第15羽
しばらくして青年が何やら手に持って、夜斗の方へ戻ってきた。
いつだったか猿がしてくれた物と同じ匂いがした。
青年は優しく夜斗を抱きかかえ、膝の上に仰向けに転がす。
一瞬嫌な顔をした夜斗だが、仕方がないかと荒々しく息をすると大人しくされるがままになった。
しっかりと治療が終わった後、青年は夜斗を抱き上げてじっと見つめる。
夜斗はきょとんとしながら青年を見つめ返し、ひくひくと鼻を動かす。
蓬の匂いに鼻が慣れてしまって、周りの匂いが分からなかった。
「さて子兎。足の怪我が治るまで、俺のとこに来るか?」
夜斗は考える。
このまま青年の申し出を断って気ままに歩き回ってのいいのだが、いかんせん足には痛みを抱えていたし、何より夜斗はこの青年を気に入っていた。
世話をされるのも悪くないか、と鼻を鳴らすと、青年はそれを同意と取ったのかにかっと笑って夜斗を大事そうに抱えた。
「よし、そうと決まればもう帰ろう」
青年は鉈を仕舞うと山道を下り始めた。
雨はいつの間にか上がっていて、辺りは先程より少し明るくなっていた。
青年の家は周りより立派に見えた。
山を下りて里に入り、家路の途中で役人さん、と呼ばれた青年は、にこやかに村人たちの声に応えていた。
村人が夜斗に興味を持つと、夜斗を怯えさせないように常に撫でながら応対していたし、村人もむやみに騒ぎ立てることはしなかった。
夜斗も青年の腕の中で大人しくすることができたし、村人に撫でられて何だかほこほことした気分だった。
夜斗は縁側に下ろされると空を見上げた。
相変わらずぞっと雲が立ち込めていて、太陽は見えない。
今は雨は降っていないが、今にもぐずりだしそうだった。
「お前、お腹は空いてないのかい?」
先程よりも濃くなった雨の匂いを嗅いでいると、青年の声が上から降ってきた。
青年は人参や大根などを持って夜斗の隣に座った。
「僕はお前が何が好きなのか知らないから、適当に持って来てみたんだ。さあ、どれがいい?」
夜斗はふん、と鼻を鳴らすとそれぞれを一度匂いを嗅いで確かめた。
どうやら腐ったものは混じっていないらしい。
一通り匂いを嗅いだ夜斗は、人参を鼻でつついてそれからもそもそと頬張り始めた。
夜斗の様子を黙って見つめていた青年は、安心して胸を撫で下ろし、どんどん短くなる人参に嬉しくなった。
この人参は、雨続きのこの土地では珍しく、しっかりと育ったものだった。
青年は美味しそうに食べる夜斗の頭を撫でると、ふと自分の手を見つめた。
「そういえばお前、濡れてたな」
もふもふと人参を頬張りながら見上げ首を傾げる夜斗を置いて、青年は再び家の中へと戻っていく。
すぐに戻ってきた青年は、その手に手拭いを持ち夜斗を囲むようにして座る。
青年の不可解な行動を、夜斗は気に留めることなく口を動かしていたが、突然辺りが暗くなった。
するとすぐに身体中の毛を逆なでされ、夜斗は思わず青年の足の間から飛び出した。
「こらこら。風邪をひいてしまうからもう少し我慢しなさい」
夜斗は青年に抱えられ、再び足の間に戻されると手拭いを掛けられ、もみくちゃにされた。
初めは自分の身に何が起こっているのか解らなかった夜斗だったが、いつの間にか気持ちよさそうにじっとしていた。
うさぎ うさぎ
なに見て跳ねる
十五夜お月様 見て跳ねる
拭き終わると、青年は夜斗を抱き上げてにこりと笑って見せた。
夜斗は不満げに二三度足をばたつかせると、もっとやってと鼻を鳴らした。
そんな愛嬌のある夜斗の様子に、青年は大層可愛がった。
夜斗も満更ではない様子で、家の用事を熟している青年の後ろを痛む足を気にも留めず付いて回り、ことあるごとに撫でろとせがんだ。
ようやく用事も済み、青年と夜斗は再び縁側に並んで腰かける。
いつの間にか、もう何度目か分からない雨が降り始め、青年は大きくため息をついた。
「また雨か……。このままじゃあ作物はまた不作になるな。そろそろ貯えも底をつきそうだというのに」
誰に言うでもなくぼやく青年を、夜斗はじっと見つめていた。
そんな夜斗の様子に気付いた青年は、困ったように笑いながら夜斗を撫でる。
夜斗は何故だかとても嫌な気持ちになって、嫌々と青年の手から逃れた。
青年は驚いて夜斗を見るが、夜斗はふん、と鼻を鳴らしてひくひくと鼻を動かしている。
青年は肩を竦めながら小さく笑うと立ち上がった。
夜斗が見上げると、青年はちょいちょいと手招いた。
「冷えるから中へ入ろう。おいで」
夜斗はもう一度ふん、と鼻を鳴らすとひょこひょこと足を引きずりながら青年に続いて家の奥へと入っていく。
途中、夜斗が空を見上げると、灰色の空から冷たい雨が降っていた。
桜が散り、葉が青々と茂る頃。
この頃の気候は夏が近づいている様がそこかしこに見られるのだが、ここはそうではない。
来る日も雨や曇り空が続いていて、太陽なぞ見たのはいつのことか忘れてしまう程だ。
今日も今日とて曇が立ち込める空の下で、夜斗は元気に走り回っていた。
青年の甲斐甲斐しい世話のおかげで怪我はすっかり治り、今では青年が行くところ行くところに必ずついて行った。
勤め先にまでついて歩くものだから、夜斗はすっかり村での人気者となった。
ある日のこと。
夜斗と青年はいつものように縁側に並んで座っていた。
そしていつものように、しとしとと雨が降っていた。
この季節になると、少し早めの梅雨が来たのだと割り切ろうと考えても、これからのことを考えるとやはり頭を悩ませる。
青年は空を見上げながら知らず知らずのうちにため息をつき、気を紛らわせるように夜斗を撫でる。
夜斗は青年を見上げてふん、と鼻を鳴らす。
青年が夜斗の視線に気付き、困ったように笑いながら抱き上げる。
「こうも雨が続いちゃあ、今年の米も駄目かなあ」
ひくひくと鼻を動かしながら青年を見つめる夜斗は、急にぷいと顔を逸らして下ろせと言うようにじたばたと暴れた。
青年は素直に夜斗を下ろすと何となく、撫でようと夜斗に手を伸ばした。
しかし、夜斗は青年の手から逃れると、ひょいと庭先へ降り立った。
いつの間にか雨は止んでいて、珍しく雲の隙間から日が差していた。
それに気を取られている間に夜斗は家の垣根を越えているところだった。
青年は慌てて夜斗を追いかけて軒先を出た。
しかし相手は兎。
青年が垣根を越えて周りを見渡しても夜斗の姿はもうどこにも無かった。
何か気に入らなかったのだろうか。
青年が夜斗と並んで座っていた縁側を振り返ると、そこには夜斗が座るために用意した小さな座布団と、先程わしゃわしゃと撫で回した時に使った、夜斗お気に入りの手拭いがあった。
初めて夜斗を撫で回した時、青年は大人しくされるがままになっている夜斗が可笑しくてついつい笑ってしまった。
普通ならば嫌がってすぐにどこかへ行ってしまいそうなのに、夜斗はもっとやれと鼻を鳴らしてせがんでいた。
ずいぶん人に慣れた兎だと思ったが、他の者が撫でてもそこまで大人しくしていなかったなと思い返して、自然と頬が緩んだのを覚えている。
春先とはいえ、こう雨ばかり続くこの土地では、縁側に直接座ってじっとしているには寒かろうと、余っていた綿と端切れでこしらえた座布団を夜斗に見せると、これは何だと明らかに警戒している姿に、ついつい笑みがこぼれた。
座布団と青年を交互に何度も見比べているだけで、一向に上に乗る様子のない夜斗を、少し無理やりに乗せてやれば、初めのうちはそわそわと落ち着かなかったが、しばらく匂いを嗅いだりもそもそと居心地の良いように動いた後、ふん、と鼻を鳴らしてどっしりと構える夜斗の姿を、飽きることなくにこにこと見守っていたことを思い出して、ふと気が付いた。
この頃夜斗は、自分に撫でられるのを嫌がっている節があった。
それは決まって雨が降る空を見ながらぼやいている時で、自分は心ここにあらずだったように思う。
夜斗は、もしかしたら。
そんな暗い顔をした自分に撫でられるのが嫌だったのではないか。
一度そう考えると、それ以外に何も考えられなくなった。
しかし気付いたところでもう遅かった。
夜斗は青年の元から飛び出して、もうどこに居るのかもわからない。
青年の肩は、静かにふたたび降り始めた雨に濡れて、重く下がっていた。
・・・・
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