第9話 トンネルを抜けると

 駅に着くと、あかねはホームへ下りてベンチに座った。吹き抜ける風に打たれていると、次第に冷静さを取り戻していく。


「消えたい……」


 先ほどまでの行動を思い返し、小さな手で顔を覆った。死ぬほど恥ずかしい、そんな月並みな表現が茜の脳内を駆け巡る。


 全身ずぶ濡れの自分から目を背け、近接状況を知らせる電光掲示板に視線を向けた。次の電車は二十一分発になっている。袖をまくって腕時計に目を落とすと、針は六時十七分を指していた。

 指定された午後七時までは、残り四十分ほどしかない。添付された地図がペチカプライムだとすると、ここからではすでに間に合わなかった。


「このままじゃ、変態確定だよ……」


 落ち着き出していた脳が再び熱を帯びていく。

 茜は時刻表を検索しようとポケットに手を伸ばしかけ、スマホがないことを思い出す。思わず立ち上がって線路の先に顔を向けた。


 薄暗くぼやけた彼方に黄色い光が煌めき、雨の粒を可視化する。


「来たっ」


 構内にアナウンスが流れ、間もなくモノレールがホームに入ってきた。両脇から車輪で挟んだ線路の上をゆっくり進み、柵と柵の間に停車してドアを開く。茜は降りる人を待って乗り込んだ。


「乗り継ぎがうまくいっても無理、か……」


 ベルが鳴ってモノレールが動き出す。

 茜はドア横から窓を覗き込み、流れ行く景色を眺めていた。眼下では、商業施設の建物が明かりを灯している。下りかけた夜の闇に浮かび上がる色とりどりの傘が、灰色の世界に彩を与えている。


 ガラスに反射する自分、そしてその奥でこちらを見る他の乗客。映し出されたガラスの中の世界で目が合うと、彼らはそっと目を逸らしていく。


千穂ちほ、クレープ食べたら都合よく何か起きるんだね。昨日はごめん」


 髪を張り付かせ、冴えない表情をしているそれに向かって呟いた。


 体の向きを変えて背中を壁に預け、茜はぼうっと天井の蛍光灯を見上げた。一匹の虫が羽音を響かせながら、蛍光灯と窓を行き来する。虫はその小さな体をガラスにぶつけ、閉じ込められた世界から出ようと必死にもがいている。


 茜は大きく息を吐いて俯き、胸に手を当てた。


「私は自分を変えるために何をしてきたんだろ……」


 ずるずると滑らせて手を下ろし、何気なくその手をスカートのポケットに入れた。


「……んん?」


 指先に何かの感触が伝わってきた。触れたものを掴んで引っ張り出すと、それは折り畳まれた紙だった。雨に濡れてくしゃくしゃになった白い紙は、広げてみるとCDジャケットくらいの大きさになった。何やら数行の文章と簡単な地図が書き込まれている。


 それまで無気力な顔をしていた茜の目つきが、内容を読み出して一転する。


「西丘天王山に七時ってことは、駅まで三十分あれば着くから……まだ間に合う!」


 ポケットに入っていた紙には、昨夜届いた二通目のメールと同じ内容が簡潔にまとめられて記入されていた。


「でも、あの表示が淡い桃色の電車って何だろ。三急さんきゅうにあったかなあ」


 茜が紙を裏へ向けると、追伸としてさらに文字が付け加えられていた。


「合言葉は、『クレーピア』です。頑張ってください、新鍋にいなべさん」


 つい声に出していたことに気付き、慌てて口を塞いだ。

 内容から判断すると、差出人は保乃果ほのか和彦かずひこのどちらかであることは間違いないだろう。いつの間にポケットに忍び込ませたのかはわからないが、これで何とか変態としてこれからを生きていかなくても良い兆しが見えた。今は深く考えなくてもよいだろう。


「やった! やったあっ」


 いつしかモノレールは次の停車駅に到着し、ドアを開いていた。




「次はぁぁ西丘天王山にしおかてんのうざんん―、西丘天王山です。お出口は左側です」


 あれからおよそ三十分。電車が西丘天王山の駅に着いたのは、午後六時五十五分のことだった。

 茜は電車から飛び降りるとエスカレーターを駆け下り、向かいのホームへと急いだ。


「皆様、間もなく電車が参ります。危険ですので、黄色い線の内側にお入りください」


 頭上のホームで音楽に続いて女性の声でアナウンスが鳴っている。電車の走行音が近付いてくる中、茜は一段とばしに切り替えて階段を上っていく。


「ただ今到着の電車は準急、大阪おおさか梅田うめだ行きです。停車駅は、高槻たかつき中央までの各駅と――」


 最後の段を上りきったとき、その電車はちょうど停車するところだった。ドアが開いて、降車する人と乗車する人が交差する。


 緑色の表示板を持った電車は空気を吐き出し、モーター音を響かせてホームから離れていく。屋根に取り付けられた電光掲示板には、十八時五十九分発の文字がある。


「間に合った……のかな」


 上がった息を整えながら、茜は走り去る電車を眺めた。その後を追う風に、乾き始めていたスカートがなびく。

 慌てて手で押さえていると、電車が発車したばかりのホームに再び音楽が流れ、アナウンスがかかり出す。黄色い線云々の定型文に続いて、種別を読み上げていく。


「ただ今到着の電車は回送車です。この電車には、ご乗車になれません」


 滑り込んできた小豆色の電車は室内灯が点いておらず真っ暗だった。加えて、普段の半分の長さの四両編成になっている。


「あ、桃色!」


 目の前で待機している車両の種別幕には「越境」と書かれ、赤でも緑でも黒でもなく、手紙に書かれていた通り淡い桃色をしていた。方向幕には見慣れないカタカナが並んでいる。


 電光掲示板には回送車の文字しかない。すぐ脇の時計はすでに七時を指していた。


 茜はドアが閉まったままの車両の一番後ろまで走り、車掌に声をかけた。


「あ、あの……」

「何ですか?」


 窓から顔を出していた男性は、近寄ってきた茜に微笑んだ。彼は三都瀬みとせ急行のものではない厚手のコートのような制服を着ている。


「この電車に乗れば、その、何と言いますか、やり直し……できるんですか?」

「やり直し、ですか。……合言葉、わかります?」

「合言葉! 知ってます! 合言葉は『クレーピア』です、よね」

「確認しました。一度ご乗車されますと後戻りはできません。それでも大丈夫ですか」

「はい!」


 茜は車掌の問いかけに力強く言葉を返した。車掌はにこっと頬を上げると、乗務員用のドアを開く。


「では、乗ってください」


 車掌は茜を車内に招き入れると、胸ポケットから笛を取り出して大きく息を吸い込んだ。笛を咥えて息を勢いよく吹き込み、お世辞にも心地良いとは言えない音色を周辺に響かせる。


 運転手に向けて車掌が手元のベルを鳴らすと、一瞬の間の後、電車はゆっくりと動き出した。


「ああ、久しぶりのお客さんだ。どうぞ好きなところに座ってください」


 そう言って、車掌は客室に続くドアを開放してくれた。


「ありがとうございます」


 茜はお礼を言ってから車掌室を出ると、電車の進行方向へ歩き出す。

 二列シートタイプの車両の中には、茜の他に乗客の気配はない。二両目に移ってもそれは同じだった。沿線には建物の明かりも少なく、電灯が点いていない室内は真っ暗だ。


 茜がさらに前の車両へ移ろうとドアに手を伸ばしたとき、車掌の声がマイクを使って喋り出した。


「本日はヴァリタ・ロネリア鉄道をご利用いただきまして、誠にありがとうございます。次の停車駅は、ベルセント・ボイヴィッシュです。ミトセ線は終点です。各方面へは本線にお乗り換えください」


 聞き慣れない単語が重なり、茜の中で不安が徐々に大きくなっていく。


 不意に左側から光が差し込み、茜が目を向けると並走する旧国鉄の線路を電車が走っていた。茜の乗る電車はどんどんスピードを上げ、隣の電車を引き離していく。


 これから何が起こるのか想像もつかず、得体の知れない恐怖が茜の決意を揺さぶる。昨夜メールを読んだときの、関わってはいけないという感情が今になって溢れ出してきた。


「無茶苦茶なのはわかってるけど……」


 しかし、現実でどうしようもないことが起きてしまった今、無かったことにできるかもしれないという淡い期待を胸に、この誘いに乗る他なくなってしまった。


 茜は後ろ手にドアをスライドさせ、先頭車両の通路を進んでいく。


「ほんとどうしよもないなあ、私」

「間もなく高架のトンネルに進入します。お近くの席にお座りください」


 車掌の指示に従い、茜はすぐ横の席に腰を下ろした。身を乗り出して、正面の窓に切り抜かれた景色を確かめる。


 トンネルの向こうには緩やかな右カーブが見えている。曲がった先は、山崎南駅の明かりでうっすらと白み、その奥を新幹線が走り抜けていく。


 それは何の変哲もない光景。その日常の中に、非日常の電車が突入していく。


 トンネルまで数メートルを切り、再び車掌が口を開いた。


「良い旅を」


 その言葉とともに、電車はトンネルに進入した。


 走行音が壁に反響し、すべての音を奪う。


 三秒後、今まで真っ暗だった車内が一瞬にして光に包まれ、茜は反射的に目を瞑ってしまった。


 薄れゆく走行音に茜がゆっくり目を開くと、目の前には蒼い海が一面に広がっていた。先ほどまでとは打って変わって、雲一つない快晴の空は吸い込まれるように高く、澄んだ青色を膨れ上がらせている。


「ここは……」


 茜は左側の座席に移動して、窓に手を付いた。

 太陽を反射して輝く水面みなもは静かに揺れている。数羽の白い鳥が沖に向かって羽ばたき、じゃれ合っているように見えた。


「窓が開かないのか」


 上部に日本語で「固定窓」とシールが貼ってある。


「三急のと一緒なのかな」


 茜は立ち上がって前方へ駆け寄り、運転席から一番近いドアの横にあるスイッチを押した。すぐ脇の窓が少しだけ下がり、開いた隙間から潮の香りが一斉に車内に吹き込んでくる。


「寒っ」


 電車の騒音に混じって、微かに波が打ち付ける音や鳥の鳴き声も聞こえていた。


「ここは一体……どこなんだろう」

「間もなく、ベルセント・ボイヴィッシュです。お忘れ物の無いように、左側にお降りください」


 電車はスピードを落として緩やかな右カーブを抜けていく。右側の崖が裾野に変わり、一気に開けた視界いっぱいに広大な自然が奥へ奥へと続いている。

 山に沿って真っ直ぐ伸びる線路の先、徐々に近付いてくる駅舎の周りには小さな町があり、少し外れた位置に立派な石造りのお城が築かれていた。


 茜は慣性に揺さぶられながら、ドアが開くのを待った。


「ベルセント・ボイヴィッシュ、終点です。お降りの際は足元にご注意ください」


 やがてドアが開き、茜はホームへ足を踏み出した。


 が、そこに床はなく、正面から地面に落下する茜。


「痛たたたた」


 起き上がって、服に着いた砂を手で払い落とす。


「やっと、着いたんだ」


 海風が山に向かって吹き抜け、纏めていた毛先がそよいだ。


「ニイナベさんですか?」


 手を広げて深呼吸をしていると、灰色の帽子を被った少年が声をかけてきた。彼は長袖のシャツの上に細かいチェック柄のチョッキを着ている。


「ぅえっと、そうですよ」


 茜が不思議そうな表情を浮かべていると、少年は肩から掛けた鞄から何かを取り出し、それを手渡した。

 封筒には切手が貼ってあり、宛名と思しき場所には不思議な文字で何かが書かれているが、読み取ることはできなかった。


「手紙?」

「こちらにサインをお願いします」


 差し出された紙にも封筒と同じ字体の文字が書かれていた。茜は少年に指で示しめされた箇所に日本語で名前を書き込んでいく。


「これで大丈夫ですか?」

「もちろんです。これからも、サフラン・ファイン郵便をご贔屓に!」


 少年は片手を上げると、線路の上を当たり前のように走り去っていった。

 後ろ姿を眺めていると、もう一度風が吹き荒れる。


「寒っ」


 茜は袖の上から両腕を摩った。冷たい風は、スカートから伸びる生身の脚に刺すように絡まってくる。居ても立っても居られなくなった茜は駅舎に向かって走り出し、ドアの無い待合室の中に飛び込んだ。


 震える手で手紙の封を開けて中身を引っ張り出す。二つ折りになった紙に書かれているのは平仮名とカタカナ、そして漢字だ。見慣れた日本語に、茜の緊張が少しだけほぐれた。


「ようこそ、ヴァリタ・ロネリアへ。とりあえず、二番線のあるホームに行って本線の列車に乗り替えて。あんまり時間ないから、乗り遅れないようにね」


 歯をカチカチさせながら茜は手紙を読み上げていく。


「次は八時間後!」


 そう叫んだ茜は、すでに走り出していた。駅舎を抜けて反対側に出ると、数線先の線路の上で鐘を鳴らしている駅員らしき人の姿がある。


「待ってくださいー」


 思い切り手を振ってアピールしていると、その人が茜の存在に気付いてくれた。手を列車に向かって付き出し、もう片方の手で手招きをする。


「二番線のスングリランド方面行き、間もなく出発しますよー。急いでくださーい」


 三都瀬急行で見たときと同じ厚手のコートの制服を着たその人は、すれ違い様に茜に向かって囁いた。


「良い旅を」

「ありがとうございます」


 茜は客車に取り付けられた梯子のような階段を上りながら、駅員に微笑み返す。


「しゅっぱあぁぁつ、しんこおぉぉうっ!」


 駅員の掛け声とともに警笛が鳴らされ、列車は動き出す。


 茜は空いていた窓際の席に座り、時間をかけて息を吐き出していく。

 心臓の鼓動が早くなっているのは全力で走ったから、そう自分に言い聞かせ、茜は列車の進行に身を任せる。


 列車は海を離れ、平野を抜けて森の中へ入っていく。


「目指すはマルグフォードかあ。到着まで七時間ちょっと、何しよう」


 茜は手元の手紙から顔を上げて、窓の外に視線を移す。


 木の葉の間から、柔らかな光が差し込んでいる。地面に届く前に消えてしまうその柔和な木漏れ日を見ていると、自然と瞼が重くなってくる。

 眼を擦って眠気を振り払おうと対抗するが、陽気と全身の疲れによる睡魔には勝てず、茜はゆっくりと眠りに落ちていった。

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