21 家政婦・黛雛


「なー!」


 尻尾を大きく振り立ててナナナは声を荒らげた。


「桜ちゃん、今のはさすがにダメな。好きも嫌いもコミュニケーションな。でも桜ちゃん、暴力だけは絶対だめな。絶対な」

「ケガはさせてないでしょ」

「それはたまたまな。今のは下手すれば伊佐奈ちゃん大怪我してたな。伊佐奈ちゃんは桜ちゃんみたいに身体強くないな。そこのところちゃんと分かってるな?」

「分かってるわよ。あいつらはこの程度の高さから落ちただけでケガをする。同じ人という生き物であっても、私とあいつらとでは格が違う。だからこそ、関わり合わないのがお互いのためってもんでしょ」

「なー……! 桜ちゃん、そういう考え方は……!」


 かっと目を見開き、怒気を滲ませていたのも束の間、ナナナはころりとまた締まりのない表情に戻る。


「まあでもナナナ、その辺は心配してないな」

「は?」

「この間の桜ちゃんと一緒に居た先輩、すっごく幸せそうだったな。先輩と一緒に居た桜ちゃんも、ツンツンしてたけど幸せそうだったな。だから大丈夫な」

「ちょっと待って、何の話よ」

「愛の話な」

「愛……?」


 意味が分からない。

 ナナナは桜の目線に合わせてしゃがみ、ゆっくりと語りかける。


「ナナナが言いたいことは一つ、暴力ダメな。暴力は痛くて悲しいだけな。暴力を振るわれた子、そして暴力を振るった子もみんなみんな悲しいな。だからもうさっきみたいなことはしないって、ナナナと約束してな」

「……わかった。でも、変に絡んで来る奴がいたらこれまで通りケガしない程度で軽く突き飛ばす。それくらいはいいでしょ」

「なー。ほんとはみんなと仲良くしてほしいけどなー」

「それは無理な話ね」


 開いた窓からはゆるやかな風が吹きつける。

 外から聞こえていた伊佐奈の泣き声は気付けば収まっていた。

 まだ雛が迎えに来る時間ではないが、やはり今日はこれでお開きにしよう。


「芳野、もう仕事に戻ってくれていいわよ」

「桜ちゃん、せっかくだから一つ訊いてもいいな?」


 何がせっかくなのか分からないが、ナナナは桜の返答を待たずに続けた。


「桜ちゃんは何をそんなに急いでるな?」

「……何の話?」


 真っ直ぐに、ぱっちりと開いたナナナの目が桜に向いている。

 おふざけ色のない、真摯な眼差し。


「桜ちゃん、毎日体力も霊力も限界まで使って修行してるってナナナ、先輩から話聞いてるな。先輩の注意も無視して倒れるまで鍛錬を続けるって。だから先輩、桜ちゃんを無理矢理にでも休ませるために予定より一年早く保育園に入れたな」


 予定より一年早いというのは初耳だが、休息が目的の一つだということはあらかじめ雛から聞かされている。

 少し前まで雛も修行に前向きだったのだが、ここ最近はどうにも抑え気味だ。


「桜ちゃん、保育園に居る時もずっと霊術の調整してるな。桜ちゃんのその何か焦ってるようなところ、ナナナ少し心配な。何か理由があるな? 先輩に話せないことならナナナに話してな。ナナナ、秘密守るな。ナナナ、桜ちゃんの力になるな」


 ナナナは力強く頷いた。


「……別に、理由なんてない。何もおかしいことじゃないでしょ。強くなろうとすること、成長を求めること、生き物として当然の欲求でしょ」

「と……当然じゃないな! おかしいな! やっぱり桜ちゃん修行のしすぎでちょっとおかしくなってるな! 桜ちゃんはもう毎日保育園来たほうがいいな!」

「おかしくないし、こんなところに毎日来たほうが頭おかしくなるわ」

「ならないなー。絶対毎日楽しい……なっ!」


 ナナナが声を上げ、獣耳がピンと立つ。


「ヤバイな! 先輩帰ってきたな!」


 ナナナの尻尾が異常なほどにそわそわと動いている。

 桜も感覚を強化し周囲を探るも気配は感じ取れない。

 だがナナナの反応は真剣そのものだ。


「桜ちゃん、ナナナはここらで失礼するな。ともかく、友達ができれば保育園絶対楽しくなるな。ずっとこんなところで引きこもってちゃだめな。まず伊佐奈ちゃんと仲良くしてみるな」


 バイバイなとナナナが桜の開けた窓から飛びだそうとした次の瞬間、室内に突風が吹き荒れた。


「あらあらあら。どこへ行かれるのですか、芳野先生」

「なな――!!」


 気付くと桜達の前には強風を纏う黒髪の少女が居た。

 少女は黒スカートに華やかな花柄の和風メイド服を着こなし、顔には桜の花びらの紋様が入った赤い仮面をつけている。

 雛だ。


 風が止み、静けさが室内を包む。

 ナナナはあわあわした目で桜と雛を交互に見やったあと、しゅんと獣耳を垂らし、もじもじと両指をからませる。


「先輩、その……桜ちゃんに気付かれちゃったな……。ごめんなさいな」

「先輩じゃない」

「なゃふ」


 ナナナの両頬が雛の手でむにっと引っ張られる。


「ひ、雛様な?」

「雛様でもない」

「な……なんな?」


 雛はナナナから一歩後ろに下がると、ひらりと両手でスカートの裾を軽く持ち、しとやかにお辞儀をした。


「こんにちは、芳野先生。お預かりいただいてる桜を迎えに参りましたわ」


 やや遅れてその意味に気付いたのか、ナナナは慌てふためきながらぺこりと頭を下げた。


「お、お待ちしてましたなっ! 家政婦のまゆずみひなさん!」


 黛雛という名前は雛が外で使う偽名の一つだ。

 名字を変えただけの正体を隠す気があるのかよくわからない偽名。


 雛は保育園への送り迎えをする時は桜の義姉としてではなく、偽名を使い、仮面をつけ、そして何故か和風のメイド服を着て家政婦として振る舞う。

 最初は何故そんなことをするのか分からなかったが、保育園に一ヶ月ほど通い桜にもその意味がおおよそ理解できるようになった。


 雛は艶やかな黒髪をかき上げ、貫禄に満ちた腕組みをする。


「私を謀ろうなんてナナナ、あなたとても良い度胸してるわね」

「うぅぅ……ごめんなさいな……」


 すでにナナナが桜に正体を見破られ、それを隠そうとしていたことまでばれている。

 やはりこんな雑なやり方で雛に隠し事をしようというのは元々無理があったか。


「でも先輩……ナナナ、もっと先生でいたかったのな……。だから……だからっ……う、なぁぁぁぁぁぁっ!」


 ついにはナナナは泣き出してしまった。

 恥も外聞もなく、なーなーと泣くナナナを見て、雛は溜め息をつく。そして少しばかり声を和らげて言った。


「あなたを選んだ時点で桜に気付かれることは折り込み済みよ。だから最初に話した期間まで保育士の仕事は続けてくれていいわ」


 それを聞いたナナナは、


「なんな、そういうことなら最初から言っといてな。びくびくして損したな」


 一瞬で泣き止んだ。

 それどころか、もうすでにやれやれといった具合で肩をすくめている。

 なんという変わりようの早さ。


 わなわなと握りしめた拳を振るわせていた雛は再度ナナナの頬を掴み取る。


「気付かれないに超したことはなかったのよ。そんなことも分からないのかしら、このスカスカ頭は……!」

「ななな――っ! ご、ごめんなさいなっ! 反省な! 反省してますなー!」


 頬を思いっきり抓られるナナナの情けない悲鳴が木霊した。

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