03 幻影考察
右側の収納扉を開く。
立ちこめていた新築の家独特の臭気がつんと鼻につき、たまらず桜は咳き込んだ。
内側にあるスイッチを押す。
ちかりと照明が点灯し空間を照らした。
左右両サイドにパイプのついた収納棚が並び、奥の壁には縦長四角の鏡が貼り付けられている。
例のごとく棚の中は全部空っぽだ。
詩織は着替え部屋と言っていたが、これはいわゆるウォークインクローゼットというやつだろう。
中に入り、全身を映し出す縦長の鏡の前に立つ。
あの鏡よりも一回り大きい。それに壁にくっついている。
(別物、なんだろうけど)
念のためにと桜は鏡に触れて軽く霊力を流してみた。
深い青の光は鏡に変化を起こさず消えていった。
ただの姿見の鏡のようだ。
ふっと息をついて詩織に渡された紙袋を床に下ろす。
そして袴スカートの結び目に手を伸ばした。
結び目と格闘しつつ、桜は頭の中に思い描いていく。
目覚めの直前にまで視ていた夢、〈未来視〉かもしれない白黒の幻影を思い描く。
構図はいたってシンプルだ。
だだっ広い草原。
そこに仰向きで転がっている自分。側には制服を着た謎の少女が立ち、上空には光を放つ巨大な球体――〈月〉が浮かんでいる。
最後に〈月〉は地上に向かって落ちてくる。
もしもこれらの光景が夢ではなく、神核が視せた〈未来視〉だとしたら。
この光景が現実の出来事として起こるものなのだとしたら。
〈未来視〉が本物であると仮定して、気になる点が四つ。
まず、一つ目は日時。
この出来事に遭遇するのはいつかということ。
時間帯はおそらく夜。
だがいつの夜であるかを推測できる材料は、桜が視た景色の中にはない。
詩織の慌てようからして、神核が所有者に視せる〈未来視〉というものはそう遠くない未来のものだと思われる。
今日か、明日か、明後日か。
もしも〈月〉の現れる夜が今日であるのなら、残された時間は十時間といったところか。
そんな短時間で〈月〉の落下、もしくは〈月〉の出現を阻止できるのだろうか。
(……というかそもそもの前提として、〈未来視〉で視た未来ってのは行動次第で変えられる、そういう認識でいいのよね。まあそうじゃないとお終いなんだけど)
多分正しい。
〈未来視〉で視た未来が絶対のものであるのなら、〈月〉と関わりのあるかもしれない女生徒を探そうなどと詩織も提案してこないだろう。
〈未来視〉で視た未来は行動次第で変えられる。
(でもそれなら……)
それならもうすでに未来は大きく変わりつつあるのではないか。
桜は詩織に夢の内容を伝えた。
〈未来視〉かもしれない夢の内容を詩織に伝えた。そしてその情報は詩織から雛へと伝わることになっている。
雛は現在、国外にいるため直接どうこうできるわけではないが、それでも的確な指示、情報をくれるだろう。場合によっては国内に居る部下を動かすはずだ。
それだけで未来は大きく変わるだろう。
つまり、雛と連絡を取ることが〈未来視〉を打ち破るための一つのターニングポイントとなる
〈月〉出現の夜が今夜の可能性もある。
詩織が言った六時間以内に雛と連絡が取れればいいが。
二つ目は場所。
視界に映った景色はだっだっ広い草原だけ。
他に目立った建物等はなかったと思う。
〈未来視〉は起こりうる未来の軌跡だと詩織は言った。
ならこの草原は今桜が居る神都府からそう距離の離れた場所ではないはず。
神都府内で広い草原となれば一つ有名な場所がある。
そしてその場所にはある逸話が語り継がれていて、それがどうにもこの〈月〉が落下するというシチュエーションと重なる部分がある。
偶然ではないように思える。
確定とまでは言えないが、雛と連絡が取れるまでの間に一度確認してみる価値はあるだろう。
三つ目は桜の側に立っていた謎の少女。
『じゃあな、桜ちゃん』
少女はそう言って桜の前から姿を消した。
ただの通りすがりではない。
この奇妙な状況をおおよそ把握しているように思える。
詩織が言うように少女は〈月〉に何らかの形で関与している可能性は高いだろう。
そして何よりこの少女のことで気になるのが、少女が何をしたかだ。
〈月〉が落下しはじめても桜は仰向けに倒れたまま、〈月〉の落下を止めようともせず動けずにいた。
その動けなかった原因がこの少女にあるのではないかということ。
少女が手に持っていた拳銃のようなもの。
おそらく
そこから必然と連想することになるのは、戦闘。
つまり、
(私は……負けたのか?)
少女と戦い、桜は敗れた。
その戦闘で負った傷で桜は〈月〉が落ちてきても動くことができなかった。
それで説明がつく、が。
(…………私が、負ける)
にわかに受け入れがたい。
詩織のような特異な異能力を持つ者。雛のような純粋に自分よりも霊術、身体能力で勝っている格上の者。
よほどのことがなければ敗北はないと桜は自身の戦闘能力に自信を持っている。
そうそう後れを取ることはないはずだが。
(……そういえば昨日戦ったあの男……アベルとか言ってたっけ。あいつはかなり強かったな)
魔に属する者、アベル。
故にこちら側では本領を発揮することができない。その上、霊力を抉り喰らう力を秘めた獣への変化を右腕だけに留めていた。
その状態でアベルは桜とほぼ互角に渡り合ってみせた。
桜もまた本調子と言える状態ではなかったが。
雛が言ったとおり、世界は広い。
もしも〈未来視〉が本物なら、自分を打ち負かした少女と相まみえる、ということになるのかもしれない。
その点に限れば少し楽しく思えてきた。
そして四つ目。最後の難題。
上空に浮かび空を覆う巨大物体。
非現実的な光景の象徴、〈月〉。
その存在、その正体は何か、だ。
形状はとてつもなく綺麗な真円。
宇宙から飛来してきた彗星や隕石のような自然物とは考えにくい。
〈月〉は何者かが霊術で作り上げた人工物と考えるべきだろう。
〈月〉は強い光を放っていた。
まず一番に考えるのが〈月〉は霊撃の塊ではないかということ。
だが桜の記憶に残っている〈月〉の表面は滑らかな岩肌といった印象で、霊撃のようなエネルギー体ではなかった。
霊力の属性変化、もしくは見た目を岩に見せかけることもできるが、その場合だと〈月〉は桜の〈
であればあのような結末を迎えていないはずだが。
しかし〈月〉が実際の岩土を用いた塊であったとしてもそれはそれで説明しがたい。
霊術は万能の技ではない。
引き起こす現象に対してそれ相応の対価が必要となる。
素材を用いてあの巨大物を作り上げるとなれば大規模な霊術となる。
個人ではまず、たとえ礼家であろうと実行できない規模だ。
そして集団で霊術を行うにしても、確実に目立つ、そのうえ時間もかかる。
〈月〉の生成によって生じる被害を考えると生成し終える前に確実に警察等の介入が入る。
考えれば考えるほど現実的ではない。
(中身が空洞、見せかけだけのものならできなくもないけど、そんなもの作ってなんになる。……ん、いや待てよ、見せかけか)
桜はもう一つの可能性を見つける。
〈月〉の正体が幻術、もしくは変化系の霊術であること。
〈月〉に実体は無く見せかけであるという可能性。
〈未来視〉が本物だとしても、その未来で見ているその光景が本物であるとは限らない。
(いや、でも……)
これは〈未来視〉の特性から否定される。
詩織曰く、神核が視せる〈未来視〉というものは神核所有者に迫り来る危機を知らせるものであるということ。
いわば神核からの警告だ。
頭の中に残っている映像を見たままに解釈するなら、あれは落下してきた〈月〉により押し潰されて圧死。
そういう
であれば〈月〉は中身が空洞であったり幻術等の見せかけではなく、重さ、実体を持っているということになる。
それも〈月〉に押しつぶされるのはただの人ではなく、超人的な身体能力を持つ桜だ。
〈月〉は見た目相応の重量を持っていなければ桜を殺せはしない。
可能性として、幻術にかけられた状態で死に至ったということも考えられるが、桜は幻術等の精神系霊術に対して非常に高い耐性を持っている。
桜に幻術をかけきることは容易ではない。
(……というか私、不老不死になったんじゃなかったっけ)
不死。死なない。
神核は所有者に訪れる危機なる未来を見せるのだと詩織は言った。
だが不死であるのなら、そもそもとして危機という状態が存在しないような気がするのだが。
(まあ、あとで詩織に聞いてみるか)
考えを戻す。
現時点では〈月〉の正体、生成方法は推測のしようがない。
少しでもその辺りの取っかかりが掴めれば〈月〉の出現阻止に向けてもっと具体的に動けるのだが。
なんであれ〈未来視〉が本物であれば〈月〉は現れる。
何者かによって〈月〉は生成され、そして地上へと落とされる。
しかし、なら〈月〉を生み出し落下させる、その目的は何だ。
〈月〉はある程度ゆっくりとした速度で地上へと迫ってきて、そして最後に急落下する。
そういう感じだった。
それでも街一つ軽く消し飛ばす衝撃を起こすだろうが。
〈月〉の存在からは悪意しか感じられない。
しかし人や街に被害を与えることが目的だとするのなら、もっと別の方法があるはずだ。
だとすると、
(脅迫、か……?)
平原周囲の街に住む人々を人質に取っての脅迫。
仮にそうだとして、数千人の命と引き替えに誰に何を要求しようというのだろう。
あまりにも規模が大きすぎる。
〈月〉の存在はやはり不可解だ。
しかしそれ以上に不可解なのが、あの状況そのもの。
何故誰も〈月〉を止めようとしないのだろう。
あれほどの光って目立つ巨大物、人々の注目をいやでも集めるだろう。
急落下してくるまでの落下速度は比較的緩い。
〈月〉が見た目相応の重さを持っていてもそこそこの霊術師が数十人集まれば〈月〉は止められる。
礼家――桜や詩織なら一人でも可能だろう。
倒れて動くことができない桜を除いて、何故他の者は〈月〉を止めようと動かないのか。
神都は妖怪が最も多く集う場所であり、東京と同じくらいに霊術師資格所有者が多い場所だ。
なのに、〈月〉は落下する。
〈月〉の落下に対して誰も動かない。動けない。
どういった事態が起きればそのような状況になるのだろう。
それとも、あの草原は神都のあの場所ではないのだろうか。
(………………)
ただの夢だと一蹴すればそれで済む話。
だが、桜はどうしてもそう結論付けられなかった。
やはり引っかかる。
思い返せば思い返すほどに、あの白黒の幻影の中で感じた妙にリアルな質感が蘇り、身体にへばりついて拭えない。
ぐっと両腕を伸ばして深呼吸をする。肩の力を抜いていく。
とりあえず詩織と一緒に通うことになっていた学校を見て回ろう。
特に手がかりがなければ心当たりのある平原に行き、そのあとは雛から連絡が来るまで適当にぶらぶらすることにしよう。
「よしっ、と」
さっとスカートの裾を整えて姿見の鏡を見る。
そこには白い和服から鴉摩高校の黒い制服に着替えた桜の姿があった。
(……雛がこれを見たら、喜んでくれたかな)
制服姿の自分を見て最初に浮かんだのがそれだった。
焼けつくような羞恥が全身を駆け巡り、桜はたまらずその場にしゃがみ込む。
(いやいやいや何考えてんだ私……!?)
さすがに弱気になりすぎだろと自分を戒める。
結局雛と本殿で会うことはできず、雛の真意は分からないままだ。
雛は国神である
雛が周の後を継がせるため、次代の国神にするために桜を育てていたことは間違いないだろう。
全部演技だったなんて思わない。
それでも今、どうしようもなく雛との間にあったものが揺らいでしまっている。
雛と話がしたい。
詩織は雛と連絡を取れるようではあるが、やはりそれらのことは電話ではなく直接会って確かめたい。
(……あっ、そういえば)
そして不意に桜は思い出す。
三年前、
自分の想いを真っ直ぐに書き綴った手紙を、荷物をまとめたダンボール箱に隠した。
あれから三年が経っている。
おそらくもうあの手紙は雛に読まれている。
「……ッ、……!!」
桜は頭を抱え、声にならない声を上げながら肺が痙攣気味になるまでごろごろと床の上を転がり続けた。
「はぁぁぁ……」
やがて桜は重い重いため息を吐いて立ち上がる。
とにかく、次に雛と会う時は色々と覚悟を決めなければならないだろう。
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