第3話 早朝に見つかった死体

「智、今日は大変だったな」

 後藤家の食卓で、父親の忠正ただまさが息子の顔を覗き見た。そこには、憔悴しきった息子の顔がある。彼は、無言でご飯を口に運ぶ息子に、どうやって続けて声をかけようかと迷っていたが、足元でビータンが「アオーオ」と鳴いたので、声をかけるタイミングを失った。

 智が無言で立ち上がり、ビータンの器に、食後のデザートである犬用クッキーを二つ入れてやる。

 しゃぶりつくビータン。

「明日、学校休んだら?」

 母親の祥子が、努めてやさしく息子に声をかけたが、声をかけられた本人は無言で自室に戻っていった。

「大丈夫かな」

 忠正が祥子を見た。母親は、クッキーを食べ終えてリビングにごろりと横になったビータンを撫でてやっている。

「大丈夫じゃないでしょ。あんな事があったんだから」

 祥子は睨むように、夫を見上げた。

 目を逸らした忠正は、「うん、うまい」と口ごもりながら、夕食と向かい合う。

 自室に入った智は、ぼうっと天井を見上げていた。今日ばかりはゲームもする気にならない。

 よりによって、自分の周囲であんな事が起きるとは思わなかったのだ。

 部屋の時計は、十月十日の午後八時と表示している。

 ……なんて日だ。

 智は寝返りをうち、ベッドを拳で何度も叩く。

 今日の朝早くに事件があり、智にとってそれは他人事ではなかった。

 怒りのやり場に困る彼は、ひたすらベッドにぶつけた。

 事件――智の親友である野島弘が、今朝、同級生の死体を発見した。死んでいたのは、山田直樹だった。



 それは、十月十日の朝六時過ぎに発見された。

 第一発見者は野島弘。

 彼がなぜ、そんな時間に学校にいたのか。

 理由は分からない。



 十月十日早朝。

 学校からの通報を受けたしまなみ警察署は、刑事課の高田たかだ裕二ゆうじ警部補の携帯電話に連絡を入れた。これが午前六時三〇分だ。

 彼の自宅から現地のしまなみ学校まで、とても近い。

 高田警部補の家がある住宅街は、しまなみ学校と同じ地区だった。

 彼は車を運転しながら、朝飯代わりのジャムパンと缶コーヒーを、口の中で一緒に咀嚼した時、娘がこの癖を嫌がるのを思い出した。

 その娘も、また彼の妻も、今はもう家に帰ってこない。それは全て自分のせいであると、高田は苦虫を噛み潰したような表情でハンドルを握る手に力を加える。

 どうしてあんな事になったのか。

 冷静に考えると、短気すぎた気もする。自分がもっと落ち着いた対処をしていれば……いや、問題はあの時だけではない。それまでの積み重ねが、あの時に爆発したに過ぎない。あの時にどうしていれば良かったなどとは、悩んでも意味がないと高田は決めつけ、運転に意識を集中させる。

 睡眠不足と疲労で目の下には隈ができていたが、眠気はない。

 彼がしまなみ高等学校に到着したのは、午前七時ちょうど。しまなみ高等学校の来客用駐車場に車を止めて、正門まで歩いた。

 広い学校の敷地は森と一体化しているようで、大学のキャンパスを思わせる。その正門の前には二車線の道路と、通学路の為に広い歩道と自転車専用道路があり、正門の反対側には名前もないであろう池があった。その池の隣には道路を挟んで、学校のグラウンドがあった。

 高田が池に目をやると、魚が水面で跳ねる。

 彼が正門に近寄ると、現場には制服警官が複数人立っていて、学校関係者を相手に、何事か難しい顔で話しこんでいる。

「おはよう。ご苦労さん」

 高田が声をかけると、制服警官が敬礼をして事情を話し始める。

「ここは生徒が通学に使う場所だから、あれを早くなんとかしたいと」

 彼の指の先には、正門の植え込みに、力なく倒れている男子生徒の姿があった。

「馬鹿、早くビニールシートをかけろ。あ、俺の車のトランクにある」

 なにしろ、こんな事件は今まで起きた事がない。このしまなみ市という町は、いたって平和な町で、高田の記憶が正しければ、殺人事件なんて実に十三年ぶりという事になる。その事件とは、この町で母親と赤ん坊が殺された事件だった。その捜査に高田も参加していたのだが、どうにもつらい記憶しかない。

 高田は、植え込みに倒れている男の子に手を合わせて顔をあげる。そして、周囲の制服警察官に向けて声を発した。

「県警本部から、たくさんいらっしゃるだろうからな。よけいな事はすんじゃない」

 実に的確な指示を制服警官に与えながら、高田は、困惑の表情をありありと浮かべた初老の男に近寄った。

「校長先生ですか?」

 聞かれた男は、はっと目を向け、すぐに慌ててそれを否定した。

「ちがいます。ちがいます。私は教頭をしていまして金田といいます」

 金田はせわしげに、周囲を見渡しながら、高田の腕を掴む。

「七時半になりますと、どんどんと生徒達が登校してきます。どうしたらいいんでしょうか?」

「落ち着いてください。あの男子生徒を発見したのは、あなたですか?」

 教頭は、薄くなりかけた頭を右手で撫でる。

「いえ、生徒です」

 ああ、最悪だ。

 高田は空を仰いだ。第一発見者への聞き込みは、とても重要なのだが、相手が子供になると、人権団体とか、児童保護などの団体がうるさい。子供の人権侵害だとかなんとか、死んだ人間の人権はどうなんだと言ってやりたいくらいだ。

 彼が不機嫌そうに唸った時、同じ課の刑事であり、高田の部下でもある今田いまだ陽介ようすけが走り寄ってくる。肩で息をしながら、高田と教頭の近くに立ち、短く挨拶をした。石鹸の香りがする。こんな早朝から風呂に入っていたのかと、高田は部下の綺麗好きに感心した。

「その子は今どこに?」

 金田は、学校の建物を指差した。

「とりあえず、応接室に」

「校長先生はもう来られてますか?」

「いえ、連絡をした時、家で着替えていると言ってましたから、まだ少しかかると思います」

「この学校には、監視カメラはありますかね?」

 教頭は、まだ夏かというほどに汗を額に滲ませていて、それを必死にハンカチで拭っていた。

「あります。ありますが……。校舎の中にしかありません。とても外の事までは」

 金田は高田に頭を下げながら、思い出すように口を開いた。

「学校内ぐらいしか……校舎の外に向けてはさすがに……」

 高田は深く追求する事はしなかった。

 彼は周囲の警察官に遺体を隠すように指示をして、しまなみ署の鑑識課の到着を迎えた。少し言葉を交わした後に高田は、金田のほうに振り向いて第一発見者の生徒に会いたいと伝えた。その時の金田は、今にも泣き出しそうな情けない顔をして、それでもしぶしぶ、高田と今田を応接室へと案内した。その途中、正門の植え込みで倒れていた遺体は、この学校の生徒で、発見者と同じクラスであると教頭から聞いていた。

 遺体で発見されていたのは、このしまなみ高等学校の普通科二年二組、山田直樹。発見したのは、同じクラスの野島弘。二人は普段から仲が良かったらしいと教頭が続ける。

 その教頭から話を聞いているうちに、応接室に到着した。

 応接室のソファに座った男子生徒は、少し寝癖がついた髪で、意志の強そうな目を二人に向けた。整った顔立ちはスポーツマンタイプのようだが、教頭から聞いた話では、彼はどのクラブ活動にも参加していないそうだ。成績はまずまずといったところで、これまで問題を起こした事はない。身長は一七五センチの高田より、いくらか低い。それは、男子生徒が立ちあがって、彼に挨拶と自己紹介をしたから分かった。

 高田は複雑な気分だった。

 野島弘か……こいつが?

「しまなみ警察署の高田。こっちは今田」

 警察手帳をゆっくりと見せて、彼は男子生徒を座らせた。教頭は急いで正門に帰ったらしく、部屋には三人だけ。男の子と警察の人間二人。さすがにこの状況だと、子供相手に話を聞く気になれず、高田がキョロキョロと部屋の中を見渡す。気まずい沈黙が支配する中、応接室のドアが音を立てて開いた。

「野島くん」

 女性が飛び込んでくる。男子生徒に駆け寄り、大丈夫? と声をかける。それからようやく高田達に気づいたようにお辞儀をした。

「しまなみ警察の高田。こっちは今田。できれば、彼に発見した時の事を聞きたいのですがね」

 女性は山下千秋と名乗り、彼の担任だと付け加えた。

「しかし、野島くんは今、随分と混乱していますし、改めてという事には……」

 山下教諭の声は、最後には応接室に溶けるように消えてしまった。

 表情だけで女性教諭の主張を退けた高田は、改めて、うつむき加減で視線を逸らす男子生徒を見た。それにしても、彼はなぜ、あんな時間に学校に来たのだろうか。

「野島くんだったね」

 高田はスーツの内ポケットからメモを取り出し、ボールペンを左手に持った。

「君が山田くんを発見した時の事を、詳しく教えてもらえるかな?」

 弘は沈んだ目を、高田に向けた。

「自転車から降りて、押しながら正門に歩いていました」

 言葉がつまる。辛抱強く二人の刑事は待った。

 突然、学校のチャイムが鳴る。八時半。いつもなら、この時間は遅刻しまいと駆け込む生徒が正門に殺到するのだが、この日だけは異様な光景に誰もが息をのみ、言葉少なめに正門をくぐった。学校側も遅刻を咎めるのではなく、立ち止まらず素早く教室に向かうように誘導する。

 それらの喧騒から隔離された応接室で、チャイムが鳴りやむと同時に、男子生徒はまっすぐに高田のほうへ顔を向けた。表情が消えているのか、消しているのか高田には分からない。

「いつものように、学校の近くで自転車から降りました。学校からそう言われてましたから。それで、正門のところまで来た時、植え込みのところに倒れている人が見えたので、近寄ったんです。そうしたら」

 彼はゴクリと喉を鳴らした。

「そうしたら、山田の顔が見えたんです。最初は何かあって、そこに倒れているだけだと思って、名前を呼びながら近寄りました。でも、あいつはまったく返事しなくて……目は俺を見てたけど、全くその、反応しないというか、目はこっちを向いているけど、焦点は俺にあってないというか」

 野島弘はそこで、目を逸らす。

「駆け寄ると、なんか漏らしたような匂いがして……。俺は、山田、漏らしたショックで動けないのか? て笑いながら、肩をゆらしたら……」

 彼はそこで、うつむいて言葉を発しなくなった。

 高田はボールペンの柄の部分で、ガリガリと頭をかきながら、縮こまっている野島弘のほうへ体を傾ける。

「それから、教頭先生を呼びに行ったのか?」

 彼は、はっと顔をあげた。

「そうです。というか、守衛室に行って、警備の人を呼びました。その人が教頭先生に連絡をしてくれたみたいで」

 しまなみ学校の正門の内側には、守衛室がある。学校の敷地と道路を隔てる壁がある為、外からは見えないが、正門のすぐ近くにある。野島弘が守衛室に行くまで、数秒の事だっただろう。

「それから、ずっとここにいるのかな?」

「そうです」

 野島弘はうなずいた。その目は自信なさげに泳ぐ。

 今田がメモから目をあげた。

「君は、山田くんとは仲が良かったのかな?」

 男子生徒はまじまじと今田を見つめる。高田は思う。この子は、何か隠している気がする。

「いい方だと思います」

 うなずいた今田を横目に見ながら、高田は野島弘の背中越しに応接室の窓を見た。綺麗な青空が広がっている。天気予報では雨の予報だったのだが……。

「君が山田くんを発見した時、周囲に不審な人とか、車は?」

 今田の声で我に返った高田は、改めて第一発見者で、被害者の友人に顔を向けた。ふいに彼と目があって、ドキリとした。

「何も……、そういえば、自販機のところに車が止まっていました」

 刑事二人が顔を見合わせた。

「ナンバーは覚えてる? 車種とか」

「いえ、すいません。白い車って事くらいしか」

 ありありと落胆する今田。どこか納得したような高田。

 それから二人は野島弘を質問攻めにしたが、これといった証言は出てこない。担任の山下千秋がイラついたように、せわしなく揉み手をはじめた時、中年警部補の携帯電話が振動する。どうやら県警が到着したようだ。

 高田は溜め息をついて、携帯電話のディスプレイを見る。そこには赤西警部と表示されている。県警の課長補佐で、高田と同じ四十五歳。高校の同級生だった。

 ディスプレイを見つめたまま、高田はしばらく考える。隣で今田がハラハラしながら、それを見ていた。

 着信のバイブが止まった。

「いいんですか?」

 高田はニッと笑う。

「また、お話を聞かせてもらう事になりますので、その時はよろしく」

 二人は男子生徒と担任の女性に会釈をして、部屋から出た。そこで椅子に座る生徒と目があった。綺麗な顔立ちをしていて、制服が男子生徒用だから、男の子だと分かるが、そうでなかったら女の子と間違えていたかもしれない。

「誰ですかね?」

 今田が高田に小声で尋ねる。

「知るわけねぇだろ」

 高田は、歩きながら少しだけ後ろを振り返った。先ほどの男の子が、第一発見者の野島弘に何か話しかけていた。

「正門脇、学校の敷地内に守衛室がありましたね」

 今田が、ぶつぶつとつぶやいている。

 高田は、正門の周囲の風景を頭の中に描いた。正門は道路に並行して設置されている。道路沿いに学校の塀が続き、そのほぼ中央に正門があった。その正門の脇には植え込みがあり、山田直樹はそこに倒れていたのだ。

 正門の外、道路を挟んだ反対側に池があり、池の周囲は草が生い茂っている。定期的に清掃をされているらしく、ゴミなどは落ちていない。正門から見て池の右方向に、住宅地へと続く坂道が走っていて、その道と学校前の道路がT字路になっている場所にジュースの自動販売機と、わずかばかりの駐車スペースがある。その駐車スペースに白い車が停まっていたと野島弘は証言していたが、果たしてその車は見つけられるだろうか? ナンバーも車種も分からない。

 色だけでは限りなく不可能に近いな。

 高田は鼻で笑うと、正門の外に立つダークスーツの一団に頭を下げた。

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