6 感染
その日、職場の実験室で癸卯諒子は奇妙な動きを認める。
彼女は遺伝子治療薬の開発に携わる製薬会社の研究員だが、現在の仕事は触媒作用の見張り番のようなものだ。
遺伝子治療とは、正常ではない遺伝子により本来の機能を発揮できない状態になった細胞の異常状態を修復し、病気を治療する手法だ。
レトロウィルス(RNAウイルスの総称)に治療用の遺伝子情報を組み込み、それを正常ではない遺伝子を持つ細胞内に浸入させる。
その手法がもっとも有名だが、現時点では残念ながら成功例は多くない。
他にはベクター(治療に用いられる組換えDNA等を導入するための核酸分子)を注射などで異常組織に送り込む手法、患者の血球などを外部に取り出して体外でベクターを作用させ、後に患者に戻す手法などが試みられている。
諒子が担当検討していたのはウィルスまたはファージ(細菌に感染するウィルスのこと)のベクターだが、治療薬の候補に挙がったそれらベクターのすべてはみな脆弱だ。
ウィルスというと他者の細胞内に侵入し、それを材料に自己複製をすることから、素人目には繁殖力旺盛な生物または擬似生物と思われがちだが、実のところ、すべての種に渡り耐性があるわけではない。
もちろん乾燥させれば数億年でも保存できるし、生殖(遺伝子複製)以外の余計な機能がないので病気になる(壊れる)ことも少ないが、人間の医療行為のために自己を好き勝手に組み換えられては、さすがにその能力を保持することができないのだ。
月日が満ち改造者の人間が『さて、改造品を活動させようか』と実験や治療行為をはじめてみると、元々持っていた性質から鑑みればそれほど妨害性があるとは思われない外部刺激で比較的簡単に破壊されてしまうことが多い。
それを防ぐ手段はいくつもあるが、諒子たちのチームが追いかけていたのは通常採られる一般的な手段とは異なっている。
そもそも遺伝子治療のために患者患部にベクターが送られるまで時間がかかる。
さらにベクターが患部で遺伝子治療をするためにも時間がかかる。
それら時間が仇となり、肝心なときに既にベクターが壊れている状態が多く観察される。
ならば、ベクターが壊れる前に治療を済ませてしまえば良いではないか!
つまりは、そういった発想を根幹に据えた手法を諒子たちは手がけていたのだ。
無謀でもあるし、また研究達成も困難と思われたが、会社上層部はそのプロジェクトにゴーサインを出す。
一般的な手法としてやたらに壊れ難いベクターを作ってしまうと、治療後にそれがどんな悪さをするか予期できない。完全な複製能を持つラムダファージなどのベクターを除けば、組み換えウィルスはパッケージング(ウィルスの遺伝子がウィルス粒子に収納されること)に必要な遺伝子を持たないので自己複製できないはずだが、いつ何時それが変異してしまうかわからない。
同プロジェクトから分派した諒子たちのチームは生体触媒を用い、ベクターが患部に到達した時点で迅速に作用でき得る可能性を追求している。
患部にベクターを送り届ける方法の迅速化は別のチームの担当だ。
さらに別のチームは、もちろん壊れ難いベクターの作製方法を模索している。
ところで基礎研究実験段階では患者患部をそのまま使用することができない。
よって、まず該細胞のみを体外で長生きさせる課題を最初に解決しなければならないが、容易に想像できるようにこれは――将来的に成功した場合の経済効果は計り知れないとはいえ――気の遠くなるような作業だ。
よって半年ほどの予備検討期間内にその困難性が確定されると、
『機構を知るためだけならば、何も本物の患部を用いることあるまい』
との判断が下され、実験が半人工細胞を用いる方法にシフトする。
生天目教授が細々と行っていた研究に用いられた該物質と本質的には同じものが利用されたのだ。
この時点で、ガン治療に該方法を用いることを検討するチームが分岐する。
社内的には、本来分派だったはずのそちらの研究の方が現時点では進んでいて、ガン細胞のエネルギー供給経路を経つウィルス治療薬が――治験はまだだが――実用化寸前まで迫っている。
諒子たちのチームの研究進展はそれに比べれば亀の歩みで、未だ生体触媒、いわゆる酵素の選定段階にある。
寒天培地に半人工の患部細胞とウィルスベクターを置き、そこに種々な酵素を導入する。
酵素の選定は、むろん勘に頼るわけではなく、システマチックにほとんどすべてが試験される。
その単純試験をpHなどの化学環境をわずかずつ変えながら何百万回も繰り返す。
これまで主流だった人の勘に頼った手法より数万倍速いはずだが、今のところまるで成果は見られない。
だが――
ある系列の酵素が導入された一群のシャーレ内で何かが起こっているようだ。
幾種類もの化学環境下で実験が行われるため、すべてのシャーレには観察用の小型CCDカメラが設置されるが、連綿と切り替えられるその画像の一部を見、諒子が異変に気がついたのだ。
通常の状態では暗い黄土色の寒天培地が紫色に変色している。
その画像を保存し、同僚の音無早苗(おとなし・さなえ)にも確認させてから、上司の孔合衛麻衣子(くさか・まいこ)に相談し、実際に現物を確認してみようという話になる。
「さぁて、どうなっているんでしょうねぇ?」
もちろん興味津津で諒子は一群のシャーレをインキュベーター(孵卵器)から取り出す。
もちろんマスクもしていたし、ゴーグルも掛けている。
白衣を着て、プラスチックの滅菌手袋だってちゃんと嵌めている。
よもやそのとき研究所が建造されたその地域に――震度は低いが――直下型地震が襲いかかかろうとは研究所の誰一人、夢にも予期しない。
そして――
「痛っ!」
瞬時、何が起こったのか判らなかったが、トレイから実験台に落ちたシャーレが割れ、その破片が諒子の指先に突き刺さる。
痛みはすぐに引いたし、傷跡も残らなかったし、その後の医療センターでの簡易検査結果も特に異常値を示さない。
だが癸卯諒子はそのとき何かに感染したのだ。
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