18 警戒の街
雛がマンションの鍵と一緒に学生鞄のポケットに入れてくれていた気の利いたもの。
それはキャッシュカードだ。
五歳の頃に桜は雛と契約を結び、様々な物を買い取ってもらい貯金をしていた。
そのお金を引き出すための口座とカードは契約終了時に用意する、ということが雛に渡された契約書に書かれていた。
雛はちゃんとそれを守ってくれたようだ。
暗証番号も契約書通り桜の誕生日となっていて、無事ATMから一万円を出金することができた。
桜は明細書を手に取り、そこに書かれた残高を渋い顔をして見る。
新しい生活を始めるにあたって諸々出費がかさむだろう。できる限り早く稼ぎ口を見つけたいものだが。
(ま、その前にまず明日が訪れるかどうかか)
そんな平静な思考をよそに、店内を漂う唐揚げや肉まんなどのホットスナックの匂いがいやおうなく桜の空腹を刺激する。
〈未来視〉をもう一度視るために眠りについたのが十一時半頃で、目を覚ましたのがおそらく十七時半頃。
眠気はなかったはずなのだが六時間近くも眠っていたようだ。だがカルナ曰くこれでも短く済んだほうらしい。
そもそも〈未来視〉の確認が短時間で済むのならカルナも最初にやらせていただろう。
所要時間が長時間かつ不確定。
詩織も言っていたが、何度も行えないからこそ慎重に使い時を見極めなければならなかったのだ。
カルナと話し合いを終え、学校を出て現在時刻は十八時四十分。
先ほどまで話の内容が内容だったためどうにか堪えていたが、昼ご飯を抜いた桜の身体はさすがにもう限界だと空腹を訴えている。
桜は匂いから意識を逸らしつつ、雑誌コーナーを抜けて、学生鞄を携えた翡翠髪の少女が居るドリンクコーナーへと向かう。
冷蔵ショーケース前で詩織はじっとガラスドアを眺めたまま立ち止まっていた。
表情は変わらず曇ったまま。
傍に来た桜にも気付かない。
ここに来れば少しは元気になってくれるかもと期待していたのだが。
(それにしても……やっぱり見られてるな)
さっと振り返る。
すると明らかな動揺を見せて向けられていた視線が散っていく。
視線は複数。客だけではなく店員までもが桜と詩織のことをこそこそと見ていた。
店内に入ってから別段目立つようなことも不審な行動もしていない。
詩織もまだ桜のことを様付けで呼んでおらず、二人とも目立つ格好でもない。どこにでもいる女学生だ。
昨日の夜と今朝も、このような意図の掴めない視線が度々向けられてきた。
こうして視線が向けられるのは、何か目立つこと不審なことをしているとかではなく、もっと別の理由からなのかもしれない。
そう考えながら、桜は視線を向けてきた者達をそれぞれ観察していく。
そしてすんなりと彼らの表情で視線の意味合いを理解した。
「なるほどね」
「桜様っ」
ようやく詩織が桜に気付いた。
桜は詩織に小さく笑いかける。
「欲しいものは決まった?」
「……すみません。いろんなものがあって何を選んでいいものか。できれば桜様と同じものをいただきたいのですが」
「分かった。じゃあ先に二階の席で待ってて」
「そんなっ、桜様にご負担をおかけするわけには」
ご馳走していただくのですからせめて荷物だけでもと詩織は食い下がったが、席取りも大事だからと言いくるめて詩織を二階に向かわせた。
会計を済ませる。
昨日、詩織に晩ご飯をおごってもらったので、今回は桜が支払いを持った。
(しかしまあ、買った後になんだけど礼家のお嬢様にコンビニのご飯は口に合うのかな。私は好きなんだけど)
詩織が待つ二階へ向かう。
ここのコンビニは二階にイートインスペースが設けられていて、店で購入した物を席で食べることができる。
イートインスペースは一階と変わらずコンビニの有線放送が流れてはいるものの、ブラウン系を基調にした内装、各テーブルに暖色系のペンダントライトが配置された洒落た空間となっていた。
警報による影響か、思っていた以上に席は空いている。
窓際の席で詩織は待っていた。
対面の席に座り、浮かない顔をした詩織に問いかける。
「面白くなかった?」
「えっ」
「コンビニ、入るの初めてだったんでしょ。もうちょっと驚いたりするかなって思ってたんだけど」
「……昨日、桜様を探すために、コンビニ、の中には一度入りました」
「そっか。じゃあそこまで驚きとかもないわけか」
「いえ、あの時は中を見る余裕がなかったので……。そうですね、驚きました。桜様が仰っていた通り、コンビニにはいろんなたくさんの物が売っている凄いお店でした。ただ、今は……」
「そうね。はしゃげるような気分でもないか」
詩織と会話を交わしつつ、桜はまたちらちらと周囲から向けられる視線を感じ取っていた。
この視線も先ほどと同じ意味合いのものだ。
視線が向けられる原因は詩織だった。
詩織は気付くと気配がなくなっているということが多々あり、桜の中で詩織は目立たない女の子という印象が強かったのだが、周りから見るとそうではないらしい。
どうにも詩織は何もしなくても注目を集めてしまう、とても目立つ女の子であるようだ。
その理由は至って単純で、詩織が美少女と形容することに何の躊躇いも必要がないほどに美少女そのものだからだ。
ずっと雛と一緒に暮らしてきたため美人慣れしているせいかあまり意識していなかったが、わざわざ見直すまでもなく詩織は美人さんだ。
それこそ通りすがりの人を立ち止まらせ、振り返らせるほどに。
こうして大人しいと尚のことその美人度合いに拍車がかかっているように感じる。
昨日から度々向けられてきた視線は全て詩織の美貌に惹かれてのものだった。
そしてその美人な詩織を連れ歩いている自分にも自然と視線が集まるのだと桜は納得したのだった。
視線の意味合いが分かるとそれはもう鬱陶しいものでしかない。
桜はじろりと周りに睨みをきかせた。
視線が散り散りになっていくのを確認し、桜は机に購入した商品を振り分けていく。
バラエティ豊かなおにぎりにホットスナックの数々、飲み物にデザート。
詩織の要望通り桜と同じものが詩織の方にも並ぶ。
量は多めだ。
朝食の食べ具合からしておそらく詩織は食べきれないだろう。だが残った分は全部食べきる自信があるので問題はない。
二人できっちりといただきますをする。
慣れない手つきでペットボトルのキャップを開ける詩織を微笑ましく見守ったあと、桜はコンビニおにぎりの開け方をレクチャーした。
おにぎりを次々と口に運びながら、桜はガラス窓から夕暮れに赤く染まった街を眺める。
よく晴れた夕暮れの鮮やかな空を背景に、洗練されたデザインの建物が並び立つ
街は、物々しい雰囲気に包まれていた。
今朝降り立った街とは思えないほどに今は人の行き来が少ない。その代わりとして警官や保安隊があちこちで巡視を行っている。
現在、神都府全体に警報が出ている。
警報が出されたのは午後零時。
警報内容は
神都府内に仕掛けられた、強制的に意識を奪う広域魔術への警戒というもの。
警報が解除されるまでは屋内での待機を強く推奨されている。
この警報により電車や飛空船などの交通機関は一律運航停止。街を走る車は徐行運転でのみ、飛行術もできる限り使用を控えるようにと通知されているそうだ。
魔術を仕掛けたとされているのは昨夜、神都平日神宮祭祀場を襲撃し、桜と詩織に打ち倒された〈
何でも昨夜桜達が立ち去った後、仲間と思われる者が一人現れ、アベル達を回収し逃げられてしまったとのこと。
アベル達は現在も逃亡中であるらしい。
アベル達を取り逃してしまったこと。カルナの謝罪したいことというのはこれだったようで、話を聞いている時にそれはもう何度も謝られた。
彼らが襲撃前に神都府各地に仕掛けていたとされる術印が今朝方複数発見された。
それらの術印はどれも空間を媒体としていて物理的な破壊はできない。
解除にどれだけ時間がかかるか分からず、それでいて術の内容も広範囲に意識を奪うという危険性の高いもの。
昨夜逃亡したアベル達がいつそれらを発動するかも分からないということから緊急事態として警報が発令された――――と、世間ではそういうことになっているが、事実は少し違う。
発見された術印は亡化の仮面と同じく形式不明な術式が使われていて解析は全くといっていいほど進んでいないそうだ。
つまり、術印にどのような力が込められているのか分かっていない。
だが術印の起動にはとてつもなく莫大な魔力が必要となることは判明していて、少なくとも現時点で緊急を要するほどの危険性はないと見ている。
不明の魔術印。
それをあえて強制的に意識を奪う広域魔術として発表されたのは、この警報は雛が〈月〉出現時の人的被害を抑えるために出した対策の一つだからだ。
偽りの魔障警報を発令する。雛――神衛隊は、警察だけでなく政府を動かすほどの強い権限、影響力を持っているようだ。
今のところ実害は出ていないが、魔障警報はつい昨夜神宮での襲撃があったこともあり、多くの人は事態を深刻なものとして受けとったようだ。
こうして実際に世編の街からあの賑やかな往来がなくなっていることからもそれはうかがえる。
(……そう。警戒するに越したことはない。もしも本当に〈月〉が雛の推測通りの力を持っているのなら)
今夜、偽りの〈月〉が出現する。
その〈月〉を出現させ、さらに桜を殺す謎の女生徒は桜の幼なじみ、諫早伊佐奈だった。
そして女生徒と接触した神衛隊というのは、伊佐奈を追っていたカルナの同僚・ナナだと知らされた。
カルナの同僚・ナナは異世界層にて伊佐奈と戦闘を行い敗北。
こちら側で意識不明の状態で見つかったが、霊術で情報を残してくれていた。
伊佐奈との会話、戦闘時の情報。
それらの情報のおかげで謎の女生徒が伊佐奈であることが分かった。
カルナが言っていた女生徒に今は手を出すことができないというのは、伊佐奈が異世界層に居るからだ。
入り口は向こう側から閉じられている。
異世界層へ干渉する能力は伊佐奈の能力以外にない。
だから伊佐奈がこちら側で〈月〉を出現させるその時を待つしかないということだった。
伊沙奈が予告した〈月〉の出現時刻は今夜の二十時。
予告時間に必ず現れるという保証はなく、こうして食事をしているこの瞬間にも出現する可能性は当然あるのだが、その時はその時だ。
〈未来視〉確認前にカルナが伊佐奈のことを話さなかったのは、伊佐奈のことを知って〈未来視〉の確認を行わずに桜が動くことを懸念したから。
雛達にとってあのタイミングでの〈未来視〉確認は絶対だったそうだ。
そして伊佐奈に何が起きたのか。
カルナは約束通り全部話してくれた。
(……伊佐奈)
ペットボトルを掴み取り、ごくごくとお茶を喉に流し込む。
「桜様は……」
「ん?」
黙々とおにぎりを食べていた詩織が遠慮がちに声をかけてきた。
「桜様は、随分と落ち着いていられますね」
「まあね」
「伊佐奈さんのこと、心配ではないのですか?」
「んー……。そうね」
心配していないというよりも、これはまあ慣れだ。
「伊佐奈はね、トラブル体質と言うのか、今回みたいに厄介事に巻き込まれることは割とあるのよ。さすがに今回までの規模は初めてだけど」
桜はチーズ入り唐揚げをつまみつつ話を続ける。
「それで伊佐奈はその厄介事の最中に死にかけたりすることもよくあって。でも伊佐奈はそれを全部危機一髪ってところで潜り抜けるのよ。私もあいつが本当に死んだと思ったことが二度三度あった。でもあいつは生きてた。禍福は糾える縄の如し。不運を引きつけた時のあいつはもの凄く強運でもあるのよ。だから今回もって、何の根拠もなく考えてるのかな」
デザート以外を一通り食べ終え、一息つく。
「そうだ。詩織、携帯貸して」
桜は詩織から携帯を受け取る。
そして学生鞄のポケットから、先ほどカルナから貰ったものを取り出す。
「その小さなものは何ですか?」
「メモリーカード。この中にカルナが用意してくれた写真が入ってるの」
「写真が、その小さな容れ物の中に……!? わっ、わっ!」
携帯にメモリーカードを差し込む動作を見て、気落ち気味だった詩織の表情が少し明るくなった。
何やら凄いものを見たといった感じの顔をしている。
メモリーカードの中身は学生証に使われた鴉摩高校全校生徒の顔写真。
〈未来視〉が本物かどうか確かめるためにカルナが用意してくれたものだ。
「これで今の伊佐奈を確認しておこうと思ってね」
クラスごとにファイル分けがされている。写真も出席番号順に並んでいて、すぐに伊佐奈の写真を見つけた。
「……!」
桜は十五歳になった伊佐奈の写真をじっと見つめる。
謎の女生徒の正体である伊佐奈。だが特に神核が反応を示すというようなこともない。写真を見ても意味がないのか、それとも。
「伊佐奈さんの写真ですか。桜様、私も確認しておきたいです」
詩織に携帯を渡す。
渡した途端、詩織の表情がまた一段と沈んだものになった。
どうしたんだ。
「……綺麗な方、ですね」
「そうね。正直見違えたわ。あの泣き虫伊佐奈が、見た目だけはしっかり成長したみたい」
中身まで成長しているかは分からないが。
「泣き虫、ですか」
「よく泣くのよあいつ。まあ、主に泣かせてたのは私なんだけど」
「……伊佐奈さんは、どのような方なのですか」
「何? 急に」
「桜様の唯一のご友人である伊佐奈さん。是非どのような方なのか知っておきたいです」
「唯一はつけなくていいって」
「伊佐奈さん以外にもご友人がいらっしゃるのですか」
「いや……まあ実際、あいつ以外に友達と呼べるような奴はいないんだけど」
「そうですか」
詩織はほっとしたように目元を緩めた。
何故だ。
「伊佐奈のことだけど、何も今知る必要はないんじゃ」
「いえ。できることなら今、伊佐奈さんのことを知っておきたいです」
桜は考える。
おそらく伊佐奈との戦闘は避けられない。
もしもの時を考えるなら、詩織は伊佐奈のことを知らないままでいる方がいい気がする。
(だけど……)
桜が二度目の〈未来視〉で視た情報はすでに詩織にも伝えている。
〈未来視〉において詩織もまた桜と一緒に死を迎えたということも。
それを知ってもなお詩織の意志は変わらず、未来を変えるため一緒に来てくれると言ってくれた。
力を貸してくれる詩織が伊佐奈のことを知っておきたいというのであれば、話すのが筋というものか。
上手く伝えられるかは分からないが。
「伊佐奈は……そうね、泣き虫でヘタレでちょっと中二病入ってるバカ、かな」
言ってから、詩織のきょとんとした目で気付く。
おそらく中二病という単語の意味が分かっていない。
だが説明はしない。別に知らないくていい言葉だ。
「まあ、でも良い奴よ。お人好しって言うのかな、少し頭お花畑なところもあるけど、それがあいつの良いところでもあると思う」
人の喜びを心から喜び、人の悲しみを心から悲しむ、純粋に真っ直ぐと、きらきらとした瞳で世界を見据える少女だった。
少なくとも三年前の伊佐奈は。
「桜様と伊佐奈さんはいつ頃ご友人の関係になられたのですか」
「詩織は保育園って知ってる?」
「はい。小学校に入る前の小さな子供が集まる場所ですね」
「集まるというか、預けられるかな。それで、その保育園に私も通わされてた。たしか四歳になった頃だったかな、雛が急に保育園に通えって言い出して。ずっと雛と二人だけの生活だったのが、突然良く分からない子供だらけの場所に放り込まれた。私、子供ってのが大の苦手で、保育園に通うのは週に二、三回だけだったけど苦痛でしかなかった。でも保育園に通わないと雛が修行つけてくれないって言うから仕方なく通ってた。子供が苦手な私は一人でいようとした。それでも子供ってのは好奇心のかたまりで、絢咲の名前もあってか何かと絡んでくる奴が多くて。だから私はそいつらを片っ端から軽く突き飛ばしたりして泣かせたわ。次第に私に近寄る奴は減っていった。でもたった一人、何度泣かされようとも私に絡んでくる奴がいた。それが、伊佐奈」
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