第13話 3日間戻って
目を覚ますと、視界には見慣れた室内があった。
ベッドの上で上半身を起こすと、差し込む朝日に目が眩んだ。
しかし、次に意識が戻ったのは、西丘天王山駅で駅員に揺り起こされたときだった。駅員に支えられながら電車に乗り、家の最寄り駅で千穂と別れたあとは、そのままベッドで深い眠りについたはずだ。
朧気に浮かぶ記憶に、それ以上の情報は期待できない。
勝手に溢れる欠伸を抑えようともせず、茜は伸びをしてベッドから立ち上がる。
ドアに向かってふらふら歩き出し、ドアノブに手を掛けた。
その瞬間、背後でけたたましい音が鳴り始める。
その音に驚いて肩を上下に震わせていると、部屋のドアが開いた。
「あか姉、目覚ましうるさい」
「ごめん」
慌ててベッドに駆け寄って、茜はベッドによじ登る。枕元の目覚まし時計を掴んで銀色のボタンを押すと音が止んだ。
「文句つけに来るの早かったね、
茜はスマホを手に取って、充電コードから引き抜いた。
画面が勝手に灯り、七月二十二日という日付を表示する。
「いや、たまたま通りかかったら鳴り出すから、今日こそ言ってやろうかなみたいな」
カーテンを開けると、水滴の残るガラスにぼんやりと自分の顔が反射する。
「今日から
茜は頑張るぞ、と小さく呟いた。
茜は桃夏と
駅までの道中を走り切り、改札の前で待っていた千穂と合流する。
「間に合うかギリギリじゃない、これ」
「いっつもごめんね」
急いで改札を潜り、ホームに駆け上がる。ちょうど良いところに滑り込んできた電車に飛び乗り、大学の最寄り駅を目指す。
乗客で満員の電車に揺られ、三十分ほどで目的の駅に到着した。
茜たちは開いたドアから飛び降りると、早足で歩き出す。
「茜、もうバス出るまで時間ないよ、急いで!」
「わ、わかってるよ」
「あー、このペースじゃ間に合わんかも。走るぞ?」
「えっ、ちょっと。千穂走っちゃうの」
茜の問いかけに千穂は笑顔で頷いた。
「ま、待って! 人ごみだし、走らない方がいいよ」
このホーム上で走ったことにより、男性とぶつかってしまったことを思い返し、茜は千穂にそう伝える。
千穂からの依頼は、この三日間に茜が巻き込まれた面倒事を回避すること。
時間ギリギリに駅に来ておいて言うセリフではないが、ここは依頼を達成するためにも言わなくてはならない。
「それに、バス停も多分混んでるだろうから、あんまり……」
「意味無いかな。んんー、まあそれもそっか。……じゃあ、早歩きね。それならOK?」
「うん。ごめんね」
二人は一列になって、階段へと突き進んでいく。
「ちょーっとすみませんねー」
前方で千穂が女性の横を抜けようと体をひねる。その際、千穂の鞄がすぐ隣の男性にぶつかってしまった。
「いってえな。気を付けろ!」
「え、あ。すみません」
続いて謝ろうと茜がその男性へ目をやると、それは見覚えのある顔だった。
「わ、
このあと茜のことを怒鳴りつけるはずの人物。駅でぶつかったと言っていたが、やはりこのときの男性であった。
しかし、今回はぶつかることもなく、この調子だと三限の事件は回避へ向かうのではないか。
「なんだ、うちの学生か。気を付けろよ」
「すみませんでした」
髪をかく和瀬に頭を下げ、二人は足を速めた。
階段に到着した二人は、突風にあおられながら駆け上がっていく。風になびく髪を手で押さえ、茜は千穂の後に続いた。
改札階に着いた茜は、片手を後ろに回してリュックの中で定期券の入ったケースを探る。
千穂は鞄からぶら下げていたパスケースを掴み上げ、改札機にそのまま押し当てた。
ピッ、とカードの情報を読み取った電子音が鳴り、改札機はドアを開く。
千穂は改札を抜け、満足げにこちらを振り返った。
「ふーんだ」
茜はケースが挟まっているであろう手帳を取り出してみる。しかし、そこに定期券はなかった。
「あれ」
「何やってんの茜。早くー」
「ごめんー」
手帳を中に戻して、リュックをおろす。
紐をほどいてボタンを外し、中を覗き込む。ガサガサと荷物をかき分けているうちにファイルの間に入り込んでいるのを見つけた。
「和瀬先生にぶつからなかったからかな」
ケースを取り出し、茜は雑に紐を結んでリュックを背負う。
改札機に磁器定期を差し込んだ。券は勢いよく改札機の中を通り抜け、出口から排出される。
「お待たせ」
「茜もそろそろティピカにしたらいいのに。楽だよー、IC。ピピッとかざすだけ」
「私もそうしよっかなあ」
千穂は意外といった様子で唇を引き上げる。
「何だ、茜にも素直なとこあるんじゃん」
「でも、今回みたいな場合はあんまり関係ないかもね」
茜の笑顔は消えぬまま、二人は地上へと続く階段を上った。
地上に出ると、道路の向こう側に見える停留所にバスの姿はなかった。
「間に合わなかった……」
「諦めるのはまだ早いよー? 茜、あっち見て」
茜の口から零れた呟きを聞き漏らさず、千穂は顔を横に振った。
千穂が指を差す方に目線を移せば、交差点で乗りたい路線を走るバスが信号に引っ掛かっている。
「やった! 間に合った」
「誰かさんが遅れてこなけりゃ、余裕だったんだけどねー」
「ごめん」
気にするなって、と千穂は茜の背中を叩いた。
頭の後ろで手を組んで、信号が切り替わるのを待ちながら、千穂は、そうだ、と茜を覗き込む。
「だけど、タダってのもあれだしなあ。何か、こう……」
「……抹茶パフェ、今度食べに行く?」
「おっ、それいいじゃん。じゃあ茜の奢りで」
そう言って千穂は片目を瞑り、右手の親指を突き上げた。
「サーティーンでも
そう言い返す茜は、笑って許してくれる千穂を見つめ返す。少しは恩を返せてるのかな、と心の中で考えていた。
大学前の停留所に着くと、バスから学生がぞろぞろと降りていく。学生を降ろし終えたバスは、さらに北にある寺院を目指して再び走り出した。
茜はスマホで学生専用のページにアクセスし、一限目の講義の教室を確認した。
「一限の授業は南一号館の四階だって」
「マジか。あそこって、地味に遠いんだよなあ。しかも、朝から四階はさすがにしんどいわ」
足下の水溜りを避けながら、大学の敷地内を進んでいく。
大学の職員があちこちに立って、おはようございます、と学生に向けて挨拶をしている。確かに耳には届いているであろうに、挨拶を返すのはごくわずかな学生と職員たちだけだった。
「あの挨拶、正直誰も聞いてないっしょ? いい加減諦めたらいいのにね。辛いじゃん」
「でも、あの人たちもお仕事でやってるだけだろうし、あんまり気にしてないんじゃないかな」
茜を横目で見ていた千穂は、やれやれ、と軽い溜め息をついた。
夏の強い日差しは朝からすべてを灼熱に包み込む。雲一つなく澄み渡った青空は、人類へ向けて暑さの挑戦状を叩きつけていた。
「暑いね」
「暑いよなあ」
太陽にじりじりと焦がされ、地面にこもった熱にじゅうじゅうと焼かれ、生気が焼け落ち、前のめりに崩れていく二人。
建物を解体する重機の音が、溶けかけた脳を揺さぶった。工事の音は蝉の鳴き声と相まって、最高の心地悪さを演出する。
「朝っぱらから汗びっしょりだわ」
「もうすぐクーラーが待ってるよ。ファイトー」
ぶつくさ文句を言いながら、だらだらと進んでいた二人は、やっとの思いで南一号館へ到着した。
入り口へ近寄ると、センサーが反応してドアが横にスライドする。開かれたドアを潜って風除室を抜け、もう一枚自動ドアを潜る。
そこには、冷房の効いた空間が広がっていた。
「砂漠の中で見つけたオアシスだよ……」
「はいはい。うちらはキャラバン隊か何かか?」
そう言いながら、千穂は両手で大きな袋を重そうに担ぐジェスチャーをした。
それに対して茜はにこにこと笑みを向けるだけ。
「そこは、ラクダに持たせろよ、とかツッコめよ」
「えー? 難しいよ。でも、千穂は運動神経抜群だから大丈夫だよ」
「なんだそりゃ……」
千穂は苦笑いを浮かべ、込み上げる恥ずかしさを押し隠した。
左手にあるエレベーターは、順番待ちをする学生で混雑している。この様子だと、階段を使った方が早く教室へたどり着けるだろう。
始業まであまり時間が無いため、二人はエレベーターを諦めて階段を上り始める。
「教室は四一七号室だってー。大教室だね」
「
「そうだったはずだよ」
「あの人の講義、正直出る意味ないんだよなあ」
「誰が幼稚園で作った工作だ」
千穂が漏らした本音に茜が笑っていると、不意に背後から声を掛けられた。
聞き覚えのあるその声に、二人は慌てて振り返る。一段飛ばしで階段を上ってくるのは、グラマラスな女性だった。
「た、田中先生、おはようございます……」
「おはようございます」
「おう、おはよう。えっと……
「はい」
「ですね」
シャツの上にキャミソールをレイヤードし、スキニーデニムをはいた彼女は、さらにその上から白衣を纏っている。長い黒髪を振りながら、二人とともに階段を上っていく。
「笹貫、あとで発言の真意はしっかりと聞かせてもらうぞ。私もつまらない講義をしているというなら改善の必要があるからな」
「だ、大丈夫ですよ。別に深い意味があったわけじゃなくて――」
「正直、そのままの意味である方が辛いんだがなあ」
狼狽する千穂は、えっと、と言葉を必死に探している。目があちこちに泳ぎ、手はしきりに閉じたり開いたりしている。
田中は田中で、千穂から言われた言葉が堪えたようで、がくりと頭を垂らす。
「せ、先生、さっきの幼稚園の工作って何ですか」
「んん?」
四階に着いた三人は、慌ただしく人の行き交う廊下を進んでいく。
重い空気に耐えかねた茜は、気になった田中の発言について質問してみた。
すると、田中はよくぞ聞いてくれたと目を輝かせる。
「君たちの家の押し入れにもあるだろ、捨てるに捨てれず眠っている思い出の品」
「そうです……かね」
「あっ! つまり、合っても無くてもどうでもいいモノってことか」
「ぐはあ」
千穂が放った爆弾に、田中が崩れ落ちる。
「しまっ」
「先生! でも、捨てられずに残してるんですねよ。ってことは、なんだかんだ出席したくなる講義ってことですよ!」
「にぃなべぇぇぇ」
「えっ、ちょっ」
泣きついてくる田中を押し返すと、茜は千穂の手を掴んだ。
突き当りの教室に照準を合わせ、体勢を整える。
「私たち、先に行きますね。先生の講義楽しみにしてます!」
「テスト加点してやるから見捨てないでくれー」
甘い誘惑に心を揺り動かされつつも、茜は千穂を引いて教室に駆け込んでいく。
グラマラスとは一体何なのか、廊下に崩れる田中を眺めながら考える。
そして、グの字の回答も出ないまま、茜は教室のドアを閉じた。
ストロベリィプ・クレーピア 沢菜千野 @nozawana_C15
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