第6羽



※ 残酷な表現があります。閲覧には注意してください。














 兄が人間に捕まった。

 兄は夜斗に逃げろと言う。

 兄の様子からして、この籠は簡単には開けられそうにない。

 だからと言って。



「い、嫌だ!! 兄ちゃんを置いて逃げたくない! 母さんを置いて逃げたくなんかない!!」


「夜斗、言うことを――」


「嫌だ! 兄ちゃんは嘘つきだ。お昼には帰るって言ったのに、夕方になっても帰って来なかった。もう兄ちゃんの言うことなんか聞かない!!」



 今まで、渋々とはいえど最後には必ず兄の言うことに従ってきた夜斗だったが、この状況では頑として首を縦に振ろうとはしなかった。

 夜斗にでも解る、この状況がどういうことなのか。

 兄は食べられるのだ。

 納屋の梁に吊るされている母の皮のようになるのだ。

 そしてこのままもたもたしていれば、いずれ自分も。


 しかし、夜斗はそれでもよかった。

 それがよかった。

 母も兄もいなくなってしまうのであれば、憎い僧侶に食われてしまうことになっても、一向に構わなかった。

 どうせ、自分ひとり生き残っても楽しいことなんて有りはしないのだから。

 このまま死んでしまって何が悪いというのか。



「夜斗」



 未だに往生際悪く、籠を開けようと試行錯誤している夜斗に、兄は静かに声をかける。

 夜斗は無視して籠を乱暴にゆすった。

 それは、諦めた兄に対して無言で抗議しているようだった。



「夜斗、夜斗」


「何!」



 あまりにも、まるで今生の別れを諭すように優しく静かな兄の声に、無意識に口調が乱暴になりながら夜斗は籠を開けようとする手を止めた。



「生きてくれ」


「……?」


「夜斗だけでも生きてくれ」


「何で? 嫌だよ、だって――」


「母さんと俺の分だぞ? ものすごく長い。もっと楽しいことを沢山してるお前を見せてくれよ」


「母さんと兄ちゃん……?」


「そう。お前は楽しいことを見つけてくるの、すごく得意だろ? きっと俺たちにまだ教えてない楽しいことを沢山知っているはずだ。だからそれを俺たちに、俺と母さんに見せてくれ」



 夜斗は今にも泣きだしそうな顔で、兄の言葉を聞いていた。

 兄が何を言いたいのかよく解らなかったが、兄が逃げろと言っているのは判った。





 足音がした。

 それも複数の。

 解っている。

 これは僧侶の足音だ。

 もう兄は、あいつらに食べられるのだろう。

 

 もう時間がない。



「夜斗」


「……」


「夜斗」


「……っ」


「今日のは若い雄だから、きっと身がしっかりしていて美味しいだろうな」


「夜斗!」


「兄ちゃ――」


「おい、籠の外にもう一匹いるぞ」


「本当だ、もう一羽いる。やれやれ。鵜、鷺が食うてくれと言わんばかりに揃うとは。今日は大僧正様も大いに喜ばれるだろう」


「夜斗っ!」


「これは飛んで火にいる夏の虫、というやつだな」


「そうか、虫か。修行のためなら虫も食さんとな」


「やれやれ。修行とはなんと辛いものぞ」


「走れ! 絶対に振り向くな。走れ、走れ走れ走れっ!!」


「う、うああ、うあああああああああああああああ!!!!」





 おい、一匹逃げたぞ。捕まえろ!

 僧侶の声が聞こえる。

 後ろからたくさんの足音がする。

 夜斗は振り返らない。

 夜斗は結局、最後には兄の言うことを聞いたのだ。



 泣いていた。

 夜斗は自分でも気が付かないうちに泣いていた。

 涙が零れていた、溢れていた。次から次へと、降り止まない雨のように夜斗の頬を伝っていた。

 もう今どこを走っているのかも夜斗には見当もつかない。

 まだ僧侶が追って来ているのか、兄は今頃どうなっているのか、これから自分はどうしたらいいのか、全く見当がつかなかった。

 そんなことすら考えなくて済むように、夜斗はひたすらに足を動かすことだけに専念した。何も考えなくていいように。



「っ……!」



 つまずいた。

 夜斗のぐちゃぐちゃの思考など、風が吹くことよりもさまずな事だと言われているような、そんな大きな木の根につまずいた。

 夜斗に起き上がる気力はない。

 耳を澄ましてみる。

 風の音、木の葉の揺れる音、夜斗の息遣い以外、何も聞こえなかった。

 静かな夜だった。

 夜斗はそのまま目を閉じてじっとしていた。

 眠ろうと思ったのではない。

 何か、何でもよかった。

 何か、このがらんどうになった心に埋められるものはないかと耳を澄ませた。









 目が覚めた。

 気付けば朝になっていた。しんとした、冬特有の冷たく引き締まるような寒さで夜斗ははっきりと目が覚めた。

 いつの間にか夜斗の身体の上には木の葉が積み重なっていた。

 何気なく上を見上げると、すっかり葉の落ちた枝が見えた。


 夜斗はむくりと起き上がると、来たはずの道を戻り始めた。

 夜斗にはもうすでに考える力はなかった。

 ただ見たくなったのだ。

 兄がまだ、籠に閉じ込められている様を。

 空腹だとか、辛いだとか、寒いだとか、寂しいだとか。

 そんなものは夜斗の中には存在しなかった。

 ただ、生きた屍のように、今にも消えそうな足取りで足が向くままに歩いた。




 どのくらい歩いただろう、夜斗には今が朝なのか昼なのか、分からなかった。

 読経する声が聞こえる。

 それが夜斗にここがどこなのかを教えた。

 夜斗は弾かれたように駆けだすと、納屋へ向かった。

 誰もいないことを何度も確認して、籠を探した。

 籠はすぐに見つかった。

 空っぽの籠が。

 夜斗は上を見上げた。


 そこには、仲良く並んだ、兄と母の皮が吊るされていた。



「……ど、て」



 喉が張り付いた。

 喉が渇いていた。

 水が飲みたい訳ではない。

 泣き叫びながら走ったからだ。

 潤すことすら考え付かなかった。



「どうして」



 誰も答えてはくれないことは、夜斗にも解っている。



「どうして母さんなの。兄ちゃんなの」



 それでも。

 だとしても、この感情のやり場を求めずにはいられない。



「どうして僕じゃないの。どうして逃げたの。どうして開けられなかったの。どうして母さんをひとりにしたの。どうして兄ちゃんを引き留めなかったの。どうして僕は生きてるの。どうして母さんはいないの。どうして兄ちゃんたちはあそこに吊るされてるの。どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうして!!!」


「どうしてそんなに晴れてるの!!!!」



 きっと。

 忌々し気に太陽を睨みつけ、憎らし気に青空を仰ぎ、吐き捨てるように流れる雲に問うたところで、答えはない。





 夜斗はしばらくじっと空を仰いでいたが、何事もなかったように静かにその場を離れた。

 いつの間にか読経の声は止み、僧侶のそわそわとして声が聞こえる。









 今日も兎はいるだろうか。

 いるだろうさ。この季節は食糧を貯えにのこのこと出てくる。

 にしても、ここ毎日獣の肉が食えるとはな。

 おい、獣の肉はご法度だ。

 おお、そうだった。しかし“鳥”は良いのだろう?

 ああ。だから我々がこの所毎夜食しているのは兎ではなく、鵜・鷺なのだ。

 そうだぞ。だから一匹二匹、ではなく一羽二羽と数えなければならんよ。

 そうだな、心得ておこう。して……


 今日は兎を二匹は捕まえたいな。





・・・・

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