07 妖精・リリス


 みなみさんどうおおはしを抜けて川沿いの道を上っていく。

 途中運良く空いていた石造の長椅子を見つけ腰を下ろす。

 ここなら穏やかに流れるかわを見ながらゆったりと食事ができそうだ。

 失礼しますと言って隣に詩織が座る。

 詩織から頼んでいた屋台の食べ物を受け取った。袋の中にはちゃんと桜が頼んだ通りのものが入っていた。しかしどれも一人分しかなく、そのことを聞くと詩織は食べないとのことだった。


「いいの? 本当に?」

「はい、私はもう食事を済ませておりますので。ですからどうかお気になさらず召し上がってください」

「そう、なら遠慮なく」


 桜は姿勢を正し、そっと両手を合わせて目を瞑る。


「いただきます」


 さあ食べようとしたところで、飲み物を買っていたことを思い出した。

 レジ袋の中にはお茶のペットボトルが三本。桜は詩織の分に買ってきたのを一本ともらったお金のお釣りを渡した。

 すると詩織は渡したペットボトルをまるで初めて見たかのように不思議そうな目で眺めていて。


(……まさか)


 桜は詩織にわざと見せつけるようにしてペットボトルのキャップを開く。すると隣の詩織がわっと声を上げた。

 もう考えるのは止めよう。

 桜はごくごくとお茶を飲む。

 そして先ほどから機会を窺っていた紫色の光を放つ小さな球体――ようせいが桜に近づいてきた。


『あのっ! さっきは助けていただいて、ありがとうございました』

「気にしなくていいわよ。ちょうど何かおもいっきりぶん殴りたい気分だったから」

『え? ……えっと、はい。とにかく、本当に助かりました』

「あ、それよりお腹減ってない? たしか妖精って肉とかは食べられないのよね? 焼きそばなら食べられる?」

『……いえ、今は食欲がなくて。お気遣い感謝します』


 柔らかい女の子の声が桜の内側で響く。

 この声はねんだ。


 五大基礎霊術、その一つは〈ねん〉。心の中で念じた声を相手の内側に響かせ伝える霊術。


 基本的に妖精は声を発することができない。だから妖精はこうして思念を使い会話をする。

 ただし音を聞き取ることはできるので、会話をする場合こちらが思念を使う必要はない。


『私はリリスと申します』


 リリス。たしかそれは有名な悪魔の名前ではなかったか。


『あなたの名前を教えていただけますか』

「桜よ」

さくらさん、さっきは本当に――』

「待って。できれば呼び捨てで呼んで欲しいんだけど。それとさ、変に畏まらなくていいわよ。あんたにとってそれが普通の話し方ならそれでいいんだけど。でも私、あまり堅苦しいのは好きじゃないわ」

『…………そう、分かったわ。さっきは本当にありがとう。あなたのおかげで命を救われたわ」

「だから気にしなくていいって。それよりさ、ほら、私の名前」

『え……? あっ、うん。……その、よろしくね、桜』


 いよっし、と桜は左手で小さくガッツポーズをした。


『どうしたの?』

「なんでもない。こっちこそよろしく、リリス」

「なっ! さ、桜様!!」


 隣でちびちびと大人しくお茶を飲んでいた詩織が突然声を上げた。


「なによ」

「私の名前は全然呼んでくださらないのに、どうして今会ったばかりの妖精をそうも容易く名前で呼ぶのですかっ」

「あんたともついさっき会ったばかりでしょうが。つーかほんと気持ち悪いって。ちょっと黙ってて」


 詩織はがくんと倒れて地に沈んだ。

 気にせず桜は食事をしながらリリスと会話を続ける。


「リリス、あんたに会ってようやく気付いたわ。この祭りには何かが足りない。さっきからずっとそう思ってた。その違和感の正体、それは妖精」


 妖精の多くは普段、人との関わりを避けるため人の居ない静かな自然の中で生きている。

 そんな妖精が人の前に姿を現し距離を縮める特別な期間がある。

 それが年に四度行われる国の大祭だ。

 祭りに訪れた妖精達の光は街を彩り、祭りをさらに賑わせる。それが大祭のあるべき光景であった。

 だがしかし、


「今この街には全くと言っていいほど妖精が見当たらない。今日が祭り最後の日だとしてもここまで妖精が見当たらないのはあまりにも異常だわ」

「桜様……その妖精達がいなくなっていることについて、少し、話を聞いています……」


 地面に沈んでいた詩織が息絶え絶えと体を起き上がらせた。

 だが何故か詩織は言葉を続けず、じっと桜の顔を伺うように見つめたままでいる。


「何?」

「あの……桜様、話してもよろしいでしょうか?」


 もしかしてさっき言った黙ってろを気にしているのだろうか。

 めんどくさい奴。


「はぁ……いいわよ。早く話して」


 そう言うと詩織は嬉しそうに頷き、ゆっくりと思い出すようにして話しはじめた。


「今この街に妖精が全くいないわけではありません。三百人ほどですが、妖精は確認されています。その妖精達も他の妖精達が何故いなくなっているのか分からず、とても困惑していたそうです。警察が妖精達に話を聞いたところ、その妖精達全員に共通点があることが分かりました。その妖精達はみな集会に間に合わなかった妖精だったのです」

「その集会ってのは何?」

「妖精達は毎回大祭前日の夜に現地の妖精、各地から訪れた妖精、その全員が一つの場所に集まって話し合いをするそうです」

「前夜祭みたいなものね。で、見つかってる妖精はその前夜祭に参加していなかったと。つまり今、その前夜祭に出ていた妖精がまるまる行方不明になってるってことか」


 詩織は頷く。

 黙って話を聞くリリスに目を向ける。


「リリスは追われていた。それも人から魔物にそんざいこうするヤバイ奴に。もしかしてそれはリリスが前夜祭に参加していた妖精だから、じゃないかしら?」


 空に浮かぶ大型船が桜達の頭上を通って流れる影を落としていく。影の中にありながらもリリスの光はとても弱々しい。


「何があったの、リリス」

『……閉じ込められた。みんな……みんな……仮面の中に、閉じ込められたの……』

「仮面に、閉じ込められた?」

『さっきのあの男がつけていた仮面……あれは普通の仮面じゃない』


 リリスは話しはじめる。

 七日前、リリスは各地の妖精達が集う前夜祭に参加していた。

 その前夜祭の最中、突然薄い黒色の靄が周囲を包み込んだという。

 体内の霊力が乱れ出し、あらゆる感覚が弱まっていく。体が動かなくなる。悲鳴が飛び交い、次々と周囲の妖精達の気配が消えていく。

 何が起きているのか全く分からない。

 リリスは何かに吸い込まれるような感覚を最後に意識を失った。


『目を覚ましたら何も見えない暗闇の中だった。動けなくて、暗くて、怖くて、一人で震えていた。でもしばらくすると周りから声が聞こえてきた。私一人じゃなかった。その暗闇の中には集会に来ていたみんなが居た。みんなは次々と目を覚ましていった。みんなの声でその暗闇の中にだいようせい様達も居ることが分かった。その中には私がお仕えしている大妖精、カナリア様も。だけど、何故か大妖精様達は誰一人目を覚ますことはなかった……』


 そうして不安だけが募る閉ざされた闇の中、妖精達は互いに励まし合いながらひたすら堪え忍んだ。

 それしかできなかった。

 長い長い時間が流れた。

 そしてついに一人の大妖精が目を覚ました。それはリリスが仕えていると言った大妖精・カナリアだった。

 目覚めた大妖精・カナリアはすぐさまリリスの元へとやって来た。


『幸運に恵まれて隙ができた。あなた一人なら外に出すことができる。……カナリア様は口早にそんなことを言って私に小さな結晶を渡した。これが外にあればまだ希望がある。だから、これを持って逃げて……。気付いたら私は外に出ていた。空から落ちていた。そして私のすぐ近くでとてつもなく強大な力と力がぶつかり合っているのを感じた。見るとそこには恐ろしく凶悪なマイナス質の霊気を放つ黒い魔獣と……高校生くらいの、髪の長い女の子が戦っていたわ』


 そして数秒とたたないうちに二人の戦いに変化が起きたと言う。

 突然黒い魔獣の全身が影に包まれた。影は縮んで人の形を模っていき、最後に影は頭部へと集約し、散った。

 影から現れたのは赤い眼光を放つ黒い獣の仮面。


『おそらく、あの仮面は〈ぼうの仮面〉……』

「ぼうかの仮面?」

『ええ。桜もさっき見たでしょ? 私を追いかけてきた男が巨大な赤い魔獣に存在を移行させたのを。人から魔物へのそんざいこう。そんなとんでもないことを可能にするのは、亡化の仮面しかないと思う……』


 ぼうの仮面は千年以上昔、かいりょういきにて何者かが作り出したとされる呪いの仮面。

 仮面の素材は生きたままの魔物。

 驚くべきことにその仮面の素材となった魔物は仮面となった今でも生きたままでいるのだそうだ。

 故にそのぼうの仮面をかぶった者は仮面を媒介にしてその素材となった魔物へのそんざいこうを可能にするのだという。


「へぇー、初めて聞いた。そんな仮面があるのね」

『いえ、そういう話が残っているだけで、実物が確認されたことはないの。……よくある作り話だと思ってた。でも実際に目の前で起きた現象を説明するにはやっぱり亡化の仮面しかないわ』

「まあさっきのあの男が〈人型の魔物アルマ〉だったんなら話は違ってくるけど。でも人間の姿をしていた時に放ってた霊気はごく普通のものだったし、それはないか」

『……アルマ……』

「ん? リリス?」

『……いえ、話を戻すわね』


 影が散って現れた黒い獣の仮面。

 その仮面をかぶるのは黒装束に身を包んだ真っ白な髪をした男。

 影から現れたその男は何事もなかったかのように空を蹴り、戦いを続行。

 男と戦っていた少女もまた平然と容赦なく迎え撃つ。


 どうにかリリスは空中に浮きとどまる。

 そして周りから突き刺すような視線を感じ取った。

 見回すと戦闘を行う二人を囲むように、建物の上にはずらりと黒装束を身に纏った者が何人も立っていた。全員が強い圧を孕んだ仮面をつけていて、その仮面全てがリリスの方へと向いている。

 リリスは怖くなって逃げ出した。

 すぐに黒装束の者達がリリスを追って来た。リリスは必死に神都市のあちこちを逃げ回り続け、そしてつい先ほど桜と出会い、今に至るということのようだ。


 桜はリリスの話を聞きながらあの警官が話していたことを思い出していた。

 突如現れる謎の暗闇と魔物。そして行方不明になっているという礼家。どうにもそれはリリスの事件と繋がっているようだ。


「リリス、一ついい? リリスがずっと居たっていう暗闇の空間が仮面の中だったっていう確証みたいなのはあるの? 話を聞く限りその辺は微妙だと思うんだけど」

『それは、黒い魔獣が放っていた凶悪な霊気と、カナリア様に渡された結晶が発している霊気が全く同じものだったから……』


 リリスはすっと動いて、桜の右手の上で停止した。

 その意味を察し、手を開く。

 リリスの体が一瞬強く光り、ことりと桜の手の平に小さな黒い結晶が落ちてきた。


『それが外に出る直前にカナリア様から渡された結晶よ』


 渡された結晶を手で掴み、調べてみる。

 リリスの言うような凶悪さというものは感じられないものの、小さな黒い結晶はたしかに魔物が発するマイナス質の霊気を帯びていた。


『私が外に出たことがきっかけで、黒い魔獣は意に反して人の状態へと変化したように見えたの。たぶんその結晶は亡化の仮面、その力の源……のようなものだと思う。仮面の中に居た私が核となるこの結晶を持って外に出たことで亡化の仮面の力が失われた。あれはそういうことだったんだと思う』


 なるほど。暗闇で大妖精に渡された結晶と魔獣の霊気が同質のものであり、それでいてその結晶が亡化の仮面の核であるのなら、リリスが居た暗闇は亡化の仮面の内側であった可能性が高い。


『そしておそらく私は、仮面の力の源であるこの結晶を持っているから追われている……』

「そっか。じゃあ壊す? この結晶」

『だ、ダメ! 壊さないで!』

「何で? 今話したリリスの推測、私もだいたい当たってると思うわ。だったらこれ壊せばその亡化の仮面は使いものにならなくなるし、リリスももう追われないんじゃないの?」

『……そうかもしれない。でも…………』


 リリスは言葉を続けず桜の手の平に近づいて結晶を再び身体に収めた。

 そしてリリスは桜の前で止まり、あらたまった声で言う。


『桜、あなたにお願いしたいことがあるの』

「お願い?」

『桜みたいな凄く強い人だったら、さっきみたいにあいつらが来ても返り討ちにできる。そうすればみんなが閉じ込められている仮面が手に入る……。お願い、桜の力を貸して。仮面に閉じ込められたみんなを助けたいの』

「待って。今のことを警察に話せば絶対動いてくれるって。私に頼るより断然そっちのほうがいいわ」

『ええ、警察に今のことを話せば動いてくれると思う……。でもこの結晶、さっき逃げ回ってる時に気付いたんだけど、どうにも向こうは結晶のある場所を細かく察知できるみたいなの。だからもし私が警察に逃げ込めばきっとそのことも向こうに知られるわ。黒装束に仮面をかぶった人達はまだ何人も居た。ぼうの仮面はきっとまだいくつもある。向こうからすればたった一つの仮面が使えなくなっているだけ。そこまでのリスクを冒してまで私が持つ結晶を取り返しには来ないかもしれない』


 つまりリリスは今自分が狙われている状況を維持し、それを利用して仲間を助けたいということだ。

 敵も警察ではなく桜が一人側に居る程度なら気にせず再びリリスを襲いにくる。そういう考えのようだ。


『助けてもらってこんな危険なこと頼むなんて、あつかましくて、もの凄く迷惑だってこと分かってる。でも、私にはあなたしか頼れる人がいないの。お願いします。どうか、助けてください』


 桜は小さく息を吐く。

 隣の詩織はさきほどから一切口を挟まず、静かに桜とリリスのやり取りを見守っている。


「リリス、訳あって私には時間がない。それに加えて今どうしてもやらないといけないことがある。だからリリスの仲間を助けるために私は動けない」


 リリスの体の光が悲しげにしゅんと小さくなった。


「ねえリリス、私はこれから神宮に向かいながらあちこちを見て回るつもりなの。だからそれにあんたがついてきて、それで敵が襲って来たってんなら倒してやることくらいはできるわ」

『えっ!? じゃ、じゃあ桜――』

「でも」


 喜ぶリリスの声を強く遮り、桜は続ける。


「ついてくるのならこれだけは理解して。さっき言った通り、私には訳あって時間がない。一緒に行動できる時間はせいぜい三時間程度と思ってて。その時間が来たり、私の探し物が見つかったりすれば、私はあんたを見捨てて自分の目的を優先する。だから私はあんたの仲間を救い出すことは約束できない。これを良く理解して。理解した上でついてきたいのならついてくればいい。……どうする?」


 リリスは沈黙する。

 リリスのこれからの行動には仮面に閉じ込められている仲間の命、その全てがかかっていると言っても過言ではない。今できる最善の行動は何か、それは誰にも分からない。それでもリリスは選択をしなければならない。

 そして、リリスは選択した。


『お願いします。少しの間だけでもいい。側に、居させてください』

「そっか。分かった」


 桜はそっとリリスを手で引き寄せて、優しくその小さな体を撫でた。

 リリスの体はふわふわと天使の羽のような柔らかさで、いつまでも触り続けていたい気持ちにさせた。


「桜様はお優しいのですね」


 今まで黙り続けていた詩織がようやく口を開いた。


「ですが桜様、今は……」

「文句があるんなら別にあんたはついてこなくていいわよ」

「いえそんな、決して文句などございませんよ」


 そう言って詩織は穏やかに微笑んだ。

 その反応は桜にとって意外なものだった。

 てっきりリリスが同行することを詩織は反対するものだと思っていたのだが、詩織は嫌な顔を見せるどころか、むしろ喜んでいるように見えた。


 気付くと撫でていたはずのリリスが離れ、詩織の前に移動していた。


『あのっ、挨拶しそびれてしまってごめんなさい。あなたは桜のお友達、なのよね? お祭りを楽しんでるところ、桜をこんな厄介なことに巻き込んでしまって本当にごめんなさい』

「リリスさん、私はゆいしきおりと申します。桜様があなたをお助けすると仰るのであれば私もそのお手伝いをさせていただきます。ですからリリスさん、よろしくお願いします」

『本当に!? ありがとう! こちらこそ、よろしくお願いします!」


 リリスが嬉しそうにくるりくるりと桜達の周りを回る。

 かわいい。


『ん? あれ? ゆいしき、しおり? もしかして、あのれいの唯識?』

「はい、そうですよ」


 この流れはまずい。

 そう思った時には詩織は黒いカバンからあの時警官に見せた身分証らしきものを取り出してリリスに見せていた。


『え!? わっ! わぁっ! 凄い! れいの紋章石! 詩織さんは本当にあの礼家の唯識なんだ!』

「リリスさん、桜様もれいあやさきですよ」

『えっ、ええぇぇぇぇ!? さ、桜もっ!? ほんとうに!?』


 リリスがすごい勢いで眼と鼻の先にまで迫ってきた。

 桜は横目で隣の詩織をきつく睨みつける。ひくっと詩織は体を怯ませた。


「あんたねぇ……! 私がわざわざ苗字隠して名乗ったことに気付かなかったわけ?」

「す、すみません!」


 詩織は慌てて桜に頭を下げる。


『桜は、あのあやさきなの? 絢咲、桜?』

「はぁ……そうよ」

『桜が絢咲……。そうか、だから桜はあんなに強かったんだ』


 桜は深く溜め息をつき、手早く残っていた食事を終わらせた。

 手を合わせ、詩織を一瞥してから目を瞑る。


「ごちそうさま。美味しかったわ」

「あの……桜様、本当に申し訳ございませんでした」

「もういいわよ。ご飯おごってもらったし」


 絢咲の名前を名乗って得することなど何もない。

 奇異な目で見られるか勝手に畏怖感を覚えられて変にへりくだられる。

 面倒なだけだ。

 特にリリスには礼家だという目で見られたくなかったのだが、知られてしまった以上仕方がない。

 それに不本意ではあるが、礼家の名前は今の状況のリリスを安心させられる力がある。


 桜は詩織が持って来たビニール袋にゴミを一つにまとめ、立ち上がる。

 まとめたゴミをゴミ箱へ。空になったペットボトルはリサイクルボックスへと捨てる。


「よし、と。じゃあ行こうか、リリス」

『うん!』

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