第8詩「彼女について」
まず、第一に。
・【僕が見たところ彼女は目が悪い。】
それは国語の授業中に夏目漱石の小説の一節の音読を指名され、
教科書にあと数センチでくっつきそうなほど顔を近づけるところや、
気だるげな眼鏡の国語教師が黒板に書く性格の通り曲がりくねった文字を
一番前の席から身を乗り出して食い入るように見つめ板書している姿から
容易に想像できる客観的事実であるし、実証するまでもない事実だろう。
そして、第二に。
・【僕が見たところ彼女は異性に好まれる容姿ではない。】
それは手入れが行き届いていない肩先まで伸びた重そうな黒い髪や、
(そんじょそこらの女子のように枝毛をいじらない姿は評価に値する)
遊び心のない顔とでもいえばいいのかとにかく薄幸そうな薄い顔や、
(また二重の垂れ目の目尻にある泣き黒子が憐憫さを際立たせている)
何故か眼鏡をかけないため常に相手を睨むような表情をしている点から
容易に想像できる客観的事実であるし、実証するまでもない事実だろう。
さらに、第三に。
・【僕が見たところ彼女は友と呼べる間柄の人間がいない。】
それはお昼休みに入ると少しして財布を片手に何処かへと行き、
そのまま午後の予鈴が学校中に鳴り響くまで戻ってこない事や、
放課後になると独り悠然と図書室へと赴き下校時刻までそこにいる事、
(部室棟が図書室のすぐ隣なので練習後によく彼女の姿を窓越しに見た)
少なくとも同じクラスになって1年半の間にやむを得ない場合を除いて
誰かと彼女がくだけた様子で話しているのを見た事がないという点から
容易に想像できる客観的事実であるし、実証するまでもない事実だろう。
以上の三つの観点から、
ーと、僕は結論づける。
それが僕の彼女に対する印象だった。
「あの…」
彼女が僕に話しかけてきたのは、高校1年が終わろうとする頃だった。
まるで触れたら壊れてしまうくらい儚いものに近寄るように。
彼女は慎重に言葉を探して僕と向き合っているようだった。
「本を…」
話の要件は、こうだー
‟図書室で借りたい本があるけれど、ずっと返却を忘れている人がいる。”
そんな不注意な奴がいるのかと僕が思っていると、
「…返却してほしい」と彼女は僕のネクタイをちろちろ見ながら言う。
そんな不注意な奴とは、どうやら僕のことだったらしい。
記憶の片隅にそういえば半年以上借りっぱなしの本がちらついた。
「明日に、でも」
そう言って彼女は自分の席へ戻っていった。
僕は帰宅してすぐに、本棚に並んでいた文庫本を手に取る。
花を題材にした詩を書くイギリスの詩人の処女作。
僕は自分の名前の由来になった花の詩があるのを偶然見つけて、
何気なくこの文庫本を借りてきたのを今になって思い出す。
翌日、クラスですぐに彼女にその本を渡した。
「ありがとう」
と、小さく花のようにはにかんだ彼女に少し、驚く。
「この詩集の、向日葵が太陽に恋をする詩が好きなんだ」
と、思わず僕は口に出してしまう。
彼女は困ったように視線を彷徨わせ、あわあわとしながらこう返した。
「向日葵の中に、君の名前が入ってるから?」
何気ない、ただの一言に僕は何故だか吹き出してしまって。
そんな僕を見てあたふたする彼女にどうしようもなく興味を持った。
ただ、ただそれだけの僕のきっかけ。
それから僕は練習後、すぐに着替えていつも図書室へ向かう。
そして窓際に腰掛ける彼女を見つけ、隣に腰を下ろす。
彼女から「…ん」と差し出されるのは少し色褪せた文庫本。
「今週のお薦め?」と僕は緩やかに訊ねる。
彼女は手にしたハードカバーを眼前にゆるゆると持ち上げ、
こくん、と小さく小さく頷いて鞄を片手にととと、と駆けていく。
入り口でそろそろとこちらを振り向き、またこくん、と頭を下げる。
僕は思わず微笑んで去りゆく小柄な後姿を見つめる。
「閉館ですよ」と逢瀬の終わりを告げる声を耳にしながら、
放課後の数分間、この短すぎる時間を僕はひしひしと胸に刻む。
『恋愛はかくも不思議なものか』
可笑しなタイトルに目を細め、じんわりと滲むような空を遠目に見やる。
「また来週」と僕は小さく呟いて、文庫本をポケットに包み込む。
小さな独占欲と小さな罪悪感。
僕らの間に敷かれた数分間のレール。
その幼きまなざしに震える放課後の黄昏。
僕の恋はなんと「不純」で「無垢」なものだろう。
ハードカバーの下のはにかんだ柊薫子の笑顔に、僕は。
どうしようもないほどの、1年半の思慕を捧げる。
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