第10話 もふもふ毛布

 強い衝撃を感じ、あかねは目を覚ました。


「吹雪が強くなってきましたので、最徐行で進んでいきます」


 乗務員の声で体を起こすと、橙色の毛布が床に滑り落ちた。


「んんん……」


 寝ている間に窓の外の景色は、灰色に包まれていた。吹き荒れる大粒の雪が唸り声を上げて列車を呑み込もうとぶつかってくる。


 茜は震える手で毛布を拾い上げ、ぎゅっと抱き寄せた。


「……まだ夢の続き?」

「お客様、そんな格好では風邪を引いてしまいますよ。毛布をもう一枚どうぞ」

「ありがとうございます……」


 手渡された毛布を広げながら、茜は隅に描かれているロゴに目をやった。郵便を受け取ったときにも気になったが、書かれている文字は明らかに日本語ではないのに、どうして話す言葉は日本語でも通じるのだろうか。たまたま同じ発音になっているのか、何かの翻訳機が空気中に紛れ込んでいるのか。実は通じているようでいないのか。


 茜は頭を抱えながら低く唸った。そして、自分の思考では結論に至れないことを悟り、考えることを止めた。


「すみません」


 毛布を乗客に配り歩いていた乗務員に声をかけると、彼女は明るい声で返事をした。


「何でしょうか」

「次の停車駅は、どこになりますか?」

「えーっと」


 制服のポケットから手帳のようなものを取り出して、ペラペラとページをめくっていく。


「マルグフォードなんですが、雪の影響でまだしばらくかかりそうです。本来なら十分もかからないと思うんですが、倍くらいはかかりますかねえ」


 そう言って、乗務員は掌を上に向けて首を傾けた。


「わかりました。ありがとうございます」


 乗務員が一礼して立ち去ると、茜は再び窓の外に目を向ける。


 過ぎ去っていく景色の中に灯りはない。ところどころに家はあるものの、どれも壊れていて人気(ひとけ)がない。街灯のようなものもなく、列車の明かりが及ばない場所は完全に闇に包まれていた。


「あの……」

「ハイッ?」


 茜が髪をほどいていると、不意に通路から声をかけられた。驚いて振り返った先には、眼鏡を掛けたお婆さんが立っている。綺麗に白く染まった髪はまだまだ現役だ。


「相席、よろしいですか?」

「も、もちろんです」

「あら、ありがとうございます。皆さん、私みたいなのは嫌がって近くに寄せてくれないの」


 お婆さんは物寂しげな表情でそう語った。


「そうなんですか……」

「だから、凄く嬉しいわ」


 そう言って、お婆さんは目を細めて破顔した。ゆっくりしたペースで話すその声は、透き通るように美しい。

 茜も釣られて顔を綻ばせていると、お婆さんは不思議そうに頭の上にはてなマークを浮かべだした。彼女が見つめる先には、毛布からはみ出た茜の脚がある。


「それはそうとあなた、どうしてそんな格好なの? 寒くないの?」

「さ、寒いですよ」

「コートを捕られた……ってわけではなさそうね」

「ええっとー」


 毛布の下も夏真っ只中の装いをしている茜は、どう答えていいのかわからずたじろいでしまう。ここがどこなのかを知るまでは、迂闊なことは言わないほうがいいだろう。


「友達と寒さに耐える遊びをしてたのを忘れてまして……」


 咄嗟に口から出た苦し紛れの返答に、あはは、と乾いた笑いが後に続く。


「もしかして、あなたも目指しているの? あの言葉に惑わされて」

「あの言葉、ですか?」

「あら、違ったのかしら。でも、子供のうちから頑張らないとなれないんでしょ」

「そ、そうなんですよ。えへへ」

「後継者、やっぱり憧れるものなのかしらねえ」

「ここ、後継者! ……何のですか?」


 茜の背中に冷汗が伝っていく。


「何って、王様のじゃない。このままの状態が続くのなら、もう辞めさせるしかないって話なんでしょう? 引きずり下ろすとか、暗殺とか、物騒なものよねえ」

「そう、ですね……」


 国のトップに対してそういった行動を計画している、そういった話は平和な日本に暮らしていると、表立って聞くことは滅多にない。過激な言葉はあっても、実態を伴うことがないのはお決まりと言ってもいいだろう。

 だからこうして実際に生々しい話を耳にすると、何だか茜は気が滅入ってしまった。


「でも、もし次の後継者があなたみたいな心優しい方になれば、この国はまた素敵になれるかもしれないわね」


 血みどろの戦いを終えてやってくる希望、それを信じる人がいる。場所が違えば考え方も生き方も変わってくるのだろう。


「可能であれば、その王様も救われる未来になることを私は願いたいです」


 だけと誰も傷つかない可能性があるのなら、と茜はそう口にした。


「あなた、セシリア王女みたいなことをおっしゃるのね」

「そうなんです……かね」

「そういえばあなた、綺麗な黒髪をしてるのね。覚えておくわ、あなたのこと」


 お婆さんは細いその腕を伸ばし、茜の髪に触れる。彼女は閉じかけた目に力を籠めて、大きく見開いた。


「貴女、お名前は?」

「私ですか」


 それでも細いままの目ではあったが、力強い眼差しを感じて茜も表情が引き締まる。


「……私の名前は、新鍋にいなべ茜です」

「ニーナ。ニーナとおっしゃるのですね」

「に、ニーナではなく――」

「私たちをぜひ導いてくださいね」


 お婆さんは茜の手を掴み、ぎゅっと握った。


「ええっと……」


 潤んだ瞳で見つめられ、罪悪感でいっぱいになっていく。


 茜がその目を見つめ返していると、客車の正面ドアが音を立てて開いた。隣の車両から現れた乗務員が大声を張り上げる。


「間もなくマルグフォードです。お降りの方は準備をお願いします」


 どの乗客も動く気配を見せない中、茜はただ一人そわそわと落ち着きを無くしていく。


「お婆さん、私は次の停車駅で降りますね」

「またお会いできますか?」

「……それはどうかわからないですけれど、後継者には私よりも相応しい方がいるはずです。その人を応援してあげてください」


 そう言って微笑みかけると、お婆さんはそっと手を離して席に座り直した。


「クレーピア、そんなものを実現することはできるのでしょうか。私はパスカル王がおっしゃることが不安で仕方がありません、ニーナ様……」


 お婆さんは前を向いたまま、淡々と語り出す。


「セシリア王女は一体どちらへ行ってしまわれたのでしょう。もう一度、その綺麗な桃紅色の髪を我々に見せてください」


 通路に出た茜は、遠い目をしている彼女の手を握る。


「私にはよくわかりませんが、きっと会えますよ。そんな気がする、ただそれだけで根拠みたいなものはないですけどね」

「ありがとうございます。ありがとうございます」


 茜は曇りない笑顔で会釈をすると、お婆さんの座る席を後にしてドアへ向かって歩き出した。


 列車は鋭い金属音を響かせてスピードを落としていく。


「チャグフォード、チャグフォードです。足下にご注意ください」


 その声とともに車輪の回転はゼロになる。乗務員が停車を確認してドアを開けると、車内に雪が一斉に吹き込んできた。


「毛布、ありがとうございました!」


 茜は吹雪の轟音に負けないように、大声で叫ぶ。

 乗務員も、口を目一杯開けて返答する。


「差し上げます! その格好では凍え死んでしまいますよ」

「あ、ありがとうございます」

「良い旅を!」


 茜は客車から足を踏み出し、地に下ろす。


 が、そこに地面は無かった。


「大丈夫ですか!」


 線路脇の雪だまりに消えた茜に、乗務員は慌てて梯子を伝って下りてきた。

 茜を雪の中から引っ張り出すと、気を付けてくださいよ、と語気を強くする。


「すみません」

「では、私たちは行きますので」


 そう言い残し、走って客車に登るとドアを閉めた。警笛を鳴らして、列車は徐々にスピードを上げていく。遠ざかるテールランプから目を離し、茜は辺りを見渡す。


 闇と雪。それ以外見えるものがない。


「あれ」


 二枚の毛布をお腹に抱え、暴れる髪の毛を逆の手で押さえつける。吹き付ける風は、呆然と立ち尽くす茜の体力と気力を削り取っていく。


 目が暗闇に慣れてくると、周囲よりもほのかに茶色い空間がすぐ近くにあるのがわかった。


「待合室、かなあ」


 地面に積もった雪が靴に纏わりついてくる。適当に選んだ靴がスニーカーで良かったと、茜は昨日の自分に心から感謝した。


「昨日であってるのかな」


 おぼつかない足取りで辿り着いたのは、小さな小屋だった。壁伝いに歩いて入口を見つけると、吸い込まれるように中へ入る。

 茜は奥のベンチに座って、壁に背中を預けた。三方向からの風と雪が凌げるだけでも、体感温度はずいぶん引き上がる。


「これからどうしよう。お腹空いたなあ……」


 半ば凍り付いた衣服の上から毛布を深く被り、降り止まない雪をぼうっと眺める。物音も、吹雪の音以外は何もしない。時間がただひたすらに流れていく。


「さっきいっぱい寝たはずなのに……」


 茜の意思に反して瞼は重くなり、断続的に視界を奪う。手も足も指先の感覚が徐々に薄れ、立ち上がる気力も無くなっていた。


「天使さん……かな」


 ふと、視界の隅でちらちらと揺れる灯りを見つけ、声を漏らす。


「お迎えが来てくれたのかな。私を現実の世界に連れて帰ってくれるの?」


 光に向かって手を伸ばすが、届かない。

 微動だにしない灯りは、地面から数メートルは宙に浮いている。


「どうして来てくれないの……」


 投げかける言葉に反応は無い。


「もしかして、天使さんじゃなくてゲート?」


 天使が迎えに来てくれないのなら、天国へのゲートを勝手に創ればいい。自分がそこへ行けば、この地獄のような環境から解放してもらえる。


 ふらふらと立ち上がり、再び雪の中へ繰り出していく。


 ホームから出て線路を跨ぎ、落ちたのとは反対側の雪だまりを乗り越える。氷のように硬い雪を滑り下り、頭の先から地面の雪に突き刺さる。


「この階段を上れば……」


 茜は髪に付いた雪を振り払い、再び立ち上がる。見上げると光は消えていない。目の前に立ち塞がる階段を、一段一段上っていく。


 足を取られながら辿り着いた先に、確かにゲートは存在した。しかし、そこにあったのは天国へ通じるゲートではなく、大きな建物の門だった。光っていたのは外灯で、ガラスの中でゆらゆらと蝋燭が燃えていた。


「閻魔大王のお家?」


 倒れるようにぶつかると、簡単に門は開いた。足を引きずりながら玄関の前まで進み、ドアノブの上に付いていた輪っかを掴んで叩きつける。


「こんばんは」


 その言葉を最後に茜の体は傾き、倒れていく。

 ぶつかる寸前にドアが開き、誰かの手がその体を受け止める。


「閻魔様、私はもう疲れました……」

「なぁに名場面集みたいなこと言ってんのさ」

「ちびっ子ちゃん、よくここまで来たな。まあ、僕らは閻魔大王じゃないけどね」

「……やっぱり地獄は嫌だなあ」


 聞き覚えのある声に安心した茜は、そこで意識を手放した。




 目を覚ますと、天井に映った影が揺らめいている。

 茜が上半身をゆっくりと起こすと、被さっていた桃色の毛布が体の上に落ちた。寝ていたのはふかふかのソファーの上だった。


 すぐ脇で火のくべられた暖炉が赤い炎をちらつかせている。


「暖かい」


 ふと窓の外に目を向けると、夜空を覆い隠す灰色の吹雪は弱まるどころか激しさを増していた。窓についた水滴が重力に引っ張られ、桟に当たって飛び散った。


「おっ、お目覚めかな」


 背後からの声に目をやると、少し離れた場所で一人の女性が椅子に腰かけていた。


「すぐに温かい飲み物を用意するからね」


 彼女は読んでいた本を置くと、立ち上がってカウンターの中に入っていく。深い茶色の髪を揺らしながら鍋を取り出して、牛乳を注いで火にかける。


 茜は視線を手元に戻すと、自分が今までとは違う服を着ていたことに気が付いた。薄手のシャツは分厚いセーターに変わり、剥きだしだった脚はズボンに覆われている。靴下も乾いたものに交換してくれていた。


「おっきい……」


 ぶかぶかの袖を掴んで、頬を緩ませる。包み込まれるような安心感に瞼をそっと閉じた。じっとしていると、様々な音が聞こえてくる。


 薪が弾ける小気味良い音。燃焼を続けるガスコンロの音。大時計が時を刻む音。そして、一定のリズムを刻む寝息。


「長旅で疲れたよね。こんな辺境の地まで……」


 保乃果ほのかはホットミルクを入れたマグカップをテーブルに置き、向かい側のソファーに腰を下ろす。


「飲んだら温まるよー」

「いただきます」


 茜はカップに手を伸ばし、息を吹きかけてから口を付ける。


「熱っ」


 体の中から熱が全身に広がっていく。


「美味しいです」

「でしょ? 伊達に喫茶店のバイトしてるわけじゃないよ」


 保乃果もカップを傾ける。


「まあ、温めるだけでできるんだけどね」

「それもそうですね」


 そう言って二人は静かに笑い合う。


「でさ、あーちゃん。この前のメールの件なんだけど」


 マグカップをテーブルの上に置き、保乃果は本題を切り出した。


「来てくれたってことは、手伝ってくれるってことでいいのかな」

「そのことなんですが……」


 両手でカップを転がしながら、茜は揺れるミルクを見つめる。

 メールを見たときの感覚が蘇り、思うように言葉にできない。


「どうかしたの?」

「どうしてかはわからないんですが、何でか、すごく怖くって。すみません」

「謝らなくてもいいと思うよ?」


 カップから顔を上げ、茜は保乃果に目を移す。


「せっかく誘っていただいたのに……」

「まあ、無理もないとは思うけどね」


 でも大丈夫、と保乃果は付け加える。


「細かいことは抜きにして、それでもここまで来たってことは、何か理由があるんでしょ?」

「はい……」

「話してよ。あたしらも何か力になれるかもしれないしさ」


 促されるまま、茜は商業施設での出来事を語り出した。

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