天花咲きの通り道

思原曜一

第一章 天地開くる生命の花

01 桜散る


 それはきっと、世界にそっと恋をするということ。



 あやさきさくらは目を開いた。

 白色の電灯が照らす見慣れた天井。青い藺草の香り。空気は冷え切っていて、室内は静けさに満ちている。

 背面がじんわりと温かい。

 緩やかなまどろみに誘われ、瞼が自然と落ちていく。


 桜ははっと息を呑んで、跳ね上がるように上半身を起こした。

 すぐさま右手を胸に当てる。

 目を瞑り、自身の内側を探っていく。


 数秒して桜はほっと安堵の息を漏らした。

 危ないところだった。

 あのまま眠りこけていたら最悪な形で終わりを迎えていた。


 畳の上に転がったデジタル時計を拾い時刻を確認する。

 現在時刻は午前三時五十二分。

 人目を避けるため深夜に家を出ておきたかったが、この時間帯でも問題はないだろう。


 桜は気怠げに立ち上がり、ゆっくりと体を動かしていく。

 そこでふとこくたんふみづくえの上に置かれた二枚の紙で目が留まった。

 そういえば手紙を書き終えてすぐにが起きたのだった。


 文机の上に置かれた二枚の紙。

 それは昨日にしてようやく書き上げることができた、義理の姉にへと向けた手紙だ。

 真っ直ぐに自身の気持ちを書き綴ったその手紙はほんの少し読み返しただけで顔が熱くなる。

 いますぐ焼き捨ててしまいたい。

 しかし手紙には大事な頼み事も書いてある。書き直している時間はもうない。

 桜は諦めて手紙を封筒に入れる。

 そして荷物をまとめたダンボール箱にへとその封筒を隠した。


 ホットカーペットの電源を切り、黒のジャケットを羽織る。

 慣れ親しんだ部屋を目に収め、明かりを消す。

 障子を開いて縁側に出る。


 部屋の中も大概であったが外の空気はさらにきんと冷たく張っていた。


 桜が住む屋敷は山中にある。

 石垣に囲まれた、無駄に広大な庭がある物見高い古風な屋敷だ。

 その屋敷から数キロに渡って建つ家はない。ここらの山一帯は全て桜の義理の母が所有しているからだ。


 現在、屋敷の灯りは全て落ちている。そのため外は暗闇。澄み切った空に浮かぶ月と星々だけが世界を照らしている。


 くつぎに放置していた靴を履き、庭から門へと向かって歩きだす。

 靴底がギュッギュと篭もった音を立てて庭に積もった雪を踏みしめていく。

 もうあと数日もすれば四月だというのに、この地方にはまだ春が訪れる気配はない。

 ふるりと桜は体を震わせた。

 早朝ということもあってか一段と寒い。

 仕方がない、と桜は霊力を使った。

 桜の体の周りに熱が生まれる。ほくほくとジャケットの内側が温まっていき、全身がほどよい温もりで充たされる。


 ふっと息を吐き、ジャケットのポケットに手を入れる。

 手紙を書き直す時間はないが、まだその時まで少し時間がある。

 桜は苦々しげに遠景に浮かぶ高山、不破砥山ふわとやまを眺めた。


 屋敷から出ると同時に桜は軽く地面を蹴った。

 その一蹴りで桜は空へと大きく跳躍し、屋敷の離れにある高木の樹芯にぴたりと降り立つ。

 すぐにまた樹芯を蹴り、軽々とした身のこなしで遠く離れた木の上へと飛び移る。

 そうやって桜は次々と長距離の跳躍を繰り返し、ものの数分で不破砥山ふわとやまの山頂に辿り着いた。


 やまの山頂には大きな神社がある。

 ぐれひらじんじゃ

 この国の神が祀られている神社の一つだ。


 木々に囲まれた神社の境内は静謐な白い光で包まれていた。境内に人の気配はなく、しんと静まりかえっている。

 境内を照らす白い光は参道の石畳と灯籠によるもので、境内に降り積もった雪を照り返し、ぐれひらじんじゃを一層白く神秘的なものに見せていた。


 桜は鳥居を抜けて、光る参道を真っ直ぐ進んでいく。

 この光る参道の石畳にははっこうせきが使われている。

 白光石という石は日中に太陽の光を溜め込み、夜中にその溜め込んだ光を放出し続けるという性質を持っている。多量の光を溜め込むことができ、更に放たれる光は純然と白く美しいものということで有名だ。

 白光石はこの国では採れない希少な鉱石であり、その多くが国の神を祀る神聖な場所で使われている。


 桜は白塗りの拝殿の前で立ち止まった。

 そのままなにをするわけでもなく、じっと睨むようにして拝殿を見詰める。


(……何やってんだろう。この期に及んで、まだ……)


 覚悟は決まっている。

 それでも最後まで希望を捨てきれないでいる自分の弱さが情けなく、やるせない。


「桜ぁ!」


 境内にとても耳馴染みのある声が反響した。

 桜は耳を疑った。

 今は早朝の四時。こんな時間にこんな場所であいつの声が聞こえるはずがない。しかし今聞こえた声はたしかに。

 息を一つ呑み、振り返る。

 そして鳥居のある方角――その上空に人影を見つけた。


「……っ、……」


 暗闇に浮かぶその人影の少女、いさはやは上空から紫色の長い髪を靡かせながら勢いよく下降し、桜の前に着地した。

 着地するなりはがくりと膝に手をつき、荒い息を吐きながら肩を鳴らす。


「はぁっ……はぁ……っ、桜っ! ……えっと……その! …………今から、行くの?」

「……そうだけど。あんた、なんでそれを」

「なんでって、桜こそなんで今日出発するって教えてくれなかったの? ……桜は、私に黙って行こうとしてた?」


 寂しげな瞳で伊沙奈が問いかける。

 暗闇の中、白光石の光に照らされるの格好は、よく見るとピンクのパジャマ一つで上には何も羽織っていない。

 そんな格好でこの寒空を飛んできたのだろうか。


 そして数秒、答えを返さず視線を受け止めていると伊沙奈は察したようで。


「ひどいよさくら……行く前に必ず声かけるって言ってたのに」

「いやでもさ、なんかそういうのってめんどくさいじゃん」

「ひどいっ! 大事なことなのにめんどくさいで済まさないでよ!」


 もうっと伊佐奈は諦めたように息をつき、そして先ほどまで桜が見ていた拝殿へと目を向けた。


くにがみ様にお祈りしてたの?」

「まさか」

「だよね。なにかに祈るなんて桜らしくない。……でも、ここ最近の桜、少し変だったから。だから……」

「変も何も、急に知らないところで暮らすことになったのよ。ひなは一緒じゃないし、私だって不安にもなるわよ」

「……そっか。でも、そういうのも、桜らしくないね……」

「そう」

「…………あのさっ、桜…………えっと…………その………………」


 もどかしげに開かれた口から続く言葉はなく、次第には顔を俯かせた。

 苦味のある静寂が神社を包みこむ。

 内心、桜はとても動揺していた。

 今、一番会いたくない奴と出会ってしまった。

 もうその時は近い。僅かな引っかかりも残すわけにはいかない。

 すぐに伊佐奈の前から立ち去らなければ。


、悪いけど、もう行かないといけないから」


 そう言ってから、もうこれで最後だという事実が頭をよぎる。

 伊佐奈には何も言わずに消えるつもりだった。

 でも、こうして会ってしまったのなら、最後に。


「……。その……私と比べればアレだけどさ、他の同年代の奴と比べればあんたの〈れいじゅつ〉はかなり優れたところにある。だからまあ、これからもせいぜいがんばりなさいよ」


 だが結局、伝えたい言葉を口にすることはできなかった。


「じゃあね、伊佐奈」


 そう言って地面から飛び立とうとしたその時、


「待って!」


 伊佐奈が桜のジャケットをぎゅっと掴んだ。


「まだっ、行かないで……! …………えっと……そうだ! 昨日ね、近くでまたを見つけたんだ。開いたらね、すっごくキレイな景色が広がってて」

「あんた、また勝手に……!」

「ねえ、今から見に行こうよ」

「無理よ。時間がないわ」

「どうして?」

「どうしてって……ひなと中央の駅で待ち合わせしてるからよ」

「雛さんと? こんな朝早くに?」

「こんな朝早くによ」

「でも、中央なら桜が飛べば十分もかからないでしょ?」

「だから、もう後十分ほどで待ち合わせの時間なんだって」

「……でも、少しくらいならいいでしょ? すぐ近くの場所だから。本当に、本当にすっごく綺麗だから。……少しだけでいいから。お願い、桜」


 紫色の光彩を放つ大きな伊佐奈の瞳。

 その引力のある瞳が縋るように見つめてくる。


「はぁ……分かった。でもその凄いのとやらを見るだけよ。中には絶対に入らないから」

「うんっ!」


 桜と伊佐奈はふわりと地面から浮き上がり、ゆっくりと空へ昇っていく。

 そして地面から浮遊した二人はそれぞれ膝を小さく曲げ、何もない空間を蹴りつけた。桜は青、伊佐奈は紫の光を伴ってグンと勢いよく上空に向かって加速する。

 二人は葉暮平日神社を抜け、まだ陽の昇らない空へと駆け出した。


 雪に沈んだ閑静な街、ぐれ市の上空を二人は飛んでいく。


「うぅぅ~」


 飛び始めてから少しして、桜の隣で飛ぶが寒さを思い出したかのようにふるふると体を震わせだした。

 パジャマ一つで外に出れば寒いに決まっている。

 そんなに慌てて家を出たのだろうか。というか何でさっきまで平気だったんだ。

 呆れながら桜は着ていたジャケットを脱ぎ、伊佐奈に差し出した。


「ほら、伊佐奈」

「うっ……でも、それだと桜が」

「いいから早く着ろ。見てるこっちが寒いって。私はれいりょく使うから。ほら」

「……うん。ありがと、桜」


 伊佐奈は桜のジャケットを羽織り、温もりを噛みしめるようにぎゅっと腕を組む。


「はぁ、あったかぁい」


 ほくほくする伊佐奈をはたに桜はさきほど引っかかった疑問を思い出した。


「そういえば伊佐奈、あんたは何で私が今日、それもこの時間に行こうとしていたことを知っていたの?」


 今日がその日になるであろうことは前々から分かっていた。だがそれを知るのは自分だけ。誰かに知られるということは絶対にない。

 そもそも桜はこの時間に家を出ると決めていた訳ではない。たまたまこの時間に目を覚まし、そして気まぐれに神社へと足を運んだのだ。

 それらを伊佐奈はどのようにして知り得たのか。


「ついさっき、桜のおさ……ごめん。……あまねさんが、私の部屋に来て、桜が行こうとしてること、教えてくれて」

「え……?」


 虚を衝かれたように桜は声を漏らした。

 どうして今、あいつの名前が伊佐奈の口から出てくる。


「本当に? それは、あいつで間違いなかったの?」

「うん、間違いないよ。向こうからそう名乗ってくれたし、桜から聞いていた通りの仮面もつけてたよ。とても綺麗な人だった…………桜が言うような人には全然――」

(あいつ、まだここに居たのか……! なんで伊佐奈に……このタイミング…………あいつはやっぱり、気付いてるのか……?)

「桜? 聞いてる?」


 の声ではっと我に返る。


「……なに言ってんのよ。あいつが綺麗な人? 仮面つけてるからそんなの分からないじゃない。というか、あいつが常に仮面つけて顔隠してんのはブスだからに決まってるわ」

「もうっ、そんなことないよ。仮面をつけてても綺麗な人だってことくらい分かるよ。それに仮面をずっとつけているのはあまねさんが元はしんに住んでた人だからじゃないかな」

「……なんであんたがあいつの味方すんのよ」

あまねさんは、桜が言うような悪い人じゃないんじゃないかなって、直接会って私はそう思った」

「……、もし私があんたの父親に会って、意外と良い奴だった、なんて言ったらあんたはどう思う?」

「…………ごめん。そうだね。私が口出しできることじゃなかったね……」


 気まずく思ったのか伊佐奈はそのまま口を閉ざした。

 会話が止まる。

 桜は再び絢咲周が伊佐奈の前に現れた意図と、それが意味することを考える。


 全てを掴めているわけじゃない。それでも、きっと。


 桜は空を見上げた。

 澄み渡る星空には雲ひとつ見当たらない。

 きっと今日は良い天気になるのだろう。


「一緒に中学、行きたかったね」


 少ししてがぽつりと呟いた。

 仕方なく桜は伊佐奈に目を戻して言葉を返す。


「別に。というか私はもう学校なんてところに行きたくない。あんなところ、面倒でしかないわ」

「でも、私と一緒だったら桜、行きたいって思うでしょ?」

「ねぇーよ」


 そう返すと伊佐奈はくすりと口許に笑みを浮かべた。

 実に腹立たしい。


「ねえ、けっきょく桜はとうきょうのどこに行くことになったの?」

「さあ」

「さあって、桜は今日――今から出発するんでしょ? それなのに桜はまだ引っ越し先を知らないの?」


 もっともな伊佐奈の疑問に桜は眉をひそめる。


「だから、これからひなに会って教えてもらうことになってんのよ」

「じゃあ向こうに着いたら電話して。それでどこに引っ越したか教えてよ」


 桜は内心で舌打ちする。

 そうだ。こういうことも訊かれることになるから会いたくなかったんだ。


「言ったでしょ。この急な引っ越しは〈れい〉絡みだって。だからどこに引っ越したかとかは教えられないのよ」

「…………そう、なんだ……。じゃあ……そうだっ! 私ね、今度お母さんに入学祝いで携帯電話買ってもらうんだ」

「へぇー、いいわね。でも中学生に携帯ってなんか生意気じゃない?」


 携帯電話という代物が一般世帯に普及しだしてだいたい七年といったところか。大人はまだしも子供が持つものとしては高価すぎるおもちゃだと桜は思う。

 しかし伊佐奈は、


「今の中学生だったら全然普通だよ。みんな持ってるって。ねぇ、桜も向こうで買って貰ってよ。携帯があればメールができる。いつでも気軽に連絡取り合えるよ。どこに引っ越したかとかは聞かないからさ。ねっ、それならいいでしょ?」

「無理よ」

「毎日じゃなくていい。三日に……一週間に一回、簡単な返事くれるだけでいいから」

「だから無理だって」


 拒絶の言葉を口にする度にの瞳が少しずつ潤みを帯びていく。


「別に携帯じゃなくていい。普通の電話で……一ヶ月に一回、少しだけでいいから話そうよ」


 桜は苦々しく息を吐き、そしてはっきりと伊佐奈に告げた。


「伊佐奈、悪いけど私は、向こうに行ってからあんたと連絡を取り合うつもりは一切ない」

「なんでっ……? なんで桜、そんないじわるなことばっかり言うのっ?」


 とうとう伊佐奈は嗚咽混じりの声を上げた。


「伊佐奈、私は別に意地悪でこんなこと言ってるんじゃない。……〈れい〉での決まりだからよ」

「なんでこんな時にだけれいなの!? 桜はずっと、礼家なんて自分には関係ないって言ってたのに! 言ってたクセに……! なのに、なんで……」


 咳詰まった伊佐奈の声が寒空の中に沈んでいく。


「ずっと……ずっと一緒だと思ってたのに……」


 伊佐奈の啜り泣く声を隣で聞きながら桜は静かに空を飛んだ。


 冷たい風が頬を撫でて過ぎていく。

 乏しい街の灯から遠ざかり、畑地を抜け、次第に伊沙奈は高度を落としていった。

 雪に埋もれた森の前で止まる。


「桜、ついて来て」


 宙に浮いたまま伊佐奈は森の中へと入っていった。桜もその後に続く。

 伊佐奈の背中を追いながら木々の間を抜けて進む。

 しばらくして伊佐奈が何かを確認するように周囲を見回し、地面に降り立った。


 は顔を上げ、静かに中空の一点を見据える。

 何の変哲もない雪に覆われた寒々しい雑木林の中。だがここに、伊佐奈にしか見えないがある。


 伊佐奈の右眼が紫色から黄色へと変化し仄かに光を帯び始めた。その黄色くなった瞳は円状の幾何学的な紋様へと変化し、さらにその紋様が規則的な回転を始める。


 いさはやは異能の力を秘めた右眼を持っている。

 そののうの力はこの世界と重なって存在する別次元の世界、異空間――〈かいそう〉の歪みを視認し、開くことができるというもの。

 のうりょくのリストに載っていない、かなり特殊な異能力。伊佐奈はその異能力を〈くうの眼〉と呼んでいる。


 ぴしりと窓ガラスにヒビが入るような音とともに伊佐奈が見据える空間に亀裂が生まれた。亀裂は次第に隙間を大きくし、広がっていく。

 その何度も目にしてきた光景を眺めながら、桜はこれまで伊佐奈に巻き込まれ駆け巡ったかいでの出来事を思い出していた。


「あんたのその眼には本当に何度も迷惑をかけられた。でもその代わり、貯金の面ではずいぶん世話になったわ」

「世話になったって、全部桜のおかげで持って帰れたものばかりじゃん。……それに結局、桜はこれを作るために、せっかく貯めたお金の半分以上も使っちゃったんでしょ?」


 そう言って伊佐奈はジャケットとパジャマの右袖をめくり、手首につけていた銀のバングルを桜にかざした。

 それは三ヶ月前に桜が伊佐奈へと渡したものだった。

 しかし、上着を忘れて出てきたくせに、なんでそれはつけているんだ。


ひながなに言ったか知らないけど、ただの安物だから、それ」

「うん。大切にする」

「……とにかく。、もうその眼は使うな。これで最後にしろ。最初の頃に比べれば今は確かに安定してる。だけどあんたは、ただでさえ何もしなくてもトラブルに巻き込まれる体質なんだから……だからちゃんと……」

「心配、してくれるんだ」


 なぜか伊佐奈はほっとしたように笑みを浮かべた。

 見当違いな反応を見せる伊佐奈に苛立ちを覚えながら、語気を強めて桜は言う。


「あんた本当に分かってんの? 私はもういなくなる。もし次に何かあっても私が助けに行くことはない。だからちゃんと自己管理しろっつってんのよバカ伊佐奈。見つけたゆがみ見境なしに開いてんじゃねぇよ。いい加減学習しろ」

「む……分かってるよ。…………バカ桜」

「なんか言った?」

「別に。ほら桜、開いたよ」


 言われて前方を見ると、空間に綺麗な縦長楕円の裂け目ができあがっていた。

 裂け目はこの暗くうっそうとした森の空間を切り抜き、全く異なる鮮やかな青を映し出している。波の揺れる音。裂け目からは暖かな空気が流れ、こちら側の世界にはまだ顔を出していない眩い太陽の光で溢れていた。


 伊佐奈は眼を元に戻し、開いた空間の前に向かう。


「桜、見て見て!」


 伊佐奈が異世界の入り口の側ではしゃいだ声を出す。

 桜は肩をすくめ、空間の裂け目に近づき中を覗いた。


 その先には透き通るような青の世界が広がっていた。

 遥か彼方に浮かぶ緩やかな水平線。爽快な青空と水面が果てなく続き、温かな陽の光で満ち満ちている。

 そして、


「ねっ、綺麗でしょ! 桜だよ、桜!」


 眩い陽光の中、ひらひらと桜色の光を持つ花びらのようなものが空から無数に、絶え間なく降り続けているのだった。


「たしかに綺麗……だけどさ」


 この空から降り続けている光る花びらは一体なんだ。

 桜はかいそうの裂け目に顔を入れ、その花びらの正体を探る。


 入り口から左、遠く離れたところに大きな白い柱のようなものが確認できた。

 柱は空を貫くように天高く真っ直ぐに伸びている。そしてその柱は空の上で幾重にも枝分かれし、光る桜色の花びらを満開にして咲かせているのだった。

 それは柱ではなく、とてつもなく巨大な樹だった。

 それもその巨大樹は一本ではない。一列に沿うように等間隔で並び立っているようで。


 もしかしてと思い桜はさらに反対、右側を見る。すると左側と同様、空に光る花びらを咲かせた巨大な白樹がいくつも厳然と聳え立っていた。

 それは巨大な並木道だった。

 透明な青の世界に、光る桜色の花びらを咲かせた巨大はくじゅの並木道が水平線の彼方まで続いている。


 そしてひらひらと空から降り続け、水面へと落ちていく無数の花びら。

 その水面に浮かぶ花びらはどれもしばらくすると水に溶けるようにして消えていることに気づいた。

 桜は手を開き、落ちてくる花びらを掬う。

 花びらが桜の手にひらりと乗る。

 すると花びらはしゅっと瞬く間に消えていった。


「この花びら、れいりょくでできてる……ってことはここの樹、全部がようじゅなのか」

「ねっ、凄いでしょ! それも桜の樹だよ!」

「いや、これは桜色のれいりょくなだけで別に桜の樹ってわけじゃ――」

「この花びら、桜の〈えん〉みたいだね!」

「聞けよ」


 浮き立つ伊佐奈はおもむろに靴を脱ぎだした。

 裸足になった伊佐奈は空間の裂け目を越え、向こう側の青の世界に飛び込む。


「はぁ――――気持ちいいー」


 れいじゅつを使って水面の上に立った伊佐奈は、全身でその世界を受け止めるように両腕を広げた。


「どこまで続いているのかなぁ」


 どこまでものんな声で伊佐奈は言った。


 桜の胸の内に寒々としたせきりょうかんが広がっていく。

 どこまでもは続かない。

 全てに限りがあって終わりがある。終わりは必ず訪れる。


「ねえ、さくらもこっちに来なよ。こっちはすっごく温かいよ」


 顔を上げると、裂け目の向こうから伊佐奈が手を伸ばしていた。


「中には入らないって言ったでしょ」

「少しでいいから、一緒に歩こうよ桜。この不思議な並木道、どこまでも続いてるよ。とってもとっても綺麗だよ」

「ここから見てるだけでも充分綺麗よ」

「でも、ここからの方がもっと綺麗だよっ。……ねえ、行こうよ桜……」


 思いつめた眼差しで伊佐奈が言う。


「ごめん、。私は行けない。もう、時間がないのよ」

「……イヤだ……。一人で歩いても、つまんないよ。桜と、一緒がいいよ。お別れなんて……イヤだよ……」


 温かな世界の中、今にも泣き出しそうな顔で伊佐奈は体を震わせる。


「あのさ、別にもう二度と会えないってわけでもないんだからさ。だから泣くなよ、泣き虫」

「泣いてない! まだ泣いてないもんっ! それに、私はっ、泣き虫なんかじゃ、ないもんっ……! ぅっ、うぅぅっ……」


 ついに伊佐奈の瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れだした。

 泣いている顔を見られたくないのか、すぐさま伊佐奈は桜に背を向ける。

 桜はそれを見てたんそく気味に笑い、そして少し心配になった。

 これでこいつは本当に来月から中学生になるのだろうか。


「…………の、通り道……っ」


 伊佐奈が何かを呟き、突然走りだした。


「伊佐奈?」


 伊佐奈は十メートルほど離れた地点で水しぶきをたてて止まり、勢いそのままこちらへと振り向く。

 陽だまりの中、鮮やかに伊佐奈の長い紫髪が揺れる。


「桜ぁっ!!」


 伊佐奈は勢いよく右腕を振り上げた。

 人差し指は真っ直ぐに天を指し、そして、


てんきの通り道!!」


 意味不明な言葉を叫んだ。

 まるで意味が分からない。

 だが、不覚にも桜は見とれてしまった。

 温かな光溢れる世界、舞い降る花びらの中、瞳を涙で濡らしながら、それでも真っ直ぐ強い意志の籠もった目でこちらを見つめ立つ伊佐奈の姿に。


「なによ、それ……」

「泣かない!!」

「は?」

「約束ーっ!!」


 左手を腰に当て、右腕を掲げたポーズのまま、せんせいをするかのようには強く叫ぶ。


「私、泣かないから! 今日で泣き虫は、最後にするから! 私、強くなるからっ! もう桜に迷惑かけないから! 桜に頼られるようなカッコイイ私になるからぁっ! ……だから、ぜったい、ぜったいまた会おうねっ……! ……ぜったい……ぜったいだよぉ、さくらぁ」


 向こうの世界で一陣の風が吹き、光る桜色の花びらがふわりと流れる。

 その風が桜の居る世界に光る花びらを運び込んだ。

 流れ落ちる花びらをいっぺんそっと手に掴む。手を開く。先ほどと同様、花びらは手の内から消えてなくなっていた。

 桜はその空っぽの手をしばし見つめ、そして伊佐奈に目を向ける。


てんきの通り道、だっけ?」

「……うん」

「今度会った時には、一緒に歩けたらいいわね」

「うんっ、一緒に歩こう。約束だよ、桜」

「ええ、約束」


 気付けばそう言葉を返してしまっていた。

 約束なんて守れるはずないのに。


 もう、時間だ。

 桜はに背を向ける。そして桜はたん、と軽くその場で跳ねて体を浮かせた。


「さくら、またね」


 地面に足が着く。

 次の瞬間には桜は空の上に居た。

 振り返れば先ほどまで居た森は遠く、伊佐奈の姿はもう見えない。


「今までありがとう、伊佐奈」


 もう届かない言葉を口にして、桜は空を蹴り、目的の場所へと向かって飛んだ。


 桜が辿り着いた場所は中央の駅ではなく、深い山奥だった。

 桜が住むぐれ市は国の北端に位置している。そしてぐれの北にある最奥の山々は〈くにがみ〉の境界線にあたるとされている場所だ。

 そのためこの山奥一帯は人間はもちろん、ようせいも寄りつこうとしない。


 上空から都合のいい谷を見つけ降りていく。

 谷底に降り立ち、周囲に巻き込むものがないかを確認する。

 確認を終え、桜はその場でしゃがみ込む。

 右手の人差し指で地面に触れる。触れたその箇所が桜の瞳と同じ深い青色に光り出し、数秒して光は消えた。

 桜はさらに四カ所、自身を囲うよう円状にそれを設置した。

 これで準備は整った。


 桜は立ち上がり、谷底から顔を上げる。

 ほのかに白み始めた空が見えた。


てんきの通り道……か)


 どうせ死ぬのなら穏やかで温かなあの場所で死にたかった。

 今更ながら桜はそう思った。

 こんなにも寒くて暗い場所に居ると尚のことそう思ってしまう。


(まあ、もう遅いか)


 ズキンと心臓を突き破るような痛みが走った。

 ゆっくりと目を開く。

 桜の胸部に、音もなく静かに揺らぐ白い炎が現れていた。


 その炎は闇を照らす光を持たず、熱も持たない。白い闇のような炎。


 現れた炎は小さくゆるやかに揺れていたが、突如勢いを増して膨れ上がり桜の全身を包み込んだ。

 もうこうなってしまえばどうすることもできない。


 この白い炎が何であるか、桜もほとんど分かっていない。気付いた時には桜の内側に封印と共にこの炎は存在していた。


 このはくえんについて分かっていることは一つ。

 この炎は魂を燃やす性質を持っているということ。つまり今、この炎が燃やしているものは桜の命そのものだ。

 非物質であり認識不可能な生命の源、たましい。その魂だけを燃やすという異質な炎。存在そのものが厄介な炎だ。


 だがその炎も今日ここで消える。

 ここは深い谷底。燃やせる命は桜の命を置いて他にない。桜の命を燃やし尽くした後、この炎も消え去ることになるだろう。


 白色の炎は静かに燃えさかる。

 宿主である桜の命を容赦なく燃やしていく。

 やはりこの炎に意志なんてものはないのだろう。ただその性質、その存在を全うしようと燃え立つだけだ。


(この炎を持って生まれてきたから……だから、お母さんは私を捨てたんだって…………そう思ってた。…………だけど……)


 魂とやらは全身に満ちているのか、はくえんは桜の全身を包んでいる。

 熱くもなく、冷たくもない。ただ肉体のどこでもない何かがくすぐったかった。

 これが魂のねんしょうというものだろうか。


 はくえんは次第に勢いをなくし小さくなっていく。

 桜の命が尽きようとしていた。

 桜は今にも倒れてしまいそうな身体をどうにか踏み堪え、懸命に空を見上げていた。


(最後に、最後にもう一度……)


 桜には夢があった。

 ずっと想い抱いてきた叶えようのない夢。しかし、こうして命が尽きようとするこの瞬間、その夢が叶う可能性があった。

 だから桜は空を見上げて待ち望む。消えいりそうな意識を繋いで目を凝らす。


(…………やっぱり……ダメか……)


 桜は小さく笑い、力なく地面に倒れた。

 炎が消えていく。地面から伝わる冷たさが薄らいでいく。

 桜は静かに目を閉じる。

 深い深い闇へと溶けていく中、誰かが名前を呼ぶ声が聞こえた。

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