5月7日 厨房の地下倉庫で

 三か月後には仕事が佳境を迎えそう。7月には隣国のクロスタンがユービリア城に公式訪問することになっているから。宮廷女中は、ぼろ雑巾になるまで労働させられるに違いない。そのころには、わたしという存在はこの城から消えているのかもしれない……。


 忙しい日々が続いても、女補は(女中頭補佐のことね。長いから省かせてもらう)わたしのささやかな遅刻罪なんかもしっかり覚えてて、約束通り厨房の地下倉庫まで案内してくれた。

 

 手渡されたのは皮剥きナイフとオイルランプ。冗談じゃなく本気の残業だった。

 

 女補は「皮むきがすんだジャガイモは、水にさらしておくのですよ」とだけ言うと、さっさと階段を上がっちゃうし、厨房で働く使用人たちも後片付けを終えて引き上げちゃうと、地下室は恐ろしいくらいしんとなった。そんな環境で、もくもくと皮むきできる子っているの?

 

 臆病心がそうさせたのは分かってる。でも、なんだか気分が悪くなって(ほんの一瞬、ベルシーがわたしで呪いの実験をしているのかと思った。もしかして、本当にそうなのかもしれない……)、気分転換に地上の空気を吸おうと、わたしは地上への階段をあがり、入り口を両手で押し上げた。

 

 びくともしない。

 

 そんなまさかって思って、何度も何度も入り口を押し上げたけど、まったく全然開かなかった。

 

 それもそのはず。厨房の床下倉庫への入り口には、鍵がかけられていたんだから。

 

 たしかにわたしは黙々と作業をしてた。存在感なかったかもしれない。でも、鍵を閉める前に誰かいないかどうか、確認するものじゃない?この城には常識ってものがない!

 

 地上への扉が開かず、閉じ込められたことを知ったとき、人はいったいどうするの?どうするのが正しいの?

 

 わたしの場合、呆然としてどうすることもできなかった。手元にあったのは、皮むき用のナイフと、こっそり持ちこんでいた日記帳だけ。

 

 このとき、わたしは日記帳の本当の役割を知った。遺言。そう、これは遺言を残すためにわたしの手元にあるものだったの。田舎からやってきた哀れな子爵家の娘が被った悲劇を二度と繰り返さないよう、この日記を手にした者が責任をもって“厨房の地下倉庫の鍵を閉めるときは中に誰かいないかどうか確認する”という決まりを定めるために。

 

 ついでに、“女中補佐は宮廷女中をたった一人で遅くまで労働させない―とくに大量のジャガイモの皮むきを命じない―”という決まりもつくるべき。

 

 とまあ、最悪の想定をしていたときだった。わたし以外誰もいるはずのない地下倉庫に、ガタっという物音が響いたの。音の大きさからして、ネズミのような小さな生物じゃない。

 

 脳裏によみがえる言葉。


「最近地下貯蔵室の中で、腐った宮廷女中の死体が入った木箱が見つかったそうだよ」

 

 冷静に考えれば分かる。死体なら、動くはずないってことが。

 

 でも、わたしは冷静じゃなかった。死ぬかと思った。あの話に出てきた腐った宮廷女中の亡霊が、この地下倉庫をさまよっていても不思議じゃない。わたしだって、こんなところで最期を迎えたら……ぜったい亡霊になって呪ってやるもの。

 

 わたしはゆっくりと階段を降りた。原因を探ろうとしたわけじゃない。階段の上にいたら、なにかに驚いた拍子に運悪く転がり落ちちゃうような気がしただけ。


 階段を降りた直後、ガタガタっと階段の裏側の木箱が動いた。ランプはかろうじてわたしの手にぶらさがっていて、足元を照らしている。そのランプを掲げて、背後を振り向こうと思うのに、体はそれ以上ちっとも動かない。

 

 地下の食料倉庫にはたくさんの木箱が置いてある。中に何が入ってるかは開けてみないと分からない。全部ジャガイモだと思ってたけど――もしかしたら、違うのかもしれない。

 

 暗闇は余計な恐怖をかきたててくれるものだ。わたしの頭にはこんな光景が浮かんでいた。本人にはそんなつもりなかったのに、偶然にもお偉いさんの政治がらみの極秘の会話を耳にしてしまい、おまけにそのことが当事者にバレて、口封じに殺されてしまった宮廷女中が、木箱の中で腐っていたのを発見されるという光景。その死体はむくりと起き上がって、骨がのぞく血まみれの腕を伸ばし、発見した宮廷女中の首をぎりぎり締め上げて――。


「ん……」

 

 人の声。たしかに生きている人の声だった。もしかして、すでに数日間、誰かが閉じこめられていて、いまかろうじて息を吹き返したのだとしたら。

 

 それか、ユービリア城に忍びこんだスパイか、盗人か。

 

 わたしはユービリア城に来て初めて勇敢な行動に出た。右手にジャガイモの皮むき用のナイフと、左手でランプをかざし、体温がひゅんって下がるのを感じながら木箱の中をのぞきこんだ。


「ひっ」というしゃっくりのような悲鳴が自分の口から飛び出した。「ギャーッ」と大声で叫ぶほどの胆力がないから。でも、人間、本当に驚いたときは、そんな悲鳴しか出ないと思う。

 

 いた。本当にいたの。人が。というか……少年が。濃茶の髪。見覚えのある顔に、ようやくはっとした。

 

 わたしがユービリア城の中庭で抜け道を探していたときに遭遇した、あの兵士の少年だった。

 

 彼はユービリア国の白と青の兵士服姿ではなく、薄緑色の上着を身につけて、空き箱の中で長剣を抱いて横向きに転がっていた。ケガはないし、ちゃんとしっかり穏やかな呼吸を繰り返してる。


 居眠り?

 

 さっぱり分からない。けど彼は眠っていた。木箱の中で。ノラ猫だってもうちょっと快適な場所を選ぶんじゃない?


 ランプの明かりがまぶしかったのか、彼は身じろぎして目を覚ました。寝ぼけ眼でわたしを見上げながら、


「ん……おやっさん?」

 

 察してほしい。生まれて初めておやっさんと呼ばれた女の子の気持ちを。本当なら、怒っていいことよね?

 

 言葉なく立ちつくしていると、彼も以前わたしに会ったことを思い出したようだった。


「こんなところでなにしてるんだ?」

 

 木箱の中から抜け出しながら、少年が訊いてきた。でも、それってわたしのセリフ!奇想天外な行動をしてるのはどっちなのか、誰の目に見たってあきらかでしょ。


「あなたこそ、なにやってるの……こんなところで」

「ちょっと隠れてたんだ。そしたらいつの間にか眠ってたみたいで」

 彼はおもしろがるようにわたしの右手に目を向けた。

「そんなぶっそうなもの持って、何するつもりなんだ?」

 わたしは慌ててナイフを後ろに隠した。

「仕事をしてたのよ。ジャガイモの皮むき!でも、誰もいるはずのない場所から声が聞こえたから用心してたの……どこかの国のスパイか、盗人かも分からないでしょ」

 

 少年は目をまるくしたかと思うと、とつぜん笑い始めた。

「あの話、本気にしたのか?冗談だよ。ちょっとからかっただけさ。きみって怖がりなんだな」

 

 その言葉にむっとした。わたしはたしかに怖がりで、臆病者で、勇気もないけど、そんなふうに相手をからかって楽しむなんて、やることが幼稚すぎる。


「そういうあなたは、兵士という立場でありながら、ずいぶん子供っぽいことをするのね」

 そう言い返して、わたしはむかむかしながら皮むきの作業に戻った。閉じこめられているっていう恐怖感より、いら立つ気持ちが勝っていた。

 

 もくもくと作業を続けていたら、少年がどこからか椅子を持ってきて、ジャガイモの箱を挟んで向かい側に座った。わたしがもの問いたげな視線を送ると、彼はにやっとした。


「手伝おうか?」

「けっこうです」

「でも、一人で作業するのは怖いんだろ?ここは暗いし、静かだし……おれの他にも、誰かがいるかもしれないし」

 わたしは青くなった。「どうしてそういうこと言うの?」

「本当に怖いのか?」

「こ――怖くない。べつに。怖いわけないじゃない」

 

 わたしの下手な強がりはすぐに見抜かれた。「じゃあ、一緒にいるよ」と少年はおかしそうに笑い、箱からジャガイモを一個手にとると、短剣で器用に皮をむきはじめた。慣れた手つきだった。わたしが一個分の皮をむき終える時間で、彼は五個分の皮むきを終えていた。


「なんでそんなに早いの?」

 思わず訊いていた。彼はわたしの手を見ながら、「ナイフの持ち方かなあ」とぼやいた。

「ナイフはもっと短くもつんだ。それで、刃先を使ってむいていく」

「えっと、短くもって、刃先で……」

「違う違う。そうじゃなくて」

 

 少年はわたしの背後にまわると、後ろから腕を伸ばしてわたしの手をにぎった。わたしは真っ赤になった。


「ちょ、ちょっと……!」

「持ち方はこう」彼はきびきびと説明した。「親指でジャガイモの皮を押さえつつ、刃先をすべらせる」

 

 言いたいことは山ほどあったし、めちゃくちゃ動揺して心臓がうるさいほど鳴っていたけど、わたしは彼に手を添えられながら皮むきを行った。十六年間生きてきて、男の子に手を握ってもらいながらジャガイモの皮むきを指導されたことなんかなかったんだもの。うう、いま思い出しても動揺が止まらない。その手は力強くて、温かくて……。

 

 とにかく、指示通りにやってみると、するするとジャガイモの皮がむけるじゃないの!不覚にもちょっと感動した。


「むける!こんなにもむける!」

「力になれて良かったよ」

 

 わたしから離れた少年は、ジャガイモの山を見ながら頬をかいた。

「……それにしたって、すごい量だな。誰かもう一人くらい呼んで来ようか?」

 

 それで思い出した。わたしは彼に出入り口が閉まっていることを伝えた。


「そんなはずないと思うけど」

 

 少年はそういうと、階段をあがり――どこかの取っ手のようなものを回転させた。すると、地下倉庫の入り口は簡単に押し開けられた。少年がほら、というように目を向けてくる。わたしは――バツが悪すぎて、肩をすくめた。


「ちょ、ちょっとからかってみただけ」

「ふーん?」

 

 あの顔は、ぜったい信じてなかったけど……大事なのは、地下倉庫に閉じこめられて、変わり果てた姿になるという事態を回避できたということ。

 

 そしてよくよく考えれば、食材はほとんど地下倉庫に保管されているんだから、厨房の料理人が降りてこないはずがない。たとえ閉じ込められていたとしても、翌日まで待ってれば、無事に地上に出られたのよ。一番恐ろしいことは、悪い想像にばかりとらわれて、ちゃんと頭を働かせることができないってことかもしれない……。

 

 それでも、わたしは用心して入り口を開けたまま作業に戻った。少年はそのまま行っちゃうかと思ったけど、本当に作業を手伝ってくれる人物を連れて戻ってきた。


「ねえマシュー。ぼく、明日お休みなんだけど……」

「知ってる。だから呼んだんだ」

「ニーノ!」

「ええ?地下室で一人孤独な残業を命じられてるいかにも哀れで怖がりな女の子ってコレットのことだったの?」

 

 わたしは“マシュー”をにらみつけた。彼はいたずらっぽく笑った。


 ニーノとマシュー=ガレスは友人同士だった。思ったとおり、マシューはわたしと同じ十六歳。


 まったく奇妙なことだけど、わたしたちはジャガイモ箱の周りに椅子を三つ持ってきて、足元にランプを置いて、三人でジャガイモの皮むきと雑談を始めた。作業はさくさく進んだ。

 

 マシューとニーノはかれこれ三年の付き合いになるらしく、二人は仲が良かった。マシューがくだらないことを言ってニーノを笑わせて、ニーノがまたふざけてマシューを笑わせる、みたいな。私には兄弟がいないからよく分からないけど、いたらきっとあんな感じなんだろうなって思う。そこに私が加わることを許されたってのが、すごく不思議な感じ。

 

 でも、久々に誰かと打ち解けたって気がしたのはたしかだ。その打ち解けた相手が両親でも、屋敷の使用人でも、フィエンでもないなんて、生まれて初めてかも。


 親友は女の子じゃないとダメだという考えがあったけど、そうじゃなくても良いのかも。相手が男の子でもそう悪くない。男の子ってサバサバしてて、あの子は爪が長すぎるとか、あの子は女頭(女中頭のことね)に媚びてるとか、そういう話は全然しなかった。わたしの赤毛についても全然とやかくいわなかった。だからわたしも気兼ねなく話せたし、二人が一緒にいるという状況を心地よく感じていた。


「コレットって、貴族なんだろ」

 

 三箱目のジャガイモの箱が空こうとしていたとき、マシューが訊いた。

「じゃあもう、婚約者とかいるんだ?」

 

 何気ないことのように言っていたけど、マシューが労働階級出身だと聞いて驚いた。(でも不思議。平民階級、または労働階級出身なら、名前しか持っていないはずなのに。マシューには“ガレス”というちゃんとした家名がある)。それならまあ、貴族についてさまざまな誤解と偏見をもっていてもおかしくはない。

 

 かつてユービリア国の階級制度は、労働階級者を奴隷にように扱っていたという歴史がある。数十年前に奴隷制度が廃止されてからは、労働階級は平民階級と同じように扱われているけど、いまでも山ほど不公平なことがあると耳にしたことがある。例えば、働く場所が制限されたり、貴族の家で労働していてもお給料が支払われなかったり、他国に密かに奴隷として売られたりとか……それが本当だったら、まったくひどい話よ。


 だから、貴族は全員ものすごく優雅で、生まれたときから許婚がいて、社交界のときは絶対にお手洗いにいかない集団かなにかだとマシューが勘違いするのは、当然かもしれない。

 

 そこで、わたしはきちんと貴族の実情をマシューに説明した。

 

 ユービリア国の貴族階級は五つに分かれている。

 

 公爵家(第一上流階級)、侯爵家(第二上流階級)、伯爵家(第一中流階級)、男爵家(第一下流階級)、子爵家(第二下流階級)。そして平民階級と、労働階級が続く。


 公爵家には王家の血を引く者もいるといわれるくらいだから、たしかにお金持ちで、優雅で、許嫁だっているかもしれない。けど子爵家になれば、もうほとんど平民と変わらない。領地はないし、資産も限られているから、働かずにすむのはほんの一握りの子爵家だけだ。


 そう考えると、どのみちわたしは労働を避けられなかったかもしれない。やれ

やれ。


「だからね、マシュー。子女の全員に素敵な許婚がいると思ったら大間違いなの。貴族って看板だけが一人歩きして、哀れで不運で勇気不足で資産のない子だっているんだから」

 

 ほんの一握りのお洒落で可愛らしい子女であれば話はべつだけど。華やかな幸福街道を歩んでる子だっている。たとえば、わたしの親友、フィエン=ジーゼとかね。


「ふーん。そうなんだ」とマシューは自分から訊いてきたくせに、あまり興味なさそうに相槌をうった。


「ところでマシュー、体調はもういいの?」

 

 ニーノの言葉に、マシューは明らかにギクっと肩を揺らした。


「た、隊長?隊長ってまだ城内にいるのか?城下町の見回りに行ったんじゃあ……」

「違うよ。体調。体の具合ってこと。この前、大浴場で鼻血出して倒れたんでしょ?」

 

 大浴場。鼻血。かつて残業の原因となった出来事を聞き逃したりはしなかった。


「あれってマシューだったの?」

 

 忘れるはずもない。その鼻血兵士のせいであの日わたしは時間外労働を余儀なくされ、睡眠時間を失い、翌日遅刻してその罰としてうす暗い地下倉庫でじゃがいもの皮むきをやらされることになったのだから。

 

 でもその元凶たる本人が、ジャガイモの皮むきをこうして手伝ってくれているのだから……いったいなんの因果なんだろう。

 

 マシューはその出来事を記憶から消したいらしく、かなりよそよそしい返答をした。


「どうぞお気遣いなく」


「鼻血を出すなんてタダ事じゃないわ」せめて何があったか知りたくて、わたしは問いつめた。「だって、鼻血を出す機会なんてそうそうあるわけじゃなし。ケンカでもしたの?」


「コレットには関係ないだろ」

 

 とつぜん突き放すような言い方をするから、わたしも思わずむっとした。


「ふーん、そう。言えないことなんだ。いやらしい話でもしてたとか?」

 

 わたしの(子供っぽい)挑発に、同い歳の少年は少し顔を赤くした。


「は!?そんなわけないだろ!」

「じゃあなにが原因なの?」

「だ、だから、それは……」

 

 タイミングよく、誰かが地下倉庫への階段を下りてくる足音がして、わたしたち三人はそちらへ視線を向けた。


「……ここにいたか、マシュー」

 

 なんていうか、マシューは、休日返上で残業を命じられたみたいな顔をしてた。


 その人がこっちに近づいてくると、オイルランプの明かりでその人の顔が浮かび上がって、心臓が跳ねたわ!


 夜中に地下室にやってきた人は、ずっと前に大回廊ですれ違った素性知らずの年上のものすごくカッコいい人だった!眉がきりっとしてて、背が高くて、舞台俳優になってもおかしくないくらいの美形。


 思わずぽーっとなって、ジャガイモが手から転がり落ちた。ニーノがひろってくれた。


 そのとびきりカッコイイ男性に名指しされたマシューは、その人から顔を背けた。


「非番のときも、行き先を隊長に報告しなければならないという決まりがありましたか?」


 カッコいい隊長さんは(のちにロラン=ハイアットという名が判明!)よそよそしい態度の部下にゆっくり歩みよると「勝敗がどうであれ、責任転嫁をするつもりはないぞ」と二人にしか分からない話を切り出した。


 マシューは怒ったように顔をあげた。


「何を仰ってるんですか。わたしが、自分の失敗を隊長に押しつけるとでも?そんな無様なまね、死んでもしやしませんよ!」

「なら何が問題だ?わたしはこの国の一剣士として、お前に頼んでいるんだ。なんなら頭だって下げる覚悟だぞ」

「隊長が頭を上げようと下げようと、関係ありません」マシューは立ち上がった。その握りしめた拳が震えていた。「とにかくお断りです。だって……おれ……わたしはまだ、兵士になって三年目です。先輩方をさしおいて出しゃばるつもりはありません」

 

 ロラン隊長はおかしそうに笑った。


「お前がそこまで謙虚だと知ったら、今度はみんなが浴場でひっくり返るな」

「なっ」

 

 マシューは少し顔を赤くして、ロラン隊長をにらみつけた。ロラン隊長は余裕のある大人の笑みを浮かべてた。


「他の者もみな、お前に出場してもらいたがってる。労働階級出身のお前が勝ち、名誉ある称号を受ければ、歴史的快挙になるだろう。世の中が変わるかもしれないぞ?」


「夢物語ですよ。負けたら元も子もないんだから」マシューはこの話を早く終わらせたがっているように見えた。


「マシュー、どうしてもダメか」ロラン隊長は食い下がった。


「……すみません。失礼します」

 

 マシューは隊長に頭を下げた。そしてちらりとわたしに目を向けて、「ごめん、もう行くよ」と謝って、地下倉庫から出ていった。ニーノは気遣わしげに友人を見つめていた。


 ぽかんとしたわたしの表情に気づいたロラン隊長は、困ったように微笑んだ。


「すまない。見苦しいところを見せたな」

「い、いえいえそんな」

 

 ロラン隊長に初めて声をかけられて、心臓をバクバクさせているわたしの隣でニーノがため息を吐いた。


「すいません、ロラン隊長。ぼくも説得してみたんですけど。その話題になると、知らん顔されちゃって」

「いや、ニーノ、いいんだ。あいつも頑固だから」

 

 当たり前だけど、みんなが一体何の話してたのかさっぱりだった。


「マシューってば、どうしちゃったんだろ。せっかくだから出ればいいのに」

 

 ここでわたしは勇気を振り絞り、「いったい何の話?」とニーノに訊いてみた。

 

 ニーノがごめんごめんと言いながら、説明してくれた。


「7月になったら、クロスタン国の訪問があるでしょ。そこで、ユービリア国とクロスタン国による、剣の親善試合が行われることになってるんだ。勝利した国の剣士には、名誉剣士の称号と、褒美が与えられる。両国の王たちも、自分の国の評判がかかってるから、すごく関心が高いんだ。じつこれまでクロスタン国との親善試合で、ユービリア国が勝ったことって一度もなくて」

 

それからロラン隊長が補足してくれた。


「親善試合は団体戦でね。各国から代表が五人選抜されることになってる。私はその五人の一人にマシュー=ガレスを推薦しようと思っているんだ。あれはまだ若く、兵士になってまだ三年で経験こそ少ないが、剣の才があり、柔軟だ。兵士にとって柔軟性は剣技以上に重要な能力だとわたしは考えている。予測のつかない事態が起きたときでも、冷静に対処できるからな。要人の護衛や賊の討伐だけでなく、その才能は異国との試合の中でも生かせるはずだ。クロスタン国はもともと好戦的な国で、奇抜な戦法や剣技を用いてくることで有名でね。我が国だけでなく、サン・レーユ国もかの国との親善試合で勝利したことはない。とくに、ユービリア国のような型にはまった剣技のみで挑めば、勝利をつかむことは難しいだろう」


「そこで、マシューなんだ!」


 ニーノが興奮して後を続けた。


「マシューは一年前、ユービリア国の海岸に上陸してきたクロスタン国の離れ海賊を打ち負かしてるんだ。クロスタン国の軍でさえ手こずってた相手だったのに、マシューたった一人で、十人も捕縛!実力は疑いようもないんだよ」


 わたしは驚いて言葉もでなかった。マシューってば、そんなにすごい少年だったの?


 だけどそんなことがわたしに分かるわけがない。浴場で鼻血を出して倒れたり、地下倉庫で居眠りをしたり、寝言で「おやっさん」ってつぶやいたりする少年が、そんなに注目されてる人だって、いったいどこで気づけたっていうの?

 

 でも少し話が見えてきた。マシューはつまり、その名誉ある剣術大会に出ることを嫌がってて、隊長さんから逃げ回っていたようだ。


「で、どうして出ないの?」

 

 ニーノに訊いたら、彼も首をひねっていた。


「さっぱり分からないんだ」

「自分の出身が、重荷になっているのかもしれないな」

 

 ロラン隊長がいうには、その伝統ある親善試合に、いままで労働階級の身分である平民が出場したことはないのだそうだ。

 

 でもマシューが出場するとなると、話は違ってくる。労働階級の人たちは、貴族社会の中で抗うマシューの姿を見て、平民だって頑張ればチャンスが巡ってくるのだと希望を抱くようになる。そうよ。だって、階級によってできることとできないことが制限されているなんて、不公平だもの。

 

 もし本当に、誰にでも平等にチャンスが与えられる世の中になれば……それって、かなり……かなり、すごいことよね?


 歴史的快挙になるかもしれない!


「きみの名は、コレットだったね?」

 

 驚いたことに、ロラン隊長はわたしの名前を知っていた。ユービリア城への不審者侵入防止のため、隊長さんや使用人頭、女中頭ほどの地位ある役職になると、城で働いてる全員の顔と名前を覚えるのは義務なのだということ。どんなに忙しくても女補が遅刻罪のおとがめを忘れたりしない理由が分かった気がする……。

 

 とにかく、ロラン隊長がわたしの名前を覚えてくれていたという事実だけで、わたしはいくらでも残業できそうな気がした。ロラン隊長はわたしに訊いた。


「きみはマシューとずいぶん仲が良さそうだ。もし良ければ……彼を説得することに協力してもらえないか?」


「は、はい!それはもう、もちろんです」

 

 ありがとう、とロラン隊長の素敵な笑顔もいただいて、胸のときめきが止まらなかった。

 

 ジャガイモの皮むきは明け方に終わった。ニーノって最高に良い子。目の下にクマをつくってまで、最後まで一緒に手伝ってくれたのだから。

 

 わたしももう、眠くて眠くて……でも、今日のすばらしい出来事を忘れてしまわないように、宮廷女中棟に帰る前に日記に書きこんでおく。

 

 わたしはロラン隊長との約束を果たすために、今後はマシューの説得に力を入れていくつもりだ。それに、身近な友人が歴史的快挙を成し遂げようとしてるんだもの。なんとしてでも、応援しなくては。


〈今日のすばらしい出会い〉

マシュー=ガレス

ロラン=ハイアット隊長


〈特記事項〉

・地下倉庫の入り口を開けるときは、取っ手を回すこと

・悪い想像にばかりとらわれない。ちゃんと冷静に思考を働かせること

・マシューが親善試合に参加して歴史的快挙を成し遂げるために説得を続けること

・ロラン=ハイアット隊長が既婚者かどうか調べること


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