第2話 お姉さん襲来
店員が話した言葉の意味が理解できず、二人はお互いに顔を見合わせる。
「そのまんまの意味ですよ。明日から三日間、あたしらが行動をサポートするんです」
「えっと、うちをサポートするって言われても、何をどうしてもらえばいいのか……」
「戸惑ってらっしゃいますね。でも、まずは普通に過ごしてもらうだけなんで、特に悩まなくても大丈夫ですよ」
「
「あ、ごめん」
茜は持ったままだったクレープを皿に置いた。
「まあ、詳しくはサービスを受けることになったら話しますんで、安心してください」
「あの、その内容を今話してもらうことはできないんですか?」
「うーん、この段階で喋っちゃうと、これから先の行動に支障が出ちゃうかもしれないですからね。できれば四日後にお話しさせてもらいたいんですよね……」
店員は何かを考えながら話しているようで、乗り出していた身を戻すと首を僅かに傾けて顎に手を当てた。
しばらくぶつぶつと何か呟いていたが、よしっ、と手を叩いて口を開く。
「それでは、もう一人の店員に相談してきます」
そう言って、店員はカウンター横の通路を歩いて店の奥に姿を消していった。
「茜、この話どう思う?」
カウンターの上の紅茶からはまだ湯気が立ち上っている。
「うーん、私なら受けちゃうかなあ」
面白そうだしっ、と付け加えて、茜はフォークで皿に転がり出した苺を突き刺した。
「何て言うか、茜には敵わんわ」
「んん?」
千穂は視線を手元に落とし、ティーカップを指で弾いた。紅茶の水面に波紋が浮かび、跳ね返った波がぶつかっては消えていく。
「店員が戻ってきたらもう断れないだろうからさ、今のうちに帰っちゃおうよ」
顔を上げた千穂は正面を向いたまま、ぼうっと一点を見つめている。茜が向けられた視線の先を見ると、様々な種類のコーヒー豆が瓶の中に入れて保管されている棚が置いてあった。
「千穂はそれでいいの……?」
「いや、気にならないことはないけど、でもさ、いろいろあるじゃん」
歯切れの悪い返答をする千穂に、茜はふと大学でのことを思い出した。興味をそそられるものはたくさんあるが、その中でも今、一番興味のあることを素直に口にはしにくいものだ。
「もしかして、怖いの?」
あのときのお返し、と茜は煽るような口ぶりで問いかけた。
「はあ、急に何よ。ありえると思う? うちが」
棚を見つめたまま、強い語気で茜の言葉を切り捨てる。言い終わると棚から視線を外し、左を向いて窓の方に顔を向けた。
「そんなわけ、ないじゃない」
ぼそりと呟いた千穂に、茜は小さい体を揺らしてあたふたし出す。
「あ、いや、まあそうだよね」
胸の前で両手は行き場を失い、開いたり閉じたりを繰り返す。
「千穂がこんなことで怖がるわけないよ――」
「ねえ」
千穂は橙色に染まった空を見ながら、茜に呼びかける
「今、騙されたでしょ」
「え?」
千穂は勢いよく振り返ると、
「受けるよ、ちょっと不思議なサービスってやつ。まあ、何にもわかんない状態だから、とりあえず話だけは聞いてみるけどね」
またこれか、と茜は目を瞑って息をゆっくり吐き出し、顔を見て笑いかける。
「本気で焦るからやめてよねー」
「そんな良いリアクションばっかしてると、カモになっても知らないぞー?」
「……鴨鍋はまだ食べたことないもん」
「だまらんしゃい」
「ううっ」
チョップをくらったおでこを両手で押さえながら、茜は、まあ、と口を開いた。
「確かに、よくわかんないことには首を突っ込まない方がいいもんね」
「そこは足を突っ込んどけよ」
「ん?」
「いや何でもない」
何だかよくわからないが、笑いが込み上げてきて二人は思わず笑い出す。
「温かいうちに食べちゃおー」
「もうだいぶ冷めてるけどね」
二人は寝かせていたクレープを手に取って
そうこうしているうちに、先ほどの女性店員が別の店員と一緒に奥の部屋から現れた。
「お二人ともお待たせしましたー」
「で店員さん、審議の結果はどうなりました?」
今回はカウンターの外、茜たちの座る席の横に来ている店員二人は、お互いの目を見合い、そっと頷いた。
「じゃあ、店の二階に移動しましょう。そちらでお話をさせていただきます」
「大丈夫ですよ、奥のデカい方が考えてるようなことはありませんから安心してください。悪徳商法の勧誘とかじゃないんで」
何がデカいとは言いませんが、とぼそりと付け加える男性店員。
「え、何で分かったの。うわー、すみません」
千穂は席から立ち上がって頭を下げた。すると、男性の店員は少し困ったような顔になる。
「え、あ、いや、あんな顔してたからそう思っただけなんで」
「うち、そんな疑いの目で見てたのかな……」
女性店員が男性店員の方を一瞥すると、彼は眉を
「じゃあ着いてきて」
二人に手招きすると、女性店員は通路の方へ歩き出した。
「っはい」
二人は荷物を手早くまとめて席から立ち上がる。
茜はカウンターの上のクレープが載った皿と紅茶の入ったカップを順に目で追い、続いて女性店員の方を見た。
名残惜しそうにしている茜に気付いた女性店員は、そんな様子に思わず声が漏れる。
「あはは。それ持ってきていいよ。まだ結構残ってるでしょ」
「いいんですか?」
「いいよー」
やったあ、と茜は食器を手に取り、千穂に手渡していく。
「あ、でもその代わり」
自分の分の皿に手を掛けた茜は、ピタリと動作を止める。
「あたしもこれからは、接客の言葉遣いはしないからねー」
「とっくの昔からしてなかったと思うけど?」
隣に立っていた男性の店員は、確かに少し前から言葉遣いがラフになっていた女性店員に対して、すかさずツッコミを入れた。
「そうだね。うん。じゃあ、きちんとお客様と応対できる
キラキラした声とは裏腹に、表情に一切の輝きはない。
「ほーら二人とも、早くおいでー」
「は、はい」
両手に皿とティーカップを持った二人は、通路を左に曲がって
ホールに取り残された和彦は、カウンターの端に置いてあった布巾を手に取った。二人の座っていた場所を拭きながら、乾いた笑いをホールに響かせた。
「じゃあ、あーちゃんは身長百五十センチ無いんだねー。道理で可愛いわけだよ」
「
「どういう意味よ」
二階の一室に入った三人は、ソファーに座って向かい合っていた。
ソファーとテーブルの他には、観葉植物しか家具はない。足元のテーブルは天板がガラスになっていて、今は空になった食器が置かれている。
二人の正面に座っている女性店員は、
「千穂りんは私と同じくらいの高さだったよね」
「あのー保乃果さん、やっぱりその『りん』っての恥ずかしいなあ」
保乃果はあだ名を付けて呼ぶのが好きらしく、茜はあーちゃん、千穂は千穂りんと呼んでいる。普段は苗字か名前で呼ばれることしかない二人なので、嬉しい気持ちよりも何だか照れくさい気持ちが先行してしまう。
「いいでしょ、可愛いし」
「それを言うなら保乃果さんだって、十分可愛いっすよ? 一緒に働いてる
「僕がなんですって?」
部屋のドアが開くとともに、低い声が聞こえてくる。
二人が体ごと振り返ると、すっかり暗くなった廊下から一人の男性が室内に入ってきた。彼は
「僕のどこが羨ましいんです? デカい方」
「あれ、隅っこのテーブルにいた二人はもう帰ったの?」
「まだしばらくいるから、上に行ってくれてもいいってさ」
ちょっとごめんね、と保乃果は席を立ち、和彦の元へと真っ直ぐ歩いていく。
「あ、もうお代は貰ってるから、知らないうちにいなくなってても大丈夫」
保乃果と並ぶ和彦は、目線を少し下にしながら会話を続けている。比較的丁寧で穏やかな喋り口調に、まくったシャツから伸びるほど良く筋肉の付いた腕や、混じり気のない黒の短髪や時折見せる笑顔は、彼に好青年の印象を与えていた。
「もし誰かお客さん来たら?」
「立て看板も『クローズド』にしておいた」
「そっか、ありがと」
保乃果が振り向きざまに和彦に微笑みかけると、一瞬、和彦の表情が緩んだ気がした。
「僕、手、洗ってくるわ」
そう言って和彦は再びドアを閉めると、部屋を後にした。
「何しに来たんすかね、常陸兄さん」
「また洗いに行くんですね、手」
二人は保乃果の動きを目で追っていく。
ふと視界に入った窓の向こうの空は、橙色から徐々に紫色へと変化している最中だった。
「女の子の集まりの中に入りたかったのかもねー」
「え、そういうタイプなんですか、常陸さん」
男の子だからね、と保乃果が言うと、二人は驚いて顔を見合わせた。
「あはは、二人ともわかりやすいねぇ」
「え、何がですか?」
二人はソファーに座り直した保乃果に視線を向ける。
「何かあるとすぐにお互いに見つめ合う。もしかしてそういう関係だったりするの?」
「何言ってるんですかぁ保乃果さん。んなわけないじゃないですかぁ。ねえ茜」
千穂は保乃果に向けていた視線を、茜に移した。
「茜……?」
ゆっくりと顔を動かす茜の顔は真っ赤だった。
「あーちゃんはこういうの苦手なタイプなのか。これでいこう」
保乃果は座ったばかりのソファーから立ち上がると、茜の横に移動した。
「きゅ、急にどうしたんですか」
「あーちゃん」
保乃果に名前を呼ばれ、茜はぎこちなく首を動かしていく。
「なな、何でしょうか」
茜と保乃果は至近距離で向かい合い、お互いを見つめ合う。右へ左へ視点の定まらない茜の頭に手を伸ばし、髪の毛をそっと耳に掛けた。
「会ってすぐのあーちゃんにこんなこと言うのは、おかしな話だとは思うんだけど、あたしね」
耳に掛けた髪を伝って保乃果は指先を滑らせる。細い首筋を通って小さな肩を抜け、その華奢な腕を袖の上からなぞっていく。
「ほほほの、ほのひゃせんふぁい……?」
「その反応も可愛い」
そして保乃果は顔を近づけ、真っ赤に染まった茜の耳に息を吹きかけた。
その瞬間、茜の全身から力が抜け、だらりとソファーから滑り落ちた。
「連れテイク、持っテイクっと」
保乃果は脇の下に手を通して茜を持ち上げる。
「ヘルプー、千穂りーん」
硬直していた千穂は名前を呼ばれ、何事かと体をびくつかせる。
「ハ、ハイ。何をすればよろしいでしょうか」
「千穂りんまでー。安心して、あたしはそっちの趣味無いから」
足持って、と保乃果から指示を受け、千穂は茜の足を抱えた。二人で茜を持ち上げると、さっきまで座っていたソファーに仰向きに寝かせる。
「サンキュー。……あ、和彦君、中に入っていいよ」
保乃果が外に向かって声を張り上げると、ドアの向こうで物音が聞こえた。
ドアを開けて部屋に入ってきた和彦は、ソファーで伸びている茜に目をやり、溜め息を吐いてから保乃果に視線を向けた。
「テイクテイクって、英単語の用法じゃないんだからさ。人を弄んで意識をどっかに持っていくなよな」
保乃果は右の掌を体の前に突き出すと、まあまあ、と和彦をなだめた。
「それに、こうでもしないと千穂りんを一人にできないじゃん」
ね、と保乃果が付け加えると、和彦は小さく唸った。
「まあ、僕もちびっ子の相手はごめんだしなあ。……よくやった」
「そういう言い方しないの」
二人のやり取りを黙って聞いていた千穂だったが、脳に情報が入ってこない。
「あの……どういう意味なんです、それ」
「いやー、ごめんね。遅くなったけど今から話していくよ」
保乃果は千穂の手を取ると、ドアに向かって歩き出す。
「あたしらがやってる特別サービス、『リベイク』について」
別の部屋に移動した三人は、四人掛けのテーブルに改めて座り直した。
今までの部屋とは打って変わってテレビがあったり、家庭用の台所があったりとずいぶん生活感の溢れる部屋だった。テーブルの上に置いてあった雑誌や新聞は、今は千穂の正面に並んでいる二人の足元に積み上げられている。
「では改めまして、あたしは嵯峨保乃果。この喫茶店でリベイクの請負人をやってます」
「僕は常陸和彦です。こいつと一緒で僕も依頼人の願いを叶えてるってわけなんだ」
「えと、うちは笹貫千穂です。特別メニューの白い苺を食べたのはうちです」
時計回りに三人が順番に簡単な自己紹介を済ませ、いよいよ本題に入る。
「リベイクってのは簡単に言うとね、一度過ごした過去の三日間をやり直すことのできるものなんだ。さっきクレープを食べた瞬間を起点として、明日から三日後までが対象になるの」
保乃果は立ち上がって壁に向かって歩いていく。掛けてあるカレンダーを壁から外し、脇の引き出しの中からペンを取り出してテーブルに戻ってきた。
「今日が七月の二十一日でしょ。だから三日後は……」
カレンダーをテーブルに広げ、数字を丸で囲んでいく。
「二十四日、日曜日だね。だから、この間の二十二日と二十三日、そんで二十四日がリベイク期間になるの。金・土・日を選ぶとは、千穂りんやりますなあ」
「いやあ、それほどでもー」
千穂が後頭部を
「まあ、僕らからすると行動パターンがわかりにくいから、あんま嬉しくないんだけど」
「そうなんですか?」
「そうだねー。学校とかなら同じ場所だから簡単なんだけど、休日はみんな色々遊びに出掛けちゃうでしょ」
保乃果の説明に、ああー、と相槌を打つ千穂。それに、と和彦が付け加える。
「喫茶店が平日より混むからワンオペがきつい」
「ほんとに二人で回してるんですね、この店。あ、オーナーとか、他の人はいないんですか?」
それならね、と保乃果が説明を続けていく。
「リベイクは三日間って言ったけど、実際は前後合わせて五日あるの。クレープ食べるのがプレ一日目だとすると、五日目にあたるポスト三日目は、依頼に来るかどうかのシンキングタイムかなあ。オーナーにならポスト三日目に会えるよ」
「そのダッセぇ名前変えろって言っただろ。何だよプレとかポストとかさぁ」
そう言うと和彦はペンを手に取って、保乃果の書いた文字を塗り潰していく。
「あーん、消さないでよー。じゃあ和彦君は何て名前がいいの?」
「アライバルとデパーチャーだな」
「それの方がダサいです。習いたての中学生ですか」
保乃果と和彦の言い合いに千穂が混ざり、話は関係のない方向へどんどん脱線していく。
ああでもないこうでもないと議論を続けた結果。
「呼び方は保留にしよう。そのうちあーちゃんにでも決めてもらおうかな」
予想もしない結論に至った。
「え、茜にも何か関係があるんですか?」
和彦の隣に移動していた千穂は、カレンダーの裏に書かれた候補から目を離して、保乃果に問いかけた。
「あるよー。あーちゃんには、ちょーっと大事な用を頼みたくってね」
保乃果はスカートのポケットからスマホを取り出すと、千穂に微笑んだ。
「千穂ちゃん。あーちゃんの連絡先、教えてもらえる?」
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