の話はいつも、万年筆か猫かのいずれかだった。
椋が飼うのは、真黒な毛並みを持った雄の猫で、彼の両腕に抱いて丁度良いぐらいの大きさらしい。壁紙をひっかいたり、他所で喧嘩し傷を作ってきたりとやんちゃだが、時折膝の上に乗ってきては丸くなり昼寝をするという。その寝顔のなんと愛らしいことか、全ての苦労も癒される、と、休み時間や昼食時には、延々と翡翠に説くのである。
万年筆の素晴しさは翡翠だって知っているけれど、猫の素晴しさはまだ体験したことがない。
つまるところ、椋の話を聴いているうちに、翡翠も欲しくなってしまったのだ。
急な一人暮らしで寂しいということもある。何かに慰めて欲しいと、女々しくも思っていたのだと言えば恥ずかしいが、事実であるから仕方ない。
欲しくなったは良いものの、どこに行けば猫を買えるのか。それすら翡翠は知らなかった。ほしいものは全て両親か子守の婆に言えば手に入ったし、自分で買い物をしたのもひとり暮らしを始めてから初めて行ったのだ。そこで、現状一番頼れる、この万年筆屋にやってきたわけである。
「翡翠くん、その白ネコを半月ぐらい預かる気はありませんか」
伊路地店には、こちらに引っ越す前から度々父とふたりで来ていた。今使っている万年筆も、ここで買ったものだ。そのうちに浅葱と打ち解け、今ではふたりめの父親のように翡翠は思っている。
「勿論貸し出し料は頂きますし、本格的に買う前のお試しということで」
椋は、猫を飼うなど簡単だ、放っておけば自然と餌を食べ散歩に行くよ、とは言っていたものの、実際翡翠の手に負えるかどうかはわからない。物は試しで預かれるならそれに越したことはないだろう。
「それじゃ、半月だけ」
その言葉を聴いて、浅葱は一層笑みを深めた。
「そうこなくちゃ。早速ですが、明日からはいかがですか。夏休みは明日まであるでしょう」
「でも、明日は学校に資料を取りに行かなきゃいけなくて。多分夕方まで帰らないと思いますけど」
「それじゃ合鍵貸していただけませんか。部屋に入れておきますから」
こんなに調子よく物事が進むと思って居なかったせいか、翡翠の胸に不安がよぎる。もう少し図書館で猫の飼い方を調べたほうが良いのではないか、椋にも相談してみるべきではないか。
「えっと、でも、見てない間に死んじゃったりするかもしれないし」
「はは、ネコだって生き物ですから。四六時中見てなくても、生きる力はありますよ」
「部屋を荒らしたりとか」
「その辺の躾はできているはずです。一見してやんちゃそうなネコですが、お行儀と顔は良い」
ひとまずここは断っておくべきかもしれない。そう考えて色々言い訳をしてみるも、結局は浅葱に丸め込まれる形になった。
翡翠の住むアパァトメントはつい最近出来たばかりのもので、白亜の壁には汚れひとつない。鈍く光るくろがねの手すりに触れながら階段を登り、廊下をつきあたりまで進むと、そこが翡翠の部屋だ。父の知り合いの持ち物らしく、具体的な金額までは翡翠も知らないが、格安で借してくれているらしい。
「ただいま」
木製の重い扉を開く。部屋の中は、六畳の洋室がふたつと台所がひとつといった、近代的なつくりになっていた。洋室の片方には机や教科書、書籍を置く勉強部屋、もう片方には寝台を置き寝室として使っている。越してきたばかりというのもあってまだものは少ないが、広さはひとりで暮らすには十分で、学校まで最寄の駅から一駅という環境も、翡翠にとって長く住みたいと思えるものだった。
さて台所と勉強部屋を見回してみるが、猫らしきものは居ない。郵便受けに合鍵が入っていたので、浅葱が来たのは間違いないだろう。そうすると残る寝室の方に置いたのだろうか。特別何があるわけではないが、寝室の方に勝手に入られたと思うと、少しばかり浅葱の株が下がる。最近母は扉を叩いてから入ってくれるようになったが、父は引っ越す直前まで翡翠の寝室に無断で入ってきた。それを不快だ、と感じ始めたのはいつからだろうか。
ともあれ、今は猫に会いたい。白猫だと言っていたが、真白だろうか。大きさは、瞳の色は、耳の形は。翡翠は逸る気持ちを抑えて寝室の扉を開いた。
結論から言うと、寝室に猫は居なかった。
代わりに、見知らぬ男が、寝台の上で、気持ち良さそうに眠っていた。
「な、……」
男の顔は、控えめに言って美しかった。年は翡翠より五つほど年上だろうか。まるで繭から引いた糸のように繊細な白髪。目を閉じているせいか、尚更長く見える睫も白いことから、これが地毛なのだと解る。鼻筋は真直ぐ通っており、目や眉毛、唇も何かの奇跡ではないかというほど絶妙な位置を保っている。触れれば割れそうな透明な肌はまるで彫刻の巨匠が作った芸術作品のようであるが、無防備に薄く開かれた唇と白桃のように柔らかそうな頬だけはほんのり紅く、血の通った人間であることを知らせている。翡翠にそういった気は全くないが、この唇には思わず触れてみたくなった。
掛け布団の上には、男のものと思わしき濃いねず色をした正絹の着物が掛けてある。つまり、布団の下は、全裸ということだろうか。
この状況は何だろう。
翡翠が大声を上げることも出来ずに立ち尽くしていると、男はようやく翡翠の気配に気付いたのか、もそりと寝返りを打ち、血管すら透けて見えるような瞼を押し上げた。そうして彼が身を起こすと掛け布団がずれ落ちて、やはり裸の身体が見えた。
黒曜石みたいに真黒な瞳が、翡翠を見る。
「あぁ。今度のご主人は随分若いんだな。若いうちからネコを買うなんて将来大物になるぞ」
実家で時折流れていた、西洋の穏やかな古典音楽のように心地の良い声だった。その声で歌をうたえば、多くのひとが彼の紡ぐ夢に酔い痴れるだろう。だが今はそれどころではない。
「だ、誰ですかあなた、ひとの部屋に勝手に入って、ひとの寝台で勝手に寝て、警察を呼びますよっ」
ようやく翡翠は声を出すことが出来た。その声は少々ひっくり返っていたが。
その様子に男はきょとんとした顔で翡翠を見る。
「誰って……ネコだよネコ。あんたが欲しいと言ったんじゃないのかい」
「猫」
今度は翡翠がぽかんとする番だった。
猫というのは、三角の耳がふたつ付いていて、外側に向いた髭が生えていて、長い尻尾を持ち、愛くるしく大きな吊り目をした動物ではなかろうか。
片や目の前の男にはそれらはなく、唯一似た点といえば、切れ長の瞳の目尻がつりあがっていることぐらいか。
呆気に取られている翡翠を見て、男は何かに気付いたようだった。
「はは。あんた、浅葱に騙されたんだ。買うとき、普通の猫にしてはやけに高いと思わなかったのかい」
猫を買う料金についての説明は確かに浅葱からあったものの、猫がどこで売っているかすらも知らなかった翡翠は、それぐらいの値段が常識なのかと思いすぐに契約書へ署名をした。やはりその場は保留にして、椋に訊いてみるべきだったのかもしれない。しかしあの浅葱が翡翠をだますとも考えられない。この男がここに来たのは、何かの間違いなのではないか。
押し黙る翡翠に、男は呆れたようにため息を吐いた。
「まぁいいさ、これも何かの縁だ。半月の間、よろしくな」
「よろしく、って」
「ああ敬語は要らないよ。俺はご主人のものなんだから」
このまま居座る気だろうか。思わず眉をしかめた翡翠に、男がまぁまぁ、と宥めるように片手を上げる。
「悪いことはしないよ。ご主人の言うことには何でも従うし」
「じゃあ、とりあえず、服着てください」
「猫に服を着せるのが趣味かい」
「着てください。」
その後、服を着た彼といくつかの話をした。
年齢はやはり二十三であること、特別名前はなく人からは「白猫」と呼ばれていること、買取で返品は出来ないこと。
「勿論ご主人が俺を部屋から追い出すことは出来るが、払った金は返ってこない。なら貰うものは貰っておいて損はないだろう」
「でも」
「ネコ、買ってみたかったんだろ。夢が叶ったじゃないか」
口を利く猫なんて聴いたことがない。
いや、もしかしたら翡翠が知らないだけで、巷ではこういうのを雇うのが普通なのかもしれない。
猫というのは、たとえば使用人だとかの隠語で、不慣れな一人暮らしを始めたものだから、浅葱は翡翠がそれを欲しがっていると勘違いしたのだろう。白猫が翡翠をご主人と呼ぶのも、「何でも従う」の言葉も、使用人だからこそのそれに違いない。
「さぁて腹減ったな、何か作ってよ」
「何で僕があなたの分まで」
「ご主人が想像する猫ってのは、本来そういうものさ。俺はちょっと特別だが、普通の猫を飼いたいならまずは俺で練習してみるといい」
白猫は悪戯っぽく両目を細めると、唇を三日月みたいに吊り上げて言った。
「ほらご主人。腹減ったにゃあ」
前言撤回、使用人の喩えではないようだ。
しかしその甘えた声を聴くと、ぞくりと背筋が震える。他の、たとえば椋がそんな風に言ったら、大の男が気色悪い、と思っていただろう。だが白猫のそれは違う。まるで魔法か何かに掛けられたように、「そうしなくてはいけない」と頭が勝手に信号を出し、気付けば翡翠は台所へと向かっていた。
「そうそうその調子」白猫が楽しげに笑う。
「大したもの、作れませんけど、それでもいいなら」
「ご主人が作ってくれるなら何でも嬉しいよ」
今までの傍若無人ぷりが嘘のように、まるでこちらが猫かのような猫撫で声で言うものだから、翡翠はますます頭が混乱した。台所には何があっただろうか、今夜は何を食べるつもりだっただろうか。
暫く台所で立ち尽くした後、とりあえず米を炊こうと釜を水に流したところで、勉強部屋の方から大きな音が聴こえた。
「あ」
振り返ると勉強部屋の扉が開いていて、いつのまにかそちらへ移動している白猫と、机の上で倒れているインク瓶、そして紺色の液体が重力に逆らうことなく床に向かって流れ落ち、その行き先に小さな水溜りを作っているのが見えた。
「……」
「……」
「じゃあ、俺、あっちで出来るの待ってるから」
「……」
部屋を荒らしたりはしない、その辺の躾はできている、とは何だったのか。やはり浅葱に騙されたのかもしれない、飼うなんて言わなければよかった。
口笛を吹きながら寝室に戻る白猫の背中を見て、翡翠は早速後悔した。同居開始から一時間のことである。[newpage]「猫、どうだった」
「思ってたのと違った」
長い夏休みが明けた翌日、教室の長机に散らばる書き付けや答案用紙を整理しながら翡翠は言った。元はといえばこうなったのも、椋が猫自慢などするからだ。そう思うと、つい言葉にも棘が混じる。決して、試験の結果が芳しくなかったからといって椋に当たっているわけではない。
椋は翡翠よりずっと小柄で、ともすれば小学生にも見える。一重のぱっちりとしたどんぐり型の目が顔を尚更幼く見せるものの、しかし頭の方は非常に優秀らしく、今回の試験に関しても翡翠は随分助けてもらった。助けてもらってこの結果だと思うと、自分がこの大学に入れたのは奇跡か何かだったのかもしれないなと思える。
「全然可愛くないじゃないか。人の布団で勝手に寝てるし、生意気だし、買ったばかりのインク瓶をひっくり返されるし大変だった」
結局あの後の片付けは翡翠ひとりでやった。その一方で白猫はといえば、インク瓶をひっくりかえしたことなど忘れたように、翡翠が用意した夕餉を遠慮なく食べたのだ。高価な調度品のように整った顔が、おいしそうに食事をする様はそれだけで絵になったものの、翡翠はどうにも納得がいかなかった。
そして夕餉を終えると、再び服を脱ぎ寝台へ潜り込むものだから、翡翠は慌てた。とはいえ他に眠る場所はなく、客用の布団も無い。床で眠らせるわけにも、着物のままで眠らせるわけにもいかず、結局寝台に並んで眠ることになった。ふたりだとそこは途端に狭く感じ、しかも男とはいえ眉目秀麗な全裸の人間が隣で眠っているのだ。上手く眠れたはずもなく、今日の翡翠は一日中船を漕いでいた。寝台をもうひとつ用意するのは場所的にも難しいが、さしあたって今日の帰りは彼の寝巻きを買おう。
翡翠の苦い表情を見て、椋は笑った。
「良くある良くある、猫ってのはそういうもんだ。相手だって生き物なわけじゃん。物と違うんだ、自分の思い通りに全部行くと思ったら大間違いさ」
「椋の家の猫も、傲慢で鼻持ちならないの」
「そりゃあもう『お猫様』って感じ。でもあの愛くるしい姿を見てると、それも許せちゃうんだよなぁ」
そう、白猫の外見だけは美しかった。じっと黙っていれば国立美術館に展示されていても何の違和感はないだろう。しかしそれは、じっと黙っていれば、の話である。
「そうだ翡翠。来週から大通りの百貨店で万年筆展が始まるぜ。行くだろ」
「勿論」
翡翠は即答した。
猫のよさはいまいちぴんと来ないが、椋のもうひとつの趣味、万年筆に関しては翡翠も大いに興味があり、またその良さも十分理解している。
学校の最寄駅の前は、大きな通りになっている。その通りを少しばかり歩くと、この辺りを象徴するとも言える、四階建ての百貨店があった。そこの百貨店では毎年夏のこの時期になると、一週間、大々的な万年筆展を行う。このことは万年筆好きなら誰しもが知っていて、来場する客は全国問わずだった。今はもうお目にかかることすら出来ない廃盤品から、今月発売した新商品まで、古今東西百点を超える万年筆が展示販売される。
駅前に掲示された広告によると、今年は英国王室御用達の銘柄が五十周年を迎えるだとかで、純金と金剛石の細工を鏤めた限定品が登場するらしい。そこには価格こそ記載されていなかったものの、翡翠の小遣いで買えるようなものではないだろう。しかしこの目に焼き付けておきたい、とは先週から思っていた。
「どこかの金持ちが目玉品を買うとも限らないからな。一日目、学校が終わったらすぐに行こう」
「わかった。予定を空けておくよ」
朱色の文字が躍る答案用紙を鞄へ押し込むと、翡翠は席を立った。
「ただいま」
「おかえり」
「あ……」
部屋には誰も居ないはずなのに、ただいま、と言ってしまうのは、実家で暮らしていたときは毎日そうしていたせいだと思う。ひとり暮らしを始めてからも、つい癖で言ってしまっていたものの、昨日までは返事などなかった。
だけど、今日は、「おかえり」と言ってくれる人が居た。
勉強部屋の窓際に寄りかかり、白猫は本を開いていた。カァテンの隙間から差し込む西日が、白髪に反射してきらきらと光る。その様は、酷く幻想的な、それでいてどこか懐かしさを感じさせる。思わずその光景に目を奪われていると、白猫は小首を傾げた。
「どうかした」
「いえ、……それ、僕の教科書」
白猫が持つ本の表紙は、心の深さを表すような青色の無地で、そこに黄色の文字で「心理学」と書かれている。
「あぁ。ご主人は学校の先生になるのかい」
翡翠と椋の通う学校は、教員免許の取得を目指す学校だった。翡翠はまだ漠然としか考えてはいないものの、出来れば小学校の教師になりたいと思っている。これは同じく小学校の教師である、母の影響かもしれない。
しかし想像していた以上に学ぶことは多く、国語や算数と言った教科に関する勉強は勿論だが、児童の心理学や社会情勢、果ては憲法のことまで身に着けなくてはいけなかった。なんとか入学自体は出来たものの、今日返却された来た答案用紙を見る限り、教師になる道のりは険しいようだ。返却される際に、担当の教授から言われたことを思い出す。「本来ならば定期試験の答案用紙は返却しませんが、君には必要だと思いました」。翡翠は思わずため息を吐いた。
「できれば……解るの、その本の内容」
「いいや。俺は文盲なんだ。でも子供たちの絵がいくつも描いてあるから、そう思っただけさ」
「いまどき珍しい」
「珍しくなんかないさ。文字の読み書きを教えてもらえるのは裕福な家の人間だけだよ」
白猫は教科書をぱたりと閉じて、机の上に置かれた木製の本立てに戻す。背表紙に書かれた題字や著者名も、その黒い瞳には記号としか映らないのだろう。それでも彼は、指先で文字の上を慈しむように撫でた。
その横顔を見て、翡翠はふと思いつく。
「文字、教えようか」
「芸を仕込もうってのかい」
「言ってろ。……僕の勉強のためだよ」
これから、教師になろうというのだ。人ひとりに文字すら教えられなくては、そんなものにはなれないだろう。
「ここ座って」
翡翠は卓上にある、小さなランプに火を入れた。そうして机の前の椅子を引き、白猫に座るよう促す。詰まらなさそうな顔をしたものの、彼は大人しく椅子に座り、左手で頬杖をついた。それから徐に右手を伸ばし、筆立てから細く黒い軸の万年筆を一本引き抜く。
「あ、万年筆はだめだよ」
翡翠は慌ててそれを取り上げる。国内で作られた品で、翡翠の蒐集品の中では比較的安価なものではあったが、他人の、それも字も書いたことのないような人には貸したくはない。
「どうして。いいじゃないか」
「万年筆を使おうなんて十年早い。まずは鉛筆」
「ちぇ」
引き出しから千代紙で出来た古い筆箱を取り出す。もともとは藍色と白色の対比が鮮やかな矢絣模様だったが、使い古した今では色はくすみ、角にも襤褸が出来ている。
その中には数年前まで使っていた小豆色の鉛筆と小刀が入っていた。どれも元の長さの半分以下になったものばかりで、先は丸まっていたが、まだまだ使えはするだろう。その中でも一番長い一本と小刀を取り出して、屑入れの上で先を削る。
「白猫は箸をどちらで持つの」
「右だけど」
「それじゃ鉛筆も右手に持つんだ、こうやって」
先の尖った鉛筆を握らせ、白猫の後ろから手を伸ばし、鉛筆の軸に彼の指を沿わせた。
「箸を一本だけ持つように、……」
鼻先を、ふわりと爽やかな甘い香りがくすぐる。よく、婦人の扇子に仕込まれているものと同じ白檀の匂いだ。恐らく白猫が纏う香だろう、気付けばお互いの顔は産毛の一本一本すら数えられそうなほど近く、翡翠の心臓が思わず跳ねる。
「ご主人、」
「いいや、なんでもないよ」
翡翠は慌てて本立てから国語の教科書を抜き、ぱらぱらと捲る。ある頁を開き、裏紙と並べて机の上に置いた。
「まずはこれを写してみて」
「なんて書いてあるんだい」
「いろはにほへと、ちりぬるを、……」
手本の上に書かれた文字を、黒目がじっと追いかける。瞬きひとつせず、呼吸すらも忘れているかのような集中力に、読み間違えたら大変だと翡翠の方が緊張した。
「……あさきゆめみし、えいもせす」
最後の文字を読みあげると、白猫の表情が何やら思案する顔つきになった。そうしてくるりと鉛筆を手の上で回したかと思うと、手本から全てを書き写すのではなく、四文字だけ抜き出し、裏紙に並べて書いてみせる。
「かわせみ」
「これが、ご主人の名前だろう」
字の形は、それこそ猫が書いたかのような不恰好なものだったけれど、間違いなく、かわせみという文字だった。たった一度読み上げられただけで、その文字が持つ音を覚えたのだろうか。驚く翡翠に、白猫は得意げにふふんと鼻を鳴らす。
「匂いたつような色の花もいつかは散り、常に同じ世はない、って意味の歌だろう。そうやって理由をつけて覚えれば簡単さ」
白猫は続いて、「しろねこ」と書いた。「ね」の丸い尻尾を描くのに苦労し結局は潰れていたけれど、及第点だろう。続いて「あさ」、と書いたものの、その手が止まった。
「そういえば、浅葱の『ぎ』が出てこないね」
「『ぎ』は、濁音といってね。『き』が濁った音なんだ。まずは『き』を書いてごらん」
白猫はひとつ頷くと、手本の見よう見まねで「き」の文字を書く。
その右上に、翡翠は点を二つ足した。
「こうやって点をふたつ足せば、その音は濁音になる。これで、あ、さ、ぎ、だよ」
「ふぅん」
それから彼は、思いつく限りの言葉を裏紙に書いた。この辺りの地名、店、花や鳥の名前、流行り歌の歌詞までつらつら書き連ねる。その様子があまりに嬉しそうだったものだから、字の形が汚いだとか点がひとつ足りないだとか、そういう水を差すことは言わずにおいた。
翡翠は読みかけの小説を本立から抜いて、勉強部屋を後にする。そうして寝室の寝台へ仰向けに寝転ぶと、本の表紙を開いた。
は、と気付くと、辺りはもう真暗だった。いつの間にか眠ってしまったらしい。寝台から身を起こすと、胸に置かれた本が床に落ちた。
そういえば白猫はどうしているだろうか。夕餉も作らず寝こけてしまったにも関わらず、起こしにも来ないところをみると、彼も眠ってしまったのかもしれない。
「白猫」
呼びかけてみても、やはり返事はなかった。眠っているなら、肌掛けを持っていってやらないと、夏とは言え風邪を引くだろう。
押入れから肌掛けを下ろし勉強部屋を覗いて見る。白猫も翡翠に気づいたのか、こちらを振り返った。
「なんだ、起きてるじゃないか」
「ん」
手元には、真黒になった裏紙が置いてあった。何度練習したのだろう。白猫は微かに余った空白へ、先が潰れて丸くなった鉛筆で、文字を書く。
「お、か、……」
読み上げようとして、翡翠の声が不意に止まる。
「おかえり」
不器用な文字が、帰宅を迎える言葉を綴っていた。
「今日俺にそういわれたとき、ご主人はなにやら泣きそうな顔をしていたね」
「そんな顔してないよ」
「そうかい」
白猫は机の上に鉛筆を転がし、背もたれに寄りかかる。まるで猫のように、大きく伸びをした。
「一人暮らしで、寂しかったんだろう」
「まさか。僕はもう子供じゃないのに」
「強がらなくてもいいさ。猫ってのはご主人の寂しさを慰めるものだからね」
徐に右手を伸ばすと、その指先で翡翠の髪に触れる。そうして柔らかな日差しのような笑みを浮かべ、言った。
「明日から、俺が『おかえり』って言ってあげるよ」[newpage]
それから一週間、白猫は翡翠が帰ると必ず家に居て、「おかえり」と言ってくれた。どんなに帰りが遅くても、あるいは授業が午前で終わり、昼過ぎに帰ろうと、笑顔で出迎えてくれた。
「おかえり」だけではない。朝起きたときの「おはよう」も、夜眠る前の「おやすみ」も、食事の「いただきます」、「ごちそうさま」、「ありがとう」も楽しそうに言う。実家に暮らしていたころは当たり前だった言葉を白猫に言われるたび、翡翠は胸のうちがじんわり暖かくなった。それが何故なのかはよく解らなかったが、悪い気はしない。
白猫の読み書きも、どんどん上手くなっていった。時々点を打つ場所を間違えたり、「ち」と「さ」を間違えたりするものの、今ではひらがなは勿論、かたかなまで読み書きできるようになっている。教えてくれる人が居なかっただけで、物覚えと頭の回転は良いのだろう。それを白猫に告げると、「ご主人の教え方が上手いからさね」と、お世辞でも嬉しいことを言ってくれた。
あるとき、白猫はいろは歌を全て空で書いて見せた。相変わらず蚯蚓が這ったような悪筆であるのに、翡翠は思わず苦笑する。
「今度は、もっと綺麗に書ける練習をしてみようか。十字の線を描いてから文字を書くと、綺麗に書けるよ」
翡翠は鉛筆で、薄く十字の罫線を引いた。しかし白猫は首を横に振る。
「綺麗に書くのはいいよ。どうせ誰に見せるわけでもないし」
「手紙は」
「書く相手が居ないからね。綺麗に書くのは後回しにして、先に漢字を教えておくれ」
漢字を教えろというのは、これまた難しい注文である。
ひらがなの数は少なく、かたかなとあわせても百文字程度である。しかし漢字ともなると途端に数が多くなり、普段使う文字だけでも千は超えるだろう。
飲み込みの早い白猫といえど、残り一週間でどこまで教えられるだろうか。翡翠が押し黙っていると、彼はぽつりと呟いた。
「漢字まで読み書きできるようになったら、ひとりで列車に乗れるようになるかね」
「ひらがな読めれば乗れると思うけど……今までは乗れなかったの」
「そりゃそうさ。どこへ行くかもわからない鉄の檻に乗って、帰れなくなったら大変だからね」
白猫は裏紙に、「れつしや」と文字を書いた。翡翠はその横に、「つ」と「や」を小さくして、「れっしゃ」と書き、手を止める。そうして白猫をちらりと見てから、続きを綴った。「れっしゃで どこに いきたいの」。
「そうさねぇ」
白猫は考える風に、机に頬杖をついた。そうして黒い瞳を窓の外に向ける。その目はまるで、独房に繋がれた囚人が自由を求め、空を眺めるのに似ていた。きっと答えは決まっていたのだろうけれど、たっぷり数十秒焦らしてから、白猫は再び唇を開いた。
「海に行きたいな」
「海」
「そう」
少し、意外な答えだった。なぜなら、それは行こうと思えば今からでも行ける距離にあるからだ。
「海なら、三つ離れた駅で降りれば目の前だよ」
ここへ越してきたとき、翡翠も海が近いと知り、何も持たずにふらりと行ったぐらいである。最近は海水浴に向かうのか、水着や畳んだ浮き輪が入っているだろう鞄を抱え列車に乗る人も見かけるし、大学の最寄り駅からでも、列車の窓を開ければ潮の匂いが微かにした。
しかし白猫は、首を横に振る。
「今の俺には果てしなく遠く感じるんだ」
「それなら今度の休み、一緒に行こうか」
「はは、それもいいね」
口ではそういうものの、そうしたいと少しも思っていないことぐらいは、翡翠にも解った。
「あぁ筆箱を忘れた」
いつもなら鞄を開けてすぐそこにあるはずの、牛革製の筆箱がどこにも見当たらない。万年筆が三本入れば一杯のそれは、しかし鞄の中でかくれんぼが出来るほど小さいものではなかった。
「珍しいな、翡翠が筆箱を忘れたなんて」
「今、例の白猫に文字を教えてて。机の上に出しっぱなしだ」
「はぁ」
猫が文字を覚えるもんなのかね、と椋が不思議がる。やはり猫とは文盲なのが普通のようだ。椋も教師を目指すなら、練習台として猫に文字を教えるのも良いのではと思う。
今日の講義はひとつだけだが、書き付けもせずに全ての内容を覚えられるほど、翡翠の記憶力は出来てはいない。頼れる友人といえば隣にいる少年だけだが、彼は知らん顔で教科書を広げようとしている。そんな椋の裾を、翡翠は小さく引っ張った。
「椋、今日だけ一本貸しておくれよ。英国のでも仏蘭西のでも良いから」
「やなこった、その二本は俺のお気に入りなんだ」
「じゃあ国内のでもいい」
「断るね、万年筆ってのは人に貸すものじゃあないって知ってるだろう」
それは翡翠も知っていた。万年筆というのは、長年使うことによってその人の書き癖に慣れてくるものなのだ。大事にしている人ほど、自分の万年筆を他人には貸したがらない。
それでも何度も拝み倒して、漸く安物の万年筆を一本貸してもらった。ペン先は金ではなく特殊合金で、書き味もがりがりと引っかかるが、文句は言うまい。
「それより翡翠、今日からだぜ」
「何が」
「何がって、万年筆展だよ。放課後、行くだろ」
「ああ」
そういえば先週、そんな話をしていたような気がする。今の今まで忘れていた。そんな翡翠の様子に、椋が唇を尖らせた。
「何だよ、その上の空な返事」
「でも、白猫にご飯作らなきゃ」
思わず本音が零れたのに、あっと思うも、時既に遅し。椋は、へぇ、と面白そうに笑うと、身体をこちらに擦り寄せ、悪戯っぽい瞳で翡翠を見上げた。
「翡翠、お前変わったな。万年筆より白猫白猫って。もしかしてお前さん、その白猫に惚の字かい」
「馬鹿言え」
「はは、気持ちは解るさ。あの愛くるしい姿に我侭言われちゃ、はいはい仰せのままにって答えるしかないよなぁ」
図星ではない、と否定すればするほど、逆効果のようだ。黙って椋の身体を押しのけると、く、く、く、と喉の奥で笑われた。
「ま、俺はひとりでも今日行くけどな。また今度行くのでも良いだろうが、あの目玉品が見れなくなっても知らないぜ」
白猫と万年筆と、どちらを取るべきか。
そのことがちらついて、折角椋が万年筆を貸してくれたのに、講義などちっとも頭に入ってこなかった。
「なぁなぁ本当に行かないのかい」
講義が終わり、教室を出ても椋はしつこく訊いてきた。まわりをうろうろ付きまとい、鼻にかかった甘い声で囁く様は、悪徳商法の勧誘に似ている。授業中は迷っていたものの、こうされると逆に行きたくなくなるのは、翡翠が天邪鬼だからではないだろう。
学校を出ると、校門の前に人だかりができているのが見えた。女子が数人、何かを囲んできゃっきゃと黄色い声を上げている。あるものは今日着てきた着物を恥らうかのように、しかし隠し切れない嬉しさで頬をほんのりと染めている。またあるものはその中心にあるものを直視すると目が潰れてしまうとでも言うように、ちらちらと視線を行ったり来たりさせていた。いずれにしても彼女たちのその熱気は、中心にあるものが溶けてしまうのではないかとさえ思える。
そして女子たちに囲まれているのは、紛れもなく白猫だった。
「何でこんなところに……」
猫を被る、とはよく言ったもので、普段の悪戯で生意気な雰囲気はどこにも見当たらず、爽やかともいえる笑みを浮かべて彼女たちの言葉に応じている。時折近くにいる女子の髪を撫でる素振りをしては、きゃぁと高い声を上げさせていた。
女子たちの生垣の隙間から見えた、遠くからでもはっきりと判る整った顔に、椋さえも一瞬たじろいだようだが、すぐに眉間に皺を寄せた。
「気障な野郎だ、気に食わん」
「あれだよ、あれがうちの白猫」
「人間じゃないか」
「だから言っただろ、思ってたのと違うって」
「ははぁ、なるほど。何かおかしいと思ったらそういう意味だったのね」
椋がからかうように口端を吊り上げる。にやにやとした視線が居心地悪く、翡翠の身体は自然と仰け反った。
「翡翠はそういう趣味があったのかぁ、大人だなぁ」
「どういう意味」
椋に聞き返そうとしたとき、女子たちの囲いがさっと崩れた。そうして作られた花道から、ゆっくりと白猫がこちらに歩いてくる。翡翠はふと、まだまだ現役だというのに引退した人気歌舞伎役者を思い出した。あのときの観客の目もきっと彼女たちのように、夢から覚めるのを惜しむようなうるりと蕩けたものだったのだろう。
「ご主人」
彼女たちがいっせいに翡翠を見る。それが好意的な視線ならば大歓迎だったものの、現実は棘が捲き付いているかのように鋭い。この色男を私たちから奪うのか、ご主人とは何様のつもりだ。そういった声が聞こえてくるようだった。出来れば知らない人のふりをしたかったが、そうもいかず、翡翠はおずおずと口を開いた。
「どうして、こんなところに」
「ご主人の言ったことは本当だったよ。ひらがな読めたら、電車に乗れた」
初めてのお遣いを褒めて、とでも言うように、白猫は無邪気に笑った。その表情に思わず息を飲み目を奪われる椋の脇腹を、翡翠は肘で突いた。椋の方こそ白猫に惚の字ではないか。
そんなやりとりに白猫は肩を揺らす。そうして徐に着物の懐へ手を入れると、そこから牛革で出来た筆箱を取り出した。たんにん鞣し特有の飴色に変化したそれは、まぎれもなく、翡翠が部屋に忘れて行ったものだ。
「ほら」
「届けにきてくれたんだ」
翡翠の手を取り、その上に筆箱を乗せる。柔らかな肌触りの革は、白猫の体温に暖められたせいか仄かにぬくもりを持っていた。
思わず翡翠は苦笑する。
「授業、もう終わっちゃったよ」
「そうかい。ちょっと気付くのが遅かったかぁ」
本当に気付くのが遅かったのか、あるいは女子に捕まっている時間が長かったのかは定かでないが、わざわざ自分のために、不慣れな列車に乗って届けに来てくれたのが翡翠には嬉しかった。
ふと、白猫の黒目が隣へ移る。
「そちらはご主人の友人かい」
「そう。椋って言うんだ」
「どうも、こんにちは」
人見知りなどする性格ではなかったように思えるが、さすがの椋でも白猫を目の当たりにするとたじろいでしまうようであった。いつもはしっかり前を向いている視線が、今ばかりは地面に落ち、もごもごと挨拶をする。その様は翡翠のことを、少しばかり鼻が高い気持ちにさせた。
「そうだ。折角だし、白猫も一緒に万年筆展へ行かないか」
「万年筆展」
「大通りの百貨店で行っているんだよ。そこに立ち寄って、食事をして帰ろう」
百貨店内には有名な蕎麦屋もあったはずだ。たまには翡翠の手料理ばかりでなく、美味いものを食べさせてやるのも良い。
白猫は少しばかり、迷うように視線を他所へやった。答えなんてすぐに決めているのだろうが、彼は必ず答えるのを焦らす。その空白の間が、どこか翡翠には愛おしく感じる。
「それじゃ、お言葉に甘えてご一緒しようかな」
「是非」そう答えたのは翡翠でなく、椋だった。
万年筆展の会場は百貨店の三階、角にある一室だ。普段は画廊として使われているが、今日は絵画も全て外されていた。代わりに、順路を作るように硝子で出来た陳列台がコの字型に並んでいる。室内全体の照明は絞ってあり薄暗く、陳列台の中だけが浮かび上がるように煌々と照らされていた。
会期の初日とはいえ、午後ともなると客はまばらであった。しかし部屋の中央に置いてある、柱のような縦長の陳列台の前には小さな人だかりができている。あれが今回の目玉商品だろう。
美味しいところは最後に取っておき、翡翠たちは回りから眺めることにした。
「へぇ、同じ筆記具なのに、価格は随分ぴんきりなんだね」
白猫が陳列台の中を覗いて、ぽつりと呟いた。
「ペン先に金が使われているか否かでも随分値段が違うものだけど、この辺にあるのは大体金が使われてるよ」
「それでも倍以上価格が違うのは何なんだい」
「持つところの素材とか、希少価値が高いか否かとか」
「へぇ」
翡翠も陳列台の中を見下ろした。各国から寄せ集めた万年筆が、狭い陳列台の中から出されるのをじっと待つように、行儀良く並んでいる。
純銀を使用し、肌理の細やかな縦線模様を施したもの。しっとりとした黒色の天然樹脂を、艶が出るまで丹念に磨いたもの。樹齢数百年の杉の枝をくり貫いて、木の温かみのある一品に仕上げたもの。作家が一点一点手書きで施した蒔絵の万年筆などは、それはもう筆記するための道具ではなく部屋を飾る調度品のように見えた。繊細優美な四季折々が五寸ほどの軸の中に目一杯描かれているそれは、一日中見ていても飽きることはなさそうだ。
しかし。
「翡翠、今日は何か買っていくかい」
「うぅん。ぴんと来るものは今のところは。椋はどうする」
「俺も同感さ」
何度かこういった展示会に足を運んでいれば、そのどれもは見慣れたものばかりだった。
期待外れだ、とがっかりしながら、中央の目玉品へと向かう。丁度人波も途切れたところのようで、陳列台の前には誰もいなかった。
これなら三人並んでじっくり拝むことも出来るだろうが、翡翠の関心は既に夕餉の蕎麦の方へ向いていた。
百貨店の四階には食事どころが多く集まっていて、その中のひとつに美味い生蕎麦を出す店があった。ひとくち食べれば、程よい歯ごたえと、薫り高い蕎麦の風味が口いっぱいに広がる。天ぷらを頼めばそれもまた絶品だ。さくさくとした軽い衣がその日のうちに採った野菜や魚の旨みを閉じ込め、噛むたびにそれらが溢れてくるのだ。
目玉品も簡単にさっと見たら、食事に出かけよう。
陳列台の前に立った途端、翡翠のその考えは吹き飛んだ。
「あ……」
硝子の中には、まばゆいばかりの光が溢れていた。
その万年筆の全長は五寸ちょっとというところだ。太さも大人の男が持つには少し物足りないぐらいの細さである。しかしその狭い領域の中には、これでもかというほど意匠が凝らされていた。
純金を使い繊細に彫られた格子模様の軸は、見る角度を少し変えるだけで実にさまざまな表情を見せる。それは照明という光と、そして彫刻の凹凸が齎す影によるものだ。胴軸と首軸の間には蒼玉がぐるりと一周嵌めこまれており、金色との対比が実に目に鮮やかである。蓋や天冠に鏤められた無数の金剛石はひとつひとつが妖艶な笑みを湛え、その煌きはまるで万華鏡のように、二度同じ姿を見せることは無い。
世界中で百本しかないというこの万年筆には、一本一本に製造番号が振られているようで、蓋の金輪には製造した社名のほかに、「七十九」の刻印が押されている。それすらも書家が書いたような味わい深い手彫りだ。
言葉の通り、翡翠は時間すら忘れてその万年筆に見入った。
「……」
ふと、隣から、感嘆とは違うため息の音が聞こえる。そちらを見ると、白猫がいつになく真剣な眼差しで、その万年筆を見つめていた。
「それ、欲しいのかい」
翡翠の声に現実に戻されたのか、白猫ははっとして唇を結びなおす。そうして「まさか」と首を横に振った。
「俺が文字を書けないのはご主人だって知ってるだろう。猫に小判ならぬ、白猫に万年筆、ってやつだね」
自分の冗談に笑おうとしたのだろうが、唇はやや引きつっていた。それを誤魔化すかのように、再び陳列台の中へ黒目を向けるが、それは先ほどまでの親の仇を見るような視線ではなく、いつもの柔らかなものだった。
「零の数を数えていたんだよ。これだけずらりと並んでいれば、郊外に庭付きの家が買えるだろうに」
言われてみて、翡翠は初めて、万年筆の前にある値札を見た。翡翠は思わず唾を飲み込む。
それだけの金を費やした贅沢品が、自分の掌に収まったとしたら。翡翠の胸は一層高鳴った。
「翡翠よ、今度の誕生日はそれが良いなと思っちゃいないだろうな」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて椋が言う。
「流石の親父さんでも、こんな大金はそうやすやすと叩けないだろう」
「解ってるよ」
しかし硝子越しでなく、直に見ることが出来れば。この手で触れられたら。あのペン先をインクに浸し、一という文字でも良い、何か文字が書けたなら。
想像せずには居られない。
「翡翠、そろそろ行こう。腹減った」
「うん……」
返事はするものの、目をその万年筆から引き剥がすのに一苦労した。出口に向かう途中でも、何度も振り返っては確かめる。そうして陳列台が人波に隠れ、見えなくなっても、瞼の裏にはまばゆい光が焼きついていた。
どうにかして買えないものか。椋の言うとおり、父に頼んでも買ってもらえるかどうか解らないような高額品だ。宝籤でも買って一等を当てるほか、手段はなさそうである。
そんなことを考えていると、翡翠の額がどんと何かにぶつかった。視界一杯に、濃いねず色が映る。どうやら立ち止まった白猫の背中に衝突したらしい。
「白猫、」
どうかしたのか、と彼の顔を覗き込むと、先ほど万年筆を見ていたとき同様の目で、真直ぐ目の前を見つめていた。その視線の先を追うように、翡翠もそちらを見る。
ひとりの男がこちらを見ていた。
夏だと言うのにきっちりと着込まれた黒の三つ揃え姿は、葬式帰りのようにも見える。伸長は翡翠とさして変わらないが、父と同じぐらい年を重ねているのだろう、香油で撫で付けた髪にも白髪が混じっていた。
「君がこんなところに居るなんて。文盲だと思ってたが」
ゆっくり歩く物腰も、低く響く声も柔らかそうではあるものの、顔のひとつひとつに彫り込まれた皺は深く、鷹のように鋭い目が翡翠をひるませる。
男が、白猫越しに翡翠を見る。翡翠の肩がびくりと跳ねた。
「そちらは居候先のご子息かな」
「ご主人です」
「へぇ。今度のは随分若い」
白い絹の手袋に包まれた指先が、翡翠の頬に触れようとする。思わずその指から顔を逸らすと、男はそれ以上追いかけては来なかった。
「失礼。つい」男は笑い、ゆっくりと頭を下げる。
「白猫が、いつもお世話になっております」
この男は何者なのか。白猫に問おうとしたとき、彼は勢い良く翡翠の手を引いた。
「行こう」
「え、でも、白猫の知り合いじゃ」
「いいから」
細腕とは思えない力で、半ば引きずられるようにしてその場を後にする。
どこまで行くつもりだろうか。百貨店の正面玄関を通り過ぎ、大通りをぐんぐん進んでいく。道行く人が物珍しそうにこちらを見るも、それすら気にせず早足で人波をぬって歩く。振り向きもせずに進むその背中は、立ち止まればあの男に拐かされるとでも思っているようだった。
「白猫、白猫っ」
駅の改札前で白猫はようやく立ち止まった。その隙に掴まれた右腕を振りほどくと、肌に赤い手形がうっすらと残っていた。
「どうしたんだよ」
「なんでもないさ」
ふいと逸らしたその顔がどんな表情をしているのか、翡翠からは判らない。ただ、「なんでもない」とは思えぬほどに、白猫の声には余裕がなかった。
「そんなことないだろ」
「忘れておくれ。あの男のことも。ご主人には関係ないことさ」
言い方が冷たくなったのに気付いたのか、白猫は首を横に振った。そうしていつものように眦を緩めて翡翠の頭をぽんぽんと撫でる。
「ご主人が心配するようなことじゃない、ってことだよ。だから大丈夫」
「でも」
「ふたりとも、俺を置いていくなよ」
後ろから追いかけてきた声に、はっと振り返る。椋のことを、すっかり忘れていた。
その後は不貞腐れた椋の機嫌を取るのに精一杯で、あの男のことも、そして白猫が見せた表情のことも、家に帰り着く頃にはすっかり忘れてしまった。[newpage]
昨日の出来事は幻だったのかもしれない。
そう思うほど、翌日の猫はいつもどおりだった。
「ご主人、今日は何時ごろに帰るのかい」
「今日の講義は午後からだから……五時ごろかな、買い物して帰るよ」
「それまでに文字の練習をしておくから、帰ってきたら見ておくれ」
いつもの、その少し甘えたような顔を見ると、翡翠の胸によぎった不安が消えていく。本当になんでもないことだったのかもしれない。
しかしその日。学校から帰宅すると、白猫の姿が消えていた。
講義が終わり、寄り道もせず帰宅したときのことだった。
いつものように、扉の取っ手に鍵を差し込んで回す。すると何故か鍵が掛かってしまったようで、扉が開かない。出かけるときに掛け忘れたかと思い、再び鍵を回して部屋へ入る。
「ただいま」
室内に向かって声を掛けたが、夕焼け色に染まった部屋はしんと静まり返っていて、生き物のいる気配が全くしない。
「白猫、ただいま」
もう一度声を掛けてみる。やはり返事は無かった。
翡翠が部屋に帰れば必ず居て、「おかえり」と言ってくれる。そんな白猫の声が、今日は聴こえない。こんなことは一度もなかった。
ふと思い立って、翡翠は足元を見た。下駄がない。
嫌な予感がする。
靴を脱ぎ捨て部屋へと上がり、勉強部屋、寝室と見て回ったが、案の定白猫はどこにも居なかった。ひとりで住むには広いと言えど、ひとひとりを隠せるほどの広さは無い。それでもカァテンの裏、机の下、箪笥の中までくまなく探す。
がらんとした部屋の中で、焦燥感に苛まれ始めた頃、翡翠の脳裏に、ふと映る像があった。
とんとんと部屋の扉を叩く音に呼ばれ、まるで童話に出てくる子山羊のような無防備さで白猫が扉を開く。
昨日万年筆展の帰りに見た、黒い服の男がそこには立っていて、彼は絹に包まれた指を伸ばし、白猫の腕を掴む。
そうして嫌がる白猫を、無理矢理引きずり、……。
「っ」
翡翠は脱ぎ捨てた靴を再び履き、部屋から飛び出した。
「白猫が居なくなったんです」
「はぁ」
今日の天気は晴れだった、と当たり前のことを言われたかのように、浅葱は曖昧な頷きを返した。
何故そんなにのんびりとしていられるのか、もしかして意味が伝わっていないのかもしれない、と、翡翠は苛立ちを覚える。
「だから、白猫が」
「そりゃ、あいつも散歩に行くことぐらいあるでしょう」
浅葱なら、あの男について何か知っているかもしれない。そう思って伊路地店に駆け込んできたものの、当の浅葱はことの重大さが理解できていないようだった。声を荒げて何度話したところで、困ったような笑みを浮かべる浅葱に、翡翠の焦りは募るばかりだ。
「違う、あの男が連れて行ったんだ」
「男」
「あの男が僕の白猫をっ」
「落ち着いて。とりあえず座りなさい」
浅葱は翡翠を座敷に座らせると、一度店の奥へと下がった。
こんなことをしている間にも、白猫はどこか遠くへ連れ去られてしまうかもしれないのに。
思わず大声を出しそうになったとき、浅葱は丸い盆にふたつ、湯のみを乗せて戻ってきた。中は暖かい緑茶でなく、氷の入った冷たい麦茶のようだ。
翡翠はふたりの間に置かれた盆を見下ろすも、到底手をつける気になれない。
「有難うございます。でも、」
「まずは落ち着かないと、見つかるものも見つかりませんよ」
浅葱が湯のみを手にとり、そっと口付ける。そうして目を伏せ、吐き出したため息は、どこか苦いものを含んでいた。
しかしすぐにいつもの穏やかな表情に戻ると、真直ぐに翡翠を見つめる。
「翡翠くん、あのネコのことを大事にしているんですね。紹介してよかった」
「……、はじめは、浅葱さんに騙された、って思いました。猫じゃなくて、人間だったし」
しかもそれは良く言えば自由奔放な、悪く言えば協調性のないやつだった。家事の手間はふたり分に、いや時に三人分以上に増やされるわ、部屋や寝台は狭くなるわ、かといって追い出すことは何故か出来ない、面倒なことやつだと思った。
しかし今はそうは思っていない。浅葱にも何かの考えがあって、白猫を紹介したのだと解る。もしかしたらここのところ翡翠が感じているような、胸のうちの温かさを教えてくれるためだったのかもしれない。でも、それを直に訊くには照れくさかった。
「今では素晴らしい家族が出来て良かったと、思います」
「そう、ですか」
「だから、あの男から、白猫を取り返したい」
浅葱は再びため息をつく。しかし今度のそれは、諦めに似たもので、まるでわが子の我侭に折れた親の顔をしていた。
そうしてゆっくりと、言葉をかみ締めるように、翡翠に告げた。
「私は恐らく、その男が誰なのか知っています。でも、彼がネコを連れ帰ったとは思えません」
「どうして」
「彼が、ネコの主だからですよ」
万年筆展の帰りに見た、男に怯えた黒い瞳が翡翠の脳裏をよぎる。
「彼自身が仕事の都合で、ネコの預け先を探していたんです。今もまだ手一杯の状況でしょう。そんな状況で、彼がネコを連れ戻すとは思えません」
あの男に、白猫は飼われているのか。
翡翠は、はっと思い出す。
白猫と居られるのは半月だけの約束で、それが過ぎれば翡翠の元から離れてゆくのだ。
そうして行く先は、白猫の帰る場所は、あの男の元だという。
翡翠の内側に黒い靄が広がった。怒りというべきか嫌悪感というべきか、言葉に表せないこの気持ちに、口の中が苦く感じる。
「ほかに、ネコの行きそうなところに心当たりはありませんか」
「でも、……出かけるって言っても、今まで列車に乗ったこともないって言って……」
そこまで言いかけて、翡翠はふと気付く。彼が昨日、列車に乗って翡翠の通う学校までやってきたことを。
列車に乗れるようになったらどこへ行きたいのか。
「そうだ」
「翡翠くん、」
呼び止める浅葱の声も無視して、翡翠は店を飛び出した。
その駅の構内へ降り立った瞬間から、ふわりとした潮の匂いが翡翠の鼻をくすぐった。改札の向こうから絶えず波の音が聞こえるものの辺りは既に薄暗く、昼間の青々としたそれは見えない。
この時間、駅は無人のようだ。設置してある箱に切符を入れ改札を出る。駅前にはひとがすれ違えば一杯になる程度の道があった。その道を横断し、石でできた階段を降りれば、足元はもう砂浜だ。
夏の終わりが近いこともあるせいか、辺りを見渡しても、人影はひとつしかなかった。
砂浜へ座り、ぼんやりと海を眺めるその背中に、ゆっくりと近づく。
「探したよ」
「おや、ご主人」
振り返るその顔に、見慣れた笑みが咲く。思わず泣きそうになるのを堪え、精一杯の怒りを込めて翡翠は言った。
「勝手に居なくなるなよ」
「猫ってのは気まぐれなものなのさ、よくここだと解ったね」
「列車に乗れるようになったら、海に行きたいって言ってたから」
翡翠もその隣へ座り、海を眺める。水平線の向こうに見える夕日はもうあと僅かしかなく、こうしている間にも、辺りには刻一刻と闇に包まれていた。
胡坐をかいた白猫の足先に、波が寄せては退いて行く。その音は夏との別れを惜しむかのように、歌い、あるいは泣いているように聴こえた。
「俺は海の見える町で育ってね。その町を離れたときは、もう二度と海など見れないと思っていたよ。でもまたこうして見ることが出来た」
ご主人のおかげだね、と白猫は笑った。
思えば、翡翠は白猫のことを何も知らない。家族はどうしているのか、誕生日はいつなのか、本当の名前は何なのか。
それらを訊けば、白猫はどこかへ消えてしまう気がして、今も訊けずにいる。
「その町に帰りたい、とは思わないの」
「帰れないさ。俺はネコだから」
「あの男の首輪なんて、僕が取ってやるのに」
白猫の黒い瞳が、驚いたように見開かれた。そうして見る見るうちに歪む表情を見て、やはりそうなのだ、と翡翠は思う。
「浅葱さんから聴いたんだ。あの男が、白猫の飼い主なんだって」
男は白猫に、無理矢理首輪を嵌めているのだろう。どんな屋敷かは知らないが、日の当たらぬ部屋に一日中閉じ込めて、食事と寝床を与える代わりに愛玩動物として飼っているに違いない。
まさしく、「猫」のように。
あの日の白猫の目が、今このときの表情が、それを翡翠に教えていた。
この半月は、彼に与えられたささやかな自由なのだと思う。しかしこの期間が過ぎれば、また男の屋敷に連れ戻されてしまう。
翡翠は、白猫のことを、何もしらない。
それでも、助けてやりたいと思うのだ。
「僕が白猫を自由にしてあげる」
無邪気に笑う顔を見ていたい。無防備に眠る頭を撫でてやりたい。ご主人、と甘える声が聴いていたい。
一緒に居るためなら、なんでもしてやりたい。
翡翠は隣に座る白猫を見た。不安げに揺れる彼の黒目には、笑ってしまうぐらい真面目な顔をした男が映っている。その正体が自分だとは気づかなかった。
「お金なら払うよ。いくら払えばいいの」
「ご主人」
「君をあの男から解放する、だからもう」
そんな顔をしないで。
そう言い掛けた翡翠の唇は、白猫のそれに塞がれた。
言葉は途切れ、波の音だけが遠くに聴こえる。
「っ」
思わず白猫を突き飛ばすと、彼は後ろへぱったり倒れた。そうして両腕を大きく広げ、まるで悪戯が成功した子供のように声を上げて笑った。
今、何をされたのか。翡翠は口元を覆いながら、今の光景や唇に触れた柔らかな感触を脳内で反芻しそうになる。いや、思い出してはいけない。慌ててかぶりを左右に振った。そんな翡翠の様子を流し目で見る白猫に、自然と眉間に皺が寄る。顔が熱い。
「こんなんで恥ずかしがるなんて、ご主人はまだまだ子供だなぁ」
彼はひとしきり笑った後、空の星を眺めながら言った。
「俺のことは、子供にゃどうしようもないことなのさ。気持ちだけ、受け取っておくよ」
流れ星に願ったほうがまだ何とかなる、とでも言いたげなその表情に、翡翠は悔しさすら覚えるのだった。[newpage]
子供にゃどうしようもないことなのさ。
目を閉じると、その言葉と横顔が瞼の裏側に浮かび上がる。
最初はどうなることかと思ったが、今じゃ立派に一人暮らしもしている。だいたい、日々の飯を作り、部屋の掃除をし、彼の肌襦袢を洗うのだって翡翠が行っていたのだ。
自分のどこが子供だというのだろう。
「椋は、大人になるってどういう意味だと思う」
「なんだい藪から棒に」
午後の講義が急遽休講になったため、翡翠は椋と図書館で勉強をしていた。とはいうものの椋が広げているのは、教科書ではなく話題の推理小説家が出した新刊であり、翡翠の方はといえば、教科書こそ開いているものの一時間前から同じ頁を眺めている有様だ。
「いいから答えてくれよ」
どんな授業でも「優」を取る椋のことだ、きっと良い答えを出してくれるに違いない。
そんな翡翠の考えに反して、彼は曖昧に唸った。
「うぅん……誰かを幸せに出来るようになったら、大人になるってことじゃないかね」
「そういうことが聴きたいんじゃないんだよ」
漠然とした心構えのことではなく、もっと具体的な答えが知りたかった。
その答えを知れば、残るこの数日のうちに白猫に自分のことを大人と認めさせることが出来るかもしれない。そうすれば白猫を引き止めることが出来るかもしれないと、翡翠は思うのだった。
「そういわれてもなぁ」
椋が再び本へと視線を戻す。他に答えはないようだ。仕方なく、翡翠は質問を変える。
「じゃあさ、椋は何してもらったら幸せになれるの」
「今日の翡翠は気持ちが悪いな、何か悪いものでも食ったのかい」
「いいから答えてくれよ」
椋は皸ひとつない指先で、本の頁を捲る。そうして歌うような声で言った。
「暖かい寝床があって、美味いものが食えて、猫と万年筆があればそれで幸せだよ」
「椋って単純」
「人の幸せってのは案外単純なもんさ。そういうお前はどうなんだ、翡翠よ」
「僕は、……暖かい寝床があって、美味いものが食えて」
万年筆と、それから白猫が居れば幸せだな、と確かに思った。
誰かを幸せにすること。
白猫を幸せにすること。
彼の幸せとは、一体何なのだろうか。
その答えは恐らく判っている。自由を得ることだろう。
しかしそれは「子供にはどうしようもないことだ」と言われる。
「堂々巡りだ」
ぼんやりとした月明かりの下、隣で眠る白猫の顔を見て、翡翠はぽつりと呟いた。相変わらず身じろぎひとつしない寝相は死んでいるかのようにも思えるが、薄く開かれた唇からは微かに寝息が聴こえる。
徐に、その白髪へ手を伸ばす。細い絹糸は何度掬い上げても、その度に指先からするりと逃げていった。
自由にすることが出来ないなら、せめて。
「……」
朝になったら、学校へ行く前に伊路地店へ寄ろう。もしかしたら父に会いに行く必要もあるかもしれない。上手く行くかどうかは解らないけど、やってみないことには始まらない。
夜の静けさを聴きながら、翡翠もそっと目を閉じた。
明日でとうとう半月が経つわけだが、白猫は特別なことは何も言わなかった。あまりにいつも通りなものだから、明日以降もずっと一緒にいられるのでは、と勘違いさえしそうになる。
しかし、恐らく明日の朝には、彼はここに居ない。
今日は学校さえも休んで、ずっと一緒に居たかった。それを言ったら、真面目な顔の白猫にあきれられたものだから、しぶしぶ部屋を出て行った。
そうして夕方。帰宅するやいなや翡翠は学校の鞄を置き、代わりに外出用の巾着袋を引っつかむ。
「白猫」
「あぁ、おかえり」
「ただいま。ねぇ白猫」
彼は寝室の寝台の上で絵本を読んでいた。翡翠が学校の図書館から借りてきたものだ。彼より十五も下の子供が読むようなものであるが、今の白猫にはちょうど良いらしい。仰向けに寝転び、両手で本を持ったまま、呼びかける翡翠に「ん」と返事をした。
「白猫、本なんて読んでないでさ」
「あっ」
彼の手から絵本を取り上げて、顔を覗き込む。不服そうに唇を尖らせていたけれど、翡翠は気にも留めず満面の笑みを浮かべて言った。
「出かけよう。……美味しいもの、食べに行こう」
午後五時を回った百貨店前の大通りは、もうじき夏も終わりだというように、薄ぼんやりとした夕焼けに包まれていた。夕餉の準備に追われているのか、あるいは帰りを待つ人のところへ急ぐのか、人の流れる速度は心なしか早く感じる。
そんな中、翡翠はゆっくりと歩いた。
「どこへ行くんだい。百貨店かな」
「もう少し先だよ」
その大通りから脇道に入り暫く行くと、竹で出来た生垣が続く、瓦葺の広い民家があった。店の名が入ったガス灯に明かりはなく、門はひっそりとしていてともすれば見逃してしまうかもしれれない。無事に見つかるかどうか翡翠も心配だったが、それは杞憂に終わった。
還暦を丁度すぎた辺りの老人が、門の前に立っている。髪はほとんど白くなり、口の周りや額にも皺が多く寄っているものの、背筋はぴんとしていて若々しい。白い割烹着に和帽子といった出で立ちは、ひと目で彼が板前だと教えてくれた。
「こんばんは」
翡翠が声を掛けると、まるで久しぶりに会った孫の成長に驚くかのように、老人は目を細めた。
「坊ちゃん、いらっしゃい。大きくなりましたなぁ。ささ、どうぞ入って」
門を開け、老人がふたりを中へと促す。そうして玄関まで続く庭石を歩きながら、彼は白猫を見て微笑んだ。
「そちらが白猫様でいらっしゃいますか」
「はい、まぁ」
訝しげな目で老人を見る白猫に、翡翠はそっと耳打ちする。
「父の知り合いなんだ。今はもう引退したけれど、料亭の花板さんだったんだよ」
老人は数年前まではこの場所で料亭を営んでいて、何度か家族とここで食事をしたこともある。季節の野菜を使った色とりどりのあえものや、市場から直接仕入れた魚の造りは勿論、冬には牛肉を使った鍋物もここでは味わうことが出来た。
「老いぼれではありますが、本日はよろしくお願いいたしますね」
そうして玄関を潜ると、今度は中年の女性が出迎えてくれた。
「ようこそいらっしゃいました。ここからのご案内は私が」
恐らく老人の娘なのだろう、すっきりとした一重のつり目がよく似ていた。体型はやや大柄であるものの、涼しげな青い紗の着物と淡い灰色をした帯が爽やかだった。
「白猫『様』だなんていわれると、背中が痒くなるね」
仲居の後に続き、廊下の板を踏みながら、白猫が小さく囁いた。冗談のような口調で言ったものの、語尾にはどこか棘を含んでいる。
そうして通されたのは、十二畳ほどの広さの座敷だった。著名な作家の作品なのだろうか、翡翠にも読めない字が流暢に流れる掛け軸が掛かり、その下には萩を中心とした花が平たい陶磁器に生けてある。子供のころは何とも思わなかったが、今改めて見ると、随分立派な作りだなと感じた。
ふたりが敷かれた座布団に落ち着くのを見ると、仲居は「暫くお庭を楽しんでください」と告げ、部屋を後にする。
半分ほど開いた障子の向こうには、小さいながらも優雅な庭が広がっていた。葉の青々と茂る椿の足元には苔の生えた岩が横たわり、昼間の暑さを癒しているかのようだ。もうじきやって来る夜に備え灯篭には灯りが点され、手水鉢に湛えられた水面には、気の早い一番星が悠々と泳いでいる。
「綺麗な庭だね」
「そうだね」
それっきり、他に言葉はなく、部屋には沈黙が流れた。
ここにきてから、白猫の様子がおかしい。
着物を着ているから和食派だ、と勝手に思ってしまったが、もしかして洋食の方が良かっただろうか。最近はオムライスやシチュウと言った洋食を食べさせる店も増えてきたことだし、そちらを選ぶべきだったかもしれない。
沈黙に耐え切れなくなった頃、部屋の襖が開かれた。助かった、と思いそちらを見ると、仲居の女性がゆっくり一礼をする。そうして座敷へ入れば、それぞれの前に漆塗りの膳を置き、再び部屋から出て行った。
「わぁ」
箸で突いて崩すのが勿体無いぐらい丁寧に盛り付けられた食事に、翡翠は思わず感嘆の声を上げた。
手前には一粒一粒つややかに輝く白米と、椀の底まで透き通って見える澄まし汁が並ぶ。汁に浮かぶねじり梅の人参には、思わず翡翠の頬が緩んだ。奥の右手には脂の乗った鯛や平政の刺身が並び、もうひとつの椀には、季節はずれの雪のような白さをした百合根の含め煮が並んでいる。
翡翠は箸を取ると、ひとつひとつ丁寧に剥かれた百合根の含め煮に手を伸ばした。砂糖とみりんで煮たそれを頬張ると、見た目の色同様、雪のようにふんわりと口の中で解けた。
「美味しいね」
「そうだね」
料理がきても、彼がちっとも楽しそうでなかった。翡翠の作った料理ですら、まるで飢えていた獣のようにがっつくのに、今日はひとつふたつ突いただけで箸をとめて俯いている。
「美味しくないの」
「いいや、美味しいよ」
しかしそれ以上箸を進めようとはしない。何か嫌いなものでもあったのだろうか、白猫の顔を覗き込み、首を傾げた。
「食べないと、僕が食べてしまうよ」
「ご主人は、無理をしていないかい」
「え」
「この食事、ご主人の小遣いでまかなえるようなものじゃないだろう」
隠し事をしている子供から真実を聞き出すかのように、優しい声色で白猫は言った。
「これはどうしたんだい」
彼はきっともう気付いているのだろう。翡翠が持っているものの中で、金に変えられそうなものはそれぐらいだから。
しかし翡翠はその問いには答えず、そっと彼から視線を逸らし、ぽつりと零した。
「自由にすることが出来ないなら、今日だけでも、白猫を喜ばせたくて」
喜んでもらえるなら、何だってしてやりたかった。たとえ今まで大事にしてきた万年筆が全部なくなっても、白猫との思い出を作りたかった。
今日が最後になってしまうかもしれないから。
その答えを聞くと白猫は苦笑して、首を横に振った。
「ばかだね、ご主人は。こんな豪勢な食事なんてなくたって良かったんだ」
彼は箸を置くと、ゆったりと目を閉じた。この半月の出来事を、瞼の裏に映し出しているようだった。
「この半月、俺はずっと幸せだったよ。手作りの料理を食べさせてもらって、暖かい布団で眠れるだなんて、何ヶ月ぶりだったことか」
案外、椋の言った幸せというのは万人に共通することなのかもしれない。翡翠はずっとそれが当たり前のことだと思っていた。しかしその考えは、この春に一人暮らしを始め、そして白猫と共に暮らすようになって、大きく変化した。
ひとりでそうするのはなんだか素っ気無くて、それが幸せだ、などとは思わない。
ひとりではなく、誰かと一緒に食事をしたり、眠ったり、笑いあったりすることが、幸せなのだ。
白猫も同じ気持ちだったのだろう。目を開いて翡翠を見ると、彼の口元がふと、穏やかに緩んだ。
「ご主人が居てくれたお陰で、俺は人生の中で一番楽しい時間が過ごせた」
口調のもの静けさとは裏腹に、黒目の中には、激しい感情が渦巻いているように見える。
「だからもう、心配しないでおくれ」
どうして、そんな顔で、そんなことを言うのだろう。
助けを求めているかのような瞳をして、助けなんて全くいらないと声に出すのだろう。
翡翠の表情が、思わずくしゃりと拉げる。
しかし言いたいことをぐっと飲み込と、翡翠は徐に巾着袋の口を緩め、中から両手に乗るぐらいの大きさの箱を取り出した。箱には臙脂色の天鵞絨が敷かれていて、桃のようにしっとりとした触り心地だ。蓋の中央には金色の箔で銘柄名が捺してある。
大きさに反して、しっかりとした重みのあるそれを、白猫の方へと差し出した。
彼はその箱を暫くじっと見ていた。もしかしたら突き返されるかもしれないな、と翡翠は思う。無理矢理押し付けるつもりはないけれど、出来れば、受け取って欲しかった。
この半月を共に過ごしたという、その思い出に。
「……」
白猫はようやく決心がついたのか、両手で箱に触れる。まるで初めて赤子を抱き上げるように、不慣れな手つきで恐る恐ると持ち上げた。
そうして蓋を開けた瞬間、まるで心臓が止まったかのように、彼は息を飲んだ。
「これは、」
箱には艶やかな絹が敷き詰められ、その中央に眩いばかりの光を放つ、金色の筆記具が埋め込まれている。
あの展示会の目玉品として展示されていた、万年筆だ。それが今、陳列台の硝子ごしではなく、箱の中に、白猫の手の中に、収まっている。
「あげるよ。今までのお礼に」
数日前、翡翠は父に会い、なんとか金を貸してくれないか頼み込んでいた。
手持ちの万年筆を全部伊路地店で売っても、この一本は届かなかった。それどこか半額にすらならなくて、結局父にねだりに行ったのだ。
破格なのは解っている、でもどうしても欲しい、何年かかっても金は返すから、と。
初めは黙っていた父だったが、一生のお願いといわんばかりの翡翠の姿勢に折れたのか、最終的には小切手と、展示会の主催者に宛てた手紙を持たせてくれた。
「時々でいいから、これで僕に手紙を書いてよ。ひらがなだらけでいい、綺麗な字じゃなくてもいい、他愛のないことでも、いいからさ」
目を見張る白猫の表情が、唐突にぐっと歪む。今にも泣き出しそうな顔が見えたのも一瞬で、彼はすぐに俯き、左手で顔を覆った。
「ありがとう」
震える白猫の声に、翡翠はゆっくりと頷いた。
その夜、寝台の中で翡翠は色々な話をした。学校生活のこと、万年筆のこと、椋のこと、両親のこと。思いつく限り、何でも話した。もしかしたら前にも同じ話をしたかもしれない。にも関わらず白猫は、そのひとつひとつに、うんうんと頷いてくれた。
そうやってこのまま眠らなければ明日は来ないのではないか。そう思ったけれど、いつの間にか言葉は止まり、瞼が下りていて、眠りについていたようだ。夢の中でかもしれないが、白猫の、おやすみ、という声を聴いた気がする。そして何か柔らかなものが、唇に触れた気がした。
そして翌日。
目が覚めると、翡翠はひとりだった。[newpage] 次の日も、その次の日も、部屋には誰も居なかった。それが当たり前なのに、翡翠は学校から帰り、扉を開くたびに期待してしまう。もしかしたら、白猫がこの部屋に帰ってきているかもしれない、と。
ただいま、と言っても、「おかえり」と出迎える声はない。それがこんなにも寂しいことだなんて、一体誰が想像できただろう。
「白猫」
白猫が自分の元を離れていくのは仕方ないことだと思った。そこで我侭を言うのは一層子供だと笑われるような気がして言えなかった。もう会えないだろう、と判っていたのに手放した自分が悪いのだ。忘れるべきかもしれない。そう考えれば考えるほど白猫のことが頭から離れなくて、いてもたっても居られなくなる。
白猫も居ない、万年筆もない。
空っぽの部屋にとりのこされた翡翠は、白檀の香りが残る寝台の上で、目を閉じた。
白猫が居なくなってから一週間経った日。翡翠は人生で初めて、学校をずる休みした。授業が難解でつまらなく感じても、前日夜更かしをして朝が辛くても、病気以外で学校を休んだことは一度もなかったのに、その日だけは列車に乗ろうとはどうしても思えなかったのだ。
外に出たものの、足は駅とは反対方向に向き、気がつくとその店の前に居た。
万年筆屋、「伊路地店」。
古めかしい引き戸を引けば、薄暗い店の中に光が差し込む。色とりどりのインク瓶がそれを反射して、きらきらと宝石のように輝いた。
陳列台に肘を乗せ、読み物に耽っていた浅葱が顔を上げる。翡翠の姿に気付くと、驚いたように目を見開いた。
「おや、いらっしゃい。今日は学校はどうしましたか」
きっと授業を放り出してきたことなんてお見通しなのだろうけれど、浅葱は相変わらず優しい笑みで出迎えてくれる。その優しさに、一体いつまで甘える気なのだろうか。そうは思いながらも翡翠はゆっくり唇を開いた。
「浅葱さん」
「はい」
「もう一度、白猫に会いたいんです」
そんな本音を言うつもりはなかったのに、口を開いた途端、思いがあふれ出た。
「僕は白猫から沢山の幸せを貰いました。だから今度は、僕が白猫を幸せにしてあげたい」
あの男の元にいたって、白猫は幸せになれない。
楽しそうな笑顔、無防備な寝顔、「人生で一番幸せだった」という言葉。
この半月を振り返ると、白猫を幸せに出来るのは自分しかいない、と思える。
「もう一度、白猫に会わせてください」
誰に甘えようと、どんな手段になろうと、構わない。もう一度だけでいい、白猫とあって、話がしたい。そして手を握れたなら、二度と離しはしない。
そんな翡翠の真剣な瞳を見て、浅葱は押し黙った。
壁掛け時計の秒針が、こんなときにも規則正しく時を刻んでいる。
どのくらい時間が経っただろう。恐らく一瞬のことに違いないが、翡翠には永遠のように感じた。
「……」
ようやく浅葱が唇を開いたそのとき、店の引き戸が開いた。言葉がその音に遮られる。こんなときに誰だろうか。
引き戸の方を振り返ると、そこには鋭い目つきの男が立っていた。
「旦那さま」
こんなにもうろたえる浅葱の声を聴いたのは、初めてかもしれない。
男の背は翡翠と同じぐらいだが、物を言わせぬ威圧感がある。じろりと浅葱を見る瞳は鷹のようだ、と思うと同時に、彼があの万年筆展の帰りに会った黒服の男だということに気付いた。
彼は翡翠のことなど視界に入っていないようで、真直ぐに浅葱の目の前まで歩いてくる。思わず翡翠は後ろに後ずさり、男に場所を譲る形となった。
男が陳列台の上に箱を置いた。その箱には臙脂色の天鵞絨が敷かれて、触れれば桃のように柔らかいだろう。
蓋を開けると、白い絹に包まれた万年筆が現れる。
純金を使い繊細に彫られた格子模様は何時間見ても飽きるものではなく、天冠に嵌められた金剛石は妖艶な光を湛えている。
英国王室御用達の銘柄が作った、創立五十周年を記念した限定品。
万年筆の蓋の金輪に刻印された製造番号は七十九番。
白猫に贈ったそれそのものだった。
「どうして、あんたがその万年筆を」
そこで男は漸く翡翠が居ることに気づいたようだ。そうしてそれが、あの万年筆展で白猫の隣にいた少年だということにも気付いたのか、男は意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「売りに」
翡翠の頭にかっと血が昇る。思わず大声を上げそうになるのを堪え、男を睨み付ける。
「あんたが勝手に売っていいものじゃない、それは白猫にあげたんだ」
「あぁもしかして、君が貢いだものなのかな」
男は、うっそりと目を細めて金色に光る筆記具を見下ろした。白い手袋をしたその指先が、まるで女の肌を愛撫するかのように万年筆を撫でる。
「あのネコは頭が良い上に器量よしだからね、そうやって男女問わず誑かしては貢がせているんだよ」
その中でもこれは高額な部類だろうね、と笑う男の腕を、翡翠は掴んだ。これ以上、手袋越しとはいえ、その万年筆に触れて欲しくなかった。
「返せ」
低く唸る翡翠に、男は心外そうな顔をした。そうして駄々を捏ねる子供をあやすかのように、翡翠の黒髪に触れ、そのまま頬を手のひらで包んだ。背筋が凍るような男の黒い瞳に射竦められ、翡翠は指先ひとつ動かすことが出来ない。
「誤解されちゃ困るなぁ。俺が勝手に売ろうとしているのではなくて」
男の唇がゆっくりと動いた。
「あのネコに言われて、これを売りにきたんだ」
砂糖菓子のように甘いその声が、翡翠の耳元から脳内に響く。
そんなはずはない。だって、白猫は。
過ごした日々の記憶が、翡翠の中で音を立てて崩れていくようだった。
「君は何か勘違いしていないか。君が思い描くネコなど、最初から居ないのだよ」
混乱する翡翠の肩をぽんと叩いて男は離れた。息が苦しい。
「嘘だ」
「嘘じゃあないさ。君は、万年筆展が行われていた百貨店を覚えているかい。あそこの大通りを南側に行くと、角に青い看板の煙草屋がある。嘘だと思うならそこの路地裏を覗いてご覧」
「旦那さま。それはいくらなんでも」
咎める浅葱を、男が一瞥する。そうして首をゆっくり横に振り、嘲笑うように言った。
「百聞は一見にしかず。分からず屋の子供には、真実を見せるのが手っ取り早いさ」
いつものように列車に乗り、ひとつ隣の駅で降りる。時間にして僅か五分。この春からもう幾度となく繰り返したことだ。しかしこれほど五分が長く感じたことはない。
最寄駅の改札から飛び出て、駅から繋がる百貨店前の大通りを南側に進み、煙草屋へと向かう。男の言うことに従うのは癪だったが、それでも翡翠はそうせずにはいられなかった。僅かでも、白猫に会える可能性があるなら。
火曜日の午後にも関わらず、大通りは混みあっていた。翡翠と同じように授業をすっぽかした大学生、午後の優雅なひと時を楽しむ婦人、遅い昼食を摂る若い勤め人。そんな人々が作る波の間をなんとか掻き分けてゆく。時折人にぶつかり、罵声を浴びながらも、翡翠は大通りを駆け抜けた。
会いたい、
会いたい、
早く。
「白猫」
青い看板がぐんぐんと近づき、この横断歩道を渡れば煙草屋だ、というところで、翡翠は信号に引っかかった。いっそ無視して横断歩道を渡ろうかとさえ思えたが、そうするにはあまりに自動車の通りが多い。はやる気持ちを抑え、信号機に映る赤い人影を睨み付ける。こんなところに信号を作ったのは誰だろうか、今すぐそいつを殴ってやりたい気分にすらなってきたそのとき、翡翠の視界に、ふと、白い髪が揺れた。
柔らかな紗の着物に、白磁の肌。その横顔はこの世のものと思えないほど美しく、この距離でも長い睫が見て取れる。
煙草屋の前に、白猫が居た。
「白、……」
声を掛けようとして、翡翠は気づく。彼は、ひとりではなかった。
濃灰の三つ揃えを着込み、シャツのボタンが飛びそうなほどでっぷりと太った男が隣にいた。年齢は白猫の二回りほど上のようだ。額は随分と後退し、丸々と肥えたその姿は、もしかしたらあれが人間だというのは翡翠の見間違いで、豚が三つ揃えを着ているのかもしれないとすら思える。
ふたりは妙に親しげに会話をしていた。とはいえ太った男の顔は白猫とは似ても似つかず、潰れた鼻や、肉に埋もれた両目、たるんだ顎も、ふたりが赤の他人だと言うことを示している。
芋虫のように丸い指が白い髪を撫でると、白猫がくすぐったげに身を竦める。無邪気ともいえるその横顔は、翡翠に見せていたものと間違いなく同じだった。
どうなっているのか、あの太った男は何なのか。混乱したままの翡翠を置いて、信号が青に変わり、せき止められていた人々が再び動き出す。
ふと、白猫がこちらを見た。
「……」
驚いたように目を見開いたのも一瞬。その表情はすぐに消え、彼は口元に指先を宛て、そこに笑みを敷いた。それはこの半月、翡翠が見たどの笑顔とも違う、滴るほどの蜜を含んだ、酷く妖艶な笑みだった。
ぞくりと背筋が震えた。まるで背中に蛞蝓が這っているかのような気持ちの悪さが、翡翠を襲う。
ふと、太った男が白猫の腰を抱いた。それを合図に白猫が太った男を見つめ頷く。「何か見つけたのかい」「いいえ何でもありません」。きっとそんな会話をしたのだろう、笑いながら白猫が首を横に振る。白猫もまた、太った男の手に手を重ねると、ふたりは暗い路地裏に消えていった。
横断歩道を渡り、路地裏を覗き込む勇気は、翡翠にはなかった。
気持ちが悪い。気持ちが悪い。ただひたすらに、気持ちが悪かった。
漸く駅まで戻り、待合室の椅子に腰を下ろしたものの、翡翠はそこから一歩も動けなかった。
今見たあれは何だったんだろう。
今、路地裏で、白猫と太った男は、何をしていているのだろう。
もう何も考えたくもなくて、頭を抱える翡翠の上に、ふと影が落ちる。
「翡翠」
そうして呼びかける声は、聴きなれたものだった。顔を上げれば、複雑そうな、そして心配そうな顔をした学友が居た。
「椋」
「何してたんだよ、お前が授業をすっぽかすなんて珍しい」
隣の椅子に椋が座る。今日の授業の書き付けをみせてやろう、と鞄を漁る椋に、翡翠は訊いた。
「椋、ネコってどういう意味」
「え」
その声が自分でも笑ってしまうぐらいの悲愴さを孕んでいたせいか、椋がぎょっとして翡翠を見る。
「椋は、知ってたんじゃないのか」
万年筆展に行った日、椋は白猫を見て「そういう意味だったのね」と言った。椋は知っていたに違いない。愛玩動物としての猫ではなく、白猫を指す「ネコ」の意味を。
「何も知らなかったのは僕だけだった」
思い出の中の白猫が醜い化け物の姿に変わっていく。
金糸で紡いだ煌びやかな布は解け、金剛石だと思っていた宝石はただの硝子で出来た偽物だった。それらが瓦落多とも知らず大事そうに抱えていた自分が、端から見ればどんなに無知で滑稽だったのか、翡翠は漸く気付いた。
「教えてくれよ、白猫は、何者なんだ」
取り返すことが出来ないなら、せめて本当のことが知りたかった。路地裏を覗く勇気すらないけれど、この迷路の出口を教えて欲しかった。
そうすれば、もう白猫のことは忘れられる。
「まもなく、一番線に通過列車が参ります――……」
構内放送が流れ、疾風のような速度で列車が目の前を通り過ぎていく。たたんたたん、と線路を走る音がぐんぐん遠ざかり、とうとう聴こえなくなった頃、椋はぽつりと呟いた。
「ネコってのはあれだよ」
「褥の上での、『女役』って意味だ」
大通りのガス灯に火が入り始めても、路地裏にはその灯りは届かず、ぽっかりと闇が口を開いているだけだ。まさに一寸先は闇、そんな路地裏を、浅葱は歩いていく。
ゆっくりとした歩調で五分ほど歩いた頃、浅葱は彼を見つけた。彼は建物の壁に寄りかかり、肌蹴た着物の裾から両脚を投げ出すような形で座っている。唇には煙草を銜え、詰まらなさそうな顔で札の数を数えていた。
「白猫さん」
「ああ浅葱じゃないか、久しぶり」
白猫が数えていた札を懐に仕舞い、浅葱を見上げた。まだ冷めやらぬ白磁の頬には赤みが差し、熱っぽさが色濃く残るその瞳を見ると、男に興味のない浅葱でさえも、味見ぐらいはしてみようかという気にさせる。
「お仕事、お疲れ様です」
「はは。でもこれも今日までさ」
「あの万年筆を売ったお金で、借金は消えましたか」
「そんなとこ。あの少年には感謝してるよ、お陰で俺は自由になれる」
言葉とは裏腹に、美しい顔が台無しになるような険しい表情をしていた。まるでその少年のことを思い出すのも腹立たしいかのようだった。
「浅葱もさ、いい仕事を紹介してくれて有難う。あんな大金を寝ずに稼いだのは初めてだ」
煙草の煙を吐き出し自嘲気味に笑う白猫を見て、浅葱は複雑な気分になる。辛うじて「そうですか」と返したものの、あまりに素っ気無い反応をしてしまったのか、白猫がちらりと横目でこちらを見た。
浅葱が助けたかったのは、翡翠の方だった。
翡翠の父は、昔から何でも翡翠に買い与える男だった。翡翠が新しい万年筆が欲しいと言えばそれを取り寄せ、あの大学へ行きたいと言えば、翡翠の学力が足りてなくても金に物を言わせて入学させる。
翡翠は手に入る玩具の数々に喜んだが、浅葱はそれを危惧していた。このままでは翡翠は世の中の何でもが何一つ苦労なく手に入ると勘違いし、やがていつか訪れるだろう、どうやっても手に入らないものの存在を知ったとき、翡翠は壊れてしまうのではないか、と。
こうなったら翡翠に大金でも使わせ、父親をたいそう心配させ、出来るなら翡翠を一発殴りに乗り込みたくなるぐらいのことをさせて、ふたりの目を醒まさせてやろう。そう思って旦那に頼み、ネコ、つまり男娼である白猫を貸し出してもらったのだ。
それがあの父親ときたら、法外な金額で買ったネコの存在を仄めかしても「そうか」と言うだけで、それを知りつつ挙句の果てには家一軒買う金すらぽんと出すものだから、浅葱は頭が痛かった。
「翡翠くんも、白猫さんに騙されて色々気付いたこともあるでしょう」
「世の中には自分の思い通りにならないことも沢山あるってこととかかね」
望むものは何でも手に入った翡翠が、初めて手に入れられなかったもの。
それが浅葱の目の前で微笑んでいた。
その笑みを見て、浅葱はもしやと思ったことを口に出した。
「白猫さんも、翡翠くんの純粋さに触れて、気付いたことがあるのですか」
「なんだいそれは」
「人を愛することとか」
「まさか。俺が少年とにこにこしてたのは仕事だからであって、それ以上でもそれ以下でもない」
「本当にそうでしょうか」
「浅葱まで、何を言うんだか」
まるで苦虫を噛み潰したような顔をして、白猫は煙草の穂先を地面に押し付けた。じりと小さな音を立てて火が消え、焦げた葉の匂いが微かに香る。
「俺はあんなお子様を見てると反吐が出るのさ。俺の首輪を外す、だって。自分の面倒も自分で見れないやつが笑わせるよ」
白猫は懐から手ぬぐいを取り出し、薄い皮膚で覆われた内腿を拭う。繭のように柔らかなそこには、誰のものとも知れない白濁が散っていた。
「学費、住んでる部屋、きている服、食っているものの代金すら一銭たりとも自分で稼いでるわけじゃあない。全部親から貰ったものだろう。羨ましいご身分なこった、俺が親から貰ったのはこの顔と借金だけだってのに」
白猫は汚れを拭い去ると、馴れたように着崩れた着物を整えて立ち上がった。
「そんなやつが猫を飼おうだなんて、十年早い」
浅葱は考える。
あの万年筆を渡されたとき、白猫はどんな気持ちだったのだろうか。
十年もの間身を売り続け、幾人もの抱かれたくも無い男に抱かれ、それでも稼ぐことの出来なかった大金を、翡翠という少年は何の苦労もなく手に入れ、溝へ捨てるようなことに使ったのだ。
自分の努力ではどうしようもない、生まれ育ちという違いがこれほどの差を生んだことに、苛立ちと虚無感を覚えたのではなかろうか。そして溝に捨てられた金を、そう思いながらも拾った自分に、嫌悪感を抱いたのではなかろうか。
白猫が何事もなかったかのように、大通りへと向かって歩き出す。その脚が微かに震えているのを浅葱は気付いていたが、知らないふりをした。代わりに、意地悪い笑みを浮かべて訊ねる。
「それでは十年後なら」
「何だって」
白猫は思わず歩みを止め、浅葱の方を振り返った。その表情が、あまりに真剣なものだから、浅葱の方が驚いてしまう。その動揺を悟られないように、のんびりと白猫を追い越して質問を重ねた。
「十年後なら、どうでしょうか。彼が一人前の立派な大人になって、君を買いにきたらどうしますか。自分のお金で買った綺麗な服を着て、あなたを迎えにきたら」
「あいつも流石に気付いただろう、俺が心身ともに汚れきったやつだって。そんな猫を買うのかい」
「もしも、の話ですよ」
「はは、面白い」
もしもそんなことがあったら。
そのとき、彼は手土産に万年筆を持ってくるのだろう。家ひとつ買えるような値段のものではないかもしれないが、自分の身の丈にあったその筆記具を、白猫に差し出すのだろう。
そうなったら。
「そうなったら、今度は恋文でも書くかなぁ」
それまでに、綺麗に字を書く練習をしないとね。
冗談を言いながら笑う白猫は、酷く幸せそうだった。
了
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