6月3日 壮大な夢

 最近なかなか厨房での仕事を任されなくて、ニーノと顔を合わせることがなかったんだけど、今朝は砂糖を精製する業務があって、久しぶりに彼と会うことができた。


 パン生地を作っていたからか、ニーノの両手は白粉で真っ白だった。「やあ、コレット」って、気遣うように笑いかけてくれた彼の頬も、少し白かった


 わたしはニーノに笑い返そうとした。でも、無理だった。


 号泣しちゃった。

 

 号泣し始めたわたしを見て、ニーノはめちゃくちゃ慌ててた。


「すいません、ぼく、少しだけ抜けさせてください」


 って、厨房仲間に言うと、わたしを厨房の地下貯蔵庫に連れていってくれた。

 

 わたし、自分より年下の、しかも見習い料理人の男の子に、お悩み相談したの生まれて初めて。


 ニーノもたぶん、自分より年上の、しかも役立たずの新米宮廷女中から、お悩み相談されたの初めてだったと思う。


 話が終わってからも、しばらくぽけっとしてたから。


「ぼく、あの話信じてないし、コレットも気にすることないよ。城の中じゃこういう根も葉もないうわさが広まること、よくあるんだ」

 

 って言ってくれた。


 ニーノの慰め言葉は、鼻水が垂れるほどうれしかった。わたしはニーノに真実を知ってもらいたくて、あの夜何があって、どうしてマシューと城を抜け出したかとか、同室人のベルシーのこと、わたしのとんでもない早とちりのことも全部、包み隠さず話した。


「自分が嫌になるの。いつまでたっても仕事は覚えられないし、失敗して女補に怒られてばっかりだし、意地悪してくる子たちに向かってふんって鼻であしらう勇気もないし、いまだって、どうやったら新しい転職先を見つけられるかひたすら考えてる」

 

 ずっと前にジャガイモの皮向きを命じられたときみたいに、わたしとニーノは椅子を寄せあって、足元にランタンを置いた。厨房では四、五人の料理人たちが、忙しそうに動き回っていて、地下にはその足音がパタパタ響いてた。その音を聞きながら、


「ぼくも、故郷に帰りたいって思ったこと何度もあるよ」

 

 と、ニーノがポツリとこぼした。


「ぼく、宮廷の料理人として雇ってもらってからもう三年になるけど、まだ見習いだし。ふつうならさ、一年厨房で修行すれば、もう料理人の仲間入りできるはずなんだ。スープの味付けだって、もうやらせてもらってもいいはずなのに。けど、いまだに下仕事だし。もちろん、こういう積み重ねが大事なのは分かってる。だけど、ときどき、辛くなるよ。ぼく、料理が好きで、料理することだけが、ぼくを表現できるゆいいつの能力だって思ってるから」

 

 意外っていったら、ものすごく失礼なのは分かってるけど、意外だった。


 ニーノって、わたしの中じゃ、皆から認められいて、見習いだけどほとんど一人前みたいに扱われてる料理人っていう印象があったから。怒られてるところなんて見たことないし、厨房の中は忙しくても、笑顔があったし。

 

 けど、ニーノはニーノで、悩みを抱えてた。それをふんわりした表情で隠して、表に出してないだけだったの。わたしより年下の子が、辛い気持ちを他人の目に映らないようにして、こうして静かに頑張ってることを知って、わたし、本当に恥ずかしかった。号泣したり、悩みをだらだら吐き出したり。


 わたしって、本当に愚か者。

 

 それからニーノは、でもね、と明るい表情に戻って言った。


「もうやめちゃったんだけど、ここにいた老料理長がね、ぼくにこう言ってくれたことがあるんだ。『人の歩く速さは違うんだ』って。短期間で、ものすごく先に進む人もいれば、死ぬ前になって、ようやく一歩前進するっていう人もいるんだって。だから、焦っちゃだめなんだって。ぼくはぼくの速さで、歩けばいいんじゃないかって」


 わたしは黙ってニーノの言葉に耳を傾けてた。


「だから、決めたんだ。焦らないで、ゆっくりやろうって。コレットは宮廷女中になって、まだ一ヶ月も経ってないでしょう?城勤め三年のぼくがまだこんなにモタモタしてるのに、たった一ヶ月で、自分の弱いところを見つめ直すコレットって、すごいと思うよ」

 

 ニーノは聖人だった。

 

 わたしは愚人。しかも、弱いところを見つめなおすことすらしてない。次々と目の当たりにする自分の愚かさを、噛み締めて、つらいから逃げ出そうとしてるだけ。解決策を考えようなんて、思ったことなかったし。状況を打開する手立ても、実力も、勇気もないし。


 ないない、何にもないっていって、愚痴ってるだけ。この日記帳に、だらだら書き連ねてるだけ。


 わたし、誰かを呪う前に、自分を変えないといけないんじゃないかな?何かあるといつも他人を頼って、叱られると卑屈になって、勇気がないからって、何でも全部あきらめて。


 わたし、変わらないといけない。本気でそう思った。


「ありがとう、ニーノ。おかげですごく救われたよ」

 

 ニーノの話は、もう少し頑張ってみようって、そんな気にさせてくれる言葉だった。


 ニーノはお礼をいわれるようなことしてないよって、わたわたしてた。そして不意に思い出したように訊いた。


「あのさ……ぼく、最近マシューに会ってないんだけど、コレットは?二人で何か、話した?」

 

 ううん、とわたしは首を振った。


 マシューのことを考えるとすごい複雑。これまでずっと姿を見せないことに、めちゃくちゃ腹が立つこともあるし、でも、顔を合わせないことにどこかほっとしてるときもある。


 わたしなんかと話題にされて、マシュー、だいぶ不愉快になってるんじゃないかなって言ったら、ニーノは「まさか!」と声を上げた。


「事実じゃないんだから、コレットに怒ってることはありえないよ。気にしちゃダメだよ」

「そうかな」

「そうだよ。こんなことになってびっくりしてると思うし、コレットに申し訳ないって思ってるんじゃないかな。お願いだから、こんなことで仲たがいしないでね。二人がケンカする理由なんか、ないでしょ」

 

 ニーノって、本当に優しい。しかも、冷静。尊敬しちゃう。

 

 それに、気づかされたことがあるの。誰かを呪うんじゃなくて、誰かを幸せを願うほうが大事。ニーノといると、心が洗われた。


 わたし、決めた。もう卑屈になるのはやめる。堂々と生きる。生まれ変わるのよ。


 そして将来は、心清らかな修道女になる!神さまに仕えて、自分じゃない誰かのために祈る。みんなから尊敬される、そんな素敵な修道女になれば、勇気だって得られるし、もう卑屈になることなんかなくなるはず。


 そう。わたしは将来修道女になることが定められた選ばれし宮廷女中なのよ。だから、悪意あるしょーもないうわさになんか負けたりしないの。


 わたしがこの城に来ることになったのは、きっと革命を起こすためなんだわ。だから臆病で不運なのよ。新しい舞台劇みたいなものよ。勇敢でツイてる女の子じゃなく、臆病で不運な女の子が、どんな状況に置かれてもめげず、笑顔で、あらゆる困難に立ち向かっていく。さながら臆病者の革命。そう。きっとそれよ!


 わたしはここで偉業を成し遂げるの。具体的には、そうね、ええと……あ、ほら、最近夜十一時ごろ呪文を唱え始めるベルシーをまず、現実に引き戻すとか。それってすごい偉業だわ。


 でも……うん。いまはまだそのときじゃないかもね。偉業を成し遂げるって、時間がかかるもの。いいのよ。時間はたっぷりあるんだから。

 

 そしていずれ、わたしの日記は国宝になるかも。まあ、将来的に心清らかな修道女になる者としては、色々と呪いめいた言葉も書きこんでるから、後で修正するとして……とにかく、歴史的快挙を成し遂げたコレット=マリーの半生として、ユービリア国立書館に大事に保管されることになる。


 うひゃーっ!そう考えると、すっごく楽しくなってきた。ユービリア国の庶民代表の語り部になるのもいいかも。公平な目で世の中を見定めていくの。そしてそれを日記につづる。うーん、それってすごい。偉業だわ。ものすごく偉業。

 

 ニーノのおかげで、ユービリア城に来てはじめて希望の光が見えた。見慣れた中庭の風景も、大理石の廊下も、オカルト主義的な道具で雑然とした部屋も、すべてのものが輝いていたもの。

 

 そうよ。槍玉にされたって、負けたりしない。負けちゃダメなんだ。だってわたしは、いずれ偉業を成し遂げる女の子、勇敢なるコレット=マリーなんだから。


 ああどうか、世界のみんなに、神のお慈悲があらんことを。


〈今日の聖人であり、わたしの心の師匠であり、生涯の恩人〉

ニーノ=トリーノ


〈壮大な夢〉

心清らかな修道女になること。偉業を成し遂げること。

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