7月18日 マウロ

 こんなに忙しいときに、風邪を引くなんて思わなかった。寒気が止まらない。


 頭がズキズキして、体が重くて、自分の手足を思ったように動かせない。


 おまけに……変な音まで聞こえてくる。風邪で幻聴を聞くなんて、そうとうまずいのかも。


 シー、シー。理解できない言葉。そしてまた、シー、シー。

 

 うう、頭が痛い。寒い。


 ベルシーったら、妙な呪文をつぶやく前に、せめて毛布くらいかけてくれたっていいのに……。

 

 最悪な気分で目覚めると、そこは薄暗くて、ほこりっぽくて、床は砂でも撒いているのかようにじゃりじゃりしていて、古びた木樽や木箱が積まれた狭っ苦しい場所だった。

 

 言葉なんか出るはずもない。


 呆気にとられて、起き上がろうとすると―――いも虫みたいに転がった。


 よく見れば、後ろ手に縛られていて、左足にはまるで―――昔奴隷がつけられていたような、鉄の重しがついた枷がはめられている。


「……気がついたみたいだね。大丈夫?」

 

 声の主を振り向くと、そこには同じように縛られ、足枷をはめられている―――クロスタン国の少年王、マウロ=イータ=クロスタンの姿があった。

 

 異国の王は、灰色の壁に背を預けて座っていた。

 

 その姿を見て、わたしは一気に現実に引き戻された。

 

 そうだ。わたし、装飾品室の秘密の通路を抜けて、見張り塔の地下から地上へ出た後に―――背後から誰かに襲われて―――それで―――。


「陛下!ご無事ですか?お怪我は……」

「ぼくは大丈夫だよ」

 

 その言葉を聞いて、ひとまずほっとした。

 

 ほっとすると同時に、なにか違和感を覚えた。その違和感に気づくのが遅かったのは、気が動転していたからだ。頭の動きがすっかり鈍っていた。


 そう思うと、首の後ろに衝撃を与えてもらって良かったのかも。これから起こる悲惨な運命を想像する力がなかったおかげで、震え上がったり、泣き出したり、暴れまわったりする恐れがなかったから。


「え、あの、陛下は……ユービリア語をお話しに……?」

 

 異国の王は微笑んだ。


「勉強する時間はたっぷりあったからね」


 え?ちょっと待って。どういうこと?


 こんな風に捕まってから、じつはもう三年くらい経ってるとか?

 

 そんな―――わけないか。


 わたしはなんとか起き上がって、恐れ多くも陛下の隣に座ると、錆びついた思考を働かせた。


「まさか……ユービリア語が分からないフリをされていたのですか?」

 

 異国の王は不思議な笑みを浮かべていた。否定はしなかった。


 あたりまえだけど、わたしは訊かずにいられなかった。


「どうしてそのようなことを?」


「そうしたほうが、正直な言葉が聞けるから。ぼくはクロスタン国の王で、それをきみたちがどう思っているのか、どう感じているのか、知りたかった。知る必要があった」


 悪びれず、毅然と言い放つ異国の王の横顔を見ていると―――彼はまるで別人だった。


 だって、わたしが知っているクロスタン国の少年王は、7月11日、ユービリア城の大広間で見るも哀れなほど、怯えているように見えたのに。


「もしかして……アガリ症ですか?」

「なんだい、それ?」

 

 うっ。しまった。純粋そうな漆黒の瞳で見つめられて、わたしは焦った。


「あの、ええと、大したことじゃありません。本当に、申し訳ありません」


「いいよ、そう、堅苦しくならなくても。きみはぼくに仕えているわけではないし、ぼくのせいでこんなことに巻き込んでしまって………きみたちの国の言葉で、どう謝っていいかもわからない」


 彼は王という立場でありながら、異国の、しかもただのしがない宮廷女中という身分の低い相手に対して、本当に申し訳なさそうに頭を下げるものだから……わたしは真っ青になった。


「そ、そんな、恐れ多いです!そんなことなさらないでください!」


「でも、ぼくたちはいま、ほら―――かなり対等な立場にいると思うんだ」


 異国の王は、というか、マウロは、少し顔をあげて、こんなときに茶目っ気たっぷりに足枷の鎖を鳴らしてみせた。


 わたしは思わず吹いてしまった。

 

 そうね。どう考えても、絶望的な状況だった。


 わたしたちは人知れず捕まり、どこかも分からない場所に閉じ込められている。


 誰かがこの場所を探し当てたとしても―――そのときにわたしたちが無事だとはかぎらない。


 だとすれば、気さくな異国の王を敬うことに時間をかけるより、残りの時間をせめて―――少しでも楽しみたいと思った。

 

 きっと、異国の王と対等になれることなんて、一生に一度もないはず。


「ところで、きみはコレットだったね?」

 

 異国の王は、わたしの名前を知っていた。ユービリア語が分かっていたのだから、7月16日の夜、ロラン隊長がわたしに声をかけたときに耳にしたのだと思う。


「きみはどうして、ユービリア城で働いているんだい?」

 

 マウロの言葉じゃないけど、時間はたっぷりあった。

 

 わたしは彼に、宮廷女中になるまでの経緯と、宮廷女中として働き始めてからの数々の出来事を話して聞かせた。さながら、いままで書いてきた日記を読んで聞かせてるような……そんな気分だった。


 マウロはオカルト主義に興味を示し(クロスタン国には、星を読む宮廷占い師がいるのだといった)、襲撃訓練の話には息をのんでいた

 

 フィエンのこと、ベルシーのこと、ニーノのこと、ロラン隊長のこと、トマスのこと、厳しい女中頭補佐と、その正反対の女中頭のこと、意地悪宮廷女中のレジーナ、おやっさんのこと。


 そして、マシューのことも話した。彼がどれほど優しくて、優秀な兵士かっていうことを(彼がずっと悩んでいた例の件については、それとなくぼかしたけど)。


 わたしがマシューについて語るのを、マウロは楽しそうに耳を傾けてくれた。


「コレットにとって、マシューは特別な人なんだね」

 

 わたしは真っ赤になった。そんな風に聞こえるなんて、思っていなかったから。


「わたしが、勝手に思ってるだけなの。何度も助けてもらったから……わたしの中で、彼は英雄みたいになっちゃって」

 

 でも、もう会えないのかなあと思うと、心が空っぽになった。

 

 ここで最期を迎えてしまうっていう恐怖より、もうマシューにも、他の皆にも会えなくなってしまうという悲しさのほうが募った。


 わたしがここで泣いても、もうマシューに涙を拭ってもらうことはできないんだって。


「……コレット、大丈夫だよ」

 

 マウロが静かに言った。


「大丈夫。彼はきっと、ここに来てくれる。今度は“偶然”そばにいるのではなく、ちゃんと、きみを助けにここへやってくる」


 どうしてマウロがそう断言できるのか、わたしには分からなかった。唇をかんで、涙をこらえようとしていたのに―――けっきょくそれをこぼしてしまった、哀れな異国の娘をなんとか慰めようとしてくれたのだとしたら、彼もそうとう、情け深くて、優しい少年だ。


「ありがとう、マウロ」


 マウロは微笑んだ。


 こんな状況で、彼はどうして落ち着いていられるのだろうと不思議だった。

 

 同じ十六歳なのに、彼は異国の王で……それって、どんな気持ちなんだろう。

 ずっとずっと前から、あらゆる悲惨な状況を覚悟していたのかもしれない。


 そもそも、マウロはユービリア語をしゃべれることをわたしに話したり……ずっと隠していたことを他人に話すということは、つまり、本当に”覚悟”をしているのだ、彼は。


 助かる見込みなんか、これっぽっちもないってことだ。


 気持ちがずんと落ち込んで、もう一度眠ってしまいたいと思った。


「コレット、きみに一つ聞きたいことがあるんだ」

「……うん?」

「きみは襲撃訓練のとき、侵入者に命を狙われたといったね?」

「ええ。まあ……」

 

 うう、思い出したくもない。思えばあのころから、死神に目をつけられたんじゃないかって気がする。


「さっきも話したけど、わたし、人よりツイてなくて……」

「いや、きみはおそらく……きみが意図せずところで、なにか重大なことを知ってしまったんだよ」

 

 マウロの表情は真剣だった。


「それで、口封じのために狙われたんだ。宮廷では珍しくないことだよ」

 

 そういわれても、ピンとこなかった。だって、重大なことって……わたしが何を知ったっていうの?


「マウロって、想像力が豊かなのね?」

「きみだって負けてないさ」


 異国の少年王が指摘したのはおもに、5月25日の騒動の件だと思う。


「……話すんじゃなかった」

 

 わたしが口を尖らすと、マウロは笑った。


「でも、きみが行動を起こすことで、物事が良い方向に向かったように聞こえるよ。きみの友人のベルシーは、きみが何もしなかったら、ずっと心を閉ざしていたんじゃないかな。マシューだって、きみに背中を押されて、ようやく前に進むことができたんだろ?」


 そんなふうに考えたことがなくて、わたしは驚きを隠せなかった。


 本当に……本当にわたしは、少しでも大事な友人たちの力になれていたんだろうか。


「それにきみは、ぼくに暗殺のうわさがささやかれるていると知っていながら、あの夜、ぼくを止めて一人で階下へ向かった。ユービリア国の兵士にまぎれた賊に遭遇したときも、ぼくの手を引いて、安全な道へと導いてくれた。自分が危険な目にあうかもしれないのに、誰かを助けようとするとき、いったいどれほどの恐怖に立ち向かわないといけないんだろう……きみは色々なことが恐ろしいと言っていたね。何をするにも、怯えてしまうのだと。けど、実際には、他の人ができないようなことをやり遂げてしまっているんだ」


 マウロの言葉が、どれほど、どれほどこの臆病で、愚か者の言葉に沁みたのか分からない。


「きみを臆病者と呼ぶには、あまりにも恐れ多いよ、コレット=マリー。ぼくの目から見れば、きみは小さな革命者だ。ユービリア国で、大事な友人たちのために歴史的快挙を成し遂げようとしている、勇敢な少女だよ」

 

 もう、その寛大な言葉に、胸が熱くなった。


 異国の王から見て、わたしは小さな革命者なんだ。


 ここに来て、まさか上を向くことができるなんて。

 最後の最後に、自分のことをほんの少しだけ、誇らしいと思うことができた。

 

「ありがとう、マウロ」


 ニーノを思い出した。彼の優しい言葉で、わたしは救われた。いまも同じ気持ちだった。


「マウロみたいな王様がいるクロスタン国は、きっとすごく良い国なんだろうね」

 

 異国の少年王は苦笑した。


「どうかな。ぼくは頼りない王だと言われている。これまで、クロスタン国の玉座についた王は、誰もが屈強な戦士だった。それに比べてぼくは、剣の訓練を受けたこともない。部屋に引きこもって、本ばかり読んでいたよ。父が亡くなったときは―――」

 

 マウロの目が悲しさを帯びた。


「泣いてばかりだった。国王の座に就くのは、もっとずっとずっと先で……ぼくが玉座に座るくらいなら、フェルナンドを推薦しようと思っていた。彼は、ぼくの従者をしているけど、本当は異母兄弟なんだ。フェルナンドはいかにも王にふさわしい風格だし、強いし、頼りがいもある。だけど彼は、王になったぼくを守るために剣の腕を磨いてきたのだといった」

 

 異国の少年王の目に、強い光が宿った。二人の間には、なにかとても強い絆があるのだと分かった。


 マウロは王族らしく、しっかりと顔を上げた。


 彼が生きることをあきらめているようすは―――微塵も感じられなかった。


「だからこそぼくも、王として戦うことを決めたんだ。ユービリア国にやってきたのは、ぼくがクロスタン国の王であることを、ある人物に証明するためなんだよ、コレット」


 マウロの気迫に、わたしは息をのんだ。


「ある人物って……?」


 異国の少年王は、鋭い瞳でこの部屋からゆいいつ外につながっているらしい扉を見つめていた。


「この国で好き勝手やってくれた、ぼくの愚かな従兄どのさ」

 

 やがて、足音が近づいてきたかと思うと、扉がゆっくりと開かれた。

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