第8話 ひらりひら、舞う白き布

 日曜日の夕暮れ。あかねは昨秋に開業したばかりの商業施設にやってきた。

 何をするわけでもなくごろごろと午前中を過ごし、お昼からは勉強を始めてみたものの居心地が悪く、気が付けば外に出ていた。


 改札を潜ってモノレールの駅から出ると、案内表示に従って左へ曲がって歩いていく。正面に現れた坂道を下った先には、商業施設がどこまでも広がっている。


 茜は期待に胸を躍らせ、手に持っていた傘を開いた。屋根の下から一歩出ると、雨粒がぶつかって引っ切り無しに音を立て続ける。雨脚は一向に弱まるそぶりを見せない。


 平たんな場所まで下りてくると、周りの人に刺さらないよう傘を目一杯高くして進んでいく。壁のように大きな建物がそこかしこにそびえ立ち、手前の建物の上部からは建設中の巨大な観覧車が顔を覗かせている。


「スマホ、持ってくればよかったなあ」


 あれ以来スマホには触っていない。今も電源を切って机の上に放置したままだった。


 水族館の入った白い建物の逆側には、ガラス張りの映画館がその存在をアピールしている。


「どっから回ろ」


 茜は案内板を眺めながらこの後のことを考えていた。特に何のプランもなく立ち寄ったため、商業施設の広さに圧倒されてしまう。

 とりあえずメインの建物の方へ歩き出した茜は、黄色いネズミのキャラクターが出迎える建物の奥、すぐに視界へ飛び込んできた大型ロボットの模型に目を奪われる。


「うわあー、おっきいなあ。このロボット、何メートルくらいあるんだろ」


 近寄ってみると、模型の後ろにカフェがあることがわかった。このロボットが出てくるアニメをモチーフにした料理を提供しているらしい。

 茜がロボットの模型を見上げていると、囲んで様々な角度から写真を撮っていた人のうちの一人がこちらへ振り向いた。


「ふん、これはロボットなんてやわなものではないんだよ。これだから最近の若いのは」

「まーたそうやって誰にでも突っかかる。ロボットみたいなもんなんだろ?」

「違うもんは違うんだよ。お前もその口か!」

「どの口だよ」


 ガタイの良い茶髪とひょろひょろ黒髪の男性コンビ。どこかで見たことのあるような二人に、これ以上絡まれないよう茜は足を速めた。


「おい、ちょっと待て――って、お前あのときの!」

白鳥しらとりっ」


 その声とともに地面を掴む靴の音。足音は一気にスピードを上げて追いかけてくる。茜は振り返る余裕もなく慌てて走り出した。


 背後から怒号が飛んでくる中、必死に走り続ける。階段を駆け上がり、自動ドアを潜って建物の中に入り込む。左を見ても右を見ても何が何だかわからない。こんなことなら、開業したときに千穂と来ておくんだったと思いながら、茜は通路をひたすら走り続けた。


 どこをどう通ったのか、気が付けば茜は建物の中心部に辿り着いていた。一階から三階までが吹き抜けになっており、大きな円形の広場のような空間がぽっかりと広がっている。


 近くにあったエスカレーターに飛び乗って、一気に三階まで上がった。ガラスの柵から身を乗り出して真下を覗き込むと、一階では買い物客たちが行き交うばかりで二人の姿はまだない。


「何とか撒けた……のかな」


 茜は目を瞑って大きく息を吐き出すと、床にしゃがみ込んで柵に背中を預けた。息を整えながら髪を頭の後ろに集め、纏めてヘアゴムで結ぶ。冷風が首筋をそっと撫で、じっとりかいた汗をさらっていく。


「冷たっ」


 急に冷たい何かがお尻を襲い、反射的に立ち上がった。今まで座っていた床には、いつの間にか水溜りができていた。柵に掛けた傘から水が滴り、床に広がって衣類を濡らしていたのだ。


 お尻の部分を見ようと体を捻っていると、視界の隅に先ほどの二人が広場へ駆け込んでくるのを捉えた。辺りをきょろきょろと見回して、茜の居場所を探っている。


「どこに行きやがったあのチビ」

「もうほっとけって」


 とそのとき、たまたま上を向いた白鳥と目が合ってしまった。


「いたぞ!」


 二人はエスカレーターを一段とばしで駆け上がってくる。周囲の人々は何事かと、走る二人に次々と注目していく。


 茜は逃げ出そうと足に力を入れるが、震えるばかりで言うことを聞いてくれない。


「なんで……」


 そうしている間にも二人は三階へ到着し、あっという間に取り囲まれてしまった。


「手間かけさせてくれるじゃねえか」

「僕も、さすがに……キレた、かも」


 背後はガラスの柵、手前は左右に白鳥と琴賀岡ことがおかが立ち塞がっている。すでにバテバテの琴賀岡を狙って突破しようにも、圧倒的な体格差があるため強引に逃げ出すのは無理だろう。何よりも、茜自身も先ほどの激走に心身ともに疲れ果てていた。


「あ、あの……」


 茜が出した声は、周囲の喧騒にかき消されてしまいそうなほどに小さい。店内に響く楽しげな音楽が、今は嘲笑されているように感じられる。


「どうして、私なんですか」

「いやいやいやいや。さすがにあれを覚えてないとは言わせないよ?」

「あれだけ派手にやっといて、ふざけたこと言ってんじゃねえぞ!」

「すすすみません」


 身に覚えがないだけに、茜はどうしていいのかわからなかった。二人とも怒りに我を忘れ、対話できる雰囲気ではない。それでも、茜は状況を理解するためにも勇気を出す。


「お、教えていただけませんか。怒ってらっしゃる理由……」

「マジで言ってんのか? 舐めすぎだろ」

「白鳥、話してやれよ。そしたら言い逃れできねえ」

「ったく。どいつもこいつも。おい、チビ」

「はいっ」

「お前、この前はよくも俺に恥をかかせてくれたな」

「……えっと」

「だから、お前にも同じ屈辱を味わってもらう。いいな」

「は……い?」


 恐ろしい笑みを浮かべながら、白鳥は徐々に距離を詰めてくる。琴賀岡も陣形を崩さないよう後に続く。


「お前、俺のズボンを脱がしただろ?」

「し、しませんよ」

「水曜日の四限、教壇の上で俺が出席票を提出してるとき」

「人違いです、よ」


 すぐ目の前に迫る二人に気圧され、茜はその場にへたり込む。


「た、助けて」


 擦れる声で助けを呼んでも、誰の耳にも届かなかった。


「段差に躓いて、俺のズボンを引っ掴んでずり下げた」


 白鳥もしゃがみ込んで目線を合わせてくる。

 スカートのポケットに手を入れるものの、そこにスマホは無い。


「なあ、あのときの俺の気持ちわかるか? わからせてやるよ」


 そう言うと、白鳥はとびかかってきた。

 茜のスカートを鷲掴みにして、引きずり下ろそうと思い切り引っ張り出した。


「いやっ。助けてください。人違いです!」


 茜も必死になって抵抗するが、力の差は歴然だった。


「痛いです。痛い」


 周辺の買い物客が異変に気付き、喧騒の中にどよめきを広げていく。


「あそこ、何やってんだ」

「警察呼んだ方が良くない?」

「お、おい、白鳥やばいって。それはまずいことになるぞ」


 事が大きくなりすぎ、逆に冷静さを取り戻した琴賀岡は、後ろから腕を掴んで白鳥の暴走を止めに入るが、遅すぎた。


 倒れ込んだ拍子に、白鳥はスカートをインナーごと引き剥がしていた。

 襲い掛かっていた二人が消えたかと思うと、今度は目の前で白色のスカートが高らかに掲げられ、細かいプリーツがひらひらと空調の風に揺れている。


 その奥、集まってきていた野次馬に目の焦点を合わせて見回すも、誰とも目が合わない。皆、下を向いていた。

 視線を追って茜も顔を下げていくと。


「はうっ」


 自分の晒していた格好に、見る見るうちに顔が真っ赤に染まっていく。

 集まり切った注目の中、白鳥の目的は達成されてしまったのだ。


「みみみ見ないでくださいっ」


 茜は必死にシャツの裾を引っ張った。

 白鳥と琴賀岡はのそのそと起き上がり、後頭部を摩った。


「うおっ」


 頭に当たった感触でようやく気が付いたのか、白鳥は驚きの声を上げた。手に握られているスカートを見つめ、一瞬の沈黙の後、勢いよく立ち上がった。


「お、俺は知らねえからな。お、お前が悪いんだからな」

「いいから逃げるぞ」

「かか、返してください」


 茜が立ち上がろうと足を動かすと、ギャラリーから低い声が上がり出す。


「白鳥!」

「あ、ああ」


 白鳥は握り締めていたスカートを力いっぱい投げつけた。そのスカートは伸ばした茜の両手を通り越し、柵を越えて落下していく。


「えっ、ちょっと」


 思わず振り返ってガラスを覗き込んだ。宙を舞う白い布を目で追っていると、背後からパシャリと乾いた音が陽気な音楽に乗って聞こえてきた。


「合法ロリの会場はここですか?」


 その声に続いて、パシャリ。またパシャリ。

 茜は捻っていた体を戻して、シャツの裾をまた引っ張る。


「撮らないでくださいいぃ」


 今度はちゃんと聞こえるように大きな声を出すと、上ずってしまった。


「その表情もイイっ!」


 このまましゃがみ込んでいては埒が明かないが、立ち上がればまた写真を撮られてしまう。


 集まってくる人の数は増える一方だった。二人もいつの間にかいなくなっており、もうどうすることもできない。


 一階まであられもない姿で走るか、ここで被写体になり続けるか。


 ふと、茜の脳裏に昨夜のメールが思い浮かぶ。



 私たちと一緒に、皆さんの理想の三日間を創り上げるお手伝いをしませんか。

 明日の午後七時、添付した地図の場所にお越しください。お迎えが参ります。



「……お手伝いすれば、私の願いだって聞いてもらえるよね」


 囁くように小さな声で呟いた。


「スマホ、やっぱり持ってくればよかったなあ」


 そう続けると、茜は勢いよく立ち上がる。歓声が上がったことには気付かないふりをして走り出した。


 疲れ切っていたはずの体は、意外にも易々と意志通りに動いてくれる。


「どうせなら、こうなる前に走れればよかったのに」


 周囲からの蔑むような視線も無視してエスカレーターに到着すると、茜は自分の愚鈍さを思い知らされることになる。


 近寄っていくと、眼下から人が次々と現れ出した。突如出現した人々は悲鳴を上げたり顔をしかめたり、蔑視の目を向けてくる。


「何でいっつもこうなるんだろ」


 下りようと走り着いたエスカレーターは、三階へ来たときに使った上り専用のものだった。

 広場を見渡すと、下りのエスカレーターは先ほどの人だまりの前を通り過ぎたその少し先にあった。加えて、何人かの男性はカメラ片手にこちらへ走り寄ってきている。


 茜は迷うことを止め、歩を真っ直ぐ進め出す。ステップに乗る人の脇を縫うように、ポニーテールを揺らしながらエスカレーターを一気に駆け下りていく。

 逆に動くステップに足を取られながらやっとの思いで二階まで下りると、そのまま正面のエスカレーターを走り抜けた。


 一階に到着すると、人が集まって上を見上げている場所に飛び込んだ。人々の足元をすり抜け、目にもとまらぬ速さで円の中心に滑り込む。


 しかし、そこにスカートはなかった。


「うそ……」


 あると思って飛び込んだ場所にはそれは無く、無いという事実がはっきりすると抑え込んでいた羞恥心が急に溢れ出してきた。

 冷汗が背中を伝っていく。


「っく」


 次の瞬間には、吸い込まれるように座り込んでいた。全身が再び熱を帯びていく。


「これは君のかね?」


 話しかけられたしわがれた男性の声に、茜は顔を上げた。そこには、血管の浮き出た細い腕を伸ばした老紳士がこちらを見つめていた。その手には、プリーツの入った白色のスカートが掴まれている。


 茜が目を丸くして見つめ返すと、老紳士は皺の多い顔をさらにくしゃっとさせて、微笑みかけた。


「私には少々刺激が強すぎますから。天からこれが降ってきたときは、ついに天使が迎えに来たのかと思いましたよ」


 そう言って白髪交じりの頭をポンポンと叩く老紳士。彼はスカートを差し出すと、さあ、と茜に受け取りを促す。


「あ、ありがとう……ございます」

「いえいえ。新鍋さん、でしたよね。この前はこちらこそありがとうございました」


 震える茜のか細い手がスカートに触れるのと同時に、その老紳士は思わぬことを口にした。


「えっ?」

「そうですか……。まだ覚えてはいただけてないのですね」

「すみません」

「いえ、いいんですよ。それでは私はもう行きますね。来週……ではなく今週のテスト、楽しみにしていますね」


 その言葉で茜の頭の中に、ある一人の人物が浮かんできた。


福庭ふくば教授!」

「お、これはこれは。名前、覚えてくれていたのですね」


 ゆっくりと歩きながら、福庭は背中を向けたまま喋り続ける。


「良い予兆ですかね。今度こそ、私たちをお救いください」

「待ってください」


 茜は立ち上がって、老いてもなお威厳の残るその背中に手を伸ばす。


「今のは、どういう意味ですか?」


 福庭は歩むのを止め、立ち止まってこちらへ振り返った。


「あ、そうそう。一つプレゼントを用意しておきました」


 それと、と口を開きかけた茜に言葉を被せる。


「茜さん、早くスカートをはきましょう。そのままじゃあ、あなたは変質者です」


 諭すように語りかける福庭の声に、茜はふと我に返る。


 慌てて手に持っていたスカートをはき、晒されていたものを覆い隠す。


 茜が再び顔を上げると、福庭の姿はどこにも見当たらなくなっていた。


「ほんと、何でいっつもこうなっちゃうんだろ」


 自虐的であっても、やっと浮かんだ笑み。

 茜は零れ落ちそうになった涙を拭い、建物の出口に向けて走り出した。

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