第17羽
青年は、ふと目を覚ました。
青年は不思議な感覚にとらわれた。
明るいのだ。
昼間のような明るさではないが、確かに明るいのだ。
明かりも付けていないのに、手のしわまで見える程に明るいのだ。
青年ははっとして空を見上げた。
そこには、青年がこの土地に越してきて以来、一度も目にしたことがない程美しい満月がその姿を見せていた。
青年は何とも言えない想いに、しばらく月を見つめていたが、はっと我に返って庭先に出た。
土はぬかるんでいて、寝ぼけた頭のままでは歩きにくかったが、気にせず足を動かす。
青年はもう一度真ん丸な月を見上げた。
雲に隠れることなくその姿を惜しみなく晒している満月に、青年は違和感を感じた。
それが何なのかすぐには判らなかった。
しかし、満月を見つめていておのずと解った。
影がないのだ。
月には兎が住んでいて、そこで餅をついているという。
しかし、今の満月にはその兎が見当たらなかった。
青年はふと足元に視線を落とした。
そのには、足跡や何かが転がったような跡が無数にあった。
その足跡は見慣れていた。
夜斗の足跡だ。
青年は急いで周りを見渡したが、勿論夜斗の姿は見えなかった。
やはり先程のあれは夢だったのか。
しかし、このぬかるんだ土の上の跡は間違いなくそこにある。
青年は何が起こったのか理解ができず、結局それから眠ることもできずに縁側に座って月を眺めていた。
次の日、村は僅かに騒がしかった。
太陽が昇っている。
秋特有の、空が高く、薄い雲が覆っている空を見上げて、村人は気味悪がっていた。
あれだけ雨が止めばいいと願っていた村人は、雲が晴れて青空が広がる今の空をにわかには受け入れることができないでいた。
天変地異の前触れだと言い出す者まで居る始末だ。
青年は、昨夜見た話をするべきかどうか迷ったが、いかんせん自分も寝ぼけ眼で見たものであるため、夢だと言われればそれまでだ。
もしかしたら、今日は珍しく晴れただけで、明日から、いやこの後また天気が崩れて今に雨が降り出すだろうと、村人は首を傾げながらその日は過ごした。
しかしそれから幾日か過ぎ、季節も冬になろうという頃。
村に雨が降り続くことはなかった。
雨は降るのだが、以前のように降り続いて困るということはなくなった。
初めは何が起きたか解らなかった村人たちも、いつしかこれが本来のことなのだと気に留めなくなった。
それから年が明け、暖かくなり、暑くなり。
いよいよ田植えの時期だと言う時。
村人は不安だった。
これからの季節は雨が続く。
もしまた雨が続いて止まなくなり、今年も米が穫れなかったら。
しかし、今年は雨が減ったためちゃんと他の食糧の貯えもある。
でももしまた……。
そうは言っても植えなければそれこそ米は穫れない。
腹をくくって田植えを始めた村人たちは、来る日も来る日も空を見上げた。
ありがたいことなのだが、雨が降ると村人は不安になる。
しかし、今年は違った。
ちゃんと止むのだ。
雨は降る。
降るには降るが、長く続いても三日程度。
それからは適度に晴れて、適度に雨が降る。
そんな日が続いて、村人たちが不安と期待を抱えたまま、秋になった。
この年は、豊作となった。
村人たちは大喜びだ。
あんなに悩んでいた雨が減り、作物が何の心配もなく育ち、自分たちが食べていける。
何が起こったのかはわからない。
しかし、これ程までに作物が育つことに感謝の気持ちを抱いたのは初めてだった。
解ってはいたのだ。
作物が育つことはただそれだけで喜ばしいことなのだと。
それがここ数年の雨続きを経験したからこそ、村人皆が心から作物に、豊穣に、神に感謝した。
その月の満月の夜。
豊穣の祭りが行われることになった。
何年振りかの五穀豊穣を祝う祭り。
村を挙げて執り行われたそれは、とても賑やかだった。
青年も、村人と共に豊穣を祝った。
夜斗が雨鎮めの舞を舞っていた夜に見た月から、満月に兎の陰を見たことはなかった。
青年は、夜斗のおかげだと思っていた。
あれはやはり夢ではなく、夜斗が本当に雨鎮めの舞をしたからこその豊作だと考えた。
だとしたら夜斗は神の使いだったのだろうか。
考えても出ない答えを、縋るような気持ちでこの村の村長に求めた。
あの日見た光景を、村長に事細かに伝えると、村長は満月を見上げて頷いた。
「わしも、満月に兎の陰がないことを不思議に思っておったんじゃ」
村長の言葉に青年は月を見上げた。
やはり今日の月にも兎の陰はなく、真ん丸な美しい月がそこにあるだけだった。
青年と村長は顔を見合わせると互いに頷いた。
うさぎ うさぎ
なに見て跳ねる
十五夜お月様 見て跳ねる
それから年が明けて。
この村には祠ができた。
五穀豊穣を願が込められた、月を運ぶ兎を祀った祠が。
祠は村人の誰もが立ち寄ることができ、いつでもお参りができるように村の真ん中に建てられた。
今では子供たちの遊び場に、母親たちの井戸端会議の場に、村人たちの憩いの場となっていた。
青年はこの祠に足を運ぶのが日課となっていた。
あれから夜斗の姿を見ることはなくなったが、青年にとってこの祠が夜斗の代わりとなっていた。
祠の中にある兎の像は、見覚えのある座布団の上に鎮座していた。
青年が夜斗のためにあつらえた、あの座布団だ。
他にも、夜斗が気に入っていた手拭いが像の首に巻かれていた。
青年は、夜斗の好物だった人参を備えると、手を合わせた。
子供のはしゃぐ声が聞こえる。
この声も、以前では聞こえてこなかったものだ。
春を告げる蜂の羽音も、夏を告げる蝉の声も、秋を告げるとんぼの姿も、冬の合間の小春日和も。
雨が続いていたこの土地ではないも同じだった。
夜斗には感謝してもしきれない。
そんな想いを乗せて、青年は手を合わせる。
うさぎ うさぎ
なに見て跳ねる
十五夜お月様 見て跳ねる
どこからか声が聞こえた。
子供が歌ったのだろうか。
それにしては聞き覚えがあるような。
そういえば、夜斗が雨鎮めの舞を踊っていた夜も、この歌が聞こえていたような。
がさっと。
青年の背後で音がした。
急いで音がした方に目を向けると、白い影がひょいひょいと山を登っていた。
夜斗だろうか。
きっと夜斗だろう。
自分が祀られる姿を見て照れくさくて出て来れなかったのだろう。
青年はくすりと小さく笑うと、祠の中の兎の像を、以前夜斗にしていたように撫で回した。
どこかでふん、と鼻を鳴らした音が聞こえた気がした。
青年は満足そうに頷くと祠を後にした。
子供たちのはしゃぐ声が響いている。
積もった雪でかまくらを作ったり、雪合戦をしたり。
思う存分に遊びまわる子供たちに、青年は声を掛けた。
子供たちは嬉しそうに青年を迎え入れ、雪合戦を再開した。
子供たちに雪玉を投げて投げられて。
青年も久しぶりの雪遊びに大いにはしゃいだ。
祠の後ろの茂みががさがさと揺れる。
ひょこりと白い塊が現れて、祠に近づく。
白い塊は、備えられていた人参を咥えると祠の陰に隠れた。
子供たちとの雪遊びに疲れた青年は、ふと祠に視線を移した。
祠の陰で、赤い色がうごめいている。
何かいるのかと目を凝らしていると、顔に雪玉がぶつかった。
子供たちが元気な笑い声をあげる。
青年はため息をつくと、雪玉を作り投げつけてきた子供を追いかけた。
きゃっきゃと走り回る子供たちに紛れて遊ぶ青年を、白い塊は見ていた。
ふん、と満足そうに鼻を鳴らすと、またがさがさと茂みに帰っていった。
うさぎ うさぎ
なに見て跳ねる
十五夜お月様 見て跳ねる
陽気な歌声が、茂みから聞こえた。
・・・・
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