8 閃光
あれから数ヶ月して、元座主坊五六七(みろく)老人の里山は切り崩され――その時点で一部住民との間に悶着はあったものの――心配されたような精神障害発生現象は生じない。
背の高い不透明の塀で覆われたその区画内の落ち着きを見、遠北はやっと肩の荷が降ろせたと感じている。
迷信とは怖いものだ!
そのすべてが単なる出鱈目とはいえなくとも、要素となるひとつひとつは検討の余地もないくらい常識外の領域に属す。
それは都市伝説でもまったく同じだ。
耳まで口が避けた女がいるはずはないし、日焼けサロンに行き、内臓が融けることも起こり得ない。
前者は整形手術の失敗例としても常識的にありえないし、後者だって実際に紫外線に引き起こすことができるのは、どう頑張っても皮膚癌の誘発が関の山だろう。
各種内臓を癒着させる力など全然ないのだ。
しかし、ある一人の人間が夢うつつの状態で体験した不思議が一度人口に膾炙すると、たちまち尾鰭がついてスパイラル展開が始まる。
だが、その体験例はひとつでは足りない。
二つだって少な過ぎる。
数十、数百の同様な逸話が重ねられ、初めてまやかしの信憑性が発生するのだ。
しかし、と遠北は思う。
座主坊の話は、その中では異常だ。
『気が狂うのは結果でしかない』
と、あの老人は言う。
『あすこの一部は、ごく普通の意味で地球ではない』
とも。
『空気が違う、気が違う、論理が違う、法則が違う』
そうとも言う。
そして、もちろん理由の説明はなされない。
おそらく、それは本当にわからないからだろう。
いつかの過去に、原因は不明だが、いくつかの異常現象が重なって起きる。
それら一つひとつは偶然だが、結果的にその全員の気が触れる。
よって現象は本当であろうと解釈される。
おそらく、そういったことなのだ。
複数信憑性の法則。
むろん本当の原因は何処か他所にあるはずだが、当時の人々にはそれが見つけられず、不可思議信仰に摩り代わる。
よくある話だ。
アニミズムが根深く浸透した日本社会においては特によくある話だろう。
その点に関し、遠北は当世の若者の何割かを非常に情けなく感じている。
すなわち最低限の常識判断ができなければ、いかなる夢を望もうと叶うわけがない、という思いだ。
親も悪いのかもしれない。
都市伝説ではないが、それと同じような神話がある。
左脳は論理的で右脳は創造的という単純な左右の脳区分け神話がその一つ。
三歳児までに豊かで多様な刺激を与えた方が頭が良くなるという三歳児神話がその一つ。
テレビゲームをやり続けると子供がキレやすく反社会的になるというゲーム脳神話がその一つ。
後者の根拠は、前頭葉で脳波にアルファ波が増え逆にベータ波が激減するパターンが認知症と同じだというもので、あろうことか教育関係者らに事実として広く支持されている。
けれどもベータ波はリラックス時にも減るわけで、実は何の根拠にもなっていない。
単なる素人のデータの読み違えだ。
もちろん、それらに関連して観察された事例のすべてが嘘だとは言わない。
だが親や教育関係者がそれらを鵜呑みにしていれば、影響は子供にも現れるだろう。
嘆かわしい、と遠北は思う。
そして、もっとも天才ならば話は別だが、と皮肉に思う。
天才は庭に集団で生えてきたりはしないからだ。
遠北がそう思ったときのことだ。
頭の上方に閃光を感じる。
それは弱いというより薄いといった感じの閃光で、午後の陽光にすぐにかき消されてしまう。
感覚としては、雲間から太陽が覗いて影に日が射すといった感じのものではなく、また区画内を整地中の作業員が懐中電灯で合図を送ったものでもない。
「なんだったのだろう?」
遠北が独り言ちる。
すると、ついさっき回想した座主坊老人の言葉の一部が重く胸に迫る。
老人は言っている。
『あすこの一部は、ごく普通の意味で地球ではない』
ということは、それは里山とは直接関係がないということだ。
土地でもなければ、土でもない。その中に埋もれた何かでもない。
それでは――
遠北が再度閃光を感じる。
見上げた空間の一点の光の色が違っている。
生のウィスキーに水を加えた直後のようなキラキラしたゆらめきがある。
位置的には、切り崩される前の里山の通称ヘビ坂――くねくねと曲がりくねっているところから付近住人が慣習的につけた名だ――の突き当たりに建っていた祠のような小屋の地下辺りだろうか?
現在の整地された土地の高さをゼロとして、その上空五メートル辺り。
そしてそれが――
フッと消える。
あわてて見まわしたが、遠北には再度閃光を発見することができない。
とたんに老人の言葉が耳に浮かぶ。
『気が狂う。場合によっては、身体の一部も狂う。……変化は、ごくゆっくりとしか起こらんらしいからな。……せいぜい気をつけることだ!』
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