第7話 準備は着々と

「そういや、リベイクってやつさ、いまいちピンと来ないんだよなあ」


 三都瀬みとせ急行の電車内、あかねたちは二人掛けの座席に並んで座っていた。回送車を待つ間、開け放たれたドアからは冷気が流れ出している。


「今日と昨日と明日と、好きなようにできるって言われても、何かいじることあったかなあなんて思っちゃうんだよね」


 千穂ちほは真っ暗になった外を見つめ、独り言のように話し出す。茜は窓に映るそんな千穂の顔を見つめながら、じっと話を聞いていた。


「正直、うちなんかよりも、もっと相応しい人がいるんじゃないかなあって思うのよ」

「相応しいって?」

「んー、何ていうか、意志を持って人生を変えたいって思ってる人、かなあ」


 千穂は瞑っていた目を開く。考えがまとまらないのか、一等星の光る空を見上げた。


「取り返しのつかないことが起こったとか、どうしても変えたい何かがあったとかさ。色々あるんじゃないかなあ。……でも、今のうちにはそれがない」

「クレープ食べたからって、そんな都合よく何か起きるものなのかなあ。ずーっと昔のことまで変えられるわけじゃないんでしょ?」


 茜が率直な疑問を千穂にぶつける。


「そう。だけど、後から三日間を創り変えられますって言われたら、やりたくてもやれなかったこととか、ちょっと勇気を出してみなきゃいけないことにもチャレンジしたくならない? そんな人、いくらでもいると思うんだ」

「それはそうかもしれないけどさ……」

「それなら、都合よく何かが起きるかもしれないじゃん」


 こちらへ振り向いた千穂に、茜は首を傾げる。


「やり直せるからやるって、失敗する前提なの?」

「そこはさ、失敗を恐れない精神ってやつで」

「そんなものなのかなあ」

「そんなもんなんじゃない」


 線路脇の田んぼでは、カエルが大合唱を披露している。その鳴き声は周囲を埋め尽くすほどだった。

 二人が黙り込んだとき、電車の接近を知らせるアナウンスがホームに流れ出した。


「……で、千穂にはまだ明日が残ってるわけだけど、どうするの?」

「んんー。決めてるような決めてないような。考え中かなあ」

「何それ」


 呑気な笑いを浮かべる茜に、千穂は座り直して口を開く。


「茜さあ、昨日今日とい――」


 本線を回送車が高速で通過していく。電車の走行音にかき消され、千穂の言葉はかけらも聞き取れなくなった。

 やがて、電車は突風を残して走り去った。静けさを取り戻した辺り一帯に、踏切の音が鳴り響く。小休止を挟んで、カエルの合唱が再開された。


「ごめん千穂。何にも聞こえなかった」

「そんな気がしてた」

「昨日と今日がどうしたの?」

「いや、やっぱ何でもないかなあ」


 そう言った千穂の目は、茜の腰に巻かれた薄手のカーディガンをじっと見つめているように見えた。


「準急大阪梅田行き、扉が閉まります」


 車掌が喋って数秒後、ゆっくりとドアが閉まる。車体の下からゆっくり空気の抜ける音がして、電車はその巨体を動かし出した。


「お待たせしました。次は西丘にしおか天王山てんのうざん、西丘天王山です。お出口は左側に変わります」


 電車はあっという間にトップスピードになり、窓の外の景色を置いていく。


「そっか。じゃあ、また話したくなったときに教えてね」

「話したくならないように祈っといてー」

「どういう意味よ」

「何でもないよ。……茜、今日はありがとね。うちに付き合ってくれて」


 真面目な空気はこれでおしまい、と千穂は声色を明るくして話し出す。


「家でごろごろしたいって言ってたのに、京都まで出てきてもらっちゃってさ」

「急にどうしたの。私だって誘ってくれて嬉しかったよ?」


 茜は目を細め、口元を緩ませる。

 モーターの音が低くなり、車速が落ちていく。


「西丘天王山、西丘天王山です。西丘天王山の次は山崎南に停まります。お降りの際は足元にご注意ください」


 やがて、一直線に並んだ蛍光灯が明るく照らすホームに停車した。数人の乗降があり、すぐにドアが閉められる。


「色んなことがあったけど、楽しかった」

「ほんとに?」

「うん」


 再び加速していく電車に揺られながら、二人は今日の出来事を思い出していた。

 住宅街を抜けた電車は、天王山のふもとを快速で走り抜ける。山と川に両側から挟まれ、次第に地形は狭まっていく。


「あの後に行った神社、山登り大変だったね」

「あれでも半分ぐらいだったんだぞ?」

「だけど、夕焼け綺麗だった……」


 茜はスマホの写真を見ながら、そっと呟いた。

 稲荷山の中腹、四ツ辻から見えた遠くの山に沈む夕陽。橙色の空を群青色が侵食していき、最後には黒がすべてを呑みこんでいく移ろいを、時間を忘れて見つめていた。


「ありがとう、千穂」


 茜は勢いに任せて千穂に抱き着き、その胸に飛び込んだ。


 迫ってきた別の私鉄の高架を抜けるとき、車外は一瞬完全に真っ暗になる。反響する走行音が車内に低く唸った。


 千穂は胸にうずまるその小さな頭に手を乗せ、そっと撫でた。


「うちだってありがとうだよ、茜」


 電車は右に小さく傾き、スピードを緩めていく。間もなく、眼下に住宅の広がる小さな駅に停車した。




「そろそろ着くよ、茜」


 その声で目を覚ました茜は、千穂の膝の上から頭を起こした。


「あれ、いつの間に寝てたんだろ」

「山崎南出たころにはうとうとしてたじゃん」

「ごめんね」


 茜は目を擦りながら千穂の顔を見上げた。


「まあ、うちもさっきまで寝てたんだけどね」

「そうなの?」


 ぼうっとしたままの頭で、茜は体を起こして電車を降りる支度を始める。席を立つと、リュックを背負ってドアの前まで歩いていく。

 待避線に入る際に曲がった衝撃で倒れかけた茜を、千穂は咄嗟に受け止める。


「相変わらず危なっかしいやつ」

「えへへ」


 電車が停車すると、開いたドアから最寄り駅のホームへ降り立った。エスカレーターに乗って改札階に下りると、生け花を横目に改札を抜けていく。さらにエスカレーターで地上に下りて、花屋の横を抜けて駐輪場を目指す。


「千穂もテスト勉強するんだよ?」


 駐輪場を出て自転車に跨った千穂に、茜は念を押す。


「そう言って、結局茜もしないくせに」

「そ、そんなことはないもん。ちゃんとするよ」

「バレバレ」

「じゃあ、また火曜日にね」


 茜は走り去っていく千穂に手を振った。

 やがて千穂が見えなくなると、茜はとぼとぼと家に向けて歩き出す。


 高層マンションの室内灯や大型店舗の看板、対向してくる車のライトが街を明るく染めている。都市部の夜は黒より灰に近い。

 常に変化する街の明かりは、二度と同じ照り方をすることはない。偶然が重なってできる幾億通りの夜景に、人は何を思い描くのだろうか。


 茜は自宅の門を抜けると、庭を抜けて玄関に向かっていく。


「ただいまー」

「おかえりぃ」


 居間に入ると、四人揃ってテレビを見ていた。


「今日はお父さんも帰ってるんだね」

「仕事が早く終わってな。久しぶりにに帰ってこれたわ」


 父が缶ビールを片手にガハハと豪快に笑い出す。


「もう。お父さんお酒臭い」

「あなた、ほどほどにしといてよ?」


 桃夏ももかと母が父に文句を垂れる。知徳とものりは放送されている映画に夢中のようだった。


「茜はご飯食べてきたの?」

「あ、うん。連絡忘れてたー」

「彼氏?」

「バカ」


 隙あらば恋愛に絡めたがる桃夏を、茜は残念でしたと門前払いする。


「でも、茜も大学生になったんだし、お母さんもそろそろ相手の顔が見たいなあ」

「いないものをどうやって見せろっていうのー。ともくんも何か言ってやってよ」

「んな、何で俺に振るんだよ。姉ちゃん一人で解決しろよ」

「んんんん? もしかしてお兄ちゃん、彼女いるの?」

「いないよ。ももはもう黙ってろよ」


 父が何か喋り出そうとしたので、茜はひとまず洗面所に移動することにした。


「やっぱり、好きな人とか見つけた方がいいのかなあ」


 わかんないなあ、とぼそぼそ独り言つ。


 ポンプを押して泡を出して手を洗い、手に水を溜めてうがいを済ませる。

 茜は部屋着に着替えると、チュニックを手に取ってお腹の辺りを眺めた。


「この染み、洗濯で取れるのかな。浸け置きとかした方がいいのかなあ……」


 まあいいや、と洗濯機に衣類を放り込み、茜は再び居間に戻る。


「お母さん、お風呂ってもう沸いてる?」

「沸いてるはずだよ」

「あかねえ、もも先に入りたいー」


 そう言うと、桃夏はソファーから立ち上がってお風呂の用意を始める。


「別にいいけどー。じゃあ、部屋にいるから出てきたら教えてね」

「ありがと」

「あああ、姉ちゃんたちテレビの前に立つなよ」

「そうだぞ、今白熱のシーンなんだからな」

「はいはーい」


 桃夏はお風呂に向かって、足早に居間を後にした。

 茜も自分の部屋に行こうとドアに向かって歩き出すと、母が呼び止める。


「茜、明日もどっかに行くの?」

「いや、特に決めてないよ」

「わかった。じゃあ、お母さん明日休みだし、ゆっくり寝させてもらっちゃお」

「父さんも休みだからな。久しぶりにだらだらするぞ!」

「もう、父ちゃんうっせえよ……」

「父さんに向かってうるさいとはなんだ」


 言い合いを始める二人を後目に、茜も居間を後にした。




 茜は自室に入ると、カーテンを閉めてベッドに身を投げる。敷布団に全身を委ねると、髪が枕の上いっぱいに流れて広がった。


 見慣れた真っ白の天井を寝転がってぼうっと眺め、茜は目で天井の廻り縁をなぞっていく。時計回りに首を一周させると、瞼にそっと力を入れて目を閉じた。


 ふと気が付けば、スマホのバイブが鳴っている。ズボンのポケットからスマホを取り出して確認すると、一件のメールを受信していた。


「こんな時間に誰からだろ」


 操作してメーラーアプリを呼び出すと、未設定の受信ボックスに見知らぬアドレスからのメールが振り分けられていた。

 non titleと記されたそのメール。ドメインもあまり見かけるものではなく、独自のものだ。


「キャリアメール宛てだし、大丈夫でしょ」


 そのメールをタップすると、画面に本文が表示される。


「喫茶店で私たちと一緒に働きませんか? アットホームで楽しく、和気あいあいとした職場です」


 茜は本文の内容を読み上げていく。


「コーヒーはもちろん、紅茶にジュース、ちょっとした軽食も出しています。また、店内で焼き上げるクレープは当店のイチオシ商品です」


 ベッドから起き上がると、茜は机に移動してエアコンのリモコンを手に取った。電源ボタンを押すと、冷たい風が送風口から流れ出す。


「迷惑メールのフィルターにかからなかったのかなあ」


 茜は長々と書かれた文章を下にスクロールして流し読んでいると、ふと聞き覚えのある言葉が目に入り、人差し指の動きを止める。


「……リベイク」


 思わずその単語を口に出していた。


「裏メニューをご注文していただいたお客様への特別サービスです。私どもはこのリベイクサービスを、自信を持ってお届けしています」


 とそのとき、スマホが震えてもう一通のメールを受信する。

 今度のメールの件名には「招待状」と書かれていた。差出人の欄には、「喫茶店ペチカプライム採用係」と記入されている。


 茜は恐る恐る指を伸ばし、その文字をタップした。映し出された本文の上には、ファイルの添付を示す文字列が表示されている。


保乃果ほのかです。和彦かずひこです。茜さん、私たちと一緒に、皆さんの理想の三日間を創り上げるお手伝いをしませんか。一度会ってお話がしたいです」


 冷房の動作音がやけにうるさく感じられる。時計が秒針を動かす音はこんなに大きかっただろうか。


「明日の午後七時、添付した地図の場所にお越しください。お迎えが参ります。新鍋にいなべ様とお会いできることを、ペチカプライム・ペチカピュア運営一同楽しみにしております」


 茜はそっとスマホの電源を落とし、机の上に滑らせる。椅子から立ち上がると、ドアに近寄って部屋の電気を消した。


 暗闇に目が慣れていないまま歩き出し、ベッドを目指す。そしてそのまま布団に潜り込み、小さく丸まって眠りに就いた。




 翌朝、茜が目を覚ますと、薄暗い室内には雨音が響いていた。

 茜は布団を抱いたままもぞもぞと窓に近寄ってカーテンを引くと、視界いっぱいにどんよりとした世界が広がった。雨粒の付いたガラスの向こうに見える空は、灰色の雲に覆われている。


 急に寒気を感じた茜は机に近寄って、手を伸ばす。静かに眠ったままのスマホの横、リモコンを掴んでエアコンの電源を落とした。


「今日の予定、どうしよ」


 スマホを見つめたまま、茜は消え入りそうな声で呟く。


 布団をベッドに戻して壁の時計を確認すると、部屋を出る。後ろ手にドアを閉め、茜は階段を下りてお風呂に向かった。

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