第6話 美人と変人

 電車は地下トンネルを抜けて地上に出た。車内に昼下がりの陽光が一斉になだれ込み、蛍光灯のスイッチは落とされる。


「何か今日は千穂ちほに助けられてばっかりの日だったなあ」

「うちからすると、いつも以上にあかねがドジった日だったわ」

「何か今日はついてないや」

「茜の場合は普段からだけどなー」


 ロングシートに並んで座り、電車に揺られる二人。車内に他の人の姿はあまり無い。


 一つ目の停車駅を出発した電車は、大きな川に架かる橋に差し掛かった。河川敷内の畑を通り越し、浅そうにも深そうにも見える川の真上を通過していく。煌めく水面を上流に遡っていけば、市内の観光スポットとなっている渡月橋を拝むことができる。


「千穂は土日どうするの?」

「ん、うち?」


 茜に尋ねられ、千穂は少し悩んだ様子を見せた。


「私は家でゴロゴロしてようかなあ」


 テスト勉強もしなきゃだし、と付け加える茜に千穂は口を尖らせる。


「どうせごろ寝するだけでしょー。なら、一緒に着いてきてほしいお店があるんだけどさ」

「否定はできないけどさ。どんなとこ?」

「ちょっと待ってね」


 そう言って千穂はスマホを操作して画面を呼び出すと、茜に手渡した。


 スマホを受け取って表示されているサイトを見ると、一面桃色の画面が映し出されていた。


「何これ。いかがわしいサイト?」

「アホかっ。よう見ろちゃんと見ろー」


 千穂が画面の光度を上げると、背景よりも少し濃い色で丸い模様と記号のような文字が描かれているのがわかった。

 ここ、と指された場所に目をやると、白色の文字で「葛善くずぜん工房ただふさ」と記されていた。


「和菓子屋さんだよ。京菓子中心のね」

「和菓子屋さん! ……でも、高そうだよ」

「朝の威勢はどこいった」

「私がお金払うの前提なのー? って、パフェじゃなかったっけ」


 まあまあそれはそれで、と千穂は口の端を引き上げる。


「間もなく中桂なかかつら、中桂。嵐山方面はお乗り換えです。嵐山方面へは一番ホームへお越しください。中桂の次は、洛西らくさいに停まります。お降りの際は――」


 電車が駅に近付き、スピードを落としていく。

 茜は千穂にスマホを返すと、膝の上に抱えていたリュックを掴んで立ち上がった。


「ほんと、千穂は調子いいんだから」


 ポイントの上を通過して本線から逸れた電車は、特急との接続のため待避線に停車する。

 ドアが開くと二人はホームへ降り、特急がやって来るのを待った。


「そういや、今の時期に嵐山なんて行って暑くないのかねー」

「山の近くだから涼しいのかもよ? 桂川も流れてるし」

「そんなもんなんかねぇ」


 蝉の鳴き声が辺り一面を包み込む。髪をさらう風も生ぬるく、じっとしていても勝手に汗が流れ出す。


 電車の接近を知らせるアナウンスが流れ、茜はそちらに目を向けた。揺らめく空間の中、駅の手前の踏切が閉まって交通を遮断する。小豆色の車体は警笛を短く鳴らし、日光を反射させながら突き進んでくる。


「で、茜は明日どうするの。葛善、来る?」


 その声に振り返ると、千穂はにこやかな笑みを浮かべていた。たっぷり黄な粉がまぶされた上から黒蜜をかけたわらびもちを映したスマホを持って。


「この策士めぇー」


 電車がホームに滑り込み、停滞していた気怠い空気を吹き飛ばした。




「だああ、涼しい!」

「やっと中に入れたね」


 土曜日のお昼時、店の外にまで溢れた列に並んでいた茜と千穂は、ようやく葛善工房の建物内に辿り着いた。


「でも、まだまだ席に座るのは先そうだね……」


 入ってすぐの京菓子売り場を抜けた先にある喫茶への細い通路は、順番を待つ人が列を成して片側を塞いでいる。

 出入りが激しいからか、お菓子の甘い匂いは店内には漂っていない。和菓子の香りを楽しめるのは席に着くまでお預けのようだ。


「ここは名前の由来になってるように、葛切りが有名なお店なんだ」

「へえー」

「なんか反応薄くない」

「えっと、実は恥ずかしながら……」


 茜はもじもじと体を揺らし、千穂を見上げる。


「葛切りって、どんなお菓子なの?」

「ええ。知らずに食い付いてきたの」

「昨日見せてもらったのは、わらびもちだったもん」

「葛切りの説明なあ……」


 千穂はそうぼやいて、俯いて何やら考え込んでしまった。


 通路の奥から数人のおばさんグループが歩いてくる。彼女らは、それぞれの顔に笑みを浮かべて嬉しそうに感想を語り合っているようだった。


「やっぱりここの葛切りは一味違ったわね」

「本格的な味がこの値段って考えると良心的よね」


 やはり、葛切りがこのお店の自慢というのは間違っていないらしい。


「そうだ!」


 名案が閃いたのか、そう言って千穂はズボンのポケットからスマホを取り出した。

 薄暗い通路に、スマホの液晶画面が明るく輝いている。


「えーっとね。葛切りってのは、葛粉を水に溶いて煮たやつを冷まして、固まったら細く切って黒砂糖の蜜をかけて食べるもの、だってさ」


 ネットに書かれたものをただ読み上げる千穂に、茜は憐憫の眼差しを向ける。


「……つまり?」

「マロニイちゃん」

「怒られても知らないから」

「まあ、百聞は一見に如かずだよ。もうそろそろご対面」


 気が付けば、次に呼ばれるのは茜たちになっていた。加えて、通路のすぐ脇のテーブルが空いている。


「お待たせしました。何名様でございますか」


 タイミングよく店員がやってきた。お菓子処とだけあって、店の制服も和服と気合が入っている。


「二人でーす」

「では、こちらのお席にどうぞ」


 指し示されたのは、先ほどから見ていた通路横のテーブルだ。

 二人が席に着くと、店員は屈んで軽い説明を始める。


「壁際にお品書きがございます。ご注文がお決まりになったらお知らせください」

「わかりました」


 優雅な様で店員が立ち去ると、入れ替わりで今度は別の店員が水とおしぼりを持ってきた。


「茜、何にする? うちは葛切りって決めてるけど」

「うーん」


 千穂がメニューを手に取って、テーブルの上に広げる。縦書きのそれに写真はなく、手書きのような文字が並んでいる。


「おしることぜんざいは冬限定なんだね」

「夏にんなもん食べても、暑いだけだと思うけど」

「あー、そんな言い方したら良くないよ。冬に食べるアイスも美味しいでしょ?」


 そうだねー、と千穂は適当に何度か頷いた。


「でも、せっかくだし、私も葛切りにしよっかなあ」

「黒蜜と白蜜とあるみたいだけど」

「千穂は?」

「うちは黒蜜だよ」

「んー、じゃあ私は白蜜にしよーっと。す――」


 店員を呼ぼうとした茜を、千穂は身を乗り出して止める。


「ど、どうひはの」

「格式の高そうなお店でその呼び方はまずいんじゃないか。すみません、じゃあまりにも芸がないだろ?」

「ひほ、ほのはっほうのほぉがまずいと思うよ」

「え?」


 手を伸ばして茜の口を塞いでいた千穂は、ふと我に返える。自分の状況を確かめるまでもなく、大盛況の店の中、テーブルの上に乗っかっていた体を人知れず引っ込める千穂であった。




 奥に長い喫茶の突き当りは、ガラス張りになっている。窓の向こうにはちょっとした庭のような空間があり、雰囲気を醸し出していた。ドーム状の天井からは、黄色く暖かい光が店内を照らしている。


「お待たせしました。葛切りになります」


 茜が店内を見渡していると、後ろから店員が緑色の筒状の器を持ってやってきた。


「ご注文は以上でお揃いでしょうか」

「はい、大丈夫です」

「それではごゆっくりどうぞ」


 店員は伝票を裏返しにしてテーブルに置くと、一礼して離れていった。

 茜は手元に視線を戻す。緑色の器の一番上の面だけ黒く塗られており、金色の線でお店のロゴのような絵が描かれている。


「食べよ食べよ!」

「うんっ」


 茜も千穂も幸せそうな顔で器に手を掛けた。


 一番上に被せてある蓋をゆっくりと持ち上げる。


「……あれ?」


 蓋を外した先にも蓋があり、葛切りの姿はどこにもない。


「この入れ物、蓋が二重になってるんだね」


 少し変わった形状の中蓋に手を伸ばしながら、茜は千穂に実況する。


「そんなはずはないん――って、ストーップ」

「ん?」


 千穂の制止に、茜は中蓋を持ったまま手を静止させる。


「冷たっ」


 茜が刺激を感じたお腹辺りに目をやると、水色のチュニックに飴色の水玉模様が出来上がっている。

 傾いた中蓋から蜜が零れ出していた。テーブルの端から滴る黒蜜が一滴、また一滴と茜の服を染めていく。


「バカッ、何やってんのさ」

「え、だって、蓋の中に蓋が……」

「それは蜜が入ってるやつだよ。あー」


 茜が手元のおしぼりでテーブルを拭いていると、千穂が茜の服を拭くのに加勢し、零したことに気付いた店員も床を拭くのに参戦する。


「ほんとにすみません」


 物静かに始まった液体との闘いは、人間側が圧倒的勢力を有したことで優勢を誇ったまま週末を迎えた。しかし、黒蜜という特殊な液体がゆえに彼らは様々な障害を引き起こし、除去が済んだ後もべたつきと染みという形でその存在を残し続けたのであった。


「そういえば、茜が頼んだのって白蜜じゃなかったっけ」

「え、そうだけど……」


 お盆に載って運ばれていく茶色の軍勢を眺めていた茜は、視線を落としてチュニックの裾を掴んだ。


「お店汚しちゃったし、この際文句なんか言えないよ」

「間違えられた腹いせ?」

「そんなんじゃないよ。何か折角なのにごめんね」


 沈み切った表情を浮かべた茜に、さすがの千穂も冗談を言う気にもなれず、黙り込んでしまう。口元を開いたり閉じたりするものの、思うように言葉が浮かんでこないようだった。


「お客様、こちらはお取替えいたしますね」

「ありがとうございます……」

「まあ、ね。こんなこともあるさ。とりあえず食べよう」

「……うん」


 茜は緑の器を手元に寄せた。トラブルを経てようやく最下層を覗き込むと、中には水が張ってあり、氷が三つほど浮かんでいる。その氷の合間を縫うように、透き通るような白色の平べったく太い麺が浸っていた。


「ほんとにあれみたいだね」

「だから言ったじゃん」


 そう言って得意げにする千穂を見て、茜の顔に少し笑顔が戻る。


「いただきます」


 お箸でつるつるの麺を掴んで、たっぷり蜜の入った器に投入する。半透明な液体に潜らせて麺に白蜜をたっぷり絡めると、今度はそれを零さないように口に運ぶ。ほんのりとした砂糖の甘さが口の中いっぱいに広がり、もちもちと弾力のある麺が冷たさと一緒に触覚を楽しませる。


「マロさんとは全然違った……」

「さっきの本気で言ってたの?」

「いや、うちも食べたことなかっ――」

「うぅぅぅまぁぁぁぁいっ!」


 突然、隣のテーブルから大声が聞こえてきた。二人がそちらに目をやると、二人組の男女の内一人が大はしゃぎしていた。


「ちょっと氷室ひむろさん、静かにしてください。周りの人に迷惑ですよ」


 少年が注意している女性は、眩しくもない店内でサングラスをかけている。趣味の悪いまん丸サングラスが黒光りし、異様な存在感を放っていた。


「清らかな川の流れに、身を任せたかのようなこの爽やかなのどごし。まるで鯉のぼりの鯉になったかのよう! 今まさに、私はマロニイになったぞおおおお!」

「それっぽく言ってますけど、結局何もわかってないじゃないですか……」


 氷室と呼ばれた彼女は、良い意味でも悪い意味でも一切の無駄な肉の無い細身に纏った白衣を翻し、ニターッと笑った。


「わかっていないのは君の方じゃないのかね、少年。私は実に嘆かわしいぞ」


 ターゲットを見つけた悪戯小僧のような表情を見せた彼女。一見すると可愛らしいとしか思えないその笑顔の中には、とても残酷な笑みの片鱗が潜んでいるようにも感じ取れる。


「葛切りは原料に貴重な葛粉を使っているものだ。しかし最近では、原材料の供給量が多くないことに甘えてジャガイモ澱粉を使ったそれっぽいものを出しているところも少なくはない。だがしがし、そもそも葛粉には体を温めて血行を良くする作用があって風邪の対症療法としての用途もあるのだが、ジャガイモ澱粉は逆に――」

「わかりましたからもう静かにしてください。これ以上注目を集めるのはやめましょう。また変な噂が広まっても知りませんよ」

「ううむ。悔しいがそうだな。たまには君の言うことも聞いてやるとしよう」


 炸裂するマシンガントークを封じ込めた少年は、やれやれといった様子で溜め息を吐いた。


「何か、不思議な人たちだね」


 二人の仲睦まじいやり取りに、すっかり元気を取り戻した茜は千穂に耳打ちをする。


「世の中にはどんな人がいるのか、わかったもんじゃないな」

「でもあの二人、言いたいことを言い合える仲で、ちょっぴり羨ましいかも」

「何だあ、うちらはそんなことないってか?」


 先ほどの可憐な女性に負けないくらいニヤリと笑みを浮かべ、千穂は茜を見据えた。


「そんな期待した顔されると、正直に言いたくなくなっちゃうなあ」


 他人ひととの出会いには何があるかわからない。良い化学反応を起こすこともあれば、悪い結果を招くこともある。


 そんなことを思いながら、茜は千穂と笑い合った。

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