第1話 住宅街の喫茶店

「終わったぁ、帰ろー」


 四限目の講義が終了し、新鍋にいなべあかねは思い切り伸びをした。リュックに荷物を片付けていると、ふいに隣に座る笹貫ささぬき千穂ちほが肩を突いた。


「ねえ茜さあ、ペチカプライムって喫茶店知ってる?」

「ぺちかぷらいむ? 聞いたことないかなあ」


 喫茶店の名前に心当たりはなく、茜は首を傾げた。


 時刻は午後四時を回っているが、窓の向こうはまだまだ明るい。


「あれ、意外。甘いもの好きなのに、ここのことはまだ知らないんだ」

「好きだからって、詳しくなるわけじゃないもん」


 雪崩るように学生が教室を出ていく様子を席に座って眺めながら、二人は話を続けていく。


「……どんなとこなの、そのお店。海外の有名なとことか?」

「おお~。興味がおありで?」


 そう言って千穂は茜の顔を覗き込んできた。ニヤついた顔で言われると何だか腹立たしい。


「別にそんなことなくは、ないけど。……そりゃ、気にならなくはないけどさ」


 茜が歯切れの悪い答えを返すと、千穂はぐいぐいと顔を近づけてきた。


「さすが食べ物の話に対する食いつきは違いますなあ」


 千穂の肩口の赤褐色せきかっしょくの毛先が蛍光灯に透け、ほんのりと赤くなる。


「う、うるさいーっ」


 近づいてくる顔を掌で押し返すと、茜はリュックに手を掛ける。


「もう帰るっ」

「え、ちょ、ちょっと待ってよ」


 何だか恥ずかしくなった茜は急に立ち上がると、足早に教室を後にした。


 すでに人気ひとけの少なくなった廊下を、茜は背中まで伸ばした黒髪を揺らして走っていく。今までは何ともなかったのに、なぜか今日は恥ずかしく感じたその言葉を打ち消すように、階段を踊り場まで一気に駆け下りる。


 スピードに乗ったまま最後の三段を勢いよく飛び下りると、着地の拍子に足を捻った。盛大にバランスを崩した茜は、真っ直ぐでつややかな髪を空に舞い上がらせながら、そのまま横向きに倒れ込んだ。蹲る小さな背中にワンテンポ遅れて、髪がふわりと覆い被さっていく。


「見た目も心も小学生か!」


 追いついてきた千穂が階段の上から叫んでいる。


「せめて高校生にしてください……」

「茜はいつまでたっても落ち着きがないんだから」


 心配とも呆れとも受け取れる声とともに、慌てて階段を下る足音が近づいてきた。


「ったく、大丈夫?」


 差し出された千穂の手を取って、そっと立ち上がる。


「……また転んじゃった」


 茜ははにかんで、服に着いた埃を払い落す。


「ま、あいだを取って中学生にしといてやる」

「ほんとは大学生なんだけどね」


 段差につまづいたり何かにぶつかったり、どこか危なっかしい茜。それに対して千穂の運動神経は並み以上にある。といっても、千穂の比較対象は小学生のころから一緒に進学してきていた茜が多かったため、運動神経が過剰に評価されている面も少なくは無い。


「やっぱり茜はいつまでたっても茜だわ」

「え、何が?」

「何でもないよ。それより、さ」


 今度は、ゆっくりと階段を下りていく。


「この後さ、ペチカプライム行かない?」

「その喫茶店ってこの近くなんだ」


 横を歩く千穂を見上げながら、茜は行くか行かないかの選択を迷っていた。


「そのはずだよ。うちも行ったことないからわかんないけど、そこは苺のクレープが有名みたいでさ、ふわふわのもちもちなんだとか」

「今、大分傾いてるよ」


 目を輝かせる茜に、千穂は追い打ちをかけるように言葉を紡いでいく。


「落ち着いた喫茶店の中で紅茶を飲みながら食べる焼きたてのクレープ。甘い生クリームがたっぷり詰まってて、赤くて大きい苺が丸ごと載っかってるんだよ」

「なんでそんなに詳しいの?」


 訝しげな顔をする茜に、人差し指だけを伸ばした右手を茜の目の前に突き出し、その手を左右に小刻みに動かした。


「ノンノン。ペチカプライムのすごいところはこれだけじゃないんだよ。詳しくレポートしてるブログ見つけてさ、テンション上がるわ~」


 折りたたんでいた中指を解放し、ブイサインを作る千穂。伸ばされた二本の指の間から覗くのは、相変わらず少年のようにはつらつとした表情だ。


「あんまりネットの情報に惑わされちゃだめだよ?」


 様々な情報をネットから引っ張ってくることの多い千穂を心配し、茜はそっと呟いた。

 しかし、その発言はいただけないと言いたげに、千穂はすかさず反論を返す。


「いやいや、何をおっしゃいますか。今の世の中、ちゃんと使えば頼りになるよー」

「そうやって自堕落になっていくんだよ、きっと」

「えぇ。……それはちょっと違うんじゃない?」

「わかんない」


 一階に着いた二人は出入口のドアに近づいていき、開いた手前の自動ドアを潜り抜けて風除室の中を進んでいく。奥の自動ドアが開くと、そこは今までの環境とは打って変わる。

 流れる風は熱を帯びていて、一日を通して刺すような陽光に熱せられたコンクリートは、夕方になっても熱気を湧き上がらせていた。加えて、弱くなったといえ西の空にはまだ太陽が昇っている。


「うへえ、これは暑すぎるわ」

「こんがりトーストの気分だよ……」

「こんなときは、さっさとバスに避難だな」

「だね」


 二人は夏のしぶとい夕陽を背に、バス停へ向かった。




 ここは北を向いても南を向いても左が東で右が西の、三方を山に囲まれた盆地だ。夏はとびきり暑いし、冬はとびきり寒い。


「やっぱりバスの中は快適だね」

「温度だけはね、温度だけは」


 猛スピードで揺さぶられるバスの車内は、お世辞にも快適とは言い難い。信号が黄色くなれば加速するし、間に合わなければ横断歩道を越えた交差点内で停車する。市内の道路には路駐が目立ち、それを避けるためにもまた車内は荒れ模様なのだ。


「市バスの運転手さんは、ほんとに上手くないとなれないよね」

「運転が上手いからこそならいいんだけど。あ、次の停留所で降りるよ」


 次の停留所が読み上げられ、千穂は降車ボタンを押す。効果音とともに一斉に車内のボタンが赤く光り、音声案内が注意を読み上げだした。


「はーい」


 茜は返事をして立ち上がろうとする。


「――車内事故防止のため、扉が開くまでその場でお待ちください」

「機械の人に怒られちゃった」


 やがてバスはゆっくりと停留所に近づいて停車する。運転手に桃色の定期券を見せて降車すると、二人は左方向へ歩き出した。


「優しく停まってくれたね」


 横断歩道を渡りながら、茜は千穂に話しかける。


「茜が子供にでも見えたんじゃない?」

「子供じゃないもん! ……いや、子供ではあるけどさ」


 茜の膨らんだ頬を指先で押しながら、千穂は楽しそうに笑う。


「そういうところがお子ちゃまなんですよ。あ、そこの路地に入るね」

「もう知らないもん」


 大通りから逸れて入った先の細い路地は、普通の住宅街だった。


「こんなところに喫茶店あるの?」

「まあうちに着いてきなって」


 スマホを確認しながら進む千穂に並んで、茜はまだ沈まない日に向かって歩いていく。


「あ、一本間違えちゃった」


 十字路を左に曲がってそのすぐ先を右に曲がって、再び西へ進み出した。


「この辺のはずなんだけど……」


 左右を確認しながら路地を進んでいく。

 交差点を通過しようとしたとき、目的の建物は現れた。


 角にある白い建物の前に、チョークでメニューが書かれた立て看板が置かれている。建物が光を遮り、文字を読むには光度が足りなかった。


「あ、上見て」


 木製のドアの横には、金属の看板が取り付けられている。王冠を被った苺の模様の下には、『PECHKA PRIME』という文字が刻まれていた。


「ほんとに着いたんだ」

「だから言ったじゃん。さ、中に入ろ」


 千穂は取っ手に触れて感触を確かめ、そっと掴んでゆっくりと引っ張った。焦げ茶色のドアが重みのある動きで開いていくにつれ、店内からコーヒーの香りが漏れ出してくる。

 やがて蝶番ちょうつがいが小さく軋むと、上部に取り付けられた鐘がカランと小気味良い音を響かせた。


「いらっしゃいませー」


 店内の床はドアと同じ焦げ茶色のフローリングで、白で統一された壁紙は落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 鐘の音を聞いて、左奥のカウンターから女性の店員が小走りで近づいてくる。


 二人の背後でドアが閉まると、何かが茜の足元に転がってきた。


「リース……?」


 足元の円形状のものを拾い上げると、それはクリスマスなどで飾ることの多い緑色のリースだった。円の中にはサンタクロースではなく、白い苺の載ったクレープの模型のようなものが収まっている。


「お客様、二名様でよろしいでしょうか」


 その声で顔を上げると、先ほどの店員が目の前にまで来ていた。白いシャツの上に淡い桃色のエプロンを付け、茶色いロングスカート姿の制服に、茜たちは思わず見とれてしまう。


「……お客様?」

「あ、はい」


 その制服を着ているのも、茜たちと同じか少し上くらいの年齢の若い女性で、深めの茶色い髪を頭の後ろで一つに括っている。


「それでは、お好きな席にお座り――」


 茜がリースを抱えたまま千穂の後ろから身を乗り出すと、店員の女性は右、左と指していた手をぴたりと止めた。


「ええっと、すみませんでした。お席へご案内いたします。こちらへどうぞ」


 にこっと笑って、店の奥へと伸びる通路を歩き出した。彼女に続いて、二人はゆったりとした通路を進んでいく。


 歩きながら店内を見回すと、通路の左側にテーブルが四つあり、そのうちの一席に二人組の男性客が座っている。右側の壁沿いにあるテーブルには誰もおらず、連れてこられたカウンター席にも客の姿はどこにもなかった。


「こちらのお席にどうぞ」


 カウンターには椅子が四つ並んでいたので、茜たちはとりあえず奥の二つの席に腰かけた。


「こちらがメニューになります。お冷をお持ちしますので、少々お待ちください」

「あの、これ。ドアのところに落ちてました」


 茜はリースを店員に手渡した。


「ありがとうございます。また後で直しておきますね」


 店員が冊子になっているメニューを置いて立ち去ると、茜は興奮気味に話し出した。


「このお店の制服可愛いね! それに、あのお姉さんも可愛いし」

「そうだね。まあうちには似合わないけど、茜なら案外いけるんじゃない?」


 その言葉を聞いて、茜は立ち上がってその場でくるりと回ってみた。


「ほんとに似合うかなあ」

「まあ、茜だと胸元に付いてたリボンのサイズ感がおかしくなりそうだけどね」

「また千穂はそういうこと言うっ」


 茜が後ろから千穂の背中を押していると、店員が氷水の入ったコップとおしぼりをお盆に載せて戻ってきて、茜は慌てて席に戻った。


「お待たせしました」


 それらをカウンターの上に置くと、さらに背中からもう一つ別のメニューを取り出して、少し声を小さくする。


「ただ今の時間ですと、こちらの特別メニューをご用意させていただくこともできますので、ぜひご検討くださいね」


 そう言って差し出されたメニューには、大学で千穂が話していたクレープが載っていた。


「これって限定メニューだったんだね」

「そんなはずはないんだけど……」


 二人が顔を見合わせていると、店員はお盆を縦に持ち直す。


「ぜひ通常メニューと見比べてみてください。それでは、ご注文がお決まりになりましたらまたお声かけください」


 そう言い残して、店員はカウンターを離れていった。


「何が違うんだろ」


 千穂は店員が先に持ってきた冊子状の通常メニューを手にして、次々とページをめくっていく。茜は横からメニューを覗き込みながら、美味しそうな写真に一喜し、それが隠れて一憂する。そして、また新しいページの写真を見ては一喜一憂していく。


「茜、うるさい」

「えっ、ごめん」


 千穂にページめくるたびにいちいち反応しなくていいと言われ、茜は後から追加された方の特別メニューに目を落とす。


「何が特別なのかなあ」


 ラミネート加工された紙の表面には、桃色の円錐型の紙に刺さっているクレープの写真が掲載されている。黄色い生地からは生クリームがはみ出し、その上にはスライスされた淡い桃色の苺が丸ごと一つ分載っかっていた。


「苺が赤くない……」


 メニューを裏返すと、そこには何も印刷されていなかった。


「それだ!」

「どれ?」

「白とか赤とか、これだよ」


 千穂が指でトントンと叩いている場所を見ると、通常メニューのそのページには苺の色以外まったく同じ写真が載っていた。


きたてのふんわりクレープ ~赤い苺をえて~ って書いてある。そっちは?」


 茜は手元のメニューに視線を戻す。


きたてのふんわりクレープ ~白い苺をえて~ だって」

「色違いってだけか、特別なのは」


 机に置かれた冊子のメニューを掴んで真ん中に寄せ、その横に特別メニューの紙を並べてみる。


「両方頼んだら、特別さが際立つかもよ」

「茜、どっちがいい?」

「私は普通の赤いのでいいかな。千穂が白い方頼んじゃいなよ」


 千穂は目を丸くして茜の方を向いた。私はいいから、と茜は両手を振る。


「じゃあ、そうさせてもらおうかなあ。ありがと」


 そう言って、千穂は後ろに振り返る。茜も一緒に後ろを振り向いて店内を見回すが、どこにも店員の姿はなく、隅に座っていた二人組と目が合ってしまった。


 仕方なく千穂は手を上げて、声を出して店員を呼んだ。


「すみませーん」

「はーい」


 しばらくして、カウンター横の通路から先ほどの女性店員が現れた。


「すみません、お待たせしました。何になさいますか?」

「えーっと、焼きたてのふんわりクレープの赤と白を一つずつください」


 店員は注文をメモに書き留めていく。


「お飲み物はいかがなさいますか」

「あ、考えてなかったや。もう紅茶でいっか」


 千穂からの問いかけに、うん、と茜は笑顔で頷いた。


「じゃあ、アイスティーのミルクとレモンをお願いします」

「かしこまりました」


 続けて注文を繰り返すと、店員は準備のために再び店の奥へと消えていった。




 十数分後、店員は手にクレープを持って戻ってきた。


「お待たせいたしました。焼きたてのふんわりクレープでございます」


 どうぞ、と渡された桃色の紙に包まれた焼きたてのクレープは、生地と生地の間にたっぷりの生クリームが詰まっており、確かな重みがある。さらにクリームの上には、スライスされた生の苺と冷凍の苺ダイスがばら撒かれていて、網目状にかけられたチョコレートソースは生地の熱で溶けだしていた。


「見て見て、カスタードクリームもかかってるよ!」


 わあ、と破顔した茜の姿は、中学生だと言われても受け入れてしまいそうだ。


 嬉しそうにクレープを食べる茜に、思わず千穂の頬も上がっていく。

 千穂は鞄からスマホを取り出すと、自分のクレープの写真を何枚か撮っていく。そして、素早くカメラを茜の方に向け、シャッターボタンを押し続けた。


「もう、食べてるとこ撮らないでよー」


 茜は空いている方の手を前に出して、カメラを遮った。

 遮る手を掻い潜って、千穂はレンズを茜に向ける。


「そんなの効かない効かない」

「お客様、ちょっといいですか」

「あ、すみません」


 いつの間にか、カウンターの向こう側に店員が回り込んでいた。千穂は内容を聞く前に謝罪の言葉を口にする。


「あ、いえ、写真に関しては構わないのですが、少しご相談がございます」

「何、ですか?」


 トーンを落とした声で話す店員に、二人は警戒心を強めていく。


「当店では、限定メニュー――白い苺を添えたクレープをお召し上がりになった方に対しまして、ちょっと不思議なサービスを行わさせていただいております」

「そうなんですか?」

「……それはと言いますと」


 店員はそこで言葉を一度切り、カウンターから身を乗り出して小声で囁いた。


「これから過ごす三日間、理想のものにしてみませんか?」

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