7月19日 異国の政変

 薄暗くてほこりっぽい地下倉庫に入ってきたのは、マウロと同じ漆黒の目をした若い男だった。でも、その瞳にマウロのような明るさはなく、井戸の底のように暗く沈んでいた。


 それに、クロスタン国の出身にしては肌が白かった。


「やあ、マウロ」


 男は流暢なユービリア語で話しかけた。抜き身の剣で手のひらを叩きながら、ゆっくりと近づいてくる。男がまとう粗野な雰囲気と、身に着けているかっちりとしたユービリア国の兵士服がちぐはぐで、違和感を覚えずにはいられない。


「こんなふうにお前と会うことになるとは、昔なら想像もつかなかった。どんな気分だい、我が従弟どの?」

「きみこそどんな気分だい、サルバ?」

 

 同じように縛られていて身動きがとれないのに、わたしの隣でマウロは恐れもせずに口を開いた。


「五年間も、じつの父親にいいように操られている気分は?」


 サルバと呼ばれた男の黒い眉が、ピクリと動いた。


「これはおれの意思でやっていることだ」

「海賊になって異国を荒らしまわったり、誰かの暗殺を企てたりすることが?相手にそういうふうに思わせることは、きみの父親、サンドロ=トエニスがもっとも得意とするところだ」


 マウロの言葉には、目の前の男を哀れんでいるような響きが込められていた。


「サンドロはきみに将来の玉座を約束したかもしれない。だけど、ぼくをやつに引き渡せば、きみは殺されるだろう。きみに協力した者もだ。サンドロはそういう男なんだ。野心家で冷酷、じつの兄弟を手にかけることも、息子を手にかけることもためらわない」


 サルバは笑った。狂気じみた笑いだった。


「想像力が豊かだな、マウロ」

「空想の世界に生きているのはどっちか、いまに分かる」


 マウロは毅然と言い放った。


 サルバはふんと鼻を鳴らして、わたしに目を向けた。


「さて―――よりにもよって、お前がこの異国の娘に興味を持つとは思わなかった」


 サルバの剣がすっとわたしの喉元に向けられて―――あまりもあっさり絶命させられるのかと―――でも、そうじゃなくて、男は剣先でわたしの首に下げられた柘榴色の石がついた首飾りを持ち上げただけだった。


「男が身に着けていた宝石を女に与えるという行為は、クロスタン国では求愛を意味する」


 思わずマウロのほうに顔を向けそうになった。けど、ほんの少しでも動けば、鋭い剣の切っ先が首に触れてしまうという状況で、わたしにできることはあまりにも少ない。


「この娘をクロスタン国に連れて帰るつもりだったのか?それとも、手なずけてスパイにでも?」


 マウロは肩をすくめた。


「きみに教える必要はないな」

「だとすると、わざと自分の宝石を与えて、おれの手下が勝手に娘を殺そうとするのを防ごうとしたのか?そうやって王家の首飾りをつけさせていれば―――クロスタン国の連中なら、絶対に手を出さないだろうからな」


 マウロは答えない。


 そうよ。求愛。スパイ。どれもピンとこない。


 だけど、マウロがわたしに首飾りを一時的につけてくれることで、わたしを守ろうとしてくれていたのなら―――それはどうしてか、疑う気にならない。


 マウロの行動は、わたしの“王様”という概念を完全に覆していた。


 わたしはどこか、王様のことを雲の上の存在のように感じていて―――処刑台行きを覚悟で書くとするなら、ふつうの人間とは違う生き物だと思っていた。


 高貴で、誇り高くて、厳かで、決して庶民の目線と同じにはならない。


 それなのに、マウロは―――とるにたらない異国の宮廷女中を救おうとしてくれた、思いやりがあって、勇敢で、ただの優しい、十六歳の少年じゃないの。


 マシューやニーノたちと、何も変わらない。

 

 だからわたしも―――いまはただの、大事な異国の友人であるマウロのことを、なんとしても救わなきゃって思った。


「だがどのみち、この娘を生かしておくつもりはない」


 わたしはぎくりとサルバを見つめた。男は冷淡な瞳を向けた。


「哀れな異国の娘、おれが何度お前を狙ったか覚えているか?初めはユービリア城内で。次は城下町で。どれもことごとく邪魔されたがな、あの小生意気なユービリア国の兵士に」


 体温がひゅんって下がった。じゃあ、この男だったの?

 

 6月6日、わたしに剣を向けた、ユービリア城に紛れ込んでいた侵入者。


 6月19日、城下町へ出かけたとき、危ない目に遭ったのは―――偶然じゃなかったってこと?


 でも、どうして?


 なんで面識のないこの男に、狙われなきゃならないの?


「サルバ、なにをぐずぐずしているの」


 開けっ放しになっている倉庫の扉から、女の声が聞こえた。


「もうすぐ船が到着するわ。早く始末してしまいなさい」


 男の隣にやってきた人物の姿を見た瞬間、心臓が止まるかと思った。


 女中頭。

 

 宮廷女中服ではなく、町女の服を着た、女中頭。


 なんで?


 どうして、女中頭が?


 わたしの混乱を察したのか、彼女はほんの少し、哀れみの表情を浮かべた。


「かわいそうな子。聞いてはいけない話を聞いたばかりに……」

 

 わたしは小さく首を振った。


「わ、わたし……なにも……なにも聞いてなんか……」

「あら、嘘おっしゃい。わたしがあの男としゃべっているのを聞いたでしょう?あの下品な貴族の男、ノーマン=アーデンと」

 

 6月4日のこと?


 たしかに、あの日わたしは二人の女上司にたらい回しにされたせいで―――偶然にも女中頭と財務大臣の逢引の瞬間に立ち会うことになったけど……。


 そんな些細なことがどうして、命を狙われることにつながるの?


「さて、どこまで聞いたかは分からないけど、用心するに越したことはありませんから」

「きみがサルバの協力者というわけか」

 

 マウロは冷ややかな目を女中頭に向けた。


「自分の国を裏切ることに、罪悪感はないのか?」


「陛下、お言葉ですが、わたしは自分の国を裏切っているわけではありませんわ」

 

 女中頭は恐れもせずに答えた。


「大事な甥が、王の座につくことを手助けしているだけ。彼の母親は、わたくしの妹なんですの。それに、ユービリア国にやってきて、この国を振り回しているのはあなたのほうじゃないの。クロスタン国で暗殺されるのを恐れて、この国に逃げてきたんでしょう?この国の兵士たちは、守ることにかけては優秀ですものね。わたくしから言わしていただけば、陛下、あなたのほうが非情で、卑怯な王ではありませんか。異国の兵を盾にして、自分を危険な暗殺者から守ってもらおうとするなんて」

 

 マウロは否定しなかったけど、わたしは信じなかった。


 彼には、頼りなさそうな見た目や雰囲気に隠された聡明さと勇敢さがある。異国の兵を自分の盾にするような少年とは思えない。

 

 マウロがマシューたちを危険な目に遭わせて、自分の身を守ろうとするはずがない。


 きっとなにか……他の理由があるはずよ。


「さて、楽しいおしゃべりはここまで」

 

 女中頭はサルバを促した。サルバはうなずいて、わたしに向かって剣を振り上げた。


「サルバ!もうよすんだ!」


 マウロが鋭い声を上げた。


「クロスタンの王として命じる。いますぐその剣を引き、彼女を解放しろ」

 

 サルバは高笑いした。


「聞けないな、従弟どの。サレー神の名にかけて、お前はまだ、厳密には“正統”な王ではない」


「こんなときだけサレー神の名をかたるのか、サルバ=トエニス。罪のない異国の娘に手をかけることは、サレー神の教えに反している。いままでのことを悔い改めると誓うんだ。でなくば、お前には天罰が下るだろう」


「奇妙なことがあるもんだ、マウロ国王陛下」


 サルバは皮肉めいた表情でマウロを見下ろした。


「おれはもう、何人もの罪のない異国の民に手をかけたが、いまもまだこうして天罰を受けずに生きている。もしかするとサレー神は、異国のことには無関心なのかもしれないな」

 

 マウロの顔が青ざめた。

 

 サルバはわたしに向き直り、今度こそわたしに剣を振り下ろそうとした。わたしは顔を背けて、ぎゅっと目をつぶった。

 

 だって、もう―――どうしようもなかった。

 

 そのとき、カランと剣が床に落ちる音がした。


 わたしが目を開けると、呆気にとられた表情の女中頭が目に映った。彼女のすぐ隣で―――その手から剣を落としたサルバ=トエニスが足を抑えてうずくまっていた。


 サルバの顔は驚くほど青ざめていて、体が震え、怪物でも見るような目をマウロに向けていた。


「お前……まさか……!」


 マウロの顔に、表情はなかった。


「……警告はしたはずだよ、サルバ。それに、ぼくが正統な王位継承者であることは、もう分かったはずだ」


 サルバのブーツから、白い紐のような生き物が這い出すと、女中頭が短い悲鳴を上げた。

 

 それは背中に真紅の筋が入った、細い白ヘビだった。サルバはいまにも卒倒しそうなようすで、恐れおののいていた。


「サレービテル……!」

「ぼくと彼女を解放しろ、サルバ」


 マウロは苦しそうに命じた。


「そうすれば、きみの伯母の命まではとらない」

「い、いったい、どうしたというの、サルバ」


 女中頭は、甥の尋常ではない怯えようを見て、取り乱していた。彼の体を揺さぶっている。


「サルバ!」

「……ここからすぐに出ていくんだ」


 サルバは震える声で女中頭に告げた。


「マウロ……国王陛下は……あなたの命まではとらないと約束した」

「サルバ……」

「行ってくれ。おれはもう……」

「何を言っているの!」


「サレービテルは毒ヘビなんだ」


 マウロが告げた。


「特効薬はない。彼はもう助からない」


 女中頭は蒼白になった。


「なんてことを……」


 女中頭は目に涙を浮かべた。そしてサルバが落とした剣を拾い上げると、その剣をマウロに突きつけた。


 マウロは怯みもせずに、女中頭をまっすぐ見据えていた。


「異国の人殺しめ!」


 気づけば―――わたしは渾身の力を振り絞って、女中頭の足元に体を投げ出して、体勢を崩させた。女中頭は床に倒れたが、すぐに起き上がると、再び剣を握りしめた。


「この……小娘が!」


 わたしは床に転がったままもがいたけど……ダメだ。起き上がれない。


 女中頭の顔をした死神が、すぐ目の前で、血走った目で剣を握っているというのに。


 入り口付近がにわかに騒がしくなった。ガラスが割れる音。複数の人間が激しく床を踏み鳴らす音。剣と剣がぶつかりあう音。異国語の怒声―――。


「サルバ様!大変です!」

 

 慌ただしい声が、開け放たれた扉から飛んだ。


「ユービリアの兵らが……!」

 

 報告をした男の体が、とつぜん前に崩れ落ちた。


 そして、部屋の中に飛びこんできた人影が、床に転がっているわたしの前に立ちふさがったかと思うと、あっという間に女中頭の手から剣を叩き落とした。


 声の出し方も、涙の流し方も、忘れてしまった。


 だって、ようやく。


 ようやく、わたしの英雄が、来てくれたんだもの。


 ユービリア国の兵士、マシュー=ガレスは、ちゃんと約束を守ってくれた。


 わたしに危険が迫ったとき、彼は“偶然”、いつも、そばにいてくれる。


 マシューの次に倉庫の中に飛び込んできたのは、マウロの従者フェルナンドだった。彼はマウロの無事をたしかめると、けわしい顔つきを少し緩めて、ほっと安堵したように見えた。


 マシューとフェルナンドは視線を交わしてうなずきあった。マシューは女中頭から奪い取った剣を拾いあげて、フェルナンドに手渡した。そしてようやく剣をしまって、身動きがとれないわたしを引き起こし、腕を縛っている縄を短剣で切ってくれた。


 フェルナンドはサルバと、サルバのすぐ横で呆然と座りこんでいる女中頭を一瞥し、見張り役から奪ったらしい鍵を使ってマウロとわたしの足枷をはずしてくれた。


 わたしは自由の身になっても、まだ身動きがとれないでいた。座りこんだままのわたしのすぐ隣で、マシューが肩をしっかり支えてくれなければ、後ろに倒れて頭を打っていたかもしれない。


 無意識に、しびれる腕をおそるおそる伸ばして、マシューの手に触れた。マシューがその手をしっかり握り返してくれて、ようやく体温が戻ってきたように思う。


 マシューのほうに顔を向けると、彼もわたしを見ていた。


 彼にしては珍しく、わたしを映す翡翠の瞳が動揺しているように見えた。


 もしかして、マシューも怖かったのかもしれない。恐れ知らずの少年だと思っていたけど、彼にだって、恐ろしいと思うことがあって、でもそれを隠して、いつも勇敢に立ち向かっているのかもしれない。

 

 そんなふうにふるまうこと―――そうね、わたしにはとうてい無理だけど。


 そのときはただ、本当にもう大丈夫なんだということをたしかめたくて―――わたしは今度こそためらわずに、マシューにぎゅっと抱きついた。


 彼は腕を回して、しっかりと抱きしめ返してくれた。


 マシューは温かかった。太陽のような匂いがした。わたしと同じくらい鼓動が早かった。


 マウロがクロスタン語でフェルナンドに話しかけているのが聞こえる。


 でもわたしは、マシューの力強い心臓の鼓動だけに耳を傾けていた。

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