7月20日 ちょっとした約束

 とんでもない三日間だった。本当に。

 日記をぶっ通しで書き続けて、心からそう思う。


 というか、命からがら戻ってきたというのに……うわーん!

 

 ベルシーのなんという素っ気なさなの―――!!


「ああ、無事だったのね、コレット=マリー!」


 で、泣きながらぎゅっと抱きしめ合うっていう、感動の再会があってもいいんじゃないの?


 もちろん、ベルシーが泣きながらそんなことをしてきた日には、世界の終わりがやってくるとも限らないけど……。


 それにしたって、真夜中に部屋に戻ってきたとたん、


「……あら。おかえり。……舞踏会にでも行ってたの?」


 って、そんなあっさり!


 そりゃ、まあ、わたしはまだ、妙な恰好だし、あの悪夢のあと、今度は夢のような出来事があって、いまもまだふわふわしてるけど……。


 けど、ベルシーも、少しは心配してくれたのかもしれない。ベッドにもぐりこむ前に、


「疑いが晴れたみたいで良かったわね」


 って、言ってくれたから。


 ということは、よ。

 つまり、やっぱりまたユービリア城中に、とんでもないうわさが広まってたということだ……。

 

 もちろんわたしだって、間違っても英雄のようにユービリア城に迎えられるとは思っていなかった。

 

 体を張って異国の王を救った宮廷女中コレット=マリーって、大勢に胴上げされる都合の良い未来なんか、一瞬たりとも想像しませんでしたとも。

 

 ていうか、実際に体を張ってわたしを救おうとしてくれたのは、クロスタン国の王マウロのほうだったし。

 

 わたしは縛られて身動きとれず、役に立たないいも虫のように転がっていただけ。

 

 けど、でも、だけど………。


 なにも、わたしを異国のスパイとして疑うことないじゃないの―――!!!


 うう、疑いが晴れた後でその事実を聞かされたからまだ良かった。もしあのとき、スパイ容疑で連行されているのだと知っていたら……発狂して馬車から飛び降りていたかも。

 

 それか、馬車の中で真っ青になって、吐いていたかも(うん、飛び降りるなんて想像しただけで卒倒しそうだし……)。

 

 つまり、ときには頭を空っぽにして何も考えないほうが、恐怖をやりすごすことができるってこと。


 7月19日の夜明けにほこりっぽい地下倉庫から助け出された後、わたしはマシューやロラン隊長から引き離されて、初めてみるような気難しいユービリアの護衛に囲まれて馬車に乗った。彼らがわたしを守っていたんじゃなくて、逃げないように見張ってたなんて、もちろん考えもせずに。

 

 連れて行かれた先は、安心安全の女中棟でもなく、湯気の立つ大浴場でもなく、焼きたてのパンの匂いが漂う賑やかな食堂でもなく、ユービリアの主城から少し離れた、吹き抜けの窓に格子がはめられた独房のような尖塔だった。


 それを見ると、さすがに不安を覚えた。


 だけど、理由も分からず命を狙われた後、見当違いの尋問をされることになるなんて……ねえ?


 死にそうな目に遭って、精神的にも限界で、ぼろ雑巾みたいになってるのに、さらに悲惨な事態がその先に待ってるなんて、卑屈な考え方にとらわれる傾向があるとはいえ、さすがにもう、全部終わったって思うじゃないの。


 そう思っていた矢先に、足を踏み入れたこともない尖塔の、らせん階段の先の陰気な三階の部屋に押し込まれていた。


 ガチャン、と重たい錠がおろされる。固い石床の上にお粗末に敷かれたわらの寝床を見ると、本当にとびきりの悪事をしでかしたような気分になった。


 で、半日ほど、膝を抱えて呆然と座り込んでいたように思える。


 だって、そのときはいったい何が起きているのか分からなかったんだもの。


 日が暮れかかったころ、再びガチャリと音がして、ようやく扉が開けられた。


「遅くなってすまなかったな、コレット」

 

 そこにいたのはロラン隊長だった。それでようやく―――わたしは罪のない人間としてついに、本当に、偽りなく生還することができた。


 そしてすぐに、ロラン隊長にユービリア主城の、しかも上級貴族を迎えるような浴場付きの豪華な一室に通された。


 その部屋にはなんと公爵家の令嬢に仕えるような礼儀正しい侍女がいて、わたしの入浴から身支度まで、すべてを完璧に手助けしてくれた。

 

 侍女の所作は、かつてマリー家に仕えていたような家政婦ミリサとあまりにも違いすぎて、わたしはただただ動きかたを忘れたブリキ人形のように彼女の仕着せに身を任せていた(ミリサは箒でニワトリを追いたてるようにすべての家事をこなしていたけど、城勤めの侍女は可愛らしいコマドリのようにくるくるとやるべきことをこなした)。

  

 すべての作業が終わると、彼女はわたしの手を引いて姿見の前に誘った。

で、まさか自分の姿を見て、「ひっ」としゃっくりのような悲鳴が出るとは思わなかった。


「とっても可愛いわ」

 

 侍女の子はにっこりと笑ってくれた。わたしはもう、恥ずかしくて、わけが分からなくて、自分の赤毛と同じくらい真っ赤になった。


 だって、気づけば、社交界に出るような姿に変えられていたんだもの。赤毛はふんわりとゆるく編み込まれ、なめらかな生地の、綺麗なエメラルドのドレスを身に着けていた。


 正直、わたしだって別人じゃないかって思った。胸はちょっと貧相だとしても―――緑のドレスに赤毛が鮮やかに映えて………。


 そうね。あの姿なら絶対に、卑屈にならずにレジーナを見返してやれたはず。それに、初めてこそこそせずに堂々と一人で食堂に行ける自信がわいた。


 まあ、食堂に向かう必要はなかったんだけど。侍女の子にうながされて、背もたれつきの椅子に座らされると、使用人たちが入ってきて、長テーブルと椅子を四脚準備し、銀食器にのった出来立ての料理を運んできたから。


 使用人たちと一緒に侍女が部屋から出ていってしまうと、部屋はしんとなった。ビロードの重厚なカーテンをめくって外を眺めると、すっかり夜が更けていて、緋色のたいまつが瞬いていた。一方で、部屋の中は天井のシャンデリアのおかげで、昼間のような明るさがあった。


 やがて、部屋の扉がノックされて―――。


 王子様みたいな人が入ってきた。上等な黒と金の詰襟の上着に黒のズボン姿で、腰には銀色の鞘におさまった細身の剣を帯びていて―――まるで夜の一番星のように、きらきら輝いていて。


 恥ずかしい。うっとりと見惚れていて、よだれが出かかった。


 でも、だって、ものすごくカッコ良かったんだもの!


 白と青のユービリア兵の服も似合うけど、彼は、マシューは、本当に王子様みたいだった(処刑台送りを覚悟して書くと、ユービリア国のルーサー殿下よりもかなりサマになっていた)。


 部屋に入ってきたマシューは、翡翠色の瞳をぱちくりさせていた。


 少なくとも彼だって、わたしを見て哀れなぼろ雑巾とは思わなかったはず。


「……コレット?」

 

 わたしはにっこり笑って、少しもったいぶって椅子から立ち上がると、ドレスの裾をつまんで優雅におじぎをしてみせた。


「他に思い当たる子が?」

 

 いたずらっぽく訊いてみると、マシューはほんの少し顔を赤らめた。


「いや……その、見違えたよ」


 口には出さなかったけど、マシューにそう言ってもらって小躍りしたい気分だった。

 

 こんな風にとつぜん身ぎれいにされて、この部屋に連れてこられた理由なんて、もうどうでも良かった。

 

 わたしは、少なくともいつもよりだいぶ自信が持てる格好で、マシューと向かいあっている。


 しかも、二人っきりで。

 

 まるで―――そう、離れ離れになっていたけど、ようやく再会することのできた、舞台の上の公爵家の令嬢と庭師のふりをしていた令息みたいに(あれほどヒドイ目に遭ってきたんだもの。ちょっとした幸せな妄想くらい、いいわよね?)。

 

 マシューはゆっくりとわたしのほうに近づいてきた。


 感動的な再会の場面だもの。わたしも彼に近づこうとしたんだけど―――。


 なんと足がすくんで、その場から動けなかった。

 

 そうね。とんでもない愚か者。


 というのも、頭の中で、恐ろしくぶっ飛んだロマンチックな想像をしてしまったせいで、首がかあっと熱くなって、心臓が弾けそうになって、足が震えていた。


 せっかく自信の持てる姿にしてもらっておきながら、おろおろと後ずさる始末。


 気がつくと、目の前にマシューが立っていた。わたしより少し背の高い彼は、真剣な目でじっとわたしを見つめていて―――もう、灼熱の太陽の下に立っているみたいにクラクラして―――彼の手がそっと、わたしの頬に触れた。


 そして、うっとりと目を閉じる間もなく―――ぎゅっと強めに頬を引っ張られた。


 今度は、わたしが目をぱちくりする番。


「……へ?」

「へ?じゃないだろ」

 

 マシューは半眼になって、ぐいぐい頬を引っ張ってきた。


「なんで、あの日―――マウロ国王陛下と一緒にいたんだ?どうして城内に残ってたんだ?そもそも、どうしてユービリア城の秘密の抜け道を知ってたんだよ?」

「い、いひゃいいひゃい」


 涙目で訴えると、マシューはようやく頬を引っ張るのをやめてくれた。

 

 そうね。うん。分かる。7月17日。親善試合の日のことね。


 もちろん、マシューの疑問はもっともよ。本来ならわたしは、他の使用人たちと一緒になってユービリア国の名誉ある出場者を応援するべく、闘技場の観覧席にいたはず。


 ていうか、いなきゃいけなかった。

 そこにいれば、そもそも異国の政変に巻きこまれることもなかったのだから。


 それは分かる。分かってる。

 

 でも、それっていま訊くこと?

 

 明らかに、稀に見る、とびきり良い雰囲気だったのに?


 麗しい姿になって二人の男女が、二人っきりで、静かな部屋にいるっていえば―――どう考えたって、そうじゃなくて、真っ赤になるような、その―――とびきりロマンチックな流れになるはずでしょ!?


 それなのに、もう――――――!!!


 マシューったら!!


 そんなこと、いまはどうでもいいじゃないのよ―――――!!!

 

 わたしは頬をさすって心で悪態を吐くと、恨めしげにマシューをにらんだ。


 彼は腰に手を当てて、偉そうに片眉を上げて、わたしに何もかも白状するように圧力をかけてくる。


 うう……。


「だから、あの日、わたしは……」

 

 ひぇぇぇぇぇ――――!

 

 言えるわけ、ない。

 

 歴史的にも重要な日に、まさか寝坊しただなんて、言えるわけない!

 

 たとえ7月17日の前日に、予想だにしない出来事に遭遇したうえ、意味深な発言をした誰かさんのことを夜通し考えていて寝つきが悪かったとしても、寝坊しただなんて口が裂けても言えない。


「ええと、つまり……」

 

 秘密の通路のことも、本当に、情けない理由で、6月25日に偶然見つけたのであって……。

 

 その情けない理由まで、マシューに話さなきゃならないの?

 

 そうね。とうてい無理。

 

 わたしは錆びついた頭を回転させた。


「ちょっと誤解があるみたいね。そもそも、ユービリア城に秘密の通路があることを知っていたのは、マウロ国王陛下だったの」


 気づけば、そんなでまかせを口にしていた。


「……異国の王が?」


「そう!異国の王が!で、わたしは、あの日はその―――じつはひそかに、親善試合の応援用の旗を縫っていたの!その完成にこだわっちゃって、部屋を出て行くのを少し遅れて、それで闘技場まで近道しようと思って、別の通路を通ったら、偶然マウロが、マウロ国王陛下が、襲われそうになっているところに遭遇して―――知らんぷりなんて、できないでしょ。それで、一緒に走って逃げていたら、マウロ国王陛下が身振り手振りで装飾品室に抜け道があることを教えてくれたのよ」


 おそるおそるマシューの反応をうかがうと、彼はわたしの言葉にどこかおかしいところはないか、吟味しているようだった。

 

 大丈夫。マウロのような賢明な異国の王であれば―――わたしのようなしがない下っ端宮廷女中が、ユービリア城の秘密の通路の存在を知っていたことが周りに知られれば、どんなやっかいなことになるのか想像できないはずがない。

 

 彼はきっと、口裏を合わせてくれるはず。暗殺をうわさされていた異国の王を守るために、国王陛下からじきじきに秘密の通路の存在を教えられていたと証言してくれるはず。


 大丈夫。応援用の旗は―――捕まったとき、どこかに捨てられちゃったと言えばいいのだから。


 わたしはとてつもなく後ろめたい気持ちで、マシューの審判を待った。


「……そんなことが現実に起こるなんて」

 

 マシューは頭を振って、ため息を吐いた。


「怖かっただろ、コレット。本当に災難だったな」

 

 わたしは安堵の息を吐いた。マシューは信じてくれた。あとでボロが出たらもう、秘密の通路を抜けて城から脱出するほかないけれど。

 

 でも、災難だったのは事実だもの。

 

 色々な不運が重なって……危うく、命を失いそうになったのだから。


「異国の政変に巻きこまれた宮廷女中が、コレットだって分かったとき、本当にもう、生きた心地がしなかったんだ」


 力なく笑うマシューを見て、胸がぎゅっと締め付けられた。


「わたしも、わけが分からなくて……もう会えないかと思った」

 

 マシューはそうするのが当たり前のように、ふわりと笑って、わたしを―――。

 

 抱きしめてくれた。今度こそ、本当に。勝手な妄想とかじゃなくて。

 

 心臓が高鳴ると同時に、世界で一番安全な場所のように思えた。温かくて、陽だまりの匂い。


「間に合って良かった」


 彼がぽつりとこぼした。わたしはぎゅっと彼の肩口に自分の顔を押しつけた。


「マシューはまた、“偶然”、そばにいてくれたね」


 彼が少し笑った。


「約束したから」

「……うん」


 マシューは抱擁を解くと、いたずらっぽくわたしの目を覗き込んだ。


「で、どうしてそんな、貴族の令嬢みたいな恰好をしてるんだ、宮廷女中さん?」

「マシューこそ」

 

 わたしは照れくさくて、思わず目を逸らした。


「お洒落しちゃって、どうしたの?」

「分からないんだ。とつぜんロラン隊長に呼び出されて、着替えさせられて―――この部屋で待機してろっていわれて。……けどまあ、理由なんてなんでもいいよ」

 

 マシューは優しく微笑んでいた。両手でそっと頬を包まれると、ちょっとだけ強引に、彼のほうへ顔を向けさせられた。


「そう思わないか?」


 もう、目を逸らすこともできない。


 全身がほてって、震えるくらい、ドキドキして。


「そう、思う」


 導かれるようにして答えると、ゆっくりと、マシューの顔が近づいてきた。

 

 わたしは、静かに目を閉じて―――。


 コンコン、と部屋の扉がとつぜん叩かれるので、文字通り二人で飛び上がった。

 

 で、わたしたちが返事をする間もなく、扉が開いて―――。


 正装姿のフェルナンドと、マウロが入ってきた。


 そのとき、二人が一瞬だけ目を丸くしたように見えたけど、きっと気のせい。


 だって、わたしとマシューは飛び上がった時点でもう、さっと離れて、友人としてふさわしい距離を保っていたのだから。


 部屋の中の空気が甘ったるくなっていたはず、ないもの。


「……あの、ごめん。入ってきて良かったかな?」

 

 マウロがユービリア語で気づかわしげに訊いた。

 

 いや、あのね……。

 

 んも――――――っ!!!!


 なんなのよ――――――――――!!!!


 異国の王だからって、許されることと、許されないことがあるでしょ――――!!!!


 国境を越えても、邪魔しちゃいけないものって、あるでしょ――――――!!!


 もちろん、そんな悲痛な心の叫び、口に出して言えるはずもない。

 

 仮にも相手は、友人とはいえ、クロスタン国のれっきとした国王陛下なんだから。


 わたしがそんな暴言を吐いたとたん、異国の剣士でめちゃくちゃカッコいいマウロの異母兄弟のフェルナンドが、速攻でわたしを切り捨てるともかぎらないし。


「陛下、お待ちしておりました」

 

 マシューは何事もなかったかのように、優秀な兵士の仮面を被り、礼儀正しく彼らを迎えた。


 そんなマシューを横目に、わたしのほうはというと。


「ふん、嘘つけ」


 と未練がましく言いたくなるのを、ぐっとこらえていた。


 




 



 





 わたしとマシューを特別な晩餐会に招待してくれたのは、マウロだった。

 ユービリア国王にじきじきにお願い申し上げて、こんな席を用意してくれたらしい。


 そういえば、7月17日に捕まって、19日の夜明けに解放されるまで、まともに食事をしていなかった。お腹をすかせている余裕もなかった。

 

 だから、温かくて甘いタマネギが溶け込んだスープを口にしたとたん、生きている実感が全身に沁みわたって、ちょっと泣きそうになった(確信している。あのスープ、絶対にニーノが作ってくれたのよ)。

 

 食事は最高に美味しかった。マウロは無事に助け出されたあと、ユービリア国王に謁見して、話せるだけの事情を話したらしい。そのとき、彼がユービリア語を話せるのだという事実が、城内に広まったみたい(どうやら、ユービリア国王陛下にだけは、初めから話せることを伝えていたらしいのだけど)。

 

 マシューはマウロが流暢にユービリア語を操ることより、異国の王がとても気さくなことに驚きを隠せないようだった。マウロはクロスタン国の文化や、食べ物や、儀式についてマシューにも話して聞かせた。異国の兵士がどのように訓練しているのかについては、たどたどしいユービリア語で、フェルナンドが説明していた。

 

 そこでわたしは初めて、今回親善試合が中止になっていたことを知った。考えてみれば、クロスタン国の王がとつぜん姿を消したのに、試合が続行されるわけがない。だから、マシューもフェルナンドも、闘技場でお互いの実力を披露することなく、わたしたちの行方を追ったのだとか。

 

 ただ、二人は親善試合前の手合わせで一度剣を交えた際、お互いに好敵手だと認めあったのだとか。異なる国同士の二人の剣士は、それぞれの国の剣術や戦法、さらにはお互いの鍛冶職人について興味津々で、男同士の話に華を咲かせていた。


 マウロはどこかその姿を微笑ましそうに、わたしは少々呆れたように眺めていた。

 

 マウロがちょっと目配せして、わたしをバルコニーへ誘った。

 

 ひやりと心地よい夜気に触れながら、マウロが口を開いた。


「あんなことがあった後で、二人を呼び出すのは申し訳ないと思ったんだけど、ちゃんと話しておきたくて」

 

 というのも、明日クロスタン国に戻るのだと、マウロは言った。


「嘘でしょ。もう帰っちゃうの?」


 わたしが心底がっかりすると、マウロは微笑んだ。


「この国でやるべきことは終えたから」

 

 そして、驚くべき事実が語られた。


 というのも、マウロは始めから、ユービリア国や他国の海岸を荒らしまわっていた海賊の首領、サルバ=トエニスを捕まえるためだけにこの国に来たのだと言った。


 ユービリア国は西側が海に面していて(わたしとマウロが捕まっていた場所も、小さな入り江近くの地下倉庫だった)、たしかに何度か、海賊に荒らされていたことがあった。そしてその裏金はひそかにマウロの伯父であり、クロスタン国の参謀であるサンドロ=トエニスの手に渡り、サンドロのために働く悪どい連中を動かすための重要な資金源になっていたという。

 

 マウロは臆病者のふりをして自室に閉じこもりながら、各国にスパイを送り、情報を収集行っていた。まさか、6月19日に城下町で見かけた異国の大道芸人たちが、マウロのために働いていたスパイだったなんて……。


 彼らの情報によって、マウロは海賊の首領がクロスタン国から姿を消したサンドロの息子で、従兄のサルバであったことを知った。そして、ユービリア国の中でも一部の者しか知りえないような貴重な情報を、サルバに伝えている者がいることに気づいた。


 それが、女中頭だった。


 彼女は貴重な情報を得るために、財務大臣のノーマン=アーデン卿に目をつけた。たしかに大臣ほどのお偉いさんなら、女中頭の地位じゃ得られない情報を耳にするだろうから。

 

 アーデン卿が女好きであることを知った女中頭は、花館の女性を雇い、アーデン卿をまんまと罠に陥れた。わたしを乗せた、ユービリア城への送迎用の馬車が偶然立ち寄ったあの宿で。大臣という地位でありながら、他の女性と浮気したという弱味を握られたアーデン卿は、女中頭が知りたがっていた情報を教えることで、自分の秘め事が公になるのを阻止していたみたい。さらに、暗殺者に扮したサルバがアーデン卿を脅していたということも明らかになった。女中頭に情報を流していることを他言すれば、首を掻き切るとかって……。

 

 けど、アーデン卿をかばうつもりはない。だって、7月16日に、ベルシーにあんなことさせようとしたやつなんて、自業自得よ。

 

 とにかく、その情報を得たマウロは、サルバを捕まえるための作戦を考えた。

 

 そして、クロスタン国の新王として、ユービリア国と友好を深めるという名目で、親善試合を行うことを思いついたという。


 マウロの妙案では、親善試合は7月に、ユービリア国で開催されなければならなかった。なぜなら、彼はクロスタン国の王位継承者の証である秘術を使って、サルバを捕らえようと考えたからだ。


 それが……例の白い毒ヘビ。サレー教では、あの白いヘビのことを“サレービテル”(審判者という意味らしい)と呼ぶ。


 恐ろしい毒ヘビのサレービテルを“匂い”と“音”で操る秘術は、クロスタン国の前王からマウロに伝えられた。サレービテルを“匂い”で従わせる以上、その地が乾いていることが条件だった。雨や水は、匂いを消してしまうから。

 

 そこで、来訪期間はおのずと定まった。7月。クロスタン国では雨季にあたるけど、ユービリア国では乾季にあたるから。


 マウロはさらに、サレー教すらも利用することを考えた。サレー教の教えで、戴冠式後10日間はまだサレー神に新国王就任の知らせが届いていないとみなされている。なのでこの期間は“始まりの黄昏”期と呼ばれ、暗殺の一番多い期間なのだそうだ。そんな時期にユービリア国を来訪することは、マウロが暗殺を恐れて、ユービリア国の兵に守ってもらおうとしているのではないかと、周りの目を欺くことができる。

 

 そして同時に、異国でマウロの命を狙う輩に、絶好の機会を与えることにもなる。

 

 マウロは―――恐ろしいほど大胆な計画を立てていた。自ら危険に飛び込むことで、相手を自分の罠に誘いこむ計画。

 

 異国の王は、臆病なふりを続けながら、入念に計画を遂行した。7月にユービリア城を来訪する。毎晩星と天候を読み、雨が降らないことを確認する。そして親善試合で、自分の周りから優秀な護衛であり、剣士である彼らが離れるときを見計らって、わざとその場を離れ、自分を狙う者に無防備に隙を見せたのだ。

 

 マウロは本当に、一人でサルバと対峙するつもりだった。だから彼は、自分で調合した眠り薬をユービリア兵の護衛に嗅がせて―――(そう、あのときマウロの身辺警護を務めていた者たちは、侵入者がやってくる前に、マウロの手によって眠らされていたらしい。わたしはすっかり気が動転していて、彼らはもう、返らぬ人になっているのかと思っていたけど、本当は無事だった)。

 

 でも、7月17日、わたしと城内で遭遇したことは、本当に予想外だったみたい。わたしがユービリア城の抜け道を知っていたことにも、めちゃくちゃ驚いたとマウロは話した。


 そこで話は変わるけど、わたしたちが秘密の通路を抜けて見張り塔から出てきた経緯は、サルバの手下の口からユービリア兵たちに伝わった。異国の王が抜け道を知っているはずはないということで、わたしにスパイ疑惑が浮上したとか……〈本当に、心からかんべんしてほしい。わたしのような冴えない愚か者を、いったい誰がスパイとして雇うっていうの??〉


 とにかく、わたしが疑われていると知った賢明なマウロは、ちゃんと口実を考えてくれていた。マウロはじつは前々から一人、サルバの手下を捕まえていて、その男から秘密の通路についての情報を聞き出していた、と。


 もちろん、作り話なのだけど。

 ユービリア国王陛下は驚き、感心さえしていたという。


 けど、秘密の通路について聞き出していたのは、女中頭も同じだった。


 彼女はアーデン卿が知っていたユービリア城のいくつかの隠し通路を把握していて、例の6月6日、サルバをその内の一つから中に侵入させて、わたしを亡き者にしようとしたのだ。


 マウロの話を聞く限り―――わたしは本当に、ありえない思い違いで、命を狙われていたことが分かった。


 女中頭は6月4日、わたしがもっと前から女中頭とアーデン卿の話を耳にしたと思いこんでいた。その会話の中で、女中頭はアーデン卿に自分たちの陰謀に協力するよう迫っていた。アーデン卿は命の危険を感じて―――表向きは賛同する意向を示した。いまになって思うと、酔っぱらったアーデン卿が宮廷女中を罵倒していたのは、女中頭に追い詰められていたせいだったのかも(もちろん、同情したりはしない。それとこれとは、話が違うもの)。


 女中頭のほうは、そのやりとりを、わたしにすべて聞かれていたと誤解して、サルバを死神として差し向けたのだ。


 クロスタン国の一行が来訪する前にわたしを呼び出し、深夜番の案内女中に任命したのも、人目につくのがもっとも少なくなる明け方の時間帯、主城から宮廷女中棟への帰り道を狙って、わたしを亡き者にするためだったと聞いたときはぞっとした。


 幸いなことに、ユービリア兵の配置が日によって変更されたことで(これはロラン隊長の案だった。マシューは本当に素晴らしく有能な上司に恵まれたと思う)サルバが動きづらくなり、行動に移せなかったという。


 つまり、わたしは……不運だったの?幸運だったの?


 うう、もう、頭が混乱しそう……それからマウロは、計画通り敵の手に落ちて、サルバ本人をおびき寄せることに成功した。


 サルバが自分の命を取らないことは分かっていたらしい。マウロの伯父、サンドロは、王位継承者に伝えらている秘術をなんとかしてマウロから聞き出そうとしていたから。


 とにかく、マウロには勝算があった。できるだけ誰も巻き込まずに、一人ですべてを終わらせるための秘策があった。だから捕まっても揺らがなかった。


 すべてがずっと前から計画されていたことで―――。


 本当に、わたしの存在だけが想定外だったのね。よくよく考えれば、わたしが下手に介入しないほうが、ことがうまく運んでたような気さえする。

 

 だってマウロは、この壮大な計画をフェルナンドにしか話していなかったのだから。フェルナンドはかなり反対したけど、最後には折れた。マウロは訓練したサレービテルを信頼できる従者に預け、自分が姿を消したときにそのヘビを放つように頼んだ。マウロの匂いを追うヘビは、サルバたちの隠れ家を突き止める道案内も兼ねていたのだ。


 サレービテルが恐ろしい生き物だということは、マウロが誰より分かっていた。だからこそ彼は、秘密の通路を抜けた先で、わたしをぎゅっと抱きしめて匂いを映していたのだという。万が一のことが起きて、ヘビがわたしに噛みつかないように。

 

 そして、あのとき地下倉庫で聞いた、シー、シー、と呪文のような言葉は、マウロがヘビに指示を与えるための“音”だった。

 

 だけどもう、思い出したくない。サルバはクロスタン国の兵によって、すでにクロスタン国行きの船に連れて行かれた。サレービテルの毒は即効性はない。じわじわと、相手を苦しめるのだという。……サレー教の教えに反した者に、罪を自覚させる猶予を与えるために。

 

 マウロはいったい、どんな気持ちで従兄にヘビの牙を向けさせたのだろう。

 

 わたしのすぐ隣で、異国の王は夜空の星を見上げていた。その表情から、心の奥底の感情まで読み取ることなんてできなかった。


 でも、わたしは彼が、思いやりのある少年だと信じている。


 これからも多くを抱えて、ときには感情を押し殺しながら、彼が前に進んでいくのだと思うと―――ものすごく切ない。


「マウロは……クロスタン国に、気になっている子とかいるの?」

 

 わたしの質問に、彼はきょとんとした。あどけない年頃の少年の顔だった。


「どうしたの、急に」

「だって、教えてもらってないから。それとも、すでに婚約者がいたりする?」

「いや、結婚する相手は、自分で決めることになっているんだ」

「どんな子が好みなの?」

「え。考えたこともないよ」


 マウロは珍しく動揺しているようだった。


「いままで、考えるひまもなかったし……」

「王様なんだから、考えないとダメよ。どんなお妃様がお望みなの?」

「ねえ、コレット、この話、また今度にしない?」

 

 マウロはちらちらと室内に目を向けて、マシューと話しこんでいるフェルナンドにいまにも助けを請いそうなようすだったので、わたしはそれ以上の詰問をあきらめた。


「分かった。また今度にしましょう。わたしはただ、マウロに、素敵なお妃様が見つかればいいなって思ったの。だって、同じ年にしては、マウロは抱えなきゃならないことが多すぎるんだもの」


 マウロは漆黒の目をわたしに向けて、ようやく微笑んでくれた。


「ありがとう。気遣ってくれて」

「わたしのほうこそ、マウロには知らないところで何度も助けてもらって……それからこれ、お返ししなきゃ」


 わたしは柘榴色の石を首からはずし、マウロに差し出した。


 でも、彼は受け取ろうとはしなかった。


「それは異国の大事な友人への贈り物だよ」

「え、でも、王家の首飾りなんでしょう?受け取れないよ」

「きみに持っててほしいんだ」


 そういわれてしまっては―――ものすごく綺麗な石だし―――断る理由がない。


「じゃあ……大事にするね」


 マウロはうれしそうに微笑んだ。


「マシューは幸せ者だね。きみが近くにいてくれるんだから」


 わたしはひっくり返りそうになった。


「そ、そんなことは……わたしはいつもいつも、彼を巻き込んで……迷惑ばかりかけて……あの、この話はまた今度にしない?」

「ぼくはそれでかまわないよ。けど、せっかくお洒落をしてるんだから、彼には正直に話してみたら?」

 

 うぐっ。すっかり形成逆転されている。


 さっきの動揺っぷりはどこへやら、マウロは楽しそうだ。


 いや、でも、けっこう良い雰囲気だったのに、途中で入ってきたのは誰だったっけ。


「……まあ、機会があればね」

「大丈夫だよ。きみは勇敢な女の子じゃないか」


 やれやれ。こんな不運で間の悪い臆病者をつかまえて、マウロったら、すっかり誤解している。


 だけどわたしは、決して忘れたりしない。


〈けっきょくのところ〉

・女中頭のとんでもない思い込みのせいで、命を奪われそうになった

・寝坊のせいで、異国の政変に遭遇した

・臆病心が祟って、ユービリア城の秘密の通路を探し当てた

・その秘密の通路を使用したばかりに、スパイとして疑われ、独房に半日閉じ込められる

・マシューととびきり良い雰囲気になると、必ず誰かの横やりが入ってくる


 そうね、つまり……。


 



 ユービリア国の古の呪いか何かだと考えられる。


 




 わたし、かなり迅速に強力なお清めを受ける必要があるのかも。

 うん。きっとそう。明日ベルシーに早急に相談しよう。

 

 けど、まあ……異国の王とこんな風に、ふつうの友人のように話せるくらい仲良くなれたのなら、今回の出来事は、そこまで不運じゃなかったのかもしれない。


 わたしが臆病者であることには、変わりないけど。

 

 それに、臆病者だからこそ、ひっそりこっそり、誰も知らないところで、マウロに訊くことならできる。


「ねえ、マウロ。クロスタン国とユービリア国は、これからもずっと、戦ったりしないわよね?」


 マウロはすぐには答えなかった。


「……ごめん。簡単には約束できないんだ。でも、両国が戦う理由なんて、いまはどこを探しても見つからない。ぼく自身、これからもずっと見つからないことを祈るよ」


 その言葉が聞けたら、十分だった。


 フェルナンドがバルコニーに顔を出した。クロスタン語で、マウロに何事かを伝える。マウロはうなずいた。


「そろそろ行かないと。本当に、色々ありがとう、コレット。今度はクロスタン国に正式に招待するよ。きみと、きみの友人たちも一緒に」


 それはとても心躍る申し出だった。わたしはにっこり笑った。


「楽しみにしてるね」


 マウロとは握手をして別れた。


 驚いたことに、フェルナンドはわたしの前で膝をつくと、わたしの左手を恭しく掲げて、その手の甲に口づけを落とした。彼はにっこり笑って、ユービリア語で「ありがとう」と言って、部屋から出ていった。


 わたしは真っ赤になって固まっていた。で、わたしのすぐ隣にはマシューがいた。

 

 ……痛いくらいの視線を感じる。

 

 おまけに、変な汗が止まらない。


「……コレット嬢は、大満足のようで」

 

 聞いたこともないような、とげとげしい言い方だった。

 

 ちょっと待って。納得いかない。


 どうしてわたしが後ろめたく思わないといけないの?


「あ、あれは、その、つまり、ただのあいさつでしょ?」


 言い返してやるどころか、弁解がましい口調になったのが、かなり情けなかった。


「ふーん。あいさつね」


 マシューは冷ややかに相槌をうった。


「そうそう。異国の素敵な王様との会話も弾んでたようじゃないか」

「ま、マシューのほうこそ!わたしのことなんかそっちのけで、フェルナンドと話してたじゃないの!」

「当然だろ。大事なお客様なんだから」


 にべもない。


「さすがに、贈り物をもらうほど親密になるとは思いもしなかったけど」


 マシューの避難がましい目はわたしの首元で輝く柘榴石に向けられていた。


「……異国の王から宝石を贈られるのがどういう意味か、分かってるのか?」

「ち、違うの。これは友人としての贈り物で……」

「たとえそうだとしても、周りの人間がそう思うとはかぎらないだろ」


 マシューはものすごく不機嫌で、しかも、少しだけ傷ついているように見えた。……気のせいじゃ、ないと思う。


「違うの!これは、本当に……ううん、そうよね。よし。いますぐ返してくる」


 わたしが部屋を飛び出そうとすると、マシューが慌てて腕をつかんで引き留めた。


「そんなの、ダメだ」

「でも、マシューの言う通りだから……」


 そうよ。わたしのことだもの。またあらぬうわさが、あらぬところから城中に広まるに違いない。


 この石が異国の王との友情の証だと知っているマウロとフェルナンドが母国に帰ってしまえば、わたしの言葉を信じてくれる人が一人もいなくなる。


 そんな中で、今度は異国の王をたぶらかした罪深い魔性の宮廷女中だとでも言われるようになったら……?


 そうね。もう、本気で亡命するしかない。


「本当にただの、友人の証なんだろ?」


 わたしはしっかりとマシューを見返した。


「本当にただの、大事な友人の証よ」

「……だったら、信じるよ。約束する」


 わたし、いつからこうなっちゃったんだろ。


 マシューの言葉の一つ一つに、焦ったり、動揺したり、安心したり。

 

 彼はとつぜんわたしの足元に片膝をつけて屈みこんだかと思うと、おもむろに右手をとって、その甲に口付けた。

 

 その瞬間、赤毛に火がついたんじゃないかって思うほど、首から耳まで燃えあがって、足が震え始めた。


 ユービリア語なんて、クロスタン語に負けず劣らず、全部忘れた。

 脈が速くなって、呼吸がままならず―――本気で、卒倒しかけた。


 マシューはわたしの手をとったまま、にやりと見上げてきた。


「……そういう反応なら、良しとするか」


 そうね。よし。この続きは、後日に書くことにしよう。

 

 じゃないと、一生眠れそうにないから。

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