6月22日 未練
ひっそりとした宮廷女中棟とユービリア城の翼棟をつなぐ連絡通路を抜けて、気がつけばわたしの足は練兵場に向かっていた。昨晩の豪雨のせいで中庭の短い芝生は雨でぬかるんでいたけど、雨はもう止んで、早起きの小鳥たちがさえずっているのが聞こえた。
イチイの木々の下に伸びる使用人用の小道を抜けると、夜明け前の薄闇に包まれた練兵場が現れた。練習用の杭が何本か地面に突き刺さったまま、しっとりと濡れている。
あたりまえだけど、誰もいない。
でも、どうしてもここに来られずにはいられなかった。だって、もしかしたら、白い光を放つ心優しい天からの使者が、最後にとびきりの恩情をかけてくださって―――会えるかもって思ったから。
やれやれ。わたし、どこまで救いようがないの?
いまさら、未練たらたらなのに気がついて。
これじゃ死神だって、目をぐるっと回して呆れるはず。ていうか、そうしてくれないかなって本気で思った。わたしはできることをやってきたし、昨日友人のために動いたこと、後悔なんかしていない。
レジーナに青虫を投げつけたことは、死ぬほど後悔してるけど。
だって、いくらなにかに憑りつかれていたからといっても―――あんな感情的な行為に走るべきじゃなかった。それで幾度となく失敗してきたのに、ああいう場面に追いこまれると、わたしはころっと忘れてしまう。
ああ、公衆の面前に、レジーナに泣いて謝りたいくらい。それでもし、わたしをひそかに井戸に突き落とすことを考え直してくれるんだったら。今晩の呼び出しのこと、ナシにしてくれるんだったら。
でもそれより。そんなことより。
昨晩一睡もできなかったのは、彼のこと考えてたからだ。
いまさら怖くなるなんて、愚かにもほどがある。
でも、わたしが6月21日にやってしまったことが――もしかして自己満足の独りよがりだったかもしれない行動が――彼の兵士としての人生をめちゃくちゃにしてしまっていたら?
そんなのもう、生きていても死んでしまうと思って。
だって彼は―――何度も何度もわたしのこと助けてくれて。
すごく優しくて、強くて、みんなから頼りにされていて、国宝みたいな少年なのに。
本人に相談もせずに、わたしは動いてしまった。それで後悔していない、なんて言いきって。
バカ。大バカ。愚か者どころじゃない。わたしの命を死神に捧げるだけじゃ決して足りない。
なにもかもがうまくいってない未来が見えて、ベッドの中で頭が痛くなるくらい泣いた。動悸がおさまらなくって、震えが止まらなくて―――。
彼の病気のことがみんなにバレて、もう兵士としていられなくなって、城から追い出されちゃってたら?
彼を絶望させてしまってたら、わたし、どうすればいいの?
誰もいない練兵場を見ていたら、また涙がこみあげてきて、唇が震えて―――。
「コレット?」
背後からなじみのある声が聞こえて、体温がひゅんって下がった。
また背後をとられた。わたしの背後って、どうしてこう、いつもがら空きなの?
というか、ついに幻聴が聞こえ始めたと思った。だって、夜明け前に、そんな、偶然、彼に会えるはずないじゃないの。
たとえ本当に、後ろにいるのが本当に彼だったとしても、無理。無理だ。とうてい向き合えるわけがない。
それで気がつけばけっこう本気で走って逃げていた。同時に、追いかけてきて後ろから刺してくれたらいいのにって思ってた。
だって、兵士なら苦しまずに相手の命を絶つ方法だって……知ってるでしょ?
それって、冷たい井戸の中に突き落とされるよりずっといい。
そんなこと考えてたせいか、わたしは中庭のぬかるみに足をとられて―――顔から地面に突っ込んだ。ばしゃあっ、と濡れた土を跳ねあげて、顔も袖もスカートも、何もかもがゆっくりと泥を吸い込んでいくのが分かった。
それから、もう一つ分かってた。彼が後ろから追いかけてきてたってこと。
彼は―――マシューは、後ろからわたしをぐいっと引き起こして、顔についた泥を落としてくれた。
ああ。そのときのマシューの顔ときたら。困惑と、腹立たしさと、哀れみと、いらだちと―――さまざまな感情が入り混じって、何から言えばいいのか分からないって顔をしていた。
力のない赤毛の愚かな人形のようにずるずると腕を引っ張られて、比較的乾いた切株の上に座らされた。マシューはわたしの前で膝を折って、黙ってスカートについた土を払ってくれた。なんでそんなことしてくれるのかさっぱり分からないまま、わたしはただ呆然としていた。
「なんで逃げたんだよ?」
怒ったような言い方に、肩がびくりと震えた。どなったり、叫んだりしないなんて、彼はあまりにも理性的だった。6月21日にわたしがしでかしたことを思えば。
「あわせる顔が、ないんだもの」
小雨が降るみたいに、ぽつりとこぼした。
「勝手なことしておいて、いまさら何言ってるんだ」
本当、その通り。彼の兵士としての人生を奪っておきながら、いまさら。
全部、いまさらなのに。
「おれから出向かないと、説明する気はなかったってことか?」
口がなくなってしまったみたいだった。未練がましくも、弁解したい気持ちがあるのがまた情けなかった。全部マシューのためになると思って。必死で。なにか、恩返しがしたくて。
もちろん、それが自分勝手で、独りよがりだったわけだけど。
「……トマスが昨晩、おれに“アガリ症”の話をし始めたときは、心臓が止まるかと思った」
ぶっちゃけ、わたしの心臓も止まるかと思った。ああ、ダメだ。やっぱり、全部バレちゃったんだ。なにもかもうまくいかなかった。
救いようがない。わたし、マシューの人生をめちゃくちゃに―――。
「けど話を聞いてたら、薬で改善できるっていうじゃないか。思わず詰め寄っちまったよ。そしたらあいつ、『そんなにコレット嬢の“アガリ症”を心配してたんなら、早く相談すれば良かったのに』って、わけ分からないこと言うから……ああコレットが、勝手に何かしでかしたんだなって思って」
本当に、身動きもできなかった。
「ロラン隊長にも、余計なこと言ってくれたみたいだな?親善試合の辞退は絶対許さないって、とつぜん宣告されたよ。ユービリア国代表の一剣士としての名誉にかけて、どんな理由があっても、どんなケガをしていても、たとえ病気になっても出場しろって命じられた。……おせっかいなことしてくれるよな、ホント」
わたしがようやく顔をあげると、そこには困ったように微笑んでいるマシューがいた。
「なりゆきではあったけど、コレットに話して良かったよ。こんな可能性があるなんて、自分一人じゃ、思いもしなかったから……ありがとう」
してなかった。
わたし、マシューの人生をめちゃくちゃにしてなかった。大丈夫だった。彼はユービリア国の兵士のままだった。
絶望させてなかった。
安心したってもんじゃない。もう、涙が止まらなくって。昨晩あれほどベッド中で声を殺して泣いたせいで、まぶたが腫れぼったくなってるのに。それでもどうしても泣くのを止められなかった。
おまけに、鼻から何かがつーっと垂れた。鼻水だと思ってハンカチを当てたら……。
ハンカチが真っ赤に染まっていた。マシューが目をまるくしている。
一瞬、気が遠くなった。
「わたし……死ぬのかも」
「鼻血で?それもある意味、歴史的快挙だな」
彼はものすごく冷静に、わたしの低い丸鼻を人差し指と親指でしばらくつまんだ。そして止血が完了すると、わたしのハンカチをそっと鼻に当てた。鼻血はそれ以上流れてこなかった(鼻血に慣れっこになってる人の、落ち着いた対処だった)。
「目も腫れてるな。泣いてたのか?昨晩いったい何があったんだよ」
ハンカチが足りない、と彼は苦笑しながら手のひらで涙をぬぐってくれた。
わたしはもう、感極まって、その手をにぎらずにはいられなかった。
マシューの手って……ものすごく優しいの。この温かい手が、これからもきっとたくさんの人を助けるんだって思った。ときには剣をにぎって。ときにはこうして、臆病で愚か者の涙をぬぐってくれて。
ああ、わたし、大事な友人も失わずにすんだんだ。なにもかもうまくいった。ううん、それはまだ、分からないけど、少なくともマシューは“アガリ症”を改善できるかもしれないって希望を持ってくれて、来月になれば親善試合にも出場できる。
わたし、臆病でとびきり愚か者だけど―――友人の力になれた。マシューの温かくて、少しごつごつしている、力強い手が、それを改めて実感させてくれた。
それだけで十分。
「わたし……マシューと会えて、良かったなあ」
「どうしたんだよ、急に」
マシューは怪訝そうな顔をした。無理もない。自分でもなんだか、お別れの言葉みたいに聞こえたから。実際、そういう心境だったのも事実。
「なんでもない。ちょっと……感傷的になってるだけ。今日の仕事忙しそうだし、残業もあるから」
一気に現実に引き戻されていく。
そう。今夜、夜九時からの残業。レジーナたちと対峙しなきゃならない。その後はどうなるのか……。
「またジャガイモの皮むきか?」
マシューがからかった。わたしは笑ってごまかした。
「皮むき、いまじゃけっこう得意なのよ。おかげさまで」
「じゃあ本当のところ、コレットの一番の心配事はなんなんだ?」
見抜かれてた。わたし、そんなにウソが下手?
それとも、マシューが異常に鋭いだけ?
マシューはわたしが話すまで、動く気はないようだった。
「……死神」
「ん?」
「死神が近づいてきてるの。わたしに。もう、逃げ場がなくて」
「……抽象的な意味で?」
「ううん。現実的な意味で」
マシューの困惑が手にとるように分かった。
ていうか、実際彼の手をにぎったままだった。わたしはぱっとその手を離した。だって、いくら親しい友人とはいえ、人気のない中庭で、夜明け前からずっと手を握っているっていうのは、ちょっと……出過ぎたまねだ。
「あ、例のオカルト主義か」
彼はわたしが手を握っていたことも、手を離したこともべつに気にもとめないふうに言った。
「からかわれてるんだよ、コレット。魔法とか、悪魔とか、死神とか、魔女とか、そんなものが現実に存在するわけないだろ」
わたしだって、ずっとそう思ってきた。
けど、言葉だけじゃ説明できないなにかが、この世にはたしかにあるんだもの。
「……襲撃訓練のこと、覚えてる?」
わたしは思わず話していた。
「あのとき、ベルシーがあらかじめ警告してたのよ。死神が近づいてきてるって。そうしたら、本当に危険な目に遭った。先日城下町に行ったときだって……ツイてないことばかり起きたの、覚えてるでしょ」
「たまたま悪い偶然が重なったんだよ」
肩をすくめるマシューは、全然信じていないようすだった。
「それに、たしかに危険だったけど、全部どうにかなったじゃないか」
「それはまあ……マシューが偶然、そばにいてくれたから」
「じゃあ、次も大丈夫だよ」
彼はぽんと励ますようにわたしの肩を叩いた。
「コレットに危険が迫ったときは、また“偶然”そばにいるようにするからさ」
そんな、とうてい信じられないようなことを―――彼はあっさりと、約束した。
「それなら、もう何も心配する必要ないだろ?たとえ死神がクロスタン国一の剣士だとしても、おれは負ける気がしないんだから」
大胆に言ってのける、優しくて強い少年が、安心させるように笑ってくれた姿を見て、説明のつかない、ちょっとした動悸が起こった。さきほどまで何の気なしに彼の手を握っていた右手が、発火したような感じになって―――そのときちょうど、東の空が白み始めた。
「あっ。し、仕事にいかなきゃ」
わたしは慌てて立ち上がった。走ってもないのに、心臓が激しく鳴っていた。
「仕事の前に着替えたほうがいいぜ。ひと暴れしてきた、って格好になってるから」
うっ。たしかに。宮廷女中服は泥だらけだし、ハンカチには鼻血がついている。こんな姿を女補に見られでもしたら……わたしの宮廷女中人生が終わってしまう。
「で、もう手を握らなくても大丈夫か?」
マシューがからかうように訊いた。
ありえない。こんなの、いつもなら、笑い飛ばすか、ひじで彼をちょっと小突くかするところなのに―――なぜだか、顔から火が出そうになって、なにも言い返せなかった。
幸いなことに、マシューはわたしの大いなる動揺には気づかなかったみたいで、
「おれの手で良ければいつでもお貸ししますよ、コレット嬢」
笑いながら軽く手を振って、練兵場へ走っていった。
わたしは、その彼の後ろ姿を、しばらくぼんやりと見送った。
そのあと、ぼろぼろになった服を着替えるために部屋に戻ると、同じ早番でちょうど出ていくところだったベルシーとばったり会った。
彼女は棺に入ったはずの死人が起き上がってきたのを目の当たりにした、みたいな表情で、ぎゅっと水晶玉のペンダントをにぎって、首を振ると、わたしの肩をそっと叩いてから部屋を出ていった。(お願い。誰か教えて。あれっていったいどういう意味なの?よく戻ってきたわねってこと?それとも永遠にさようならってこと?)
そして、わたしは一日中ぼんやりしながら今日の仕事を終えた。
大理石の廊下を磨きながら、なんだか妙に、そわそわしていた。もう一度マシューとすれ違わないかなあとか、昼食のとき食堂で会えないかなあとか、考えながら。
まあ、会えなかったんだけど。そんなのいつものこと。
それなのに、なんだか妙にがっかりしている自分がいる。
ちょっと待って。わたし、マシューに会えなかったくらいでがっかりしてるの?
なんで??
なにもかもうまくいったのに。というか、うまくいきそうな兆しがあるのに。もうマシューのことをわたしがわざわざ心配しなくても―――トマスからの“アガリ症”を改善する薬は、マシューが受け取って、わたしにひそかに手渡すふりをして、マシューが自分で使うっていう―――ほとんど完璧な計画もできあがってるのに。
なんでマシューのことばっかり考えてるの?
これってなにか……悪い病気かも。
マシューのこと思い出すと、脈が速くなって、変な汗が出て、なんだかひどく落ち着かなくて……。
うう、しかも、あと五時間後にはレジーナに会いにいかなきゃならない。もしかしてそのことを考えないようにするために、マシューのことばかり考えているのかも。
考えるどころか、頭がくらくらしてきた。そうだ。昨晩は一睡もできなかったんだった。だからおかしなことばかり考えるのよ。
大丈夫。少し休もう。まだ五時間もある。
後のことは、それから考えればいい。
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