第11話 温泉と朝食とコート
室内には蒸気が充満し、壁の照明はぼやけている。蛇口から垂れる水が、桶に当たって音を立てた。
「やっぱりズボンずらした記憶なんてないや……」
伸ばしていた足を引き寄せた。周辺に波が立ち、湯船の端に向かって進んでいく。
ヴァリタ・ロネリアは小さな島国で、周囲は海に囲まれている。地図上の座標がどこに当たるのかや、そもそもここが地球なのかはわからないらしい。話し言葉が通じる理由も不明らしいが、便利だから特に気にしていないのだと言っていた。
「結構適当なんだなあ」
流れ出るお湯に臭みはない。源泉かけ流しだよ、と保乃果は自慢げに語っていたが、一体どのような成分が含まれているのかの見当は、茜にはつかなかった。
「でも、疲れが取れてく気がするなあ」
寄せていた足をもう一度伸ばし、背中を壁に預ける。思わず漏れる声を隠そうともせず、茜はしばらくお湯に浸かり続けた。
ロビーに置かれた大時計が鐘の音を響かせる。
「十時、ですか」
温泉から上がった髪の毛をタオルで拭きながら、保乃果に問いかけた。
「そうだよー。あーちゃんがこっちに来てからちょうど半日だね」
「駅に着いたのが朝の十時なんでしたっけ」
ほんのりと頬が染まった茜は、慣れた手つきで頭にタオルを巻いていく。スリッパをペタペタ言わせながら、保乃果の正面に腰を下ろした。
相変わらず、暖炉のおかげで部屋は暖かい。
「風呂上がりはやっぱコーヒー牛乳だよな」
少し離れた位置のカウンターから
「和彦君、わかってないなあ。そこはフルーツっしょ。あの甘さがたまらないよね」
「はああ、甘いのはコーヒー牛乳も一緒だろ」
「あーちゃんはどっち派?」
「チビ助、どうなんだ」
「私は……って、チビ助って何ですか!」
聞き捨てならない言葉に、思わず茜は反応してしまう。小さいことを自覚していても、そう呼ばれるとつい反論してしまうのだ。
「何って、チビ助はチビ助だよ。ちっこいのとかちびっ子ってのは、どうも呼びにくくってさ」
「で、どっちなの?」
「私が飲むとしたら……苺ミルクですかね」
「ってことはフルーツ牛乳かな。やったあ、あたしの勝ちぃ!」
「いやいやいやいや、それはそもそものところが違うでしょ」
「お二人はほんとに仲が良いんですね」
茜がそう言うと、二人はそろって否定した。
「ないないないない。和彦君とあたしが仲良いって」
「んなわけないでしょ。どう見てもこいつのが――」
「何て言おうとした?」
「何でもありません」
「それに、こいつって言うなって前から言ってるでしょー」
茜を挟んで繰り広げられるテンポの速い会話に、首が追いつかない。
回ってきた目に手を当てると、保乃果が話を断ち切って声をかけてくれた。
「のぼせちゃった?」
「そうかもしれません」
「動けそうなら髪乾かしといで。籠ってる熱もちょっとは逃げるでしょ」
「湯冷めだろ……」
和彦がぼそっと呟いたが、保乃果は一瞥するだけでそれ以上の反応を示さない。
「その間にご飯用意しとくしね。行っておいで」
「ありがとうございます」
足早に茜は脱衣所に向かっていく。
「何時間ぶりのご飯だろ」
高鳴る胸の鼓動を感じながらロビーを抜けると、急な寒気に身震いをする。両腕を袖の上から擦りながら、小さくくしゃみを漏らした。
「おはようございます」
寝癖でぼさぼさの髪を手櫛で梳かしながら、茜はロビーに顔を出した。
「グッドモーニンッ」
「おお」
保乃果と和彦はすでに暖炉の前のソファーに座っていた。
ここはかつて宿屋をしていた建物らしい。その名残もあって、受付カウンターがあったり、それなりの広さのロビーに暖炉付きのラウンジがあったりと、結構本格的である。
「顔は洗った?」
「こんなですが、一応済んでますぁ」
語尾に被るようにして、茜は欠伸を零す。
「じゃあ、カフェテリアで優雅な朝食としましょうか。着いてきて」
二人は立ち上がると、昨夜遅くにご飯を食べた部屋に向かって歩き出した。
国内の事情で客足が途絶えてからはリベイクサービスの本部になっていて、リベイクを行いたい人にここまで足を運んでもらっている。一緒にプランを練ってその人の願いを叶えているのだとか。
「今日はねー、またお客さんがくるんだ」
「そうなんですか」
「あーちゃんには早速手伝ってほしいの」
「もちろんです……って、私がですか」
「何だ、打ち解けてきてるように見せて実はそうじゃないのか」
「そ、そういうわけではないですけど」
そう言われてみると、茜は自分が不思議なほどにこの空間に馴染んでいたことに気付く。メールを受け取ったときとは正反対である。
「ま、何事もチャレンジだよ」
そう言って保乃果がドアを押し開いた。部屋の中にはパンの甘い香りと、コーヒーの香ばしい匂い充満していた。
「わあー」
その他にも、付け合わせの品がたくさんテーブルに並べられている。朝陽が差し込んで、どの皿も輝いて見える。
「和彦兄さん特製の朝食ご膳ですっ」
「ご膳が何かはよくわからないですが、とっても美味しそうです!」
茜が満面の笑みで和彦を見上げると、彼は満足げに頷いた。
「さっ、冷めないうちに食べましょう」
「はいっ」
テーブルに駆け寄って席に着き、茜はパンに手を伸ばした。少し力を加えるだけで潰れてしまいそうなほど柔らかい。
苺ジャムを手繰り寄せ、白く輝くパンに塗っていく。
「いっただっきまーす」
苺の甘酸っぱさの中に、僅かに主張する素朴な素材の味。口の中でそれらが混ざり、豊かな風味を生み出していた。
「美味しいです」
「まあ、伊達に喫茶店でバイトしてるわけじゃないな」
椅子に座りながらそう話す和彦に、茜はにやにやと笑みを隠し切れない。
「それ、保乃果さんもおっしゃってました」
「ちょっとあーちゃん、余計なこと言わないでいいの」
「そうだ、チビ助」
そんな他愛もないことを話しながら、楽しいひと時は過ぎていった。
お昼を過ぎると止んでいた雪が再び降りだし、夕方には猛烈な吹雪になった。
「もうそろそろ来るはずなんだけど」
保乃果はフロントに立ち、大時計を見つめている。
茜がロビーのソファーから確認すると、時刻は午後六時三十分。茜がこの建物に辿り着いたのも、昨日のこれくらいの時間だった。
「今って、日本時間的には何時くらいなんですか?」
ふと気になった茜は、コートを手に持って歩き出した保乃果に声をかける。
保乃果は少し悩むそぶりを見せ、笑顔で振り返った。
「わかんない」
「二十五日の二十七時半ってところか」
得意げに和彦が答えると、保乃果はコートを投げつけた。
「和彦君、嫌い」
「嫌いで結構」
「ほら、行くよ!」
「ほーい」
茜の隣のソファーに座っていた和彦は重い腰を上げて歩を進めていく。
「チビ助もおいで」
少し歩いたところでこちらへ振り返り、手招きをする。
「チビ助じゃないです」
「茜ちゃん、だっけ?」
「そ、そうです」
「じゃあ、あかチビちゃんで」
「それならもうチビ助でいいです」
頬を膨らませて茜が他所を向くと、和彦は考えとく、と小さく呟いた。
「ほらー、早くー」
ドアの前でスタンバイに入った保乃果は、手を大きく振っている。
「ああー、和彦君。あーちゃんの分のコートないじゃん。取ってきてあげないと」
「そんなちっちゃいサイズのやつあったかなあ」
戻ってきた保乃果と合流した和彦は、フロントへ戻っていく。茜が二人に着いていこうとすると、そこで待ってていいよ、と笑顔を向けられた。
二人はフロントの棚を探りながら、ああでもないこうでもないと言い合っている。
「あった! これならちょうどいいんじゃない」
「それはちっさすぎないか、いくらなんでも」
茜が背伸びをしてカウンターの向こうを覗き込もうとしていると、背後で物音がした。
金属のぶつかる音がコツコツと繰り返される。
「いらっしゃったみたいですよ」
そう言って茜がドアノブに手を掛けると。
「あーちゃん待った!」
「よせっ」
二人がフロントで叫んだ。
その声が耳に届くのと同時に、開いた隙間から突風とともに雪が雪崩れ込んできた。
「ひぎゃああああ」
風の勢いのままに背中から地面へ倒れ込むと、あっという間に全身が雪に埋め尽くされていく。
「あ、茜? あかねぇ!」
久しぶりに聞いたその声は、擦れていて消え入りそうだった。
「うへえぁ」
雪とは違う重みを全身に感じ、遅れて冷たさの中に温もりが伝わってくる。
茜が顔を覆う雪を振り払うと、そこには目に涙を浮かべる一人の女性の姿があった。
「ち……ほ……?」
駆け寄って来た和彦が開け放たれたドアを閉めると、暴風が止んで建物の中は静けさを取り戻す。
保乃果が抱き着いてきた女性に手を差し出すと、彼女は涙を拭ってその手を取った。赤褐色の髪は凍り付き、鼻頭を真っ赤に染めている。
「お待ちしておりました、
千穂は鼻をすすりながら、ゆっくりと何度も頷いた。
茜は起き上がって雪を払いもせずに千穂にとびかかる。
「何で、どうしてこんなところに来たの」
「そりゃあ茜、変えたいこと、見つかったんだ」
千穂のむき出しの腕と脚は腫れ上がっている。白い肌は赤くなり、痛々しい。
「うち、見つけたよ。やり直したいこと」
そう言い残し、千穂は全身を茜に預けた。
保乃果が自分の着ていたコートを千穂に被せ、和彦は取ってきた毛布で茜ごと取り巻いた。
「こりゃ、次回から半袖禁止だな」
「千穂は大丈夫なんですか」
「まあ、こんくらいなら温泉に浸かればすぐに何とかなるよ」
「安心して、あーちゃん。ここの温泉は回復に効く成分なんだ」
「じゃ、じゃあ早く湯船に放り込まないと!」
千穂を抱きかかえようと必死に力を籠めるが、茜には少し持ち上げるだけで精一杯だった。
「落ち着いて。いきなりお湯に入れたら心臓がびっくりしちゃうよ」
「とりあえず乾いた服に着替えさせて、暖炉の前に運ぼう」
「じゃああたしが着替えを持ってくるから、和彦君、連れてくのお願いね」
「おうよ」
保乃果はロビーの奥に走り去っていく。和彦は千穂を担ぎ上げて、ラウンジに向かって歩き出す。
一人取り残された茜は、溶けた雪でびしょびしょになった絨毯の上ですすり泣く。その声が虚しくロビーに響いていた。
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