12 幼なじみ・諫早伊佐奈


 授業終了のチャイムが鳴り、桜は鞄を持って席から立ち上がる。


「あれ、もしかして桜ちゃんもう帰っちゃうの?」


 斜め後ろの席から笑いを含んだ女の声が飛んできた。


「登校初日から早退だなんて、相変わらず不良だねぇ」


 気後れすることなく桜にからかいの言葉を投げかける一人のクラスメイト。

 授業終盤にはほどほど弛んでいた教室内の空気がまた緊張をはらむ。

 桜は気にせず詩織の席に向かおうとして、


「伊佐奈ちゃんさ」


 その名前で足が止まる。


「伊佐奈ちゃん、入学式で桜ちゃんのこと知ってからは毎日、それはもう見ていて恥ずかしいくらいに心弾ませて学校に来てたよ。今日か今日かって、桜ちゃんが教室に現れるのを楽しみにしてた。だからって言うのもなんだけど、再会した時にはさ、こう、ギュッて抱きしめるくらいしてあげてもいいと思うんだよね。伊佐奈ちゃん、きっと喜ぶと思うよ」


 女は澄まし顔で言い切ったあと、ぷっと吹きだし、くつくつと腹を抱えて笑った。


 扉側の一番後ろの席。

 そこが今日この学校に転入してきた詩織の席だ。

 そして一時間目の授業・数学に敗北した詩織の姿がそこにはあった。


「大丈夫か、詩織」

「……はい、だいじょうぶ、です」


 ぐったりと机に突っ伏していた詩織がのっそりと顔を上げる。

 ずいぶんと参っているようだ。


「少し、勉学というものを甘くみていたようです……。ここまで、難解なものだとは……」


 授業中、何度か気になって詩織に目を向けたが、授業についていけず常にあたふたしている様子だった。

 やはりというべきか、学校に行ったことがないというのはそのまま、学校での勉強にも全く触れたことがないということのようだ。

 本当にこの子はどういう環境で二十年生きてきたのだろう。


 桜は詩織の頭に手をのせ、そして優しくその滑らかな髪を撫でる。


「よしよし。分からなかったところは今度私が教えてあげるから」

「桜様ぁ」


 詩織の翡翠色の澄んだ瞳がまた焦点の遠いうっとりとしたものに変わる。


(なんだか、妹ができたみたいだな)


 そう心に浮かんで、はっとする。

 これだと桜は思った。

 ぴったりとピースが当てはまったような感覚。

 詩織に対して抱いている感情が何なのか、ずっと上手く言葉にできなかったが、まさにこれだ。

 妹。

 詩織を妹のように思っている。感じている。

 だから少し無茶なことを言ってもこちらが折れてあげたくなる。優しくしてあげたくなる。

 もしも自分に妹がいたらこんな風に接していたのかもしれない。


 気付けばわーきゃーと周囲が騒がしい。

 振り向くと、先ほどまで静まり返っていたクラスのほぼ全員が色めき立って桜達の方を見ていて――――桜は凍りつく。

 こんな人前でいったい何をやっているんだ。


「……詩織、行くわよ」

「は、はい!」


 詩織は急いで筆記具や教科書を鞄に直していく。


 何やら教室の外も騒がしい。

 熱のある少女たちの声とそれらを制止しようとする教師の声が飛び交っている。


 初級者学校にわざわざ入学してきた変わり者の礼家。物珍しく見られるのは仕方がないのだろうけれど、やはり気分は良くない。

 とりあえずこのまま廊下に出ると面倒なことになりそうだ。

 窓から外へ出るとしよう。


 用意を終えて詩織は立ち上がると隣の席の生徒にお礼を言った。

 授業中、詩織の面倒を見てくれていた子だ。見た感じとても大人しそうな顔つきの少女。

 桜もその生徒に軽く会釈をし、教室を出た。


 窓から飛び出して空を数度蹴り、誰も居ない屋上へ降り立つ。

 ひとまず、わざわざ追ってくるような奴はいないようで安心する。


「そうだ詩織、これ」


 そっと桜が投げ渡したそれを詩織は不器用な手つきでどうにかキャッチする。

 カルナからもらった詩織のデバイスだ。授業前に詩織が手放したのを手にしてそのまま返すのを忘れていた。

 詩織はしばし手の中にあるデバイスを見つめ「そういえば」と口を開く。


「カルナさんの話がまだ途中でした。たしか、同僚のナナさんが探していた女の子が何かと言っていたところでデバイスを手放してしまって……。桜様はカルナさんの話をお聞きになられましたか?」


 そう聞かれて一応話しておいたほうがいいのかと少し考える。

 だがやはりカルナも言っていたがこの件は詩織に全く関係のない話だ。


「ええ、聞いたわ。でも大した話じゃなかった。〈らい〉にも関係のないことだし、詩織は気にしなくていいわ」


 そう言ったものの、詩織は口許に手を当てて考えはじめる。

 まあそれもそうだ。気にしなくていいと言われれば逆に気になるもの。

 何か別の話題に切り替えようとしたところで、詩織が神妙な面持ちで口を開く。


「もしかして……ナナさんが探していた女の子というのは、いさはやさん、ですか?」

「あれ……? 何で、のこと」

「……そういうことでしたか」


 詩織から伊佐奈の名前が出てくるとは思いもしなかったため桜は面食らう。


「では、桜様が突然授業を受けると仰ったのは、伊佐奈さんの…………えっ?」

「うん。伊佐奈のこと、クラスの奴に話を訊けたらって思って。学校に来てないってことはカルナから聞いていたんだけど」

「……伊佐奈さんは、この学校の生徒、なのですか」


 詩織はかろうじて絞り出したかのような声で訊いた。顔も俯き気味で、その表情にも陰りが差している。

 急にどうしたんだ。


「そうよ。加えてクラスも一緒。ほら、私の後ろの席、空いてたでしょ。あれが伊佐奈の席」

「……それは、すごい偶然ですね」

「んなわけないでしょ。単に雛が伊佐奈の居る学校に私を入学させたってだけの話よ」

「雛様が……」

「まあでも、カルナから伊佐奈のことを聞いた時はさすがに驚いたわ。きたもりに居るはずのあいつがしんに来てるなんて思いもしなかったから」


 いさはやは桜が幼少の頃から付き合いのある女の子だ。

 北守のぐれで母親と一緒に暮らしていたはずだが、授業中クラスメイトから聞いた話によると、今はあみの学生マンションとやらの一室を借りて一人暮らしをしているらしい。

 三年前の時点ですでに霊術師として初級者以上の力を身につけていた伊佐奈が、この学校を選んだ理由の一つと思われる話も先ほどクラスメイトの一人から訊いた。

 それでも、何故わざわざ北守から遠く離れた神都の学校を選んだのかまでは分からなかったが。


「というか詩織、伊佐奈のこと知ってるんだ」

「はい。昨日、雛様から伊佐奈さんのことをお聞きしました。……なんでも、伊佐奈さんは桜様の幼なじみであられると」

「幼なじみか。まあ、そうね」


 幼なじみ。

 そのように言われるとどうにもむず痒い。だが実際、保育園に通わされていた頃からの付き合いなので間違いではないのだろう。


「あの、桜様にとって、伊佐奈さんは……その……」

「ん? 伊佐奈が何?」


 詩織の口が何か言葉を発しようと小さく動くもそこに声はなく、そして詩織は何かを振り払うように数回頭を振った。

 一つ息をついて小さく笑い「すみません。何でもないです」と詩織は答える。

 良く分からないが調子を取り戻したようだ。


「昨日、雛様は伊佐奈さんの行方が分からない状態だというようなことも仰っていました。そして今伊佐奈さんは学校に来ていない……のですよね? つまり伊佐奈さんはまだ……」

「いや、昨日、というか今日か。普通に家に帰ってきたらしいわ」

「えっ、そうなのですか? でもそれならどうして」

「……そうね。こうなるともう全部話しておいたほうがいいか」


 周囲に誰もいないが、説明する上で雛や神衛隊が関わってくるので、念のためカルナからもらったデバイスを使用して詩織に説明していく。


 一昨日、四月十三日二十二時頃。

 伊佐奈が自宅に帰ってきていない、かつ連絡が取れないことにカルナの同僚・ナナが気付く。

 その日、伊佐奈がバイトを無断欠勤していたことが判明。

 また何らかのトラブルに巻き込まれた可能性があると雛は推定し、伊佐奈の事情を知り、かつ伊佐奈と直接交流のあるナナがそのまま捜索を任されることになった。


 昨日、十四日。

 途中、ぼうの仮面の者達への対処で動くなどしているが、ほぼ一日中ナナは伊佐奈を探して動き回った。だが伊佐奈を見つけることはできず、その日は終わる。


 本日、十五日。

 深夜零時過ぎ、伊佐奈が自宅に帰ってきた知らせをナナは使いの鳥から受ける。

 ナナはすぐさま伊佐奈の自宅へ向かった。

 そして伊佐奈に尋ねる。丸一日家に帰らず今までどこで何をしていたのかと。

 すると伊佐奈はこう返したそうだ。

 懐かしい友達と偶然会ってついはしゃいでしまったのだと。

 ナナは当然そんな訳の分からない理由には納得せず、その懐かしい友達というのが誰なのか、どこで何をしていたかと詳しく尋ねる。

 だが伊佐奈はナナの質問を適当にはぐらかし、連絡もせず心配をかけてしまったことを謝罪した。

 何か隠し事をしている。

 伊佐奈は以前にもナナ達に迷惑をかけまいと一人で厄介な案件を抱え込んでいたことがあったそうだ。

 今回もそういうことなのではないかとナナは考え、ひとまず伊佐奈の家周辺に見張りの鳥たちを置いて引き上げたそうだ。


 今から三時間ほど前、午前七時頃。

 見張りの鳥たちから制服を着た伊佐奈が家から出てくるも、学校とは全く違う方角に向かったとの知らせを受ける。

 ナナはカルナに伝言を残し、すぐに伊佐奈の後を追った。


 そして現在、また伊佐奈が、加えてその伊佐奈を追いかけたナナの行方が分からないという状況になっているというわけだ。


『伊佐奈さんにいったい何が……。でもたしか、カルナさんはナナさんが今どういう状況にあるか分かっているというようなことを言っていたような』

『ええ。何が起きたのかは分からないけど、どういう状況にあるのかは推測できてる。それで……そうね。今から話すこと一応伊佐奈が秘密にしてることだから、誰かに話したりとかそういうのはナシな感じで』

『分かりました』

『詩織はかいそうって知ってる?』

『はい。ふくほう世界のことですね』

『複方……ああ、うん。それのこと』


 複方世界。

 たぶん異世界層の正式名称だった気がする。

 世間知らずな詩織だが、霊術や神核やらその方面の知識は充実しているように思える。


『それで、かいそうが伊佐奈さんの秘密とどのような関係が?』

『伊佐奈は異世界層に関するのうりょくを持ってるのよ』

『異世界層の……異能力?』

『その能力は、こちら側に現れた異世界層の歪みを視認、そしてその歪みを開いて向こう側と行き来を可能にすることができるというもの。能力を使用している時に瞳が変化するから、あいつはその異能力を〈くう〉って呼んでる』

『そのような力が存在するのですか……!?』

『異能力のリストにはない力。あの雛も伊佐奈の力を知った時はかなり驚いてたわ』


 異世界層へと続く入り口を開く方法は今のところ伊佐奈の能力以外にない。

 霊術だと偶発的に現れた入り口を固定し行き来するところまでは成功している。だがその自然発生した入り口を見つけ出すことがそもそもとんでもなく困難であり、成功例は本当に僅かだそうだ。

 故に〈異空の眼〉の能力的価値は計り知れないものであるらしい。

 もしも力のことが世間に知れ渡れば、必ず〈異空の眼〉を巡って争いが起きる。そういった雛の助言もあり、伊佐奈は〈異空の眼〉を申告せず周囲にも隠している。


『それで話を戻すけど、伊佐奈とナナって奴は今、異世界層に居るんじゃないかってカルナは考えてるのよ』


 桜達がカルナから貰ったデバイス。それと同じものをナナは持っていて、今はその発信が途絶えた状況だ。

 カルナ曰く、デバイスが使用している術式の性質上、発信が途切れるのはほんとうに限られた状況らしい。

 デバイスが物理的に破壊されるか、もしくは、それこそ異世界層のようなこちら側ではない別世界にでも向かわない限り。


『〈異空の眼〉を持つ伊佐奈を追って発信が途絶えたとなれば、異世界層に居る可能性が高い……というか、あまり詳しい話は聞けなかったけど、以前にも一度、異世界層に行った伊佐奈を助けに向かったってことがあったらしくて、今回がその二度目じゃないかって』


 絶対と言えるような根拠は何もないが、桜もカルナの推測通りの状況だと思っている。


『伊佐奈の奇妙な行動と言動、一昨日辺りに何かあったのは間違いない。そして今異世界層に居ることがその一昨日のことと関わりがあるのか……気になる点は多いけど、ともかく、伊佐奈のことは心配しなくていいわ。一応しんえいたいの奴が一人側についてるわけだし』


 カルナの同僚・ナナ。戦闘特化の隊員らしく、カルナもこういう時には頼りにしていいと言っていた。


『だから、私達は〈未来視〉の方に集中しましょ』

『はい!』


 正直なところ嫌な予感しかしない。だが心配しなくていいはずだ。

 伊佐奈もこの三年、どうにかやってきたのだから。

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