06 炎の巨獣


 南参道大橋を渡り終えた先にはたくさんの屋台が立ち並んでいた。

 甘く香ばしい匂いは桜の進む先を塞ぐかのように辺り全体に広がっていて。

 ぐぅぅぅぅぅぅ。

 とうとう桜の腹から情けない音が鳴った。

 その音が聞こえてしまったのか隣に居た詩織がぱっと桜を見た。桜はさっと詩織から目を逸らす。


「桜様、お腹を減らしているのでしたらこの辺りでなにか召しあがりますか?」

「……いや私、お金持ってないし」

「もちろん私が支払います」


 うっと桜は声を詰まらせる。

 この女、見え透いた懐柔策を。

 当然、この女に貸しを作るわけにはいかない。

 しかしいつまでもこんな空腹のままでいるのも。 

 心の天秤が揺れる。


「…………いいの?」


 小さく聞くと、詩織はぱっと花が咲いたように顔を綻ばせた。


「はい! なんなりとお申し付けください!」

「……あんた、良い奴ね」


 食事時ともあってか屋台はどこも混み合っていた。


「何をお召しあがりになりますか?」


 目に映った店の中から詩織に食べたいものを指差しながら告げていく。

 詩織が並んで買ってきてくれると言ったのでそれなら自分は飲み物を買ってくると桜は言い出た。

 飲み物の代金として桜は詩織から千円札を受け取る。


「あの、桜様はどこへ行かれるのですか?」

「そこのコンビニだけど」

「こんびに……ですか?」


 その反応を見て桜は考える。

 まさかこいつ、コンビニを知らないのか?


「冗談よね? コンビニくらい知ってるでしょ?」

「いえ……申し訳ありません。桜様が仰る、こんびに、というものが何を意味する言葉なのか、私には分かりません……」


 桜は絶句する。

 携帯電話を知らない上にコンビニも知らない。

 本当になんなんだこいつは。

 田舎者、箱入り娘では説明がつかないほどの世間知らずぶり。異世界からやって来たと言われた方がまだ納得できる。


 軽い脱力感に見舞われながら桜は橋のたもとから少し離れたコンビニを指さす。


「あれがコンビニよ。コンビニは色んなものを売ってるお店なの。私はあそこで飲み物を買ってくるから。分かった?」

「……分かりました。桜様は、こんびにへ、お飲み物を、買いに行かれます」


 詩織は一つ一つ単語を噛みしめるように復唱した。

 どうにも話していると調子が狂う。


「桜様、私の方は少し時間がかかるかもしれません。もし桜様が先に買い物を終えられましたら、そこの、こんびにの前で待っていてくださいますか」

「あーはいはい。待ってる待ってる」


 適当に答えたのが悪かったのか、詩織は桜を見つめたまま動かない。

 このままだとご飯を買ってきてもらえない。それは大変困る。


「分かった。ちゃんと待ってるから。お腹減ってるし、逃げないわよ」

「はいっ!」


 嬉しそうに詩織は返事をし、立ち並ぶ屋台の元へと駆けていった。


 桜はコンビニに入るとすぐに入り口近くの新聞コーナーへ向かった。

 今日の新聞で本当にあの日から三年の歳月が流れているのかを確認しようと桜は考えたのだった。

 スタンドの一番上の段にあった新聞を一つ手に取って見る。

 新聞に書かれていた日付は、


さいれき2005年4月14日(木)〉


 ――――軽い目眩に襲われる。


(本当に、あれから三年経ってるんだな……)


 体の成長を見て頭の中では納得していた。だがまだ心の方では受け入れられずにいたようで、こうして新聞の日付を見てようやくその事実を飲み込むことができた気がした。


 半ば放心した桜の目に、窓ガラスに映る自身の姿が入り込む。

 それを見て桜は今更ながら気付いた。

 髪は伸びっぱなしの状態ではなく程よく自然な状態に揃えられている。さらに体も髪も汗臭さなど微塵もなく清潔に保たれている。


(私が眠っている間、私の側には誰かが居た……)


 それは少し考えれば分かることだった。

 死の淵まで魂を灼かれた桜の状態は極めて深刻で、特殊な状態だ。そのような桜を今の状態にまで回復させることができる者は、桜の知る限り一人だけ。


(………………)


 手に取った新聞をスタンドに戻そうとしたところ、一面の記事に書かれた見出しに目が留まった。


〈謎の暗闇と共に消えたれい未だ見つからず〉


 これはあの時警官が礼家の詩織に注意を促していた魔物による襲撃事件のことだろうか。

 記事を読んでいく。

 一昨日から神都市の各所で謎の暗闇が突如出現するという事件が起きているということ。その暗闇が現れた場所には決まって近くに礼家の者が居たということ。そして現在、その暗闇によって礼家の者が三人消え去り、未だ行方不明の状態が続いているとのことだった。

 だがどこを読んでも警官が言っていた暗闇と共に現れる魔物のことについては書かれていない。


 それもそうだ。そもそも魔物はこの国でまともに活動できない。さらに大型の魔物なんていればすぐに騒ぎになる。魔物が街中で隠れ潜むなんてことは不可能だ。

 しかし、あの警官が礼家である詩織に嘘の警告をしたとも考えられない。

 少なくとも記事には謎の暗闇とれいが行方不明になっているということが書かれている。

 今この街で何かが起こっているのは間違いないのだろう。


(……まあ、どうでもいいか)


 桜は適当に雑誌を立ち読みした後、ペットボトルのお茶を三本購入しコンビニを出た。

 屋台に買いに出た詩織はまだコンビニ前にいなかった。


「ん?」


 みなみさんどうおおはしの辺りでなにやらざわめきが起きていた。

 騒ぎの方を見ると大勢の人が空を見上げていた。

 その視線の先、上空にいくじょうもの赤い閃光が駆け巡っている。閃光に触れた宙に浮く紙灯籠が次々と燃え落ちていく。

 どうにもそれはただの光ではなく〈れいげき〉のようだった。


(街中であんな堂々とれいげきぶっ放すなんて、酔っ払いか?)


 桜は目に力を入れて遠く離れた先の空を見る。

 閃光を放射し続けている人物は黒い民族衣装のようなものを着て、顔には赤い仮面をつけていた。

 その妖しいくろしようぞくは何かを狙うようにして霊撃を撃ち続けている。

 注目して見ると、連続して放たれる赤いれいげきのレーザーを紙一重で躱し続けている紫色に光る小さな球体を見つけた。

 その光る球体からは二対の薄い翅が生えている。


「あれは……ようせい?」


 赤い霊撃の連射が紫の球体――妖精をわずかに掠めた。妖精は速度を落とし、黒装束が大きく妖精に接近する。

 妖精は急降下して黒装束の接近を躱す。それと同時に黒装束の背後から黄色い閃光が走った。

 迸る閃光が二本、黒装束の左肩と右足を貫く。

 黒装束は動きを鈍らすもすぐさま空を蹴って急降下した妖精を追う。

 妖精と黒装束が錐揉みになって落ちていく。

 黒装束の伸ばした手がだんだんと紫の妖精へと迫っていく。


『だれかっ、助けて……』


 苦しげな女の子の声が桜の頭の中に小さく響いた。

 瞬間、桜は弾かれたように駆け出した。


 南参道大橋の上で騒ぎが起きているのが観衆の声で分かった。

 桜は地面を一つ蹴り大きく跳躍。空中から橋の丁度真ん中辺りにあの黒装束を見つける。


 粛然とした威厳を漂わせる黒衣。顔には赤い獣の仮面。

 黒い短髪にがっしりとした体格。

 おそらく男だろう。


 左肩と右足を黄色い光の矢に貫かれた黒衣の男は膝をつき空を見上げている。

 血が出ているようには見えない。おそらく男を貫いている光の矢はばく系の霊術なのだろう。

 そして男が地面に垂らした左手。

 そこにがっしりと鷲掴みにされた紫の妖精を確認する。


 男の視線の先には空中で光の矢を構える狐面の女が居た。

 黒襦袢に赤袴、日章紋の付いた白い羽織。

 神都の警官だ。

 

 女性警官の周囲には二十を超える黄色い光の矢が浮かび、矢の先は全て黒装束の男に向いている。

 警官が右手を横に振るう。閃光の矢が一斉に黒装束の男目がけて降り注ぐ。


 黒装束の男はぬっと捕縛の矢を受けていない右手を上空にいる警官に向けて突きだした。

 男の右手の平から荒々とした赤い光が渦を巻く。


 五大基礎霊術、その一つは〈れいげき〉。霊力を破壊性、殺傷性のあるエネルギーに変換して放出する。


 黒装束の男は展開した霊撃を空間に広げ、いくつもの弾丸に変えて拡散。降り注ぐ光の矢を迎撃する。

 荒れ狂う赤い光弾が光の矢へと的確に喰らいつき次々と相殺。

 警官の放った矢はすべて光となって散った。

 そして男が放った霊撃はまだ残っている。

 赤い霊撃の弾丸が六つ、弧を描いて矢を放った女性警官にへと向かう。

 明らかに動揺を見せている警官は右手を振り下ろし、自身の前方に黄色い光の壁を展開させた。


 五大基礎霊術、その一つは〈ぼうへき〉。霊力で固い障壁を構築し攻撃を防ぐ。


 だが警官が展開した防壁は黒装束の男が放った霊撃の直撃を受けて瞬く間に崩壊した。

 衝撃を間近で受けた警官は力なく黒い水面に落ちていく。


 やがて黒装束の男を貫いていた光の矢が二本、砕けて散った。

 男が立ち上がる。

 周囲の人達は体が硬直したかのように立ち止まっている。

 躊躇なく警官を攻撃し、打ち落としたその男に近寄ろうとする者はいない。

 一人の少女を除いては。


 カンッと、沈黙を裂くように下駄の音が鳴り響いた。

 桜は二度目の跳躍で橋の上で立ち止まる人混みを一気に飛び越え、黒装束の男の前に堂々と着地したのだった。


 黒装束の男が顔につける赤い獣の仮面が桜の方を向く。

 桜は淀みのない動作で緩やかに一歩踏み込んだ。

 カンッと静かに下駄音を鳴らし――――その次の瞬間、桜は黒装束の男の背後にいた。

 桜は妖精を鷲掴みにしている男の左手をビニール袋の持っていない左手で掴み、背中へ回して持ちあげていた。


「妖精を解放しろ」


 桜のその声でようやく男は背後を取られたことに気付いたようだった。


 男は迷いなく桜に攻撃を仕掛けようと動く。

 それとほぼ同時に、桜は男の腕を掴む手に力を入れた。かきりと小気味よい音を立てて男の左手首が折れ曲がった。

 力なく開かれた手から妖精が解放される。

 それを確認した桜は男の手を離し、軽やかに回し蹴りを食らわせた。

 鈍い音を立てて黒装束の男は吹き飛び、欄干へと激突した。


 男の手から放たれた紫の妖精はふらふらと地面に落ちていく。


「よっと」


 地面へと落ちる寸前、桜は左手の平でそっと紫の妖精を掬い取った。

 手の平にふんわりとした柔らかな感触が広がる。


「大丈夫?」

『あ、ありがとう……』


 桜の頭の中に女の子の声が響く。


(おおっ、かわいい……!)


 初めて妖精に触れた桜は感動に震えた。

 ざわざわと周囲が騒ぎ立つ。見ると欄干の破片をぱらぱらと落としながら黒装束の男が立ち上がっていた。

 そして、黒装束の男は赤い獣の仮面に手をかざした。

 男の全身が禍々しく赤い影に包まれる。


(ん? これは……)


 赤い影はどくどくと蠢いて肥大化していく。

 見上げるほどに大きくなったところで影が吹き飛んだ。

 赤い影から姿を現したのは二足で立つ、ゆうに二十メートルを超える赤い猿のような獣だった。


「グオオオオオオオオオオオオオオッ!!」


 きょじゅうはすさまじい咆哮を上げ、体に赤々とした炎を燃え上がらせた。

 咆哮と共に巨獣は威圧的な霊気の波を放った。桜の体内霊力がじりじりと乱れる。

 霊力を乱すマイナス質の霊気。

 間違いない。目の前に現れたこの巨大な獣は、ものだ。


「〈そんざいこう〉……。なるほど、これが突如出現する魔物の正体か」


 周囲で固まっていた人達から一斉に悲鳴が上がり、炎の巨獣から逃げ出していく。


 巨獣が大きく右足を振り上げた。

 高熱の炎を纏った右足は桜の頭上に来て一気に落ちる。

 桜は地面を軽く蹴って横に飛ぶ。辺り一面に凄まじい熱気と衝撃が走る。

 巨獣が振り落とした右足はわずかに橋の下へと沈んでいた。巨獣が纏うその炎はどろどろと石造りの橋を泥のように溶かしているのだった。


「おいゴラァ! しっかりしろゴラァ! ぶっとばすぞゴラァ!」

「いいぞぉ-! やれー! やれー!」


 空の上から囃し立てるような声が聞こえてくる。

 声は空に浮かぶ赤い船から来ていて、そのどれもが呂律が妖しいものばかり。どうやら酔っ払っているようだ。

 暢気なものだと桜は笑みを浮かべて、また器用に地面を跳ねてきょじゅうが仕掛ける炎の蹴りを軽々と躱していく。


 いつでも逃げ出せるものの、桜は巨獣からつかず離れずの距離を保ってまた次の攻撃を誘い続けていた。

 さすがにこれを放って逃げ去るというわけにもいかない。戦うにしても周囲の人が充分に離れてからだ。


『私を川に放り投げて』


 きょじゅうの攻撃を躱していく中、左手に抱える妖精が〈ねん〉で声をかけてきた。


『あいつは必ず私を追ってくる。だから、早く私を川に落として』


 巨獣は踏みつぶすことを諦めたのか、体を低く屈めだす。体からごうごうと一層炎を吹き上げ、そして、巨獣は意外なほどに猛烈なスピードを出して跳びだした。

 巨大な炎の弾丸が桜へと向かう。

 桜は地面を蹴ってそれを躱す。だが巨獣は体に似合わない俊敏な動きで石橋を蹴り、間髪入れず空へと逃げた桜に炎の拳を乱れ打つ。

 それでも桜は一切動じることなく、手に抱える妖精を落とさないように気をつけながら空を蹴り、最小限の動きで躱していく。


『なにを、しているの? 早く、私を……』

「おっ、来た来た」

『え?』


 人々は巨獣から離れていく。

 だが一つだけ、こちらに向かって来る人影があった。

 桜は空を強く蹴り、その人影の元へと向かう。


「桜様……! どうして待っていてくださらなかったのですかっ! うぅっ……桜様は、待ってるって言ったのに……私は……私はっ、桜様に置いて行かれたと思って……」


 詩織は涙声で桜に訴えた。

 この騒動のなかで開口一番にそれかと桜は呆れる。

 詩織の左手にかかるビニール袋からは食欲をそそる濃密なソースの香り。

 さっさと終わらせよう。


「ちょっとこの子預かってて」

「えっ? あのっ、桜様?」


 桜は詩織に紫の妖精を無理矢理渡し、右手にさげていたペットボトルのお茶が入った袋を地面に置き、巨獣に向かって歩き出す。


『ま、待って! あなた、一体何をしようとしているの……?』


 炎のきょじゅうは大きく体を反らし、空に咆えた。

 空気が激しく震動し、巨獣の全身の炎がさらに燃え上がる。そして巨獣の口元の上に、巨獣の身体よりも大きな赤い炎の塊が生まれた。

 その巨大な炎の塊は周囲を赤々と照らしだし、その高熱は周囲の空気を大きく歪ませている。


 桜は詩織と妖精からある程度離れると立ち止まって右手を前に突き出した。

 人差し指から小指へと順に折りたたみ、親指で固く押さえ込む。右拳を後ろへと引き、左足と左掌を前に出して構えを取る。


 咆哮と共に巨獣はえんかいを桜に向けて射出。

 大気を引き裂きながら凄まじい速度で巨大な炎塊は桜へと迫る。


『危ない! 逃げてっ!!』


 炎塊はそのまま桜に直撃した。


『…………え?』


 きょじゅうが放った炎塊は桜に直撃した。

 だが、そこまでだった。

 炎塊は桜を呑み込んだ瞬間にぴたりとその場で停止していた。

 数秒して、バンッ! と爆薬が炸裂するかのような激しい音と共に炎塊は無数の火花となって周囲に散った。


 火花の中から桜が姿を現す。

 桜は一歩も動かず、構えを取ったまま巨獣を見据えていた。

 炎塊に接触した南参道大橋は大きく焼け落ちている。だが、超高熱の炎の中に居たはずの桜は全くの無傷で、服にすら何の影響も出ていない。


 桜は地面を強く蹴った。

 その一蹴りで桜は巨獣との距離をゼロにした。

 巨獣の懐の中に潜り込んだ桜は溜め込んだ右拳を一気に解き放つ。

 ズシリと鈍く重々しい音が辺りに響き、巨獣の体は呆気ないほど軽く空へと打ち上げられた。


 カンッ、と下駄を鳴らして桜は石橋の上に着地。遅れて炎を纏った巨獣が川に落ち、大きな爆発が起こった。

 水蒸気爆発で吹き上がった川の水がぱらぱらと周囲に雨を降らせていく。


 降り注ぐ雨の中、桜は気だるげに右手首をスナップさせる。


「どうにも、三年のブランクのせいか身体が鈍ってるわね」

『すごい……たった、一撃で……』


 直に警察が駆けつけてくるだろう。面倒事はごめんだ。

 桜は地面に置いたビニール袋を手に取り、妖精を預けていた詩織の手を引いてその場から離れていった。

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