第9話 実験をしよう。

 高田は、今田に言われて、やっと家に帰った。このところ、ずっとしまなみ署で寝泊まりをしていたのだが、少しは休むようにと言われ、ロッカーに溜まった洗濯物も洗濯したいと思い、一日だけと思って、家の玄関の鍵をあける。

 誰もいない家の中で、彼の足音だけが廊下に響く。今日は、世間では文化の日の振り替え休日だ。

 徹夜明けの目に、家の暗さが心地よい。洗濯機にシャツや下着を放り込んで、スイッチを押す。

 洗濯機が動いている間、彼は溜まった新聞紙を郵便受けから引っ張り出し、縛って玄関の隅に置く。新聞は署で読んでいるから、改めて読む必要がない。

 誰もいない家の中。

 一日くらいの徹夜で、こんなに疲れるようになったのはいつからだろう。

 時計は午前十時半。洗濯機から衣服を取り出し、庭の物干し竿にぶらさげていく。太陽の光が痛い。

 彼は、軽く屈伸運動をして、居間に移動しスーツを脱いでパジャマを着ると、座イスに深く身を沈めた。帰る途中に買った、緑茶のペットボトルを一口飲み、煙草に火を点ける。

 風呂に入りたい。

 しかし、彼は諦めるように、コタツにもぐった。

 目を閉じる。

 事件の事を考えているうちに、いつの間にか眠っていた。




 今田刑事はしまなみ署の刑事課のデスクに向かって、今回の事件をまとめたファイルを眺めていた。もう何回も目を通したファイルだが、それでも気づけばこうしている。

 それにしても、あの野島弘の反協力的な態度はなぜだろう。彼のああいう態度が、こちらの態度にもつながっているのか、その逆なのか、今田は考えていた。

 答えはでない。

 彼は喫煙室の隣にある、自動販売機に硬貨を入れて無糖の缶コーヒーを買った。煙草を咥えて、喫煙室に入り、自動吸煙機のスイッチを入れる。煙草に火を点ける。

 山田直樹が人から恨まれていたという事実もなく、野島弘にしても、仲の良い友人の一人であると捜査結果が語っている。しかし、あの時間、あの場所に、なぜ二人がいたのか。謎のままだった。これがテレビドラマであれば、探偵が出てきて、独自の調査を披露してくれるのだが、悲しいかな、現実ではあり得ない。自分達が解決するしかないのだ。

 喫煙室のドアが開き、刑事課に春に配属されたばかりの若い刑事が入ってくる。

「お疲れ様です。高田係長はどちらに?」

「ああ、家に帰ってもらったよ。あの人、ずっと署に寝泊まりしてたみたいだから。体を壊されたら困る。牧野も今日は非番だろ。何しに来た?」

 新入りの刑事はニッと笑うと、煙草を咥えた。

「係長に捜査の事で相談がありまして。良かったら主任、聞いてもらっていいですか?」

 うなずく今田に、嬉しそうに手帳を開いた牧野は、得意げに話はじめた。そういえば、俺の事を役職で呼ぶのは牧野だけだなと思って、口元をほころばせる。

「今は野島弘一本に絞っていますが、山田直樹の同級生、後藤智の事で、気になる証言があった事を思い出しまして」

「どんな?」

「彼は山田直樹に嵌められて、選挙管理委員を押しつけられて怒っていたという証言が複数あります。これが原因で二人の間に衝突が起こったというのはどうでしょうか? 彼が犯人では?」

「それは捜査本部の方針に逆らう事になるぞ。お前、ど田舎の派出所に飛ばされたいか?」

 首を振る牧野に、あきれた顔を向けたまま、今田は煙草をアルミの灰皿に押しつけて消した。

「だったら、おとなしくしてろ」

 部屋を出た今田は、後藤智を思い出した。あの反抗的な表情。綺麗な顔をしているからよけいに人の感情を逆なでする。

 待てよ。そういえば、野島弘と後藤智は親友だ。野島弘が話したがらないのは、誰かを庇っているか、それとも共犯だからではないか。山田直樹の首に残されていた手形と、野島弘の手形が一致しないという事も、彼の首を絞めたのは、野島弘ではなく、彼が庇うに足りる人物だからではないだろうか。

 これはもう一度、交友関係を洗い出し、三人の間で何があったのか、調べる必要があるように思った彼は、デスクにつくと、ファイルを開いた。

 上司に電話をかける。

『お疲れさん』

 眠そうな高田の声。

「お疲れ様です。あの、高田さん。ちょっと聞いて欲しい事があるんですが」

 今田は、自分の考えを上司に話して聞かせた。

「なるほどな。よし、これから、そっちに行く」

 お礼を言って電話を切った今田は、時計を見上げた。

 午後十時半。

 彼は喫煙室に、牧野を探しに向かった。

 

 高田は携帯電話をスーツの内ポケットにしまい、着替えを詰めた大きな鞄を抱えて車に乗った。署に向かう途中、近所にできたスーパー銭湯に寄る。ゆっくりと風呂につかった彼が、目的地に到着したのは、日付けが変わろうとしていた頃だ。

 刑事課のフロアに入った彼を、今田と牧野が向かえた。熱い緑茶を自分で淹れて、二人と机を囲った。

「これまで得た証言だと、野島弘と親しかったのは、この三人。被害者である山田直樹と、後藤智、そして福間康太の三人です。逆にいえば、この三人以外の事で、野島弘が庇う必要はないという事です。三人のうち、山田直樹は被害者ですから、後藤智、福間康太のどちらかが、事件の被疑者であった場合、野島のあの態度も納得がいきます」

 牧野が夜食のカップラーメンを三人分用意している。それを横目に今田が続けた。

「この二人は、選挙管理委員会に所属しています。会長選挙の立候補者とその管理委員。早朝に学校にいた理由も、そのあたりにあったのではないでしょうか」

 腕組みをした高田は、喫煙室に行くのが面倒だと思い、その場で煙草に火を点ける。二人は目配せして、それを無視した。

「後藤智のあの態度。もしかしたら、こっちが本筋かもしれないな」

 絞り出した声はかすれていた。

「係長、風呂上がりですか?」

 牧野がカップラーメンを配りながら、全く関係のない質問をしたが、高田はそれにわざわざうなずき、スーパー銭湯に行ったと告げた。

「今、風呂が使えなくてな」

「修理なら、早く連絡したほうがいいですよ」

 牧野が、カップラーメンをすする。そうだなとつぶやいた高田は、割り箸を割って、カップラーメンに箸をつけた。

「明日、いやもう今日か。学校に行くぞ。後藤智と福間康太から話を聞くんだ。俺と牧野は後藤智と話をする。今田は、そうだな。新井と一緒に福間康太をやってくれ。上には俺から話をする」

 三人は、新しい何かを発見さえすれば、この事件は大きく進むと話し合い、翌日の準備を始めた。


 十一月五日の朝。

 智は超能力者ではない。警察から自分が疑われているとは全く知らない。いつものように、ビータンと朝の散歩をする。六時半から七時まで、家から歩いて一五分の距離にある公園との往復コースを歩く。隣で尻尾を楽しそうに振るビータン。愛護センターから譲り受けてからこの三年間、愛犬の朝の散歩は、彼の役目だった。風邪のときだけそれは免除される。九月のはじめに風邪だと嘘をついて、学校を休むと母に伝えた時の事を思い出す。あの日の前夜、弘に誘われてオンラインゲームを朝までやっていたのだった。あれが直樹と弘の計画の一つであったという事を知り、あの時の弘は、まさかこんな事になるなんて、思っていなかっただろうと思うと、なんだか複雑だった。

 折り返し地点の公園で、ビータンが大きいほうを催したらしく、そわそわと同じ場所で動き回る。それを見ながら、新聞紙を取り出し、糞を回収した時、いつも会うミニチュアダックスを連れた初老の男性と出会った。

「おはようございます」

「おはようさん。ビータン、おはよう」

 二人は挨拶をして、すれ違った。犬同士も挨拶をする。

 智が家を出たのは、七時三〇分。学校まで自転車で四十五分だ。

 学校に行って、監視カメラの事を担任に確認し、それから丸池脇の自販機を調べて、と考えながらペダルに力を込める。

 いつもの長い坂道の前で、自転車から降りて押しながら進む。同じ学校の制服姿が増えて行く。友達同士で登校している生徒が圧倒的に多いなか、彼は一人で登校するのが好きだった。

 後ろから、自分を呼ぶ声がして、智は振り返る。福間康太だ。

 康太は、彼の隣に並んで、赤い髪についた寝癖を手で押さえながら、あくびをする。

「事件の事、調べてるんだって?」

 智はまっすぐ前を向いたまま、康太の質問にうなずく。

「母ちゃんから聞いた。あと、池田の事も聞いたぞ」

 なんでこんな事になるんだろう。中年女性に、秘密にしてくださいというお願いは、しゃべってもいいですよという意味に取られるんだろうか。

 康太は鼻の穴をふくらませて、智の肩を叩いた。

「直樹のおかげだな」

「ああ、そういえば、そうなるな」

 智は今さらながら、直樹の計画の中で、たった一つのプラス効果に気づく。彼に嵌められなければ、彼と瑠香の関係は、半年前と変わっていないだろう。

 二人は正門を通りぬけ、駐輪場に自転車を止めて別れた。

 教室に入った智は、樫本真由に挨拶し、昨日のお礼と、さっさと帰った事を詫びた。

「彼女と約束があってさ……」

 真由は驚いた顔をして、誰と付き合っているのか、しきりと知りたがる。それをのらりくらりと答えないでいるところに、血相を変えた担任の山下教諭が入ってきた。

 彼女は智の姿を確認すると、蒼白な顔で近寄ってくる。そして、メモを彼の手に握らせた。

 そのメモには

『しまなみ警察署の刑事さんが、あなたと話をしたがっている。校長室に来てください』

 と書いてあった。

 智は、あの嫌な刑事の顔を思い出した。




 校長室の中は、なんとも言えない緊張した空気に支配されていて、智は呼吸をする度に、苦しさを感じていた。目の前に座る例の刑事が、相変わらずのむかつく態度で、彼に対して、ネチネチと質問してくる。

「君と山田直樹くんは、選挙管理委員の選考のことで揉めていたんじゃないのかな?」

 智は溜め息をつく。中年親父の隣で、眼鏡をかけた真面目そうな若い刑事が、メモを取っている。表情や態度も観察されているような気がして、彼は反感を募らせた。

「しつこいですね。だから揉めてないって言ってるでしょ。頭にはきたけど、そんな事でいちいち絡むわけないですよ。ガキじゃあるまいし」

「十分、ガキだろ」

 高田の言葉に反応したのは、担任の山下教諭だった。

「警察というのは、未成年に対して、そのような言葉使いと態度をするのですか? これは取調室の中でも、起きている事なんでしょうか? だとしたら、警察はとんでもない組織だと思います。これ以上、後藤君に無礼な態度を続けるなら、お引き取り願う事になりますよ」

 高田は頭をなでながら、生意気な女性教諭の顔を見つめた。自分の妻だった女と生意気なところが良く似ていると思う。

「先生、それでは今日はこれで帰りますが、後藤くんが協力的ではないというのは、これは問題ですよ。改めて、今度は警察署で話を聞くことになるでしょうな」

 高田はソファにふんぞり返ったが、智は彼の言葉にも、余裕の表情で笑みすら浮かべていた。

 智が視線を若い刑事に移した時、高田が立ち上がり、帰るぞと若い刑事に声をかける。

 一時間もの間、同じ質問を繰り返された智は、溜め息をついた。余裕の態度を装っていたものの、内心では「これは、取調室に入れられたとしたら、とんでもないぞ」と思っていたのだ。

 智は、担任の山下教諭と一緒に校長室を出た。彼に校長の有村かおるが近づいてくる。相変わらず品のいいお婆さんといった彼女は、にっこりと微笑んだ。

「後藤くん。嘘は言ってないでしょうね」

「……はい」

 智は姿勢を正した。この女性の前にすると、誰もが自然と姿勢と正す。

「警察の人が、あなたに乱暴な態度を取るのは、それはあなたがそうさせているかもしれないのよ。後藤くん、よく考えてみて」

 智は、真面目な顔をして、こくりとうなずき、照れ笑いを浮かべる。

「聞いていたんですか?」

「聞いてなくても聞こえます。あんなに大きな声だもの」

 彼女は笑みを残して、その場を立ち去った。校長室に入るのは、山下教諭が空いたカップなどを片づけてからにするらしい。

 誰からも人気のある校長。その彼女の夫は、この学校を経営している学校法人の理事長でもあり、しまなみ市で最も大きな会社の会長だった。地域貢献の一環として、この学校を二十年前に設立し、独特の教育方針を現在も貫いている。特筆すべきは公立校よりも授業料が安いという事だろうか。

 智が教室に帰ろうと廊下を歩いていると、後ろから康太の声が聞こえて、振り向く。

「弘を責めても進まないと思ったんだろうな。俺達に矛先が向かってきたぞ」

 康太の顔は、智に比べていくらか余裕のないものだった。叩けば埃が出てくるのだろう。

「後藤、お前は弘からどう聞いてる?」

 そう言って康太は、彼を男子トイレに連れ込んだ。誰もいない事を確認し、自分が親友から聞いている事を話す。それは智が、弘から最初に聞かされた内容だった。

「俺と聞いているのと一緒だ」

 智の言葉に、赤い髪を撫でながら、大きな体をせわしなく動かす。

「おまえ、あの日の朝の事、聞かれたか?」

「朝?」

 康太によると、十月十日の朝、どこにいたのか。それを証明できる人間は家族以外にいるかと、しつこく聞かれたらしい。智は聞かれていない。

「いや、俺は弘から何を聞いているのか? 直樹と揉めた事をくわしく話せの二点だ」

「何て言った?」

「弘からは何も聞いてない。直樹とは揉めてない。選挙管理委員選出に関して腹は立ったけど、委員自体は楽しんでやってたと答えた」

 康太はトイレの中を見回す。その目が智の顔で止まった。

「俺、少ししゃべった」

 恥じ入るように目を伏せる。

「弘が山田の推薦から降りるって話になって、それで携帯で話しあったみたいだって」

 智はうなずいた。その部分は携帯電話会社に残っている通話明細をみれば、電話の履歴で二人が携帯電話で連絡を取った事は一目瞭然だろう。その連絡の内容が明らかになったというだけで、大きな問題ではないように思うが……

 それでも康太は、弘が直樹と揉めていたという事を知った時の、警察の顔を見て、怯えているというのだ。

「なんか、やっぱりというか、狙い通りというか、そんな顔をしやがってさ」

 智は康太の肩を叩いた。

「証拠がないんだ。弘が直樹を殺したっていう証拠がない限り、心配ない」

 康太はピカピカに磨かれたトイレの床にしゃがみ込む。

「それならいいけど。でも、お前は知らないだろうけど、弘と山田は因縁があるんだ」

 智は康太の顔を覗きこんだ。

「弘は小学校の時、イジメにあっててさ。あいつと仲好くしてると、自分までイジメにあうといって、山田は弘と付き合わなくなったんだ。いや、これは弘は知らないよ。俺が休みがちになった弘を、家に迎えに行こうと山田に言ったら、あいつが俺に言った事なんだ」

 頭を殴られたような衝撃だった。

 智は軽いめまいを覚えて、康太をじっと見つめる。

「中学にあがってから、弘の背が一気に伸びて、知っての通り、喧嘩も強くなった頃、自然とイジメはなくなっていったんだ。それまで、弘から離れていた山田がまるでそんな事はなかったかのような顔で、また弘と仲好くしだした時は腹がたってしょうがなかった」

 智は、震える声を出す大男を、抱き起こそうとしたが、重くてあきらめた。

「後藤、やばいよ。弘が捕まったら俺のせいだ」

「待てよ。弘は山田のそういう発言を知らなかったんだろ?」

 康太は濡らしたまつ毛を、揺らした。

「多分……、でも全く気づいてないほど、お人よしってわけじゃないと思う。今でも、あいつは自分をイジメてた奴の事は覚えているから……」

 智は、しばらく動けなかった。

 



 後藤智と福間康太の二人から話を聴いた日の夜、教育委員会と、しまなみ高等学校を運営する学校法人から、しまなみ署に正式な抗議がきたとして高田は署長からこってりと絞られた。

 どいつもこいつも、相手が子供だと甘くなる。そんな事だから、未成年の凶悪犯罪が後を絶たないのだと、高田は自分の事は棚にあげて、デスクに八つ当たりをした。

 子供は大人がしっかりと管理してやらないと、すぐに非行に走る。

 彼はその時、妻と娘の顔を思い出した。警察官の妻でありながら、子供の教育に問題があった妻。警察官を父に持ちながら、彼の立場を考えない言動を繰り返していた娘。今はもう、彼の前に現れる事はない。それでも、二人の顔を見た最後の光景が、脳裏に蘇る。

 泣き叫ぶ妻と、挑むような目で自分を見ていた娘。

 彼は煙草を咥えて、火を点ける。

 いなくなった今となって、寂しく感じるのは自分の勝手だろうか。

 高田は午前四時まで仮眠を取った。

 目覚まし時計で目が覚めると、近くで寝ていた牧野を叩き起こす。二人は駐車場に向かった。

 高田は牧野に運転を命じて、助手席に身を沈めた。一人、車窓から外を眺める。

 何か、しくじっている事はないだろうか。

 午前五時前、車は、しまなみ高等学校の来客用駐車場に滑り込んだ。

「どうしたんです?」

 牧野は、難しい顔をした高田の後ろを歩く。

 高田は、じっくりと正門を眺める。まるで、山田直樹がそこにいるかのように、植え込みを睨む。それから、のんびりとした足取りでジュースの自動販売機へと歩いた。

 缶コーヒーを二本買う。それを取り出し、正門へと向けて歩いた。

「係長、どうしたんです?」

「ああ、お前、守衛室の前に立ってろ」

 牧野は慌てて、守衛室へと走った。

 高田は塀の向こうへと姿を消した牧野に、音や人影を見たら教えろと叫び、そのまま正門に歩いていった。植え込みまで数メートルといったところで、彼は立ち止まる。

 辺りをぐるりと見渡す。

 学校側には、街灯が等間隔で設置され、そのオレンジ色の光が学校の塀と、その内側の木々を照らしている。対象的に、丸池側は、暗闇に包まれていた。かろうじて、二車線の道路の半ばまでは街灯の光が届いているが、池周辺の草地さえ、もう闇に溶け込み見えなかった。

 十月十日の朝は、今よりも明るかっただろうか。

「おーい、そこから何か見えるか?」

「いえー、塀が邪魔して何も見えません。正門の入り口から、自転車道までは見えます」

 高田は植え込みの傍で、高田は足を踏みならしたり、一人で騒いだりしてみた。

「どうかしたんですか?」

 牧野の声が聞こえる。高田は植え込みに倒れ込んだ。しばらくじっとしてみる。

 正門から顔をのぞかせた牧野が、驚いた顔で走り寄って来た。

「大丈夫ですか?」

「ああ、ちょっと死体の気分を味わおうと思ってな」

 高田は立ち上がり、守衛室に向かおうとした。

「誰もいませんよ」

 牧野の声に、高田は立ち止り、振り向く。

「誰もいない?」

「はい」

 牧野がうなずいた。

 高田は缶コーヒーを一本、牧野に投げやる。

 落っことした牧野が、慌てて拾い上げた。

「係長、山田直樹が殺された時の事、考えていたんですか?」

 高田はうなずいて、缶コーヒーのプルタブを引いた。

 一口、飲んで煙草を咥える。煙を吐き出した時、来客用駐車場へと歩いた。慌てて、牧野が追いかける。

 車に乗り込む時、高田はもう一度振り返り、正門を見た。山田直樹がそこに立っているように見えたが、彼は鼻を晴らして笑う。

「早く成仏しろよ」

 彼の呟きは、部下の耳には届いていなかった。




 十一月六日の放課後。

 智は、ゴタゴタのおかげで流れていた監視カメラの事を、担任の山下教諭をつかまえて訊いた。

「監視カメラ? ああ、あれは学校の敷地内しか写してないから」

 彼女はそう答えた後、真面目な顔になり、彼を職員室に引っ張り込んだ。その奥にある生徒指導室へと彼を入れると、椅子を勧める。

「後藤くん。何をやってるのか話しなさい」

 毅然とした担任の視線から、智は逃げるように身動ぎする。

「校長先生も、教頭先生も、もちろんこの学校の先生は皆、生徒の事を信じています。でも、その気持ちを裏切るような事はしていないって、あなたは断言できる?」

 智はゆっくりと担任の顔を見た。その顔は怒っている風ではなく、何かとんでもない事に首を突っ込んでいないかと、生徒の身を案じる教師の顔だった。

「事件の事を調べています」

 山下教諭が大きくのけぞる。予感は的中といったていだ。

 天井を仰いだ彼女は、智のほうへ身を乗り出した。

「それは自分の為? 友達の為?」

 智はじっくりと考えた。

「両方です」

 その時、ドアをノックして小山教諭が顔を覗かした。

「ちょっといいかな?」

 笑みを浮かべて、山下教諭の隣に座った彼は、難しい顔をした二人を見やって、何があったのか問いただす。山下教諭がそれに答えた。

 小山教諭は、厳しい表情で智を見つめた。

「お前はいつものらりくらりとしている奴だと思っていたが……」

 智もそう思う。こんな事件がなければ、相変わらずゲームばかりしているだろう。

「後藤、そういう事は警察に任せなさい」

「その警察が信用できないんです」

 小山の言葉に、智は即座に反論した。困った顔の二人の教師は、顔を見合わせる。気まずい沈黙に耐えきれなくなった山下教諭が、立ち上がり部屋から出て行った。

「先生、友達を助けたいという気持ちで行動する事は、先生達の信頼を裏切る事になりますか?」

「屁理屈こねるな。お前が決定的に間違っているとは思わないよ。後藤。でもな、お前が正しい事をしているとも思わない。お前が今、しなければならない事は、警察に全てを話す事だ」

「全てを話したら、警察は今以上に弘を疑います」

 言ってしまって、しまったと思うがもう遅かった。小山は驚いた表情で彼を見ていた。

 ドアが開いて、山下教諭が三人分の紅茶を運んで来てくれた。

「うずら屋よりはおいしくないけどね」

 どうやら、あの喫茶店に生徒が出入りしている事は知られてるいらしい。かといって、それを注意しないところが、いかにもこの学校らしかった。

 どこに出入りしようが、自分の責任である。法律を犯していない限り、学校は関与しませんと改めて言われているようだった。

「後藤くん、こういう事は、素人があれこれとつつき回すものではないと私は思います。友達を想うあなたの気持ちはもっともだけど、あなたができる事は他にあると思います」

 山下教諭は暖かそうな湯気に息を吹きかけた。

 智は黙り込んだまま、じっとカップを見つめる。三人は押し黙ったまま、じっと動かないままだった。




 その日の夜。家に帰った智は母親から呼ばれて、リビングのソファに座った。

「今日、警察の人が来たよ」

 なるほど。母親の心配そうな顔の理由が分かった。

 智はわざと笑顔を浮かべた。

「あの事件の事でちょっとね」

 彼の母は、足元にじゃれつくビータンの頭を撫でながら、話せないような事はないよねと確認してくる。智はうなずいた。

 部屋に入った智は、ドアの外で鼻を鳴らすビータンを、招き入れてやった。ベッドに飛び乗り、尻尾をバタバタと振りながら、大きく伸びをするビータン。その目はまっすぐに彼を見ている。

 ビータンの横に寝転んだ智は、スマートフォンのディスプレイを見た。

 新着メールとメッセージは一件ずつ。

 それは、弘と瑠香からだった。

『智、思い出した事がある。白い車が停まっていると言ったけど、エンジンはかけたままだった。ルームランプもついていた。中に人はいなかった。それと、俺が警備の人を呼んだ時、一人しか来なかったんだ。だけど、警察が到着するより早くに、もう一人の警備服を着た人が学校に来た。原付に乗ってた』

『智くん。心配だから連絡欲しい。できれば電話がいいけど、メールでもいいよ』

 智はしばらく考える。

 弘に電話をかけた。

 彼はすぐに出た。

「もしもし」

「弘。メール見た。あれは本当なのか?」

 数秒の沈黙。

「間違いないと思う。車のマフラーから白い煙も出てた。あと、警備員のほうも間違いないよ。俺が呼んだ時、慌てて校舎から出てきたのは、じいさん一人だけだ。制服警官が来る少し前に、もう一人、そうだな、小山先生くらいの年の人がいつのまにか来てた」

「原付ってのは何で分かった?」

「ヘルメットを脇に抱えていたから。あと、応接室に行く時、駐輪場に原付が停まっていた。教頭先生は黒のセダンだろ?」

 智はA案を思い出した。警備会社のスタッフが犯人であるとする説だ。

「後から来た警備の人は、どんな風だった?」

「どうって?」

「慌ててたとか、動揺してたとか」

 弘が咳払いをする。

「そりゃすごい動揺してたよ。いろんなところに電話してたし」

 智はA案に絞ろうかと考えながら、弘と他愛のない会話をする。そういえば、二人でこうしてくだらない話をするのも、ひさしぶりだ。

 結局、弘との電話を終えた時、時計は午後一一時を過ぎていた。

 瑠香の顔が浮かぶ。電話をしようか迷う。彼の隣で、ビータンがいびきをかいていた。

 そのおでこを撫でながら、智は瑠香の携帯を鳴らした。

 呼び出し音が鳴り続ける。

 切ろうかと思った時、電話がつながった。

「もしもし。遅いー!」

「ごめん。弘と話してて」

 智は彼女に、弘との会話の内容を教えた。

「でも、A案に絞るのはまだだと思う。それと、智くんが職員室から帰ってこないから、うずら屋に一人で行って待ってたんだけど」

「ごめーん!」

「ううん、いいよ。それより、うずら屋のマスターから、とんでもない事聞いちゃった」

 瑠香はいかにも、自分の手柄だというように話す。その彼女の顔が思い浮かんで、智は吹き出してしまった。

「何?」

「いや、ごめん。ビータンが。あ、そうか。うち、犬を飼ってるんだけど、すごい大きないびきでさ。それで、マスターは何て?」

 ごまかした智は、ビータンがちらりと目を開けるのを見て、『すまん』と声にださず謝った。

「あの警備会社、今、とっても苦しい状況なんだって」

 彼女の話はこうだった。警備スタッフから残業代未払いなどの訴訟を起こされ、ただでさえカツカツだった資金繰りが、そうとう大変な事になっているようだ。さらに、訴訟が原因で得意先が離れていき、スタッフの退職も相次ぎ、銀行からは融資を断られ、タイムリミットが近いという。

「無理な値段で受注して、それだと利益でないから、二人を派遣すべきところを、一人だけで済ませたりとかしてるみたい。夜間警備は特に危ないんだって」

「よく、一日で分かったな」

「マスターの友達が、同じ業界の会社に勤めてるんだって」

 なるほど。

 という事はだ。あの夜、警備員はやはり一人であった可能性が高い。後から慌てて来た警備員は、これ以上の不正がばれる事を恐れた会社が、守衛室から連絡を受けて、慌てて派遣したのだろう。

 夜、学校に一人の警備員。それでも見回りをしないと、監視カメラに巡回の様子が映ってない事から、問題が発覚してしまう。

 だから、あの夜、守衛室には誰もいなかった。

 無理はなさそうだという事はやはり、A案が強いのではないだろうか。

「警備員が一人しかいない事が直樹にばれて、それで殺したってのはどう?」

 電話の向こうでしばらくの沈黙。

「会社の為に人に手をかけるかな。それに山田くんだって、あの時間に学校にいた事がばれるのはまずいと思うけど」

 尤もな回答だ。

「ねえ、あの時、守衛室には誰もいなかったってほうが重要じゃない?」

「どういう事?」

「守衛室から正門の植え込みは塀に隠れて見えないといっても、誰かが声を出してたら聞こえるでしょ。でも、守衛室に誰もいなければ、外で何かが起きてても、分からないじゃん」

 智は記憶庫を開いて、あの夜の様子を引っ張ってくる。

 弘の言葉だ。

 たしか、あいつは噴水の近くにいたな。寝転んでいたと言ってた。自販機にジュースを買いにいくまで、その場を動いていないと言っていた。ジュースを買う為に守衛室の前を通って、外に出たところで、直樹を見つけた。

 待て。おかしくないか?

 あいつは何で、わざわざ発見される恐れのある正門から学校に入る必要がある? 

 あいつは守衛室に誰もいないという事を知ったのは、前を通った時だ。学校に来た時は知らなかったはずじゃないのか。

「どうしたの?」

 瑠香の声。

 ビータンのいびきが重なる。

 智は立ち上がった。

「明日の朝、五時に学校で会って話せないかな?」

「朝? 五時?」

「うん。試したい事もあるんだ」

 結局、智に押し切られた瑠香は承諾した。


 翌日の朝四時、智はベッドから這い出ると、寝癖を直し、制服に着替える。すると勘違いしたビータンが尻尾を振りながら、起き上がり伸びをする。ベッドから飛び降り、彼の脚にじゃれつく。

「ごめん。お前の散歩じゃないんだよ」

 ビータンは、智の足元にじゃれつくのを止めなかった。

 両親宛てに、リビングのテーブルの上に早く出る事を告げる置き手紙を残し、玄関を飛び出す。その後ろをビータンが続く。

 自転車を走らせる智。

 それを追いかけるビータン。

 智が、追いかけてくる愛犬に気づいたのは、家から出て随分と経ってからだった。

 しかたなく彼は、自転車の籠にビータンを乗せる。

 まだ暗い街の中を、白い息を吐きながら自転車をこぐ。籠に乗っているビータンは九キロある。決して楽ではなかった。

 彼は、うずら屋の前で、瑠香と黒田を見つけた。

 黒田にも声をかけたのは、子供二人で出歩いていると、間違いなく不審がられるからだ。うずら屋の駐車場に、黒田の大きなランドクルーザーが停まっていた。

「可愛い!」

 瑠香が、自転車の籠に乗ったビータンを抱き上げる。ビータンが、瑠香の頬を何度も舐める。

「車で行こう」

 黒田の言葉に智が自転車を指差した。

「ごめん。マスター。自転車がいるんだ」

 黒田はうなずき、自転車を車に積み込む。智の自転車が折りたためるタイプだから可能だったのか、黒田の車がそれだけ広いのか。どちらであるのか智には分からなかった。

「瑠香ちゃんはどうやって家を出て来たの?」

 黒田の声に、瑠香が笑った。

「うちは、お母さん、まだ仕事中だから。片付け終わって帰ってくるの、私が学校に行く準備してる時だもん」

「ああ、そうか」

 二人の会話から、瑠香の母親は夜になっても働いている、忙しい人なのだと思った智だったが、瑠香が彼に説明をした。

「お母さん。お店をやってるの。お酒を出すお店」

 造船業の盛んなしまなみ市は、同時に夜の街でも有名だった。ここ十年ほどで、ずいぶんと廃れたと言われているが、それでも歓楽街の明るいネオンは、朝まで消える事はない。

 智はあまり無粋な事は聞くまいと思って、瑠香の腕の中でご満悦の表情をしているビータンの頭を撫でていた。

 車を学校から五百メートル程離れた、第二グランド脇に停めて、三人は学校へと続く坂道を見上げた。左手には学校の敷地を囲う塀が現れる。空はまだまだ朝の訪れを知らせない。

「それで、何をするんだ?」

 黒田の言葉に、智は弘の話の矛盾点を説明した。

「守衛室の前に立ってもらっていい? 瑠香はビータン見ていて」

 智や弘、市街地方面から坂道を登って登校する生徒達が、いつも使うこの坂道を登りきると、そこで二方向に道が分かれる。左手に学校の塀を見ながら真っ直ぐ歩けば正門が見えてくる。右に曲がれば丸池脇を登る坂道となり、その先は住宅地へと通じていた。

 智は、守衛室に人がいる事が、外から分かるものなのかを知りたかったのと、どのくらいの距離でそれが確認できるのかを確かめたかった。外から警備員がいないと分かれば、弘が正門から学校の敷地内に入ったのも、不思議ではないと思った。腕時計は午前五時半になりそうだった。

 智は、胸の鼓動が早まるのを感じた。彼の携帯電話が、ジーンズのポケットで一回だけ振動する。黒田の配置についたという合図だ。

 智はゆっくりと坂道を登り始めた。

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