第4話 悪魔と天使

 どこまでも続く暗闇のトンネル。その中を一列に並んだ蛍光灯がぼうっと照らしている。足下に引かれた黄色い線を越え、身を乗り出して奥を覗き込めば、その闇に一瞬にして引きずり込まれてしまうかのような錯覚に襲われる。


 しばらくすると、静寂に包まれていたトンネルに低く唸るような音が響き、地面が僅かに揺れ出した。


 音のする先を見つめると、闇の向こうから一筋の光が現れた。


 その光は脇目も振らず、一直線にこちらへ突き進む。光は徐々に大きくなり、地面の揺れと唸る轟音は辺りを支配するほど大きくなっていた。


 光の主が直前まで迫ったとき、接近を知らせる音楽がスピーカーから流れ出した。

 そのワンフレーズの耳に残るメロディーに続いて、今度は迫りくる主についてのアナウンスが流される。


「皆様、間もなく電車が参ります。危険ですので、黄色い線の内側にお入りください」


 数秒後、小豆色に塗られた電車がブレーキの鋭い音と激しい突風を伴って、薄暗いホームに滑り込んできた。

 電車は緑色の楕円を目印に停車し、一瞬の間をおいてドアを一斉に開く。


 待ってましたと車内から大量の人が溢れ出し、ホームへと降り立った人々は出口へ続く階段を目指し、ぞろぞろと歩き出す。


 後ろから二番目の車両を降りた人の中に、慌ただしく歩くあかね千穂ちほの姿があった。


「茜、もうバス出るまで時間ないよ、急いで!」

「わ、わかってるよ」

「あー、このペースじゃ間に合わんかも。走るぞ?」


 千穂は茜に微笑みかけ、肩に鞄を掛け直す。


「えっ、ちょっと。千穂また走るの」


 腕を振り、千穂は勢いよく走り出す。

 出遅れてしまった茜は、手に持っていたリュックを急いで背負い、先を走る千穂を追いかけた。


 階段に近づくにつれて、ホーム上は電車から降りた人たちでごった返していく。

 千穂は群れを成す人の波をかき分け、ずんずんと進んで行く。茜は遅れまいと必死に千穂の背中に食らいついたが、一瞬にして見えなくなった。

 いかんせん、周りの人たちも我先にと急いでいるのだから、少しでも空間ができればそこになだれ込むのは自然なことだった。


 千穂が見えなくなってすぐに、男性が誰かを注意する声が聞こえてきた。


「危ないじゃないか。気を付けろ!」

「すみませーん」


 またそのすぐ後に、人混みから誰かが謝る声が微かに聞こえてくる。


 すると、目の前の会社員が突然左に避け、一気に視界が開けた。

 千穂のことに気を取られていた茜は、座り込んでいたスーツ姿の男性に気付くのが遅れてしまった。


「おじさんっ?」


 茜は止まりきれず男性にぶつかり、鳩尾の辺りに強い衝撃が走った。そのまま男性を飛び越えて吹っ飛び、背中から地面に叩きつけられる。


「痛たたたたた。ああ、もう。今度は一体何だ」


 周囲の何人か茜たちに駆け寄って、その体を起こす手伝いをしてくれた。


「だ、大丈夫かね」

「ありがとうございます……」


 茜が起こしてくれた人にお礼を言っていると、後ろから腕を掴み上げられる。

 それは、突撃してしまったスーツ姿の男性だった。


「ったく、どうなってんだ」

「すすす、すみ、すみません」


 声を荒らげる男性に、茜は目を合わせられなかった。


「謝ったら許されるとでも思ってんのか?」

「い、いえ……。お、お怪我は……ご、ございませんか?」

「舐めてんのかてめえ!」

「おい君、それくらいにしてあげろよ」


 周りで傍観していたうちの一人が、男性を止めに入る。


「誰だてめえ、何様だ?」

「だから、落ち着けって。こんなちっちゃな子に怒鳴ったら可哀想じゃないか」

「あ、ああ?」

「見ろよ。リュック背負って走ってたって、遠足か何かじゃないのか?」

「そうかもしれないが、人に当たって――」

「この子の方も走っていたかもしれないが、君も人混みの中でしゃがんでいたんだろ?」


 いきり立っていた男性の声から、少しずつ力が抜けていく。

 男性はしゃがみ込んで目を合わせると、茜の頭に手を置いた。


「悪かったよ、ちっちゃいの。おじさん、ついカッとなっちまった」

「い、いえ。こちらこそ申し訳ありませんでした」


 茜が男性の顔を見つめると、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。




「ごめん、千穂ちゃん。お待たせ……しました」


 息を切らしながら階段まで走り着いた茜は、待ってくれていた千穂に声を絞り出すと同時に膝に手を付いた。


「相変わらずだねー。未就学児はすぐに迷子になる」


 千穂は階段を下りて茜の横に並び、少し屈んでにやつきながら茜の顔を覗き込んだ。

 とっさに茜は何かを言いかけたが、一度思い留まり一呼吸置いてから震える声で言い返した。


「迷子になってたんじゃ、ないもん」

「ほんとー? じゃあなんでそもそも今日は待ち合わせ時間に来なかったのかなあ?」


 茜は頬を赤らめ、覗き込んでくる千穂の視線から目を逸らした。


「今日は、迷子じゃ、ないん……だよ?」

「ごめんって。まあ……今度、抹茶パフェ奢りな」


 千穂は笑顔で茜の頭をぽんぽんと叩いた。

 茜はその手を掴んで引きずり下ろすと、負けじと満面の笑みで言い返した。


「サーティーンでも里辻りつじでも何でも、どんとこいですー」

「よっしゃあ!」


 千穂は拳を振り上げ、その場でぴょんと跳ねると、茜の後ろへ回り込んでバシッと背中を叩いた。


「ほれ、行くぞ」


 二人が階段を駆け上がろうとすると、上階から突風が吹き下りてきた。あまりの勢いに、慣れていても自然と顔をしかめてしまう。

 年がら年中どこからともなく風が吹き荒れるこの階段は、真夏であっても心地が良いというより、むしろ寒いくらいであった。


 茜は暴れまわる髪を手で押さえながら階段を上っていく。


 上り線と下り線の乗客が階段を上った先の改札階で一度合流し、横一列に並んだ改札を通って各方面の階段へと再び分散していく。


 改札階に着いた茜は、片手を後ろに回してリュックに付いているファスナーを開けた。そこから手を突っ込んで、定期券を入れているケースを探る。


「茜もそろそろティピカに変えたら? 楽だよー、IC。ピピッとかざすだけ」


 千穂は鞄からぶら下げているパスケースを掴んで引っ張ると、そのまま改札機の読み取り部分に押し当てた。

 ピッ、とカードの情報を読み取った電子音が鳴り、改札機は快く道を開ける。


 千穂は改札を抜け、満足げにこちらを振り返った。


「磁気定期だって、別に悪くないもんねーだ」


 茜は改札機の脇で立ち止まると、リュックをおろした。


「あれ?」

「何やってんの茜。早くー」

「ごめん、定期見つかんなくて。千穂、先に大学行っててー」

「へーい。じゃあ、先、行くよ?」


 出口へ向かう人の流れに混ざり、千穂は吸い込まれるように消えていった。


 茜はファスナーを閉め、ボタンを外して上から覆いかぶさっている部分を後ろに回す。口を閉めている紐をほどき、リュックの中を覗き込んだ。

 クリアファイルの間を一つ一つ確認し、小物類を押しのけてかき回す。


「どうしよう。期限まだ半分くらい残ってるのに」


 刻々と時間だけが過ぎ、底知れぬ紛失の焦りと不安が茜を襲う。

 焦燥に耐えきれず、手が滑ってリュックが床に落ちてしまった。


「あー、もうっ」


 茜は溜め息を吐いて、盛大に散らばった持ち物をかき集めていく。

 その中で手に取った手帳の表紙の隙間に、灰色のケースが挟まっていた。


「……あった」


 残りの荷物を急いでリュックの中に押し込み、巾着のようになっている口を紐で結ぶ。覆いを後ろから持ってきて、ボタンを二ヶ所とも留めると、茜はリュックを背負った。


 急いで灰色のケースから桃色の定期券を取り出し、慌てて改札機に突っ込んだ。

 ピンポーン、とエラーを知らせる音が鳴り、改札機はフラップドアを閉じて行く手を阻む。


「係員をお呼びください。係員をお呼びください。係員を……」


 改札機は壊れたように同じ言葉を繰り返す。


 茜は発される音声の指示に従うため、改札から離れて周囲を見渡した。係員はどこにも見当たらない。


「どうしよう。困ったなあ……」


 茜があたふたしていると、鳴り止まない音声から状況を察したのか、少しお腹の出た中年の男性が声をかけてきた。


「ねえねえ、そこの機械を使えばいいんじゃないかな?」


 その男性が指差す方を見ると、改札のそばに駅員と通話できるインターホンが設置されていた。


「あれを使うと駅員さんと会話できるよ。頑張ってね」

「ありがとうございます。助かりました」


 いえいえ、とだけ言い残し男性は改札を抜けていく。右に曲がって壁に隠れて見えなくなる寸前、男性の右手が胸の辺りで小さく左右に振られていたような気がした。


 茜は急いで機械に駆け寄ると、ボタンを押して通話を始めた。


「はい、どうされました?」


 かすれ気味の男性の声が、スピーカーから聞こえてくる。


「えっと、改札に定期を入れたんですけど出てこなくなっちゃって、改札の機械が係員に知らせてくださいと……」

「そう、ですか。とりあえず、そちらに係の者をまわしますので、しばらくお待ちください」

「わかりました。すみません」


 通話が切れると、茜は急に心細くなってきた。


 足元が揺れ、直後に金属の擦れる音が耳に届く。下のホームに電車が到着した。

 しばらくして、電車から降りた人々が改札階に上がってくる。


 茜は壁際に寄ってしゃがみ込み、通り過ぎる人たちを目で追いながら、ぼうっと眺めた。


 覇気のない通学中の学生。俯いて歩くスーツ姿の会社員。元気そうにはしゃぐ制服を着た小学校低学年くらいの少年少女。少し後ろには、登山用の大きなリュックを背負った重装備のお年寄りまでいる。あちらで楽しそうに会話をしている外国人の夫婦は、朝早くから観光だろうか。


 そのとき、一人の青年が改札へと近づいてきた。彼は長い髪の間から、射るような視線を覗かせている。

 青年は不意に表情を一変させ、悪巧みを思い付いた子供のような表情をした。茜を人差し指で差すと大声で叫び出す。


「やーい、こいつが改札ぶっ壊したぞ。チビはほんと救いようねえなあ」


 何事だ、と周囲の視線が青年に集まる。

 次いで、それらの視線は青年が指差す先の茜へと向けられるのであった。数多の見知らぬ視線を向けられ、逃れるように顔を抱き寄せた膝にうずめる。


 人の呟く声が聞こえる。ぼそぼそと囁き合う声がする。


「ああああああああああああああああ」


 突然発狂した青年に茜はびくっと全身を揺らした。体の震えが止まらない。


「あれー? 何? 最近のガキは返事もできないの?」


 青年は再び声を張り上げると、下を向いたまま動かない茜に向かって歩き出した。

 近づいてくる足音に恐怖で逃げ出すこともできず、茜はギュッと目を瞑る。


「まったく。……哀れなものだよ」


 鼻で笑う青年。


 茜は自分へ伸ばされる手の気配を感じ取った。


 そして――


 舌打ちが聞こえたかと思うと、走り去っていく足音。

 それとは別に、真っ直ぐこちらへ向かってくる別の足音。


 やがて、近づいてくる足音は茜の正面で止まった。


 一瞬が永遠のように感じられる。目を開けたくても、開けられなかった。


「お待たせしました」


 優しくかけられた女性の声に茜がそっと目を開くと、そこには三都瀬みとせ急行きゅうこうの制服を着た女性の駅員が微笑んでいた。


「先ほどお聞きしました内容から想定しますと、恐らく券が詰まっちゃったのでしょう。今からカバーを開いて中を見てみますね」


 ようやく緊張と恐怖から解放された。そうわかった途端、力が抜けてしまった。

 人目もはばからずに泣き出した茜に戸惑いつつも、駅員はそっと声をかけた


「大丈夫ですよ、定期券はちゃんと出てきますから」

「そ、そうじゃ……なくて……」


 駅員は慣れた手つきで改札機を開いていく。カバーのようになっている部分が外れ、改札機の中が丸見えになった。

 複雑に入り組んだ機械の中を、一ヶ所ずつ丁寧に定期券を探していく。


 定期券が見つかるまで、時間はそうかからなかった。


「あっ、ありましたよ!」


 駅員は詰まっていた桃色の定期券を引き抜き、どうぞ、と茜に渡す。


「色、似てますもんね。今度からは気を付けてください」

「ご、ごめんなさい。私が……不注意なせいで、ご迷惑を……」


 泣きじゃくる茜に、駅員は落ち着いて諭すように語りかけた。


「いいのよ、気にしなくて。今のうちはいっぱい失敗して、たっくさん迷惑かけてなんぼです」


 膝を折って、茜の目と自分の目を合わせる。


「大丈夫。自分を見つめ直せて、失敗を反省できる子は強いんだよー?」


 でも、と何かを言いかけた茜に対し、駅員は自分の口に人差し指を当てる。


「確かに失敗を悔いるのも必要だけど、モノは考え様。この経験でちょっと成長できた、って考えてもいいんじゃない? 悪い方にばっかりとっちゃだめよ」


 駅員は茜の頭をぽんと叩くと、にっこり笑いかける。よいしょと口に出しながらゆっくり立ち上がり、じゃあね、と手を振って仕事に戻っていった。



 少し落ち着いてきた茜は、しわしわになった定期券に目を落とす。手に握られた紙製の券からは、所々擦れているものの「市バス均一区間」の文字が読み取れた。


 券をそっとケースにしまい、代わりにプラスチック製の券を取り出して立ち上がる。

 恐る恐る改札機に差し込むと、券は勢いよく改札機の中を通り抜け、きちんと出口から排出された。エラーを告げる音や表示は何もない。


 茜は服の袖で頬を伝う涙を拭った。




 ようやく地上に出ると太陽の光が目に刺さる。


 光量に慣れた茜の目が捉えたのは、階段横の本屋の壁にもたれかかる千穂の姿だった。


 いるはずのない存在に茜が驚いていると、たまたま顔を上げた千穂と目が合った。


「やっときた。茜、何してたの? すごい遅かったけど」


 千穂は手に持っていたスマホを鞄にしまい、弾みをつけて壁から離れると茜の方へ歩み寄った。


「ご、ごめん。定期、見つかったんだけど、市バスのと間違えて……改札の中に詰まっちゃって、それで、駅員さんを待ってたんだけど……」


 最後まで言い終わらないうちに、茜は勢いよく頭を下げた。髪がふわりと舞い上がり、ばさばさと顔を覆い隠していく。再び湿らせていた頬とともに。


 突然の行動に千穂は口をぽかんと開け、少し遅れて吹き出すように笑い出した。


「え、三急さんきゅうのと間違えたの? 同じピンクだからって、そりゃないわ~」


 あっはっは、と声に出し、右手で太ももをバシバシ叩く。と同時に、左手で茜の旋毛つむじを軽く小突いた。


「ほら、何してんの。早く起きて起きて。根っからのドジはそう簡単に治りませんから」

「うん」

「気を付けないと、いつかもっと大変な目に合うよ?」


 茜は顔を上げ、改めて千穂と向き合った。


「うん。わかってる。それと……待っててくれてありがと」

「まあどうせ、電車降りた時点でバスには間に合わなかったっぽいしー?」


 顔に覆いかぶさっていた髪を手で横に流し、頬に残った涙をすでに湿った袖で拭う。


「……遅刻、だね」

「なぁに泣いてんの。いいよ、そんなの。まあなんとかなるっしょ」


 気にするなって、と千穂は手を前後に揺らす。


「だけど、そうだなあ。タダってのもあれだし……パフェもう一個追加で許してやろう」


 そう言って千穂は片目を瞑り、右手の親指を突き上げた。


「うん」


 不格好に笑い返す茜は、笑って許してくれる千穂を見つめながら、失敗だらけの自分をただ恨むことしかできなかった。

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