第3話 立ち塞がる真っ黒のパン
「ほら
別室で話を終えた三人が元の部屋に戻ってくると、茜はまだソファーの上ですやすやと寝息を立てていた。
「あーかーねー」
「ったく。起きろちっさいの」
「おーい、あーちゃーん」
三人が順番に呼びかけると、むにゃむにゃとありふれた寝言が返ってきた。
「もう食べられないよ……」
茜は目をぎゅっと閉じ、小さい体をさらに小さく丸めた。
「保乃果さん、どうしましょ」
「うーん、こりゃ完全に寝てるね」
二人は起きる気配のない茜を見降ろしながら、途方に暮れてしまった。
すると、ドア横の壁にもたれかかっていた
「やっと僕の出番が来たってもんよ」
そう言うと、和彦は体の下に腕を回して茜を抱きかかえ、そのまま肩に担いだ。
「んだよ、意外と重いじゃないすか」
「ちょ、ちょっと、何考えてんのよ」
良い案だろ、と和彦は悪びれる様子もなく、右肩に乗っている腰を叩いた。
「大丈夫だろ。このくらいのチビッ子はまだ気にしないさ」
「
「なるほどなあ。それでか」
まあ何がとは言わないけど、とぼそりと付け加える。
「ちゃんと下まで連れてってあげてよ?」
「おうよ」
無駄に威勢の良い返事をした和彦は、振り上げた左手で思い切り茜のお尻を叩いた。
「んんぉうっ」
その瞬間、茜は形容しがたい呻き声を上げ、くの字に折れ曲がっていた体を伸びあがらせた。
和彦の肩の上で周囲を見回す茜は、目に涙を浮かべている。
「お、降ろして、ください……」
「んだ、起きたのか。ほらよ」
和彦が肩に回していた手を離すと、茜はするりと床に着地した。
茜はお尻を摩りながら、その場に立ち尽くしている。
「保乃果さんがソファーで近づいてきたら、部屋の真ん中で常陸さんの上に乗ってて……」
「ごめんねー、あーちゃん。ちょっと千穂りん借りてた」
「茜、早く帰ろ? もう外真っ暗だし」
状況を理解しようと精一杯の様子の茜の手を引いて、千穂たちは部屋を後にした。
階段を下りてくる途中、茜は千穂にどんな話を聞いたのか尋ねたが、適当なことを言うばかりで何も答えてくれなかった。
出入口のドアへと繋がる通路を四人が歩いていると、二人の男性が目の前に立ち塞がった。
「お待ちしてましたよ、店員さんとお客さん」
「あ、ソファー席にいらっしゃった」
それは、茜たちが入店したときに隅っこの席に座っていた若い男性客たちだった。
「俺たちはそこのちっこいのに、ちいと用がありましてね」
「わ私ですか?」
茜に向かって指を差したやたらと強気の男性は、隣のひ弱そうな男性よりも一回り大きな体型だ。ワックスで整えられた明るい茶色の髪は、時間帯もあってか、すでに
「やっぱり止めようぜ、絶対怪しまれるって」
「ああ? 問題ねえよ」
何のことについて話しているのかはわからないが、仲間割れが始まった。
「それに、ここまできて引き下がれるかよ。大体、
「いやいや、僕は可愛らしい子が入ってきたね、って言っただけだったじゃん」
琴賀岡と呼ばれた男性は、枝のような体を左右に振りながら、恥ずかしそうに言い返す。背の高い観葉植物と同じような背丈で、彼の茶味がかった黒色の髪の毛はぼさぼさで少し長い。
「えーっと……」
二人は言い合いを過熱させていく。
「よく見たらあいつだって気付いたんだから仕方ねえだろ」
「人違いだったらどうすんだよ、
「何なんです、あなたたちは」
どう対応していいかわからず困っている茜に代わって、和彦が口を開いた。
「この人たち、知り合いか」
「違います」
千穂の声と。
「いやー、ちょっとね」
白鳥の声が重なった。
保乃果が二人と二人の二組を交互に見て口を開く。
「どっかで会ったことは?」
「いえ、さっき初めて会いました」
茜がそう答えると。
「あの、僕たちはもう帰りますから、どうぞ忘れてください」
琴賀岡が強引に話を断ち切った。
琴賀岡は腕を掴んで白鳥をテーブルに引っ張っていく。
二人は素早く身支度を済ませると、足早に出入口に向かった。
「俺はお前を見たことがあるからな。あのときの恨みは一生忘れないからな」
「気にしないでくださいねー、こいつが勝手に言っているだけなので」
そう言い残し、ドアを閉めた。店内には、開閉を知らせる鐘だけが鳴り響く。
「私、何かしたのかなあ」
「気にしなくていいんじゃない?」
窓の外を走り去っていく二人を見つめながら、茜は小さく頷いた。
「じゃあ、あーちゃんも千穂りんも、また来てね」
「どうせ暇だしな。まあ、次に会うのはこの店じゃないかもしれないけどな」
「それってどういう……」
「まあ、気にするな」
茜と千穂は、保乃果と和彦に見送られながら帰路に就いた。
茜は毛布を
カーテンの向こうはすでに明るくなっている。昨日は帰宅した後、布団に潜り込んであっという間に眠ってしまった。
ベッドから立ち上がると、茜はふらふらと歩き出す。
部屋を出ようとドアノブに手を掛けた際、折り目の付いたスカートが目に入った。
「スカートくらい脱いどきゃよかったなあ」
ぼそぼそと茜が反省していると、寝ぼけた脳に目覚まし時計のけたたましく音が直接響いてきた。
「あぁあぁあぁあぁ」
慌ててベッドに駆け寄って、ベッドの脇から枕元の目覚まし時計へ強引に手を伸ばす。銀色のボタンを押すと音が止み、部屋は一瞬にして静けさを取り戻した。
茜は胸を撫で下ろすと、目に留まったついでにスマホを充電しているコードを引っ張って、枕元から手繰り寄せる。スマホを手に取って充電器を引っこ抜き、勝手に点いた画面に表示されていたカレンダーを確認してから、スカートのポケットに押し込んだ。
ぐちゃぐちゃになっている毛布を畳み直して、脇のカーテンを開けた。差し込む朝日に、自然と大きな欠伸が出る。
「今日から千穂のリベイクってのが始まるんだっけ」
水滴の残るガラスにぼんやりと反射する自分の顔を見て、茜は大きく息を吐き出し、そっと呟いた。
パンの焼き上がりを知らせるベルが鳴り、茜はブラウスのボタンを留めながら台所に駆け込んだ。
トースターをそっと開くと、
狐色に染まった二枚の食パンを平皿へ移し替えると、辺りには小麦の甘い香りがほんのりと広がっていく。
茜はレンジ台の籠から袋を掴んで、中から二枚の食パンを取り出すと、トースターに放り込んでダイヤルを目いっぱい
冷蔵庫から苺ジャムを取り出して、ふと食卓の方に顔を向けると、そこには寝癖の付いた
「おはよー、
「あか
「今日は仕事で早い日だよ。お父さんも帰ってないみたい」
そっか、と桃夏は上げていた目線を再び落とした。
桃夏は茜の四歳下の妹だ。今年は高校受験があるというのに、この気の抜けようである。
「桃夏、寝てるくらいならサラダとか取り分けといてよー」
テーブルの上には、半熟の目玉焼きとこんがり焼けたベーコンが盛られた皿と、大きなボウルに入ったままのサラダが置かれている。
「勝手にするからいいって言ってあるのになあ……」
茜は平皿を持って食卓へ移動すると、サラダを
「こら、寝てないでちゃんと起きる!」
「痛っ。パン粉降ってきたんですけどー」
「まだパジャマだし、大丈夫でしょ。着替えれ……ば?」
何やら怪しげな合図を出す桃夏に、茜は警戒態勢に入るがあえなく後頭部に衝撃が走った。
逃がさないように頭の上の手をしっかりと掴んで振り返ると、いつの間に現れたのか、そこには爽やかな笑みを浮かべる
高校二年生の知徳は、茜よりも十五センチは高い桃夏のさらに上をいく身長である。
「いったあ。朝っぱらから何よー」
涙ぐんで知徳を見上げる茜を見て、桃夏はお腹を抱えて笑っている。
茜は姉としての威厳のなさに溜め息を付き、力なく椅子に腰を下ろした。
「ねえねえ。あか姉、何で朝にお風呂入ってたの?」
にやにやとした表情で問う桃夏に、茜はサラダを取り分けながら答えた。
「特に意味はないけど? 昨日は疲れて――」
隣の椅子に座る桃夏に肩をトントンと叩かれ、茜が振り向くと。
頬に刺さる、人差し指。
「……そ、そんな攻撃効かないもん」
そう言ってそっぽを向く姉に、笑いを堪える弟と妹。
「それより、二人とも終業式の日に遅刻しても知らないからねー」
茜の言葉に二人が時計を見上げると、七時半は遥か昔に過ぎ去っていた。
「え、うそ。シャレになんないって!」
「じゃあ、さっさとご飯済ませちゃうよ」
三人は手を合わせ、声を合わせた。
「いっただっきまーす!」
「あれ、俺の食パン無いんだけど」
「ちゃんと焼いたよ?」
気が付けば、パンの焦げたほろ苦い香りが部屋中に広がっていた。
七月も四週目が終わろうとしている。
玄関のドアを開くと、朝だというのに灼熱の日差しに目が
中学の制服に身を包んで庭に出た桃夏は、朝からきつい太陽を手で遮っている。知徳が自転車を押して戻ってくると、二人は門へと歩き出す。
戸締りを済ませた茜は、二人の後ろをとぼとぼと着いていく。
家の前の歩道には、小学生が友達と登校していたり、駅に向かう社会人が走っていたり、散歩をする老人がいつものように歩いていた。
「もも、今日は成績表返ってくるんだろ?」
「ももは大丈夫だよ。お兄ちゃんこそ、お母さんに怒られないようにね」
知徳がにやっと笑いかけると、桃夏は右手の親指をグッと立てた。
「いいなあ、二人とも。あかねは来週からテストだよー」
「まあまあ姉ちゃん、元気出せよ」
「頑張れー、あか姉」
両側から肩に手を置かれ、見下げられる茜。
「桃夏と
すぐ近くの交差点で信号待ちをしていると、小学生を見守る地域ボランティアの男性が近寄ってきた。
「三人は毎朝仲良しだね」
しゃがみ込んで茜に満面の笑みを向ける。
「だけど、いつまでもお兄ちゃんやお姉ちゃんに甘えてちゃだめだよ?」
茜が口を開こうとすると、ちょうど信号が変わって男性は急いで横断歩道に戻っていった。
足元の水溜りを見下ろしながら、そこに映し出される自分の姿を見つめる茜。
「あかねってそんなにちっちゃい?」
「うん」
二人は口を揃えて即答した。
「そんなこと気に病んで、電車に間に合わなくなっても知らないぞ」
「うわ! 知くん、駅まで乗せて」
「やーだよーだ」
地面から足をペダルに移すと、知徳は颯爽と走り去っていく。
「じゃあ、あかねたちも行くかあ」
桃夏を見上げた先に見える青空は雲一つなく澄み渡り、浮かんだ太陽がいつにも増して輝いていた。
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