7月1日 本音が知りたい

〈クロスタン語〉

シーン(はい)

ノル (いいえ)

アラ・トイラ・ペルレ(お手洗いはこちらでございます)

アラ・ウォルテン・ゲル(お水をどうぞ)

キィ・エクサレンタ!(すごいですね!)


 そうね。この五つが精一杯。

 いまのわたしに、クロスタン語を暗記する余裕なんかない。


 大丈夫。必要になりそうな言葉を羊皮紙に全部書き写して、あとは身振り手振りで乗り切ればいいんだから。


 そんなことより。


 そんなことより!

 

 今日ようやく、お昼の食堂で久しぶりにマシューに会うことができた。ちょうど、ばったりって感じで、食堂の扉前で鉢合わせた。


 案の定、6月23日のレジーナの爆弾発言の影響で、わたしは彼の姿を見たとたん一人勝手に石像みたいになってたけど……。


「で、異国の言葉は覚えられたのか?」


 ってマシューが笑いかけてくれたから、あとは自然に、前みたいに会話できるようになった。わたしが来賓の案内女中に任命されたっていう情報は、思った通り自称とびきり良い男のトマス=レオルトから聞いたみたい。


 久々にお昼を一緒に食べながら、わたしはずっと気になっていたことを声を落として訊いた。


「で、マシュー、例の治療は……」


 マシューはいたずらっぽく片目をつぶってみせた。


「ちょっと外で話さないか?」


 そうね。白状すると……二人っきりで中庭に向かうことを想像しただけで、覚えたはずのクロスタン語が全部消えた。

 

 でも、マシューとこんな時間を持てるのも、しばらく難しそうだから、断ったりしなかった。だって、最近めちゃくちゃ忙しいんだもの。宮廷女中の半数以上が毎日残業しているし、加えてクロスタン語の講義も入って、もう毎日てんてこまいで。

 

 ユービリア城の警備に加えて、賓客の護衛も任されているマシューたち兵士がどれほど大変かなんて、想像しなくたって分かる。

 

 なのでわたしは大きく深呼吸して、動揺せず、冷静さを失わないように、マシューと連れだって中庭へ出た。右足を踏み出したとき右手が、左足を前に出したら左手が一緒に前に出たけど―――問題なし。だって、ちゃんと歩けてましたから。マシューが奇妙なものを見るような目を向けてきたけど―――そこは気づかないふりをした。


 イチイの木陰になっていたふかふかの芝生の上に座ると、マシューが驚くべきことを告げた。


「じつは、トマスに話したんだ。おれが“アガリ症”だってこと」

「え―――!!しゃべっちゃったの!?」

 

 体温が崖から飛び降りたみたいにびゅんって下がった。

 マシューったら、どうしちゃったのよ?


 トマスはたしかに悪い人じゃない。善人よ。

 でも、でも、とびきりおしゃべりな男なのに―――――!!


「そんな顔しなくても大丈夫だよ」

 

 きっと、とんでもない顔をしていたに違いない。


「なんだか特別な薬を受け取っておいて、トマスをずっとだまし続けるのも悪いなって思ったんだ」


 それでこの前ついに正直に打ち明けたらしい。自称とびきり良い男はめちゃくちゃ驚いたらしいけど、ちゃんとマシューの気持ちを汲んでくれたようだ。病気のことは固く口止めすると誓い、症状が改善するまで薬の調達を続けてくれることになったのだとか。


「黙ってるより、話したほうが楽になるんだな。なんだか、コレットとトマスが知っててくれるって考えるだけで、胸のつっかえがとれたような気がするんだ。だから、ええと、コレットにはとくに……」


 マシューは照れくさそうに言った。


「感謝してる」


 そんなふうに改めて言われると、わたしのほうが照れくさくて死んでしまう。そもそもマシューは、自分のことは自分でちゃんと面倒を見れる若者だ。きっと、わたしが何かをしなくても、彼はちゃんとこの危機を乗り越えたはず。


 でも、とりあえず、良かった――――。


 おしゃべりなトマスも、やればできるんじゃないの(だったら、他のことも全部黙っててくれたらもっと良かったのに……まあ、過去のことは井戸に流そう)。


 もちろん、マシューはちゃんと薬を飲んで治療を続けている。症状がどのくらい改善したのかは自分でも分からないけど、


「まあ、なんとかなるさ」


 と彼は楽観的だ。


 そうね。あんまり不安になると、余計に緊張しちゃうかもしれないし。そのせいで、とんでもない行動に走ったりするのは、もっとまずい。


 だから、楽観的にかまえていたほうがいいのかも。わたしもそんな風に考えれたら、これまでの失敗を未然に防げたんじゃないかな。まあ、もう遅いけど……。


 親善試合は7月17日に予定されている。ユービリア城の警備の合間に、ロラン隊長と、他の出場者を含めた精鋭五人で、夜中まで訓練を行うこともあるとか。


「体調は大丈夫なの?」

「いまのところは。体を動かしてたほうが落ち着くんだよな。コレットも忙しいんじゃないか?」

「えっ、まあ、毎日くたびれてはいるけど、なんとか大丈夫」

「そっか」


 少しの間、沈黙した。


 7月になるとだいぶ陽射しが強くて、日中は汗ばむくらいだ。この時期はユービリア国じゃめったに雨が降らない。井戸の水が乾かないか心配だけど、まあわたしが心配したところでどうにもならないし。


 ただ木陰にいると、涼しい風が心地よくてほっとする。本当に、こんなにのんびりしたのはいつぶりかな?


 とはいいつつも、わたしは変な汗をだらだら流していた。暑いんじゃなくて、緊張、動揺、混乱、といった感情のムラが気候とは関係なく勝手にわたしの体温を上げたり下げたりするというか……。あと、この妙な沈黙に耐えかねて、全力で逃げてしまいたいという衝動と戦っていたということもある。


 うう、マシューともう少し離れて座れば良かったのよ。だって、近い。腕一本分くらいしか、距離が空いてなかったし……かといって、いまさら遠ざかるのも、あきらかに妙だし……。


「ミ・エンダイラ・ファイ・トゥ」


 マシューがとつぜん口を開くから、飛び上がりそうなほどびっくりした。


「それ―――クロスタン語?どういう意味?」

「“貴殿とのお手合わせを楽しみにしています”」

「へえー!マシューたちも勉強してるだ。すごいね」


 もしかして、わたしが妙に緊張していることに気がついて、空気を和らげようとしてくれたのかもしれない。彼なりの気づかいだったとしたら……うう、優しすぎる。


「ええと……ああ、アラ・トイラ・ペルレ!」

 

 わたしが覚えていたクロスタン語を披露すると、マシューはおもしろそうに片眉をあげた。


「どういう意味?」

「“すごいですね!”」

「へえ。使えそうだな」


 よーし、決めた。わたしもう、二度と口を開かない。


 いまさら気づいたんだけど、“すごいですね!”じゃなくて、“お手洗いはこちらでございます”っていう言葉を間違ってマシューに教えちゃった……。彼、使わなければいいけど……。


 とにかく、マシューと何気なく会話しながら、ふと思ったの。


 もっと一緒にいたいなあ、って。


 マシューが隣で笑っててくれてたら、なんだかものすごく幸せで満ち足りた気持ちになるんだもの。たしかに、変な汗は止まらないし、目があうたびに心拍数があがるし、間違って手とか触れたら死んでしまうかもっていう恐れはあったけど、それでもこうしていう時間がいま、一番好きだなあって。


 好きだなあ、って。


 ん?


 いや、ううん、違う、これは、こうしている時間が好きなのであって……。


 べつにマシューのことが、す、好きだとか……。


 そういう、わけじゃ……。


 待って。落ち着きましょう。ここは間違えちゃダメだから。勘違いは危険すぎる。たかが勘違いとあなどっていると、気づかないうちに大きな騒動を引き起こして―――わたしの場合、目も当てられない結末になるから。


〈コレット=マリーの冷静な考察〉

・マシューと一緒にいる時間が好き

・マシューと一緒にいる時間が好きなのは、マシューといると楽しいから

・マシューといると楽しいのは、マシューに会いたいという気持ちがいつもあるから

・マシューに会いたいという気持ちがいつもあるのは、マシューのことが……。


 なに、この流れ。嘘でしょ。



 わたし……マシュー=ガレスのことが好きなの?

 


 待って。でも、それは、勘違いということもある。

 だって彼は友人じゃないの。同じ十六歳!わたしは昔から年上派だったはず。

 

 たしかに、マシューには何度も助けられた(何度も厄介な目に巻き込んだともいう)。おまけに彼は……カッコいい。優しいし、いつも冷静だし、機転が利くし、強いし、笑顔が素敵だし……青と白の兵士服がよく似合ってる。翡翠色の瞳は見つめていると吸いこまれそうだし、まぶたは二重で、唇は柔らかそうで……わ――っ!なんでもないなんでもない!


 う、嘘でしょ―――わたし、恐れ多くも、彼のこと好きになっちゃったの?

 こんなことってあるの?


 ていうか、愚かすぎる……わたしほどの臆病者で、いつも不運につきまとわれて知らないうちに歴史の影に消えちゃう恐れのある赤毛の小娘が、よりにもよってとびきり優秀でもうすぐ歴史的快挙を起こすかもしれないような輝く英雄めいた少年を好きになっちゃったの?


 ありえない。ありえないでしょ。

 見込みないよ―――。絶望的すぎるよ―――。


 こんな風にあまりにも絶望的な状況に陥ると……そうね。わたしは忘れるべきことをとつぜん思い出したりする。


“それ以外に、あのマシュー=ガレスがあんたに惚れる理由がないもんね”


 レジーナ。意地悪で人でなしで陰険な宮廷女中。でも、今日ほど、彼女の言葉を信じたいって思ったことはない(たぶん、世界がひっくり返るか、生まれ変わるかしない限り、二度とない)

 

 で、わたしはその言葉に背中を押されるように―――愚かにも勇敢に―――マシューに向き直った。


「あの、マシュー」

「ん?」

「訊きたいことがあるの」

 

 芝生の上で膝をそろえて座るわたしを見て、マシューは笑って促した。


「なんでもどうぞ、コレット嬢」

 

 心臓が―――喉のほうまでせりあがってきた。マシューはいつものように、ていうか、いつも以上に無防備に、わたしの言葉の続きを待っていた。かなりの勇気が必要だった。でも、この機会を逃したら、きっと後悔すると思って―――。


 わたしは震える口を開いた。


「マシューは、わたしのこと―――」


「おっ、いたいた。マシュー。ロラン隊長が呼んでるぞ。あ、コレット嬢。元気かい?」


 まさかの自称とびきり良い男トマ―――ス!


 ちょっと――――!!もう―――――!!!


 どういうことなの!?善人で救世主なんじゃなかったの!?


 必要ないときに気をつかって、必要なときに気をつかわないって最高におかしいでしょうよ!!


 胸ぐらをつかんで世界のはしっこまで放り投げてやりたい衝動に駆られた。それくらい、もう、発狂してしまいそうだった。


 けどマシューは、無情にもすくっと立ち上がって「もうそんな時間か」とか言っちゃうし。


「ごめん、コレット。行かないと」

 

 ですよね―――。お忙しいですよね―――。


「うん……じゃあね」

 

 がっくりしていたわたしの頭にぽんと手をのせて、マシューは輝くような笑顔で「またな」と言った。


 そしてトマスと一緒に去ってしまった。


 ですよね――――。


 相手がこの、コレット=マリーだもの。

太陽のように輝く金髪で、青い瞳が美しい伝説の高貴な森の乙女とかじゃないもの。


 当然、去っていくのが正解です。


 しかもわたしは―――救いがたい愚か者。頭にぽんと優しく手を置いてくれた、去り際のマシューの笑顔と、一度も振り向かなかったところが、いかにも潔くて、ユービリアを守る正義の兵士みたいで、めちゃくちゃカッコいいとか思ってしまった。


 はあ。このあと、宮廷女中たちが第二広間に久しぶりに全員集合して、7月11日からの特別勤務体制についての説明会が行われた。正直、全然耳に入って来なかった。でもわたしはしがない案内女中だから、とにかくお客様を案内すればいいいのよね。


 ただ、ちょっとワクワクしているのは―――いよいよ自国の国王陛下と、王妃様、そしてそのご子息であるルーサー殿下と、ヴァレリア王女様のお顔を拝見できるってこと。


 宮廷女中の身分じゃふだん主城に入ることはできないのだけど、7月11日の対面式のときは、主城のとびきり大きな大広間の端っこで、宮廷女中たちは拍手隊として参加することになっている。合図があれば、ことあるごとに割れんばかりの拍手をするのが仕事だ。

 

 ユービリア国の頂点に立つような王族って、いったいどんな感じなんだろう。庶民目線での感想を、しっかり日記に書き残しておかなきゃ。

 

 そして……やれやれ。今度はいつマシューに会えるのやら。兵士たちも特別勤務体制になるだろうから、城内でばったり偶然、っていうのは、しばらく期待できそうにない。


 だから今日の午後のひと時は、ものすごく尊くて、貴重な時間だった。


 それなのに、うー、トマスのやつ……!!


 ううん、大丈夫。マシューに二度と会えないわけじゃないんだから。クロスタン国の皆さまがお帰りになったら、また前のような日常が戻ってくる。


 だからそれまで……がんばって、しっかり働くのよ、コレット。


〈ちょっと許しがたい人物〉

自称とびきり良い男トマス=レオルト

(※薬の件で恩はある。恩はあるけど……それにしたって、もうちょっと気を遣ってくれても良かったんじゃないの!?じつはとびきり愚かなんじゃないの!?)

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