02 目覚め


 誰かが名前を呼ぶ声が聞こえた。とても良い匂いがした。


「――――桜様」


 桜は目を開いた。

 薄ぼんやりとした視界の中、見慣れない天井が映り込む。

 全身が澱んだ泥沼の中に沈み込んでいるかのように全てが虚ろで、繰り返す呼吸と共に体の感覚が浮かび上がっていく。


「うっ……」


 無意識に動いた右手の指先から首筋にかけて焼けるような痺れが走った。それに反応して体が動き、さらに強い痺れが全身を覆う。


 意識して体をじっと止める。

 次第に痺れは収まっていった。

 桜は痺れが広がらないようにゆっくりと上半身を起こしていく。


(…………ここは…………どこだ……?)


 周囲を見回していく。

 部屋に明かりはついておらず、むき出しの窓から射し込む白い月の光によって照らされている。床はフローリング。桜が寝ていた布団以外には何もない空っぽの部屋だ。


 何故このような見知らぬ部屋で自分は寝ていたのか。

 ろんな頭で桜は記憶を探る。


 思い出せる一番新しい記憶は――――三月九日。

 その夜、酒に酔ったふりをしてベタベタ甘えてきたひなと久しぶりに一緒の布団で寝たのを覚えている。

 そこまでだ。

 その次の日の記憶がない。


 すでに日は落ちている。

 丸一日眠っていたということなのだろうか?


 桜は小さく息をつく。

 どれだけ記憶を手繰っても何故自分がこの見知らぬ部屋で眠っていたのか思い出せない。


(記憶が欠落している……もしくはひなの手の込んだいたずらか)


 何か手がかりはないかと再び薄暗い室内を見回す。

 閉じられた扉で目が留まった。扉の隙間からわずかに光が漏れ出している。

 部屋の外に誰かいるのだろうか。


(そういえば……)


 一つ、思い出した。

 目を覚ます直前、誰かに名前を呼ばれたような気がした。

 しかしこの部屋には今、桜以外誰もいない。

 部屋の扉と窓は閉まっている。桜が目を覚ました一瞬で音もなく部屋から出たとは考えにくい。あの声は気のせいだったのか。


(……いや、たしか声だけじゃなくてなんかすごく良い匂いもしたような)


 桜は目を瞑る。そして宿を引き出し、嗅覚を強めた。

 すぐに目的の匂いを見つけた。

 ほんのりと甘くそれでいて清涼な、心が解き梳かされる香り。

 匂いの残り具合から、つい先ほどまでその匂いの持ち主はこの部屋に居たことが分かる。だが匂いに続きはなく、この部屋で完全に消えてしまっていて跡を追うことはできない。


 声も聞こえた。匂いも残っている。

 桜が目覚めるその直前まで何者かが側に居たことは間違いないのだが。


 室内に〈霊気〉は感じられない。

 つまり霊術を使って姿を消しているわけではない。

 部屋の奥には収納扉がある。あそこになら隠れられるか。

 とはいえわずか数秒で物音一切立てずに隠れるというのは無理があるだろう。

 扉と窓も閉められていて部屋は密室。いかにひなでも物理的に閉じられた空間から完全に気配なく消え去ることはできない。そもそも部屋に残っていた匂いはひなのものではない。

 それとこの部屋の空気がやけに暖かいのも気に掛かる。きたもりではまだまだ昼夜問わず凍えるような寒さが続いていた。だがこの部屋の空気は全く冷えていない。部屋に暖房がついている様子はなく、結界のようなものが張られている気配もない。

 これはどういうことだろう。


さくら様」

「!」


 唐突に女の声が聞こえた。それも桜のすぐ右隣から。

 ありえない。今ほど部屋の中を全て見回し、さらに匂いを探ったばかりだ。間違いなく部屋の中には誰もいなかった。

 視界にある扉は閉じられたまま。窓が開いた音もなかった。

 しかし今、隣にははっきりと何者かの気配がある。

 そしてその何者かは先ほど嗅ぎ取ったあの清涼な匂いの持ち主でもあるようで。


れいじゅつか……? いや、でも……)


 一級の術士が霊術を使って巧妙に匂いと姿を消していたのだとしても、こんなにも間近に居たのなら霊気れいきを感知することができたはずだ。できないはずがない。

 つまり桜の右隣に居るこの何者かは何もない空間からこつぜんと姿を現したということになる。


(まさか、ゆうれい……か?)


 桜は気を詰めながら突然現れた謎の存在にへと顔を向けた。


 窓から射し込む白い月光の中に少女がいた。

 少女は正座で真っ直ぐに背筋を伸ばし、深くかんがいのこもった眼差しで桜を見つめていた。


 どくりと、全身が鼓動するかのような感覚が押し寄せてきた。


 少女の見た目は高校生くらい。美しく清らかな顔立ちをしていて、髪はさらりと背中まで伸びている。神秘のベールに包まれているかのような透明感のある白い肌。さらに服装もまた純白の格式を感じさせる和服のようなものを着ている。

 そして、静かに桜を見つめる少女の左目からすっと一筋、透明な雫が流れた。


おりは……詩織は、約束通りさくら様に逢いにきましたよ」


 少女は穏やかな声で言葉を紡ぎ、口許に柔らかな微笑みを浮かべる。


「さあ、桜様」


 少女は桜に右手を差し出す。そして、


「世界にそっと恋をいたしましょう」


 全く意味の分からないことを言った。


(………………は? 世界? 恋?)


 桜はぽかんと小さく口を開けて固まる。


(なんだこの女……電波か? いや、そもそもこいつ、いつの間にこの部屋に……。やっぱりゆうれい、なのか?)


 幽霊。魂だけの存在。

 魂は科学的にもれいじゅつ的にも未だ捉えることができない未知なるものだ。

 しかし幽霊を、魂だけとなった者の存在を認識する力。正確に言うと、ほとんどが認識してしまう力であるらしいのだが、幽霊の姿を見て声を聞き会話をしたりすることができる者は、まやかしではなく確かに存在するそうだ。

 もちろんかなりあやふやなものなので疑う者も多い。

 だが公的な場での検証記録等もあるため、幽霊というその存在は世間でも一応の認識を持たれている。


 桜は突然部屋の中に現れた、幽霊であるかもしれない少女を見る。

 少女は桜が何も反応を示さないからだろうか、とても困惑した表情を浮かべていた。


(それにしてもこいつ……)


 桜は少女の胸に目を向けた。

 少女の胸はでかかった。服の上からでもはっきりと分かる柔らかそうな二つの膨らみに桜はごくりと喉を鳴らす。


(いやいや、ちち見てる場合じゃない)


 桜は考える。

 この少女含めて雛のいたずらなのか。もしくは本当に記憶が欠落してしまっているのか。

 どうにかして確かめなければ。


 扉の隙間から漏れ出す光。部屋の外に誰かいるかもしれない。

 一旦このよく分からない女は無視してひとまず部屋の外に出ようと桜は立ち上がった。

 しかし、


「……っ……!」


 立ち上がった瞬間、先ほどよりも一層強い痺れが身体中を駆け巡り、桜は布団に倒れ込んだ。

 麻痺が全身を覆っている。

 そのうえ体にひどい違和感を感じる。まるで自分の体ではないみたいだ。


さくら様っ!」


 少女が慌てて倒れた桜に近づき、桜を抱きかかえた。

 やばい。

 側に来た少女からあの清らかな良い匂いがすらりと香る。

 そして、柔らかい。桜の右腕にむにっと少女の豊かな胸が押し当てられていた。

 幸福感溢れる感触を味わいながら桜は気付く。

 本物だ。この少女は幽霊ではない。少女には肉体があり、ちゃんと生きている。


(ん……? 生きて、いる……?)


 流れる思考の中に桜は引っかかりを覚えた。

 生きている。そのワードは一気に欠落していた記憶のフラッシュバックを引き起こした。


「…………生きてる……。あれ、私、生きてる……?」


 三月二十七日、早朝。

 谷底でついに抑えきれなくなった白炎に魂を灼かれ、そして死んだ。

 そのはずだった。

 だが今、桜は生きていた。以前と変わらない生の感覚があった。


さくら様」

「うわっ」


 気付くと少女の顔がすぐ目の前にあった。

 桜は慌てて身を引き少女の腕から抜けだそうと体を捩る。しかし未だ残る痺れのせいで力が入らず抜け出せない。


「なんなのよあんた……。というかそのさくら様ってのやめろ。気持ち悪い」

「桜様、おりです。私のことが分かりませんか?」


 詩織と名乗った少女は懸命な声で桜に問いかける。

 だが桜には少女が誰であるのか全く分からない。


「いや、初対面でしょ、私たち。私の名前はたしかに桜だけど……誰かと勘違いしてない?」

「……いいえ。していません」


 詩織は悲痛な面持ちでぐっと胸を押さえた。

 どうにもこの詩織という少女は桜と面識があるようだった。

 だが桜に詩織という名前の知り合いはいない。少女の顔にも見覚えはない。


「桜様」

「なによ。というかいい加減離れろ」

「はじめまして桜様。私はゆいしきおりと申します。桜様、どうか私のことは詩織と呼んでください」

「…………」


 詩織は打って変わって初対面としての挨拶をしてきた。

 不可解で気味の悪い女だと桜は思った。

 本当に顔見知りであるのなら何か思い出させるような話をすればいいものを。

 だがひとまずこの女のことは置いておこう。まず今は自分のことだ。

 死んだはずなのに生きていた。いったい何が起こったのか。


 桜は少し考え、未だ自分を抱きかかえる少女に目を向けた。

 もしかして。


「あんたは、私に何が起こったのか知っているの?」

「はい。知っています」

「説明して」

「はい、桜様。桜様にとても大切なお話がございます」


 話をする前にまず部屋の外で見ていただきたいものがあると詩織は言った。

 桜は詩織に体を支えられながらゆっくりと立ち上がっていく。

 そこでふと詩織が着ている和服と似たようなものを自分も着ていることに気付いた。

 欠落していた記憶を思い出したが、このような和服を着た記憶はどこにもない。

 つまり、誰かが勝手に着せ替えたというわけか。最悪だ。


 桜はそっと床についた足に力を入れる。


「歩けますか?」

「……大丈夫。もういいわ。一人で歩きたいから先に行ってて」


 詩織は言葉を濁したが、桜がもう一度言うとようやく離れ部屋から出ていった。


 桜はじっとその場に立って痺れが収まるのを待った。

 ほどなくして全身を包んでいた痺れが消える。

 桜はゆっくりと一歩ずつ確かめるような足取りで部屋の外へと向かう。


 明かりの付いたリビングと思われる空間に出た。

 とても広い。学校の教室を三つ分くらい繋げたほどの広さがある。

 そして物がない。

 中央付近に黒いシートがかけられた縦長の物がぽつりと置かれているくらいで、他に物らしき物は見当たらない、生活感のない空間だった。


 その無駄に広いリビングにあの女の姿はない。

 どこに行ったんだと部屋を見渡しながら進む。

 奥にはキッチンカウンターのような間仕切りがあり、右側にはずらりとバルコニーへと続く窓が並んでいる。

 窓から映る景色は高所から望む夜の街。

 街の灯は明るく、らんらんとした光を夜空に滲ませている。さらに遠くの街の空には、オレンジ色に光る球のようなものが無数に浮かんでいて。


(ここは……ぐれじゃないのか?)


 見たことのない景色に目を凝らしていると、


「桜様、こちらです」


 部屋の中央から涼やかな女の声がした。

 見ると黒いシートがかけられた置物の傍に白い和服を着た少女、詩織が立っていた。

 つい先ほどリビングを見渡した時には誰もいなかったはずだが、いつの間に。

 不審に思いながらも、桜は詩織の元へと向かう。

 蛍光灯の光に照らされ、詩織のさらりと流れる長い髪、そして瞳は翡翠の色をしていることが分かった。

 真っ直ぐに正した姿勢は美しく、その立ち姿は曇りのない透き通った水面に咲く白い睡蓮の花を思わせた。


 近くまで寄ると、詩織は両手で持っていた硝子コップを差し出した。


「桜様。どうぞ、お水です」

「……ん。ありがと」


 反射的にコップを受け取ってから随分と喉が渇いていることに気付いた。

 素直に飲んでいいものかと詩織を見やる。

 少なくとも目の前の少女から敵意は感じられない。

 コップの中の液体は透明で特に怪しい匂いもしない。

 まあ大丈夫だろうと桜はコップに口をつけた。


 それは本当にただの水だった。

 水はとても良い感じに冷えていて、まろやかな味わいがあった。喉が渇いていたこともあってかその水はとてつもなく美味しく感じた。

 水を飲み終えて一息つき詩織にコップを返す。

 そしてあらためて詩織の隣にある黒いシートのかけられた置物を眺めた。


「で、私に見せたいものってのはこれのこと?」

「はい。桜様、どうか落ち着いて、今の桜様を認識してください」


 そう言って詩織はさっとシートを外した。


「……え?」


 シートに覆われていたものは鏡だった。

 全身を映し出せる縦長四角の大きな鏡。鏡の前に立ってそこに映し出されるもの、それは当然自分自身の姿だ。

 だが、


「これ…………私?」


 鏡に映るそれは桜の知る自分ではなかった。

 ストレートセミロングの黒髪に深い青の瞳。それは自身の特徴と一致している。しかし、鏡に映るその姿は桜の知る自分より背丈が少し高く、顔つきも幼さが抜けたものになっている。

 これはまるで――――


「桜様の魂がお眠りになってから三年の時が流れました」


 桜の隣で詩織は淡々とそう告げた。


「さ、三年……? あんた、それマジで言ってんの?」

「まじ?」


 何故か詩織は小首を傾げた。

 早く説明を続けろと桜は苛立たしげに詩織を見つめる。すると詩織の顔はみるみる赤くなっていき、詩織はばっと桜から顔を逸らした。


(なんなんだこの女……!)


 桜は再び鏡に目を向ける。そして桜は両の眼に霊力れいりよくを集中させた。

 ぼっと炎が燃えるようにして桜の両眼に青い光が灯る。

 桜の瞳で揺らめく深い青。

 その色、その質。間違えようがない。この霊力は自分のものだ。

 どうにもこの鏡に映る姿は今現在の絢咲桜で間違いないらしい。


 桜の記憶だと自身の年齢は十二歳。あれから三年の時が流れているのなら、単純に考えて今、桜の年齢は十五歳ということになる。

 三年後の自分。

 なるほど。たしかにそう言われればそれくらいの外見に見えた。

 続けて桜は納得する。

 先ほどから感じていた違和感の正体、それはこれだ。

 三年間寝たきりでその間に体が成長していた。自分の体ではないように感じるのも無理はない。


(ん? あれ? 体の……成長?)


 桜は視線を少し下にずらし、そしてすぐさま元の位置に戻した。

 今、鏡の中にどうしようもない現実を見た気がした。

 いやいやそんなはずはないと桜は鏡から目を逸らし、そっと右手で自身の胸部を上から下へなぞる。

 ストン。

 桜の手は何も引っかかることなく落ちた。

 鏡を見る。

 それは絶壁だった。

 桜の胸は真っ平らなまま。三年前とほとんど変わりのない線の細い体つきをしていて、女としての成長が全く見られなかった。


「成長期、サボってんじゃねぇよ……!」

「桜様?」

「……なんでもない」


 桜は青く光る目を元に戻し、詩織に向き直る。


「それで、これはどういうことなの?」

「はい。桜様にとても大切なお話がございます」


 全然質問の答えになっていない。

 先ほどからどうにも詩織は硬い表情をしている。

 よく分からないが緊張しているのだろうか。

 そして桜が指摘するまもなく詩織は続けた。


「桜様にこの国の神になっていただきたいのです」


 桜はいぶかしげに眉をひそめる。

 いきなり何を言い出すんだ、こいつは。


「話が全然見えてこないんだけど……まあいいわ。この国の神ってのは国神くにがみのことよね?」

「はい、国神のことです」

「あのさ、くにがみってのはこの国の守り神。信仰対象よ。その国神になって欲しいってのはどうにも意味が分からないわ」

「えっ……? えっと、それは……」


 詩織は口ごもる。


「どうした?」

「……いえ、なんでもありません。少し、順番が……」

「順番?」


 詩織は目を瞑り、少し間を置いてから答えた。


「桜様の仰る通り、今この国における国神は国の守り神で、信仰対象でしかありません。ですが国神は八百年前まで、この国の君主でもありました」


 詩織はすっと小さく息を吸い、


「ですが国神の――」

「そんなこと知ってるわよ」


 話を続けようとしたところで声を被せてしまった。

 訳の分からない状況が続いてどうにも心が急いてしまっているようだ。

 顧みながら桜は口を閉じる。

 だが詩織の方も話すのを止めていて、桜の言葉を待っている様子だった。

 仕方なく桜は続ける。


「……そういう意味での国神でも同じ。意味が分からないわ」


 この国には昔、神様が居た。

 その神様にはいくつかの名前があるが総じて〈くにがみ〉と呼ばれている。

 今ではただ神社で祀られる神様に過ぎないが、八百年前までこの国はその国神と呼ばれる者を中心として成り立っていた。


くにがみが居た時代は終わった。この国の君主としての国神になるなんてこと、もう不可能よ」

「はい、桜様。宗教上で崇められる国神、政治的君主としての国神、それらは国神の本質ではありません。国神とは魔を払い、この地に住まう者の生命全てに安寧をもたらし、神の力を振るう者。それが国神です」

「……今あんたが言った、魔を払い、生命に安定をもたらすってのはアレよね。〈くにがみ〉とか呼ばれてる不可視のけっかい。あんたはアレが実在して、それを国神がもたらしているものだって言うの?」

「はい。国神の加護と呼ばれているものは国神の力によって維持されています」


 八百年前まで国神は神様そのものとして信仰を集めていた。

 当時の誰もが疑うことなく国神を神と認め、崇めていたのだ。

 それには大きな理由があった。


 この世界には〈そんざいらぎ〉と呼ばれる現象がある。

 存在の揺らぎ。いわば魂魄の異常暴走。

 肉体ではなく魂に及ぶ病のようなもので、完全に引き起こってしまえば対処のしようがなく、絶え間ない苦痛とともに正気を失っていき、最後にはもの、もしくはそのまま死に至る。

 根源的な魔の者による呪いだとされているが、一方で元来生命が有する進化作用ではないかとも言われている。

 

 主にこの存在の揺らぎが引き起こる原因は体内霊力の過度な乱れによるものだとされている。

 そして、世界はあらゆる生命の存在を否定するかのようにれいりょくを乱す空間に満ちていた。


 霊力が安定しない場所ではまともに生きていくことはできない。

 だが国神が守護を宣言した空間――国内に限り、人々の霊力は安定をみせた。さらに守護空間内では魔物も弱体化し、人々は魔族の脅威からも逃れることができたのだった。


 くにがみのおかげで平穏に生きることができる。その地に住まう者達にとってまさに国神は神様だった。

 だから八百年前の終戦直後、国神が姿を消していたことが知れ渡った時、国内は混乱を極めたそうだ。


「だけど国神が居なくなった後も国内での霊力はきっちり安定したまま。魔物も変わらず国内に入れば弱体化する。これはどうしてよ」

「国神は表舞台から姿を消しただけで、今日まで影ながらもこの国を守り続けてきたのです」

「そうとも言われてるわね。でも現実的に考えて、この国全体を覆うほどの巨大な守護結界が誰にも認識されずに何百年と存在し続けているわけがない」


 ましてそれがたった一人の力によって維持されているだなんて、とんだ迷信だ。


「この国が魔の領域の影響を受けていないのは、自然霊力の耐性だとか、プラス力場の集団形成だとか、いろいろと説はあるけど、国神の加護が実在しているとするよりかは断然合理的だわ」


 未だに結論を導きだせないのは元凶である魔の力を解明できないでいるからだ。


「なんにせよ、国神は神なんかじゃない。単に国を治めていた王が神を名乗ったってだけの話。別にあんたが何をどう信じようと自由だけど、さっさと本題に……私に何が起きたのかを説明してほしいんだけど」


 神妙な顔で桜の話を聞いていた詩織はやがてゆっくりと頷いた。


「分かりました。では実際に見ていただきましょう」

「……見るって、なにを」

「桜様。私は今、国神の力、その源を所持しています」


 そう言って詩織は胸元から何かを取り出した――――ように見えた。

 詩織の左手は何かを握るような形をしている。しかしその手には何も持っていない。

 だが、瞬き一つした次の瞬間不思議なことが起きていた。

 何も持っていなかったはずの詩織の左手には薄い光を放つ赤い小刀のようなものが握られていたのだった。


 結界でも張っていたのか。しかしこんな目の前で結界を解除されたのなら霊気を感知できるはずなのだが。


 詩織はその赤い金属質の小刀を両手に乗せ、桜の前に差し出した。

 霊力が流れているのか、小刀は呼吸をするかのように一定の間隔で赤い光を明滅させている。


「これは神の核、〈しんかく〉と呼ばれているものです。国によって様々な呼び名があるようですが、私たちはこれをそう呼んでいます。そしてこれはこの国の始まりと共にあり続けた特別な神核――くにがみしんかくです」

「国神の、神核……?」


 詩織がしんかくと呼んだそれは柄のないただの風変わりな小刀にしか見えない。

 だが、何かが変だ。

 刀を見ていると次第に身体が熱くなりだし、心臓が早鐘を打ち始める。脳を直接撫でられるかのような奇怪な感覚。小刀もまた桜に反応するかのように光を強めていく。

 なんだ、これは。


「このしんかくが今この瞬間もこの国の霊力を安定させる領域を維持しています。桜様、国神はこの神核と同調し、領域を維持し、神の力を振るってこの国を今日まで守り続けてきたのです」


 ふっと詩織は一つ呼吸を置き、またまっすぐに桜を見つめる。


「桜様、しんかくどう調ちょうした者に莫大な生命力を与えます。いわゆる不老不死です」

「不老……不死?」

「神核は同調しようとする者の魂を試します。器なき者が神核を取り入れようとすればその者には死が訪れます。ですが桜様ならまず間違いなく神核と同調を果たすことができるでしょう」

「いや、なんかもうほんと全然話が分かんないんだけど。まず何で私がそのしんかくどう調ちょう? する話になってんのよ。私は不老不死なんかになりたくないわよ」

「……桜様はまだお気付きになられていませんか? 桜様の内にある〈しんほのお〉は消滅したわけではありません」

「鬼神の炎……? なによそれ」

「桜様を追い詰めた忌まわしきはくしょくの炎のことです」

「ああ、アレのことか。勝手に変な名前つけんなよ。というか何であんたアレのこと知って――――いや……え?」


 間の抜けた声を上げ、目を見開く。ぞくぞくと背中に寒気が這い上がってくるのを感じながら、桜は右手を胸に当て、自身の内側を探る。

 すぐにその存在を見つけた。


 詩織が言った通り桜の魂を焼き尽くしたはくえんは桜の中に変わらずあった。

 そして桜はようやく目の前の少女が今まで何を話していたのかを理解した。

 白炎の封印状態はほとんど変わっていない。桜が最後を迎えたあの日、三月二十七日の時点よりかはいくらかマシにはなっているが、それでもこのまま放っておけば一日と持たず再び炎は封印を破って桜の魂を焼き尽くすだろう。


「そのしんかくとやらに同調することができれば、私の中にあるあの炎を抑えることができるってこと?」

「はい。完全に鬼神の炎を抑え込むことができます」

「そして神核と同調すれば、必然的に私はくにがみになる」

「その通りです!」

「つまり、死にたくなければ国神になれってわけ?」

「い、いえ違います! 決してそのようなことでは……!」


 詩織は慌てて否定した。


「これは、桜様にお願い申し上げていることなのです。先ほど申しました通り神核との同調は誰もができることではありません。同調できたとしても神核を使いこなすのはとても容易なことではありません。国神の神核となれば尚更です。ですが桜様ならば、必ず神核の力を引き出すことができます。桜様のお力が必要なのです」


 これは、何の冗談だ。

 死んだはずが生きていて、三年の時が流れていた。しかし状態はあまり変わらず数時間後にはまた白炎に焼かれて死ぬ。だがこの詩織という少女は国神になれば生きながらえることができると言い。もう無茶苦茶だ。


「なんで私なのよ。他にもっとマシな奴がいるだろ。なんでこんな厄介なもの抱えた奴をわざわざ国神にしようとするのよ」

「桜様をおいて他にくにがみを継ぐに相応ふさわしい者など存在しません」

「そういうことじゃなくて。あんたの話が全部事実なら、国神はこの国を根幹から支える重要な役割を担っている。誰彼構わず渡していい力じゃない。なのに何で国を守ろうなんて意志の欠片もない私が」

「それは……」


 詩織は言葉を詰まらせるも、すぐに続けた。


「それは、国神が桜様をあとぎとして選ばれたからです」

「国神が……私を?」


 思慮外の返答に思考が止まる。

 いや、考えられる理由としてはそれしかないのかもしれない。

 しかしそれは、どういうことなんだ。


「こうして私が国神の神核を預かっていること、それがその証しです」

「…………」


 国神は桜を選んだ。

 国神は桜のことを知っている。

 そしてこの妙な女を差し向けたのが国神であるのなら、国神は桜の内に封じられている炎――白炎のことも知っているということになる。

 だとしたら、そいつは。


「その、私を選んだ国神ってのは……誰なの」


 そして、詩織はあっさりとそれを答えた。


「国神は、桜様のお様であられるあやさきあまね様です」


 頭の中が真っ白になった。


(あいつが…………あやさきあまねが、くにがみ……)


 思考をクリアにし、桜はできるだけ冷静にそれを事実だと仮定してそのことが意味するところを考える。

 それは桜の中にあったいくつかの疑問に答えが出るような気がした。

 同時にまた疑問も生まれていく。

 あやさきあまねが国神。

 ならば、絢咲周の娘であり、従者であるひなはどうなる。


ひなは……あっ、その、雛ってのは私の、のことなんだけど……」

「雛様ですね。もちろん存じておりますよ」

「雛は、私が今…………いや、雛はあやさきあまねが国神だってことを知っているの?」

「もちろんです。雛様はくにがみであるあまね様にお仕えする〈〉ですから。それと、もちろん雛様は桜様が今こうしてご無事であることもご存知ですよ。桜様、雛様はとても桜様のことを心配なされて――」

ひなが……あいつの……!? じゃあ、雛は最初から……私を国神にする為に…………雛は……全部、あいつの為に、私を……)


 桜はそれ以上考えるのを止めた。

 どんなに考えても想像の域を出ない。雛が何を考え自分と一緒に居たのか、それは雛に直接聞かなければ分からないことだ。


 詩織はまだ何かを話していた。だが桜にはもうどうでもよかった。

 桜は詩織に背を向けて歩き出す。


「え……? あの、桜様? どこへ、行かれるのですか?」


 バルコニーに続く窓を開く。

 ちょうどそこには石下駄が左右揃って置かれていた。はなに足指を通す。地面を軽く蹴り、カンっと下駄の響く音を鳴らして手すりの上に立つ。


 暗がりに沈んだ周囲を観察していくと、今まで居た部屋がマンションの一室であったことが分かった。上にフロアはなく、最上階にある部屋のようだ。

 雲のない夜空には真円から少し欠けた月が浮かんでいる。空気はほどよく暖かい。今の季節は春だろうか。


「桜様、どうかなされましたか?」

「私はくにがみになんかならない。だから悪いけど国神になる奴探してるんなら他当たってよ」

「お、お待ち下さい桜様! まだお話ししなければならないことがたくさんございます! それにこのままでは桜様はまた鬼神の炎に――――桜様ぁ!」


 桜は手すりを蹴り、体を宙に投げ出した。


 霊術において基礎とされている五つの霊術がある。

 だいれいじゅつ、その一つは〈こうじゅつ〉。霊力で浮力を生み出し自在に空を飛行する。


 桜は飛行術を使い、マンション半ば辺りでふんわりと宙に浮き止まった。そしてマンションの外壁を一つ蹴り、桜は温かな風が吹く夜の空へと駆け出した。


 桜は時速五十キロほどのスピードを出しながら真っ直ぐに空を飛んでいく。

 眼下には見たことのない小綺麗な住宅街。広く伸びた車道をなめらかに走る車の数々。街の灯は明るく、田舎町にはない活気のある景色が続いていた。


(どうにも、ここはぐれどころかきたもりですらないみたいだな。これじゃあ丁度良い死に場所探すのにも苦労しそう)


 さてどうしたものかと思いあぐねつつ、自然と目はそこへ向かう。

 今居る街から遠くなだらかに下っていった先、そこには見事なまでに明るい光に包まれている街がある。先ほど部屋から見た時にも気になった、ほたるのようなオレンジ色の光が無数に浮かんでいる街だ。


(もしかしてあれは……)


 その光景に思い当たる節があり、特に行く当てもない桜はそのまま光の集う街へと向かうことにした。


 近づくにつれて、その街の上空にいくつもの舟が浮かんでいるのが見えた。

 霊術により空を飛行する木造の船――〈くうせん〉。

 大型から小型のものまで様々な船が、オレンジ灯の浮かぶ空をのんびりとしたスピードで進航している。

 街に近づけば近づくほど地上に居る人の数が目に見えて増えていき、陽気な騒ぎ音、賑わいの声が大きくなっていく。

 空気が変わっていく。


 しばらく進むと、桜の前に空に浮かぶオレンジ灯の大群が迫ってきた。

 桜は一度空で停止し、その光の一つを手に取った。

 夜空に浮かぶオレンジの小さな光体、それはかみとうろうだった。

 六角型の紙灯籠で大きさはちょうど手の平に載るほどのもの。中ではオレンジ色の火がゆらゆらと揺れていて、わずかにだが手元に熱を伝えてくる。

 六角の側面には文字や絵を描いたりするのが習わしだ。

 桜が手に取った紙灯籠にも墨字で何かが書かれていた。

 ぐだぐだに崩れた文字と、その横に何を描いたのか見当もつかない歪な絵。

 おそらく小さな子供が書いたものなのだろう。

 灯籠を手の中で回して文字を読み取っていく。

 全部ひらがなだ。書かれていた文字は、


『おかあさん だいすき』


 桜は静かに笑い、そっと手に取っていた紙灯籠を空へ返した。


 光溢れるその街は、とても雅やかな街だった。

 霊術により自立して空に浮かぶ紙灯籠の数は軽く万を越えていて、その光は幻想的に街を染め上げている。

 整然と区画された街並みに、とてつもなく大きな十字形の道。その十字道、東西南北それぞれの道では賑やかな光を放つ行列がいくつも動いている。そしてその十字道の中心。そこにはとても見覚えのある建造物が遠く離れた空からでも確認できた。


「やっぱりここは……」

「おい君、止まれ。ストップだ」


 後ろからやけに指図がましい男の声がした。


「なによ」


 振り向くと黒色赤目の狐面をつけた男が立っていた。

 男は黒襦袢に黒袴、日章紋の付いた白い羽織を肩にかけている。

 どうやら警察のようだ。


「なにって君、祭りの期間、三十メートル以上の飛行は禁止されてるってこと知っているだろ」

「そこら辺で飛んでる奴けっこういるけど?」

「警官や祭りのスタッフはいいに決まってるだろ」


 溜め息交じりに警官は言う。

 相手は警察。逆らうと色々と面倒だ。

 ここは素直に従うべきか。


「すいません、知りませんでした。すぐに降ります」

「ちょっと待った。知らないってことはないはずなんだが……」


 どうやら余計なことを言ってしまったらしい。


「ここのところ妙な事件がたて続いてて、少しでも不審な奴がいたら逐一確認しなきゃいけないんだ。悪いけど念のためってことで、免許証か資格証、見せてもらえるかな」


 まさかの不審者扱い。

 当然身分証など持っていない。

 こうなるともう逃げたほうが早いのだが、


「なんで免許証と資格証限定?」


 身分証明をするなら他にもあるだろうと、ついどうでもいい疑問を口にしていた。

 するとどうしたことか警官が途端に押し黙った。

 嫌な沈黙が流れる。

 やばい。また余計なことを言ってしまったか。


「もしかして君は今、飛行資格を持たずに空を飛んでいるのか?」

「あっ……!」


 言われて桜は思い出す。

 一般的に公共空間でこうじゅつを使用するには霊術師の資格証、もしくは飛行術の免許証が必要になるということを。


 桜が住んでいる地方は例外で、免許証や資格証がなくても自由に空を飛ぶことが認められていた。

 その理由は単純に田舎だから。人口密度が低く空にゆとりがあるからだ。

 人の数が増えれば必然、飛行術を使える者は多くなる。さらに人だけでなく飛空船などの交通も一段と増えることになり、上空での事故発生率が高くなる。

 そのため飛行術の使用に関する様々なルールや制限が設けられ、それらの規則を理解し一定の技量を持っていると認められた者だけが空を飛ぶことが許されるのだった。


「まあ自由飛行が認められてる地方から来た観光客が免許証持たずに飛んでるってことはよくあることなんだけど、それにしても君は堂々と飛びすぎだな。もっとひっそり飛べよ。というか君、本当に祭りの期間における飛行制限を知らなかったのか? しんへ来た時にどこかで目にするはずなんだけどなぁ」


 警官がふと洩らした地名に反応して桜は顔を上げる。


「あっ、やっぱりここってしんなんだ」

「おいおい、何言ってんだ? 大丈夫か?」


 神のみやこしん

 桜はついこの間、神都におけるある話を聞いたばかりだった。

 そう、あれは――――


「ぐっ……!」


 突然内側から引き裂かれるような激痛が走った。

 はくえんだ。

 白炎がわずかにではあるが桜の中に現れた。

 封印でまだ収えられているため炎は広がらないが、炎が揺らめくだけで激痛と共に意識が遠のいていく。

 視界が霞む。


「お、おいっ、どうした!?」


 飛行術を維持できなくなり、力なく落下する桜。

 それを追って警官が一気に降下する。


「……ッ!!」


 どうにか桜は空中で警官に受け止められた。


「大丈夫か! おい! しっかりしろ!」


 こんな人の多い場所であの炎を外に出すわけにはいかない。

 桜は震える右手を胸に当て、目を瞑り、内側へと意識を研ぎ澄ませる。霊力を使い、中にある封印を強めていく。

 ふっと、桜は小さく息を吐き出した。

 ひとまずはくえんを収えることができた。

 体中を駆け巡っていた痛みが薄まっていく。

 ふわふわとぼんやりする意識の中で、煌びやかな光で溢れるしんの街を眺める。


『あの全焼したしんひらじんぐうには秘密があります』


 三年前、別れ際にひながしたあの話を桜は思い起こす。

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