05 負荷


 カチリという金属音と共に指先に施錠の感触が届く。

 扉から鍵を抜き取り、桜はシックなデザインのエレベーターホールに向かって歩きだす。

 硬く静かなホール内に、下ろしたてのローファーの靴音が反響する。

 桜はエレベーターを素通りし、陽光を注ぐ正面のガラスに近づく。

 ガラスの自動扉はシュっと左右にスライドしていき、草木の匂いを含んだ風と共に軽やかな鳥の鳴き声をホール内に招き入れた。

 自動扉の先は大きく開かれた屋外空間。

 おそらくここは飛行術を使える者が外から出入りするためのフロアゲートだろう。


 外は雲一つない快晴だった。

 流れる風は少し冷たくもあるが、青く晴れ渡った空から降り注ぐ日差しは温かい。

 手すりに手をかけ、心地よい春の空気感に身を浸す。


「あっ」


 後ろの詩織が声を上げた。

 振り向く。

 黒い制服をきっちりと着こなした上品お淑やかな完璧女子高生、しかし実年齢二十歳の詩織はハッとした表情をしていた。


 詩織の肩には黒い鞄。桜の肩にも同じものがかけられている。

 それは昨夜詩織が持ち歩いていた鞄であり、からす高校の学生鞄だ。

 さらに詩織の手には黒いサブバッグが握られている。中には上履きが入っているとのことだ。


「どうした、詩織。何か忘れ物?」

「い、いえ違います。一つ重要事項をお伝えしそびれていました。すみませんが桜様、ここを出る前にその確認をさせていただきたいのですが」

「ん? いいけど……ああそうだ詩織、これ」


 確認とやらをしている間に忘れてしまいそうだから先に渡しておこうと、桜は手に持っていたそれを詩織の前に出す。


「桜様、それは……」


 詩織は目をぱちくりさせて、桜の手の上にある鍵のついた刻印プレートのキーホルダーを見る。


「さっき鞄見たら同じのが二つ入ってたからさ、これは詩織が持ってて」


 先ほど玄関を出る際に、鍵を閉めて欲しいと詩織に頼まれた。

 詩織は部屋の鍵を持っていないとのことで、昨夜はバルコニーから入り込んだのだと言う。

 鍵は渡された学生鞄の前ポケットに入っていた。同じ鍵のついたキーホルダーが二つ。さらに加えて気の利いたものも入っていた。

 詩織に訊くまでもなく、これらは雛が用意したものだ。

 部屋を買い取るという返事をする前にこういったものを鞄の中へ入れておくのはどうかと思う。だがどちらもこれから生活していく上で必要となるものだ。

 納得はいかないが、ここは雛の気遣いに感謝するべきなのだろう。


「本当に、いただいてもよろしいのですか?」


 少し上ずった声で詩織が訊く。


 合い鍵を用意しておきながら、それが詩織の元にないというのは、おそらく一応家主である桜から直接詩織に渡せということなのだろう。

 自由奔放な気質の雛ではあるが、変に形式を重んじるところもある。


「これから一緒に生活するんだから、必要でしょ」

「はい、ありがとうございます! 大切にします!」

「そりゃ家の鍵なんだから大切にしてもらわないと困るわよ」


 詩織は桜の手から鍵を受け取り、両手でぎゅっと大切そうに、本当に大切そうに抱きしめた。

 そこまで喜ぶことだろうか。

 いちいちオーバーだなと思いつつも桜は微笑ましく思った。


「それで詩織、話ってのは何?」


 訊くも詩織から言葉は返ってこない。

 どうやらまた遠い世界へ行ってしまっているようだ。

 まあ移動しながら話を聞けばいいか。


 桜はとん、と軽く蹴って手すりの上にぴたりと乗った。

 辺りを見回す。

 桜が居るマンションはなだらかな斜面を持つ山の中腹辺りに位置しているようだった。

 マンション周辺は緑したたる木々が生い茂っているだけでこれといった建物や道などもない。本当に山の中に孤立して建てられたマンション。

 ぐれの家と似たような立地だ。


 山の麓には小綺麗な邸宅の並ぶ住宅街が広がっている。街の上をまばらに人が飛び交い、さらにその上空にはいくつもの飛空船が浮かぶ。

 きたもりの田舎景色とは全く違った活力溢れる光景。


 さて、謎の女生徒がいるかもしれない鴉摩高校はどこだろう。

 このマンション近くのかん市内にあるのだろうか。


 未だに鍵を抱きしめてふわふわとしている詩織に目を向ける。

 昨日神都に来たばかりと言っていた詩織。

 はたして学校がある場所を把握し、そして案内ができるのだろうか。


(…………)


 あまり期待しないほうがいいだろう。

 先ほど学校のパンフレットを鞄の中に入れておいた。いざとなれば自分がしっかりすればいい。


 桜は手すりを蹴り、空に身を預けた。

 飛行術を発動させ、ふわりと宙に浮く――その慣れ親しんだ感覚が、一秒、二秒と待てども現れなかった。


「――あれ?」

「桜様っ!」


 気付いた詩織が声を上げ手を伸ばす。

 だがその手は間に合わず、桜はマンション最上階から地面へと落ちていった。


 空中で桜は体を翻し、コンクリートの地面にぴたりと着地する。

 桜にとってこれくらいの高さから落ちることなどどうということはない。

 問題は身体が浮かなかったことだ。


 間違いなく飛行術を発動させた。

 いや、今も発動させている。

 なのに身体がぴくりとも浮かぶ気配がない。

 飛行術なんて基礎霊術、失敗する訳がないのに。


 桜は再度霊力量を増やして飛行術を試みた。だがそれでも何も起こらず無駄に霊気が放出されていくだけだった。

 これはいったい。


「桜様ぁぁ――!」


 上から切迫した声が降ってかかり、すたんっと桜の前に着地する。


「ご無事ですか桜様!?」

「詩織、これ、どうなってんの……?」

「申し訳ございません、つい先ほど確認してもらおうと思っていたのがこの事で……。もっと早くにお伝えすべきでした」


 本当に申し訳ございませんとさらに謝る詩織。


「いいから詩織、今私に何が起きているのか教えて」

「……はい」


 気重な表情で詩織は話を始めた。


「桜様は今、しんかくにより飛行術が使えない状態になっています」


 神核の負荷。

 今朝方一度聞いた言葉だ。


「たしか神核との同調が上手くいっていないと肉体と精神に負担がかかる、ってやつよね?」


 はい、と詩織は頷く。


「でも私は神核と同調が上手くいってるからそれは起きていないって、詩織言ってたんじゃ」

「はい、一つ目の負荷に関しては。ですがやはり二つ目の負荷は桜様の身に起こってしまっているようです」


 そう言われて思い返すと、一つ目というような言い方をしていたか。


「二つ目の負荷は、領域を形成する神核の所有者、国神にしか起こらない負荷です」

「国神にしか起こらない負荷……?」

「はい。この負荷により、飛行術の効力喪失、そして認識できない体内霊力の乱れが起こります。体内霊力の乱れにより霊術の精度低下、さらに上級――」

「ちょ、ちょっと待って!」


 桜は詩織の言葉を遮った。

 遮らずにはいられなかった。


「飛行術が使えない、かつ体内霊力の乱れ……それって完全に魔の領域に入ったら起きる症状じゃない」


 魔の領域に入ると飛行術が使えなくなり、体内霊力が乱れる。そのような症状が起きることは誰もが知る常識だ。

 そしてその症状が何故か国内に居る桜に起きている。


「その通りです。国内に居ながら魔の領域の影響を受ける。二つ目の負荷は神核で形成している領域が魔の領域のしんしょくを受けることで引き起こるものだからです」


 魔の領域の侵蝕を受けている?

 それってかなりヤバイことなんじゃないのか?

 だが詩織は特に焦った様子も見せず、話を続ける。


「桜様が所持している神核は領域を形成しています。領域、それこそが国神の加護と呼ばれるものであり、魔の領域を打ち消し、あらゆる生命を平等にかつ正常に維持する力を持っています。そしてその領域形成は神核のないかいを押し広げるということ。この国全体を覆う国神の加護――領域と呼ぶものは、神核の内部世界なのです」


 またえらく意味不明なことを言う。

 神核の内部世界なのですと言われても、それがどういったものなのかまるで理解できない。

 だがいちいち突っ込んでいたらキリがない。ひとまず胸の内に収めて話を聞く。


「つまり、領域が侵蝕を受けるということは、神核そのものが侵蝕を受けていることと同意なのです。そしてその影響は神核と同調している桜様へと直に現れることになります」


 国神の加護――領域は今侵蝕を受けている。そしてその侵蝕の影響を桜は神核を通して受けている。

 一応の理解はできる。

 できるが、はいそうですかとすぐ飲み込める話ではない。


「たしかに飛行術は使えなくなってるけど、霊力は別に変わったところなんてないわよ」


 体内霊力に乱れはない。よどみなく流れる。

 霊力を手元から放出。手元で深い青の光が円を描いていく。霊力の操作にも異常はない。

 何もおかしいことはない。

 そうこの通り、れいげきだって。


「……!」


 桜は手元に霊撃の弾丸を展開しようとした。だが深い青の光は球体の形を成そうとしたところで、じり、と音をたてて乱れ散りになり、消えていった。

 まさかそんな。

 霊力量を増やして試みる。

 すると今度はどうにか形を成すことはできた。

 だが展開できた霊撃は消費している霊力量の割にまるで合っていない。


「どうして……!?」

「私もそうでした。霊力の乱れを認識、調整できなくなること。この負荷の厄介なところはそこにあります」


 そうだ、たしかに詩織は霊力の乱れと言っていた。


「霊力の乱れといっても本当にごくわずかな乱れです。通常であれば無意識にでも律してしまうようなわずかな乱れ。ですが、桜様は今それができない状態にあります」

「霊力の感知能力が麻痺しているってこと?」

「……いえ、少し違います。霊力の異常は自身が正常な霊力を練り上げられる状態にあってはじめて認識することができます。つまり桜様が霊力の乱れを認識できないのは、桜様が練り上げる霊力そのものからして乱れを生じてしまっているからです」


 通常、霊力の乱れは外部からの影響で起こるもの。

 だが今桜に起きているのは通常ではありえない内部からの異常。

 体内霊力が全て異常。

 全てが異常を帯びているため異常を異常であると判断できなくなっているということか。


 飛行術が使えない。認識できないが、実際に霊術の精度が大きく低下している。

 どうやら詩織の言っていることは事実のようだ。


「何で国中の霊力安定させてる国神が霊力不安定になってんのよ……!」


 当然納得できるわけもなく、桜は憤りを湧かせた。


「……詩織、神核は所有者を適切な状態に維持する性質みたいなのを持ってるんでしょ。その性質で霊力の乱れをどうにかできないわけ」

「残念ながら、それはできません。霊力の乱れの原因は神核内部で起きている異常なので」


 申し訳なさそうな顔をしながらも淡々と言葉を返す詩織に苛立ちが増し、桜は鋭く睨みつける。

 詩織はびくりと身体を震わせ、怖じ気を剥き出しにする。


「ねえ詩織、あんたは昨日、国神になったら絶対的な力を手にするみたいなこと言ってたわよね? どういうこと? これ、おもいっきり弱体化してるんだけど」

「うっ……それは、その……」


 だが内に沸き上がった熱はあっという間に冷えていった。


「あ……いや、ごめん」


 昨夜の詩織とのやり取りを桜は思い出す。


「昨日の私、詩織の話を一切訊こうとしてなかったわね。詩織は私に国神のこと、神核のことを説明しようとしてくれてたのに、私は何度も詩織を突き放して……」


 そう。昨夜、詩織が話をしようとしたのをことごとく無視していたのは桜だった。

 神核と同調すると死ぬかもしれないなどと、これから神核と同調させようとする相手に向かって馬鹿正直に説明した詩織。

 きっとあの夜、神核を手にすることでデメリットはないかと聞いていれば負荷のこともちゃんと教えてくれたはず。


「ごめん詩織。話を聞かなかった私が悪いのに当たり散らしたりして……ちょっと、冷静じゃなかったわ」

「……桜様、私は決して嘘は申していません。これらの負荷を考慮しても、神核の力は絶対的なものです」


 沈んだ表情の詩織は真っ直ぐに桜を見て言った。


「いや、別に力が欲しかったわけではないんだけどね」


 ただ力を失うとまでは思っていなくて少し、いや、かなり戸惑ってしまった。


「ねえ、領域の侵蝕ってのは元々……、あいつが国神の時にも起きていたことなの?」


 しょんぼりと俯いてしまった詩織に桜は訊く。


 詩織は先ほど、認識できない霊力の乱れのことを話していた時に私もそうだったと言った。

 つまり詩織が国神だった時には、一つ目の負荷に加えて二つ目の負荷も起きていたということだ。

 ならばあやさきあまねが国神の時もそうだったのではないかと考えた。

 厄介なものを桜になすりつけた。

 それなら神核を受け渡した理由としても分かりやすいのだが。


 やがて詩織は顔を上げた。

 少し涙目になっていた。心が痛む。


「いえ、あまね様が国神だった時には負荷――領域の侵蝕は起きていませんでした」


 どうやら絢咲周は国神として完全な状態だったということらしい。

 その上で絢咲周は桜に神核を受け渡したということになる。


「ですがおそらく周様も神核と同調したばかりの頃は領域が侵蝕され、桜様と同じように負荷を受けていたと思います」

「つまり領域の侵蝕は国神として未熟な時に起こるってことか」

「……そう、ですね。その通りです。領域は神核の力で維持されています。神核の力が弱まることになれば、領域も同じく弱まってしまうということになります」


 二つ目の負荷が起こる原因は領域の侵蝕だと言っていたが、それは神核の力が弱まったことに起因するというわけか。

 

「神核が単独で発揮できる力には限界があります。神核と同調できていても神核を認識、げんできなければ、単独の状態と比べて安定はしていますが、引き出せる力はそう変わりません。神核は所有者の意志の元に振るわれて初めて真の力を発揮できるのです」

「なるほどね。じゃあ二つ目の負荷の解消方法は、神核を使いこなし領域の侵蝕をなくすこと?」

「その通りです」


 デメリットはあるが解消方法はある。


「ま、これが代価としちゃ安いもんか」


 ふっと、桜は笑う。


「ええ、身をもって理解したわ。負荷を無くすためにも、まずは神核との同調状態に慣れていかないといけないってわけね」

「……はい」


 詩織はすっかり気落ちしてしまっている。

 先ほど苛立ちをぶつけてしまったのをまだ引きずっているようだ。

 別に怒鳴ったりしたわけではないのだが、悪いのは私だろう。


 桜は一歩二歩と近づいて詩織の顔を覗き込み、そして、


「で、もちろん詩織は神核を使いこなすための訓練とか付き合ってくれるのよね?」


 できる限りの笑顔を意識して言った。


「は、はい! 是非ともお手伝いさせてください!」


 それでどうにか気を取り直してくれたようで、とても良い返事をしてくれた。

 ほっと息をつく。


 しかし、と桜は思う。

 神核を手にしたことは純粋なパワーアップではなかった。

 こうなると現実味が増してくる。

 謎の女生徒に敗北し、〈月〉に押し潰される未来が。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る