14 変貌
最初に感じたのは吐き気だ。
知的労働者には見えない何人かの刑事たちから漂うタバコの臭いは昨日の任意取調べのときから感じていたが、体調が変化したのか、それが耐えられないほどの不快感となり、諒子を襲う。
軽い昼ご飯を所内の食堂で済ませた後のことだ。
そういえば生理日が近いわね、と午後になっても実質的には昨日と何ら変わらない質問に上の空に応えながら癸卯諒子が徐々に嘔吐感を募らせていく。
そのとき諒子の目の前には曲直部(まなべ)課長刑事と割柏(わりかし)精神科医と棗田刑事がいる。
割柏精神科医が、
「目の前にグラスがあります。それは、どんなグラスですか? そして、どのくらい水が入ってますか?」
と質問し、
「ええと、ガラスのコップで、水は入っていなくて、干乾びていて……」
と応じた直後、
ゲェ!
と空えずきし、その後、ポチャリという音とともに癸卯諒子の身体全体が緩いジェルに変わる。
長径一七〇センチメートル短径四十センチメートルほどの表面に絶えず細かな漣を立て続けるジェルだ。
刑事二人と精神科医がたった今目の前で生じた現象を信じられずに呆けた顔を互いに見合す。
今回の彼女の色は紅だ。
鮮やかな赤系統の色。
その揺らめきの中に緑と黄と白と黒が煌くように交錯し、ついで瞬間的に部分を延ばし、刑事と精神科医たちを内部に取り込む。
大きさをわずかに膨らませる。
監視カメラでその光景を目撃した刑事部屋の刑事たちがパニックに陥る。
次に諒子は取調室の椅子と机とさらには取調室そのものを取り込み、ついにはその場に居合わせた市民十数人を含む警察署全署員とともにS警察署全体を飲み込む。
途方もない大きさとなり弾むように市街を移動しながら――気にくわない場合を除き――出遭ったヒトやモノを癸卯諒子が飲み込んでいく。
錫や銅や金や銀や鉄を飲み込んでいく。
風や熱や湿気や乾燥や寒さを飲み込んでいく。
肝や心や脾や肺や腎を飲み込んでいく。
目や舌や口や鼻や耳を飲み込んでいく。
色や触感や味や香りや声を飲み込んでいく。
酸っぱさや苦みや甘さや辛さや塩辛さを飲み込んでいく。
犬や羊や牛や鶏や猪を飲み込んでいく。
スモモやアンズやナツメやモモやクリを飲み込んでいく。
胡麻や麦や米や黍(キビ)や大豆を飲み込んでいく。
ニラやラッキョウやアオイやネギや豆の葉を飲み込んでいく。
仁や礼や信や義や智を飲み込んでいく。
ミやソやドやレやラを飲み込んでいく。
怒りや笑いや思慮や悲しみや驚きを飲み込んでいく。
爪や毛や乳や息や髪を飲み込んでいく。
筋膜や血脈や肌肉や皮毛や骨髄を飲み込んでいく。
呼(よぶ)や笑(わらう)や歌(うたう)や哭(さけぶ)や呻(うなる)を飲み込んでいく。
涙や汗や涎(よだれ)や涕(はなみず)や唾(つば)を飲み込んでいく。
握(にぎる)や憂(うれう)やシャックリやセキや慄(ふるえる)を飲み込んでいく。
例のオーナーシェフの店にいた歳若いウエイターや珠洲江里子や生天目信也や遠北優や物袋静也や大殿益次や物袋の会社の社長及び会長や上司の孔合衛麻衣子やその他大勢のヒトやモノを癸卯諒子が飲み込んでいく。
そしてその体躯をユルユルと膨らませながらある土地まで来たとき、彼女は己を惹きつける強烈な閃光を感じる。
元は座主坊老人の里山だった、あの場所が近づいている。
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