10 ヒトからモノへ

 癸卯諒子が体調変化を感じたのは、それから数日後のことだ。

 最初は夢を見ているのかと思う。

 右手が手首の先からポチャリと水になり、研究室の床に落ちたからだ。

 吃驚して確認すると手は元の位置に戻っている。

 床に水溜まりはない。

「疲れているのだろうか?」

 そのときは、そう思うしかない。

 次に今度は左手が落ちる。

 気づいたときには、またすぐ元に戻っているが、その指先がジェルのようにプルプルしている。

 けれども脳がそう認識した途端、正常に戻る。

 その次は右足の膝から先で、そのときにはさすがにバランスを崩して転ぶ。

 その次は左足の腿から先だ。

「気のせいなんかじゃない!」

 最後の体験の後、諒子は確信する。

 起こっていたのは理解不能で、かつまた常識的にはありえない症状(現象?)だが、夢の中にいる朦朧感はない。

 それとも、これが世に云う明晰夢なのだろうか?

 まだ一人の体験だ。

 目撃者はいない。

 でもたとえあれを目撃しても、その人の脳が現象を分析できずに否定&合理化してしまうかもしれない、と諒子は思う。

 それでは自分は、どうなのだろう?

 材料もなく考えるのは無駄だと判断し、所内の医療センターに向う。

 ドアを開けると、定年間近のメディカルドクター、鵜養耕三(うがい・こうぞう)が、諒子を確認し、おや? と眉を動かす。

「あれ、諒子さん、お珍しい? この間の事故以来ですね。体調不良ですか?」

「とりあえず、生化学検査をお願いしたいのですけど……」

「迅速で?」

「できれば、その方がありがたいのですが……」

「理由は、どうされますか?」

「飲みすぎとかじゃ駄目ですか?」

「結果次第でカウンセリングにまわされますよ」

「そうか! それは避けたいなぁ」

「要するに、わからないんですね」

「仰せの通りです」

「何かあったんですか?」

「ドクターの前であれが起これば、きっとわかると思いますけど……」

 しかし何も起こらない。

「精神疲労及び肉体疲労にも見えますね」

「ええ、もちろんそれもあります」

「原因がわからないから検査してデータを集めるんです。いいでしょう、許可します。採決室へどうぞ。で、次は?」

「血清免疫学検査、血液ガス分析、培養検査、それから機能検査、画像診断、電気生理学検査、内視鏡、感覚器検査、運動機能検査、病理診断、心理検査を……」

「検査項目全部じゃないですか? ご懐妊?」

「そんなので済めば気が休まるんですけど……」

「ふむ、確かに覇気はありませんね。……血液検査(生化学検査)の結果を見て判断しましょう」

「ありがとうございます。お願いします」

 ブランチ(病院等に出張して来ている検査機関の出店)が混雑していなかったので、採血の結果が一時間かからずに出る。

 社内アナウンスの呼び出しを受け、諒子が鵜養の許へ向かう。

「肝臓じゃありませんね。γ‐GTPは正常値内ですよ。若干、貧血ぎみで、CRPがいくらか高いから炎症があるかもしれませんが、それ以外は正常です」

 メディカルドクターがそう告げたので、

「あの状態じゃないと出ないのかな?」

 と諒子は独りごちる。

「疑いがあるとすれば感染症かな? 検査を受けますか?」

「お願いします」

 そちらの結果もすぐに出たが、諒子の方が暇にならないので、結果が翌日送りとなる。

 その日の報告書をまとめ、定時後、再度実験室に向かうと、

「え? これ、なに……」

 癸卯諒子は信じられない光景を目撃する。

 一群の検査シャーレが入ったインキュベーターが形を崩した巨大なジェルに変わっている。

 その中に――ジェルに取り込まれた部分が白骨化した――元は同僚の音無早苗だったと思われる死体が埋まっている。

 その光景を見た直後、諒子はクラッと眩暈を感じる。

 だが気を取り直して非常ベルを押す。

 それが今まで作動しなかったことを不思議に思いながら……。

 ついでけたたましい音で非常ベルが鳴り始め、すぐさま数名の警備員たちが諒子のいる実験室に駆け込んで来る。

「これは!」

「おお!」

 そのとき警備員たちが見たものは、先ほど諒子が目撃したジェルではない。

 考えようによってはそれより怖ろしい、砕けたインキュベーターの鉄扉や壁面内に埋まった音無早苗の死体だ。

「何があったんです?」

「そんなの、わかるわけないでしょ!」

 紫色の寒天培地は要因の一つだ。

 その要因が癸卯諒子に感染(うつ)り、その後彼女は別の要因を身に宿し、それがさらに諒子の中で変化を遂げ、気づかぬうちに最初の要因に逆感染する。

「とにかく警察を呼ばねば……」

 信じられない光景を目撃し、仰天はしたものの訓練を受けた警備員は冷静にそう判断する。

 しかるべき番号に連絡を入れる。

 警備員のその判断は正しかったが、しかしそれでその後の事態がどうなるものでもなかったようだ。

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