第5話 繰り返す禍
「期末レポートを忘れずに提出するようにな。では、これで春学期の講義をおしまいとする」
結局、一限目の講義は半分ほど受けられなかった。
「だあー、疲れとぅぁ」
伸びをしていた
「さっきはごめんね、ほんと」
「いいっていいって。それより、二限の教室ってどこだっけ」
「えーっと、北五号館の三階だったと思うけど」
二人が荷物をまとめて教室を出ると、教室の前には次の講義に出席するために多数の学生が待機していた。
学生たちを避けて、二人は階段を下りていく。
「うち、リベイクってのが始まった実感ないんだよね」
「帰りの電車でも聞いたけど、そのリベイクってどんなことなの?」
「うーん、昨日喫茶店で
けち、と茜は頬を膨らませた。
「そういや茜、昨日保乃果さんから連絡来た?」
「保乃果さんから?」
「ん、来てないのか。ならそれはそれでいんだけどさ」
千穂は、あれー、と何かをごまかすようにおどけた表情を見せた。
お昼ご飯を食べた後、二人は三限目の教室に向かった。一限目と同じ、南一号館四階の大教室だ。
教室の前に辿り着くと、千穂はばたばたと落ち着きなく茜の肩を叩く。
「……ごめん、うちちょっとトイレ行ってくる。茜、先入っといて」
千穂はそれだけ言い残し、颯爽とトイレに向かった。
「千穂の分もレジュメと出席票、もらっとかないと」
スライド式のドアを引っ張って教室に入ると、室内はいつものように喧騒に包まれて……おらず、静まり返っていた。慌てて腕時計を確認した茜だったが、講義が始まるまではまだ数分残っている。
「はーい、お待ちしておりましたー。お次の方はどんな人かなあ」
ドアの横に立っていた中年の男性は、声色に苛立ちを隠しきれていない。
灰色のスーツに身を包んだ准教授の
「こっちへ来い。お前みたいなやつのせいで今日は朝からいらいらしてるんだ」
「は、はい」
言われるがままにやってきた茜は、和瀬に連れられて黒板の前へと移動していく。
先ほどから室内にいた学生は、口々に喋り出す。
「あれ誰ー?」
「さあ……」
「何したんだろな」
そんな言葉は茜の耳に届き、居た堪れない気持ちになった。
和瀬が茜に教壇に上がるように指示を出す。
「さあ、こいつらに見えるように。高校のときにあっただろ、表彰状を渡すあの感じだよ」
「こ、ここに上がるんですか……」
おろおろと段を上る茜を見て、何かに気付いたように顔をハッとさせるが、すぐに元の仏頂面に戻した。
二人は教卓と黒板の間に立って向かい合う。
「お前、俺と駅でぶつかったよな?」
「えっ……と」
予想をしていなかった質問に、茜は思わず口をぽかんと開けた。
「ひどい顔だな。口を閉じてそのアホ面をどうにかしろよ」
とりあえず口を閉じる茜。
「あのときの男性は先生、だったんですか」
「そんなことを聞きたいんじゃない。他にあるだろ」
どう答えていいのかわからず、汗の滲む手をきつく握る。
「ごめ――」
茜が口を開いたのと同時に、講義の開始を知らせるチャイムが鳴り出した。
「へえー。だんまりか」
和瀬はチャイムが鳴り止むのを待って、大きな溜め息を吐いた。手に持っていたマイクをそっと教卓の上に置き、大きく息を吸い込む。
次の瞬間、いきなり声を大きく張り上げた。
「お前のせいで、俺は公衆の面前で恥をかいた!」
ざわついていた教室内の空気が一瞬にして凍り付いた。
和瀬は、教室内がざわついていても、何も言わず比較的講義を強行するタイプであった。和瀬が講義中にキレた姿を見たという噂もあることはあるのだが、それも二年近く前の真偽不明のものが少しあるだけ。学生にとっては仏のような存在であった和瀬が今、目の前で怒りを露わにしている。
その光景を目の当たりにした学生たちは、自然と喋るのをやめて事の成り行きを見守った。
身に覚えのある剣幕に、茜の体はいうことを聞かなくなる。何か喋ろうと口を開くが、声は出ず空気が漏れるだけだった。
「なんだね、はっきり言いたまえ。まずは俺にきちんと謝れ」
「す、すみません」
「わかった。君がそのつもりなら私にだって考えがある」
そう言うと和瀬は紙とペンを取り出し、茜に差し出した。
「ここにお前の名前と学籍番号を書け」
戸惑いの表情を浮かべる茜に和瀬は追い打ちをかける。
「自分の名前が嫌なら、さっき走ってった連れでもいいぞ?」
「そんなことしません」
勢いに任せて、茜は名前と番号を書き殴った。
「ほう。名を茜というのか」
茜はそっと頷いた。
「なあ茜ちゃん。この講義は必修であり、学科基幹科目だったな」
「はい……」
「……そうだな、君には単位をやらん。君たちはずいぶん舐めた真似をしてくれたからね」
「えーっと……それは……その……」
「つまり、単位を修得できなければ留年ということだ」
語気を強めて言い放たれた声の反響が消え、教室に沈黙が流れた。
茜の表情が見る見るうちに沈んでいく。
「五回生にならないといけなくなるな」
和瀬はにやりと口の端を持ち上げ、高らかと悪意に満ちた笑い声を上げた。
そのとき、奥側のドアが開いて一人の学生が教室の中に入ってきた。
和瀬はその学生に対して背を向けていた、学生の事には気が付いていない。何より、今は目の前の茜をいたぶることに夢中だった。
「それは、困ります……」
朝、
茜は震える足に力を入れて和瀬を見る。
「なら、することがあるだろう」
先ほどの学生は悠々と教室の窓際を歩き、後ろの方に席に座る友達を目指した。友達の元へ辿り着くと、チーッスと笑顔で手を上げた。
「ぶつかってしまい申し訳ありませんでした」
茜は和瀬に頭を下げた。大勢の学生の前であるということは、すっかり頭から抜け落ちていた。
チーッス学生は、友達から返事がないことに困惑しているのか、手を上げたままその大きな体を突っ立たせていた。
それを見かねた友達は、その学生が腰に巻いていたシャツの袖を強引に引っ張り、無理やり着席させた。
「何だよ、いきなり」
「いいから黙れって」
高笑いを終えた和瀬が教室内を見渡していく。
和瀬と目が合った友人学生の焦り方は尋常ではなかった。今は和瀬の怒りの矛先を、前で怒鳴られている小さな女子学生だけに向けていたかった。
「そこ、うるさいぞ! んん? 何だね? 何かあるなら言いたまえ」
和瀬が声を張り上げて教室の後ろを指差した。周辺の学生がびくっと肩を上下に揺らす。
何か答えないと殺られる、そう感じた別の学生が声を絞り出した。
「い、いえ。何もありません」
思わず声が上ずり、そして裏返る。
「あ? なら黙ってろ」
和瀬は答えた学生を睨みつけると、再び茜の方へ向き直った。ひとまず難を逃れた一帯の学生たちは、ほっと安堵の表情を浮かべた。
状況を飲み込めていない遅刻学生は、何あいつ、と悪態をついていたが、教室内のただならない雰囲気をようやく感じ取り、すぐに大人しくなった。
和瀬は茜へと向き直ると、一歩前へ歩み出た。身長の高い和瀬は、かなりの角度で茜を見下ろしている。
「ふん、それだけか」
「ど、どうしたら……」
顔を上げて和瀬を見つめた。震えが止まらない。溢れてきた涙を袖で拭う。
和瀬は、茜のつま先から頭のてっぺんまで舐め回すようにゆっくりと視線を動かす。上まで見終えると、今度は下降を始めていく。
顔の辺りまで視線を戻すと、じっと茜の目を見つめ返した。
今まで目を合わそうともしなかった和瀬に突然目を合わされ、茜は先ほどとは異なる戸惑いを感じ、そっと俯いた。
茜が俯いた瞬間、和瀬は目にもとまらぬ速さでズボンのポケットからスマホを取り出し、それを茜の方へ向ける。
パシャリと音を響かせ、写真を撮った。
そして膝を折り、手を伸ばして茜の両肩の上に置いた。自身の顔を茜の目と鼻のすぐ先まで寄せると、ぼそっと呟いた。
「この写真とさっきのメモがある限り、君はすぐに特定可能だ。後で私の研究室に来なさい。これ以上ここで話すことはない。逃げたって無駄だ。チビに育ったことを、後悔するといい」
「その……研究室に……ですか」
茜が和瀬の言葉に対しての反応に困っていたそのとき、ドアが音を立てて僅かに開いた。今度は先ほどの学生とは異なる手前側、和瀬の体の正面にあるドアだった。
「そこに行って私はどう――」
和瀬は茜の口を手で覆い、言葉を遮った。茜の体が反射的に小さく跳ねる。和瀬は、入ってくる人物を確認しようと顔を少し右にずらした。
ドアが開き、室内に入ってきた人物の姿を見た途端、和瀬は思わず叫んだ。
「己、今朝の茶髪女!」
その学生は突然大声で叫ばれ、びくっと体を揺らした。
「あ、あちゃー。和瀬先生……修羅場でしたか」
聞き覚えのある声に、茜は押さえつけられていた手を振り払い、素早く後ろを向いた。その拍子に、茜の長髪が和瀬の顔面を襲う。
振り返った先にあったのは、赤褐色の髪に手を絡める女子学生の姿だった。
「千穂!」
茜と目が合った千穂は、ごめんごめん、と両手を合わせて上下に揺らす。
和瀬は急に立ち上がると、何を思ったのか急に態度を変えた。
「まあいいだろう。人質は取ったことだし、この辺にしといてやる」
空調機の動作音だけが教室を支配する。肌寒さはクーラーだけが原因なのだろうか。
重く凍り付いた空気。静まり返った教室は、雪が降りしきる真冬の夜のようだった。
和瀬は立ち上がって教卓からマイクを拾い上げた。
「ほら、いつまでも泣いてないで早く座れ」
大きく深呼吸をすると、ゆっくりと喋り出す。
「それでは、講義を再開します」
先ほどの言動が嘘であったかのように、和瀬は声色を変えていつも通りの柔和な人に戻っていた。何か裏がありそうで、むしろそれが怖いぐらいだった。
「先週までは、中山間地域の実情と改善に向けた取り組みについて話してきていました。皆さんが今までの内容を覚えていようが覚えていまいが、今日は春学期の総まとめです」
和瀬の声が教室に響き渡る。怒涛の怒りは跡形もなく消え、打って変わった穏やかなその声は、春の陽気を乗せて室内を駆け巡っていく。
春の調べは、冬の寒さにじっと耐えて眠っていた動物たちに幸せを運んでいく。その暖かな風を感じて目を覚ました彼ら彼女らは、狭い穴の中から這い出て解放感に酔いしれる。ぽかぽかした雰囲気を感じ取り、次第に活気付いていった。
「では、今日のレジュメを配りますので、後ろの人に渡していってください」
また、暖かく心地の良い春風が教室の中を吹き抜ける。大きく膨らんだ桜の蕾が一つ、また一つと、会話に花を咲かせていく。
「そうですね、講義の前半では復習とポイントの整理を行い、最後の方にテスト問題の発表としましょうか」
和瀬は手を伸ばし、鞄を探るとペットボトルを取り出してお茶を飲む。
それでは話しますよ? と学生に確認を取り、和瀬は話し出した。
講義は淡々と進み、時間は流れていく。
「このように、京都府の美山町では全国から視察が来るようになるようになりました。六次産業化を進めることで、農業以外の雇用も確保することができるんですね」
逃げ出した冬に追い打ちをかけるように、桜の開花前線は北上し、あっという間に桜の花は見頃を迎えた。いよいよ本格的な花見シーズンの到来である。
お祝いムード。それは大変な賑わいだった。
今の教室内を一言で表すならば、やかましい、だろうか。すっかりと和瀬の講義は間違った日常を取り戻していた。
その後も振り返りを続け、講義時間も残り僅かになっていた。
お花見で騒ぎ疲れた学生たちは、温暖な気候に誘われて、桜吹雪に打たれながら眠りへ落ちていく。
「皆、寝ちゃったな。やっぱ和瀬先生の授業はこうなるんだよねえ」
頬杖を突き、前を向いたまま千穂はぼそっと呟いた。
「うん……」
教室の真ん中から後ろに座っている学生はほぼ全滅だった。半数近くの学生が現を抜かして夢の中へ誘(いざな)われていた。
「テスト問題を今日配るとか言わなかったら休んだのになあ」
「えへへ、その方が良かったかもね」
茜は頬をのせていた右手で左手首を掴む。左を向いて千穂の顔を見つめた。
「え、何? 茜がそんなん言うとか、珍しいじゃん」
「それはねー。教室に着いたとき、千穂はトイレ行ったでしょ?」
「うん。行ったね」
どうしたのさ、と不思議がる千穂に茜は穏やかに微笑んだ。
「実はね、その間に……いろいろあっ――」
「では皆さんお待ちかね。テスト問題の発表です」
それまで穏やかに話していた和瀬の声に力が籠り、思わず茜は黙り込んだ。喋っていた学生も注意されたのかと話すのを止めた。
寝ていた学生は一瞬上下に揺れた後、顔だけを起こして辺りをちらちらと見回している。
「さあ起きろー、これさえ聞いとけば単位は楽勝だ」
和瀬はチョークを手にすると、黒板に問題を書き出した。
「問一は穴埋め形式でいく。第八回くらいに配ったまとめプリントを読み込んどいてくれ。問二は論述形式の選択式で――」
その調子で和瀬はほぼすべての問題を列挙していった。
「今日は出席を取らないことにしますね。では、また来週」
講義の終了を告げる鐘の音が鳴り、学生はだらだらと荷物を片付け始める。
辺りはすっかり葉桜。青嵐が吹きわたり、季節はすっかり夏へ戻っていた。
「うちらも行くかあ。どっか寄ってく?」
「今日はそのまま家に帰りたい」
「オッケー」
和瀬はレジュメや資料を紙袋にしまっており、その姿はいたって自然体である。
二人が教室から立ち去ろうとしたとき、和瀬から声をかけられた。
「茜ちゃん、俺は待っているからね。研究室に君が来てくれるのを」
「えっと……」
和瀬がズボンのポケットからスマホを半分だけ取り出し、唇の端を持ち上げた。
茜の頭の中に、小一時間前の状況が蘇る。肩を掴まれ、顔をすぐ目の前まで寄せて話しかけられた記憶。
思い出しただけで寒気立った。
「やっぱ修羅場だったんですか? あのとき」
茜の異変に気付いた千穂がそっと茜の肩に手を置き、和瀬に声をかけた。
「……また後日伺いますから、それまでちょっとこさ待っててくださいねー」
和瀬の答えを待たないまま、千穂は茜の腕を掴んで走り出し、教室を後にした。
「ちょ、ちょっと千穂」
「いいから黙って着いてくる」
一気に一階のエントランスまで階段を駆け下りる。千穂は、しんどい、と息を整えながらぼやいている。
「さすがに、うちでも……これはきついわ」
「千穂、あのね……」
茜は千穂が来る前にあったことを伝えようとするが、咳が出て言葉が引っかかった。
その隙に、と少し落ち着いた千穂が先に喋り出す。
「良いってことよ。何があったかは……知らないけど、辛かったんだよね」
茜はいつも以上に大きく見える千穂の存在に目を丸くする。
「あの顔見りゃわかるって。困ったときは何でも話せよ? うちら親友じゃん」
千穂は茜に向かって手を差し出した。
えへへ、と照れ笑いを浮かべながらその手を握る茜。
「ありがと、千穂。また助けられちゃった。千穂がいてくれてよかった」
「んだよ。そんな恥ずかしいこと、言うなよ」
千穂は握っていた手と逆の手でポリポリと頭を掻いた。
その顔はとても満足そうで、ちょっぴり桃色に染まっているように見えた。
「っしゃあ。んじゃ、あんなやつ無視して帰っちゃおうぜー」
「そのことなんだけど……」
「ん?」
「行かないと単位、落とされちゃう」
「落ちたら異議申し立てでいいんじゃない? 別に何もしてないんでしょ」
千穂の大きな目が茜へと向けられる。
「……うん」
「ま、気になるんだったら来週行こうよ。何されるかわかんないけどさ」
「ちょっと、
「やっべ。……逃げろ」
千穂は茜に微笑みかけると、鞄を肩に掛け直して勢いよく走り出した。
「ま、待ちなさいー」
出遅れてしまった茜は、肩を滑り落ちてきていたリュックの紐の位置を直し、一目散に逃げ出す千穂を追った。
茜の顔からはすっかり涙は消え、いつもの明るい笑顔が戻っていた。
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