7 媒介

 掛足靖彦は道に倒れて気を失い、十数分後に発見される。

 そのときはまだ息があったから救急車が呼ばれたが、付近の救急病院が満杯だったために数ヶ所の病院を巡るうち、目を覚ますことなく亡くなっている。

 運転免許証から身元がわかり、また上着のポケットにあったメモ帳の記載から、その日の掛足の足取りも掴める。

 スマートフォンにもマメな記録が残されている。

 よって田舎にいる両親や勤め先の雑誌社に連絡を入れることが可能となる。

「苦しそうな顔をして、可哀想に……」

 慌てて駆けつけた上司の珠洲は、死体安置室で未だその顔に残された掛足の苦悶の表情を目の当たりにして涙を流す。

(昼間は元気だったのに、いったい何が?)

 珠洲の脳裏に疑念が浮かぶ。

 昨日の掛足の取材先は多くない。

 大学病院と製薬会社の研究所だけだ。

 大学病院では、現時点では海のモノとも山のモノとも知れない人工組織培養元物質について主任教授に話を聴き、その後、実験手法として実際に行われているコンビナトリアル・ケミストリーの現場を取材しに製薬会社に出向いたはずだ。

 予定としては、それだけだ。

 そのどちらも、掛足の急死の原因になったとは考え難い。

 珠洲は思う。

 もともと身体が弱ければ話は別だ。

 病院には菌がウヨウヨしている。

 しかし掛足に病気の兆候は窺えない。

 一般の若者よろしく一日が終わる時点では多少の疲労蓄積があろうとも、翌日にはケロッとした笑みを浮かべて出社する。

 それが入社以来変わっていない。

 それが何故?

 ましてや製薬会社の研究所なんて法的にガチガチに縛られているから――まったく予期せぬ場合は除くにせよ――一般人が危険な場所に案内される可能性は限りなくゼロに近い。

 よしんば本当に存在したとして、秘密の研究場所などを見学させるはずがない。

 これは珠洲が実際に経験したことだが、廊下を歩く際、そこここに貼られている各種業務報告が気になって思わずキョロキョロとしたとき、案内人の一般事務員からやんわりとたしなめられたことがある。

 もっとも、そのとき一緒に廊下を歩いていた取材相手の会社上司は口元を緩めていたのだが……。

 それが通常の営利企業研究所の常態なのだ。

 とすると?

 掛足の死因は謎だし、また変死でもあるが、それだけでは事件性が不明なので病理解剖は見送られる。

 そして珠洲には知る由もないが、掛足靖彦は生天目信也教授のところに向かう以前に――発症はまだだが――インフルエンザウィルスに感染している。

 その後、製薬会社でコンビナトリアル・ケミストリーに関する簡単な講義を受けた癸卯諒子に、咳のわずかな飛沫を浴びさせている。

 もっともそれだけでは後の災厄は発生しない。

 けれども偶然はさらにいくつもの偶然を呼び込んでしまったようだ。

 アメリカから帰国した物袋は自身が媒介者となり社内工場から出荷された機器に何かを感染させ、その機器の一台が――市場占有率からみれば意外ではないが――癸卯諒子のオフィスに導入される。

 後の事件が実は蓋然であったにせよ、少なくともその準備段階は、この時点でほとんど用意されていたことになる。

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