3 空気が違う

「最後にもう一度だけ申し上げるが……」

 と既に自分の所有物ではなくなった裏の里山を見やり、座主坊(ざしゅぼう)老人が呟く。

 里山といっても、いわゆる都市郊外のそれと比較すれば小さな丘程度のものだが、元所有者も地元住民も慣習的にそれを里山と呼んでいる。

「あすこを開発しても、結果的に何の特にもなりゃせんぞ。むしろ、あんたがたに害が及ぶ」

「はい、その点に関しましては……」

 と今回老人との交渉人としてその地を訪れたN建設会社渉外部地域担当課長の遠北優(あちきた・すぐる)が応える。

「自然環境保護の立場から充分な調査を行い、慎重に開発を進めてまいりますので、その点に関してご心配されるようなことは、まったくないと確信しておりますが……」

 すると老人は――

「わしは環境問題の話などしておらん。この惑星上にあるものは、隕石などの形で地上に落下したごく僅かのものを除けば、すべて海水を含む地表が原料だ。たかだが数キロの厚さに過ぎん地球表面から、すべてが造りだされておるのだよ。その地表を原料に自然が生み出した化成品が植物や動物で、その動物の食物連鎖の頂点に人間がおり、その人間が海や山を加工して拵えたものが道具や機械それに建造物だ。人間を自然の一部と捉えるなら、それら機械や建造物も同じように自然だろうと、わしは捉えておるよ。だが、わしが心配するのはそんなことではない」

 老人の長広舌を聞き、

(ずいぶんと進歩的な、いや、ずいぶんと捻くれた考えた方をしているんだな)

 と遠北は思う。

 けれども、その思いを表情には覗かせない。

 財産法と自然林保護法の兼ね合いから、実質的に管理が行われていない里山の所有権は座主坊老人から剥奪される。

 そして対価と引き換えに、その場所の所有権はN建設に既に移行している。

 座主坊老人の話を聞きに来たのは会社としての礼儀であり、家族のいない老人に対する思いやり、すなわち本質的にはボランティアなのだと遠北は考えている。

 東京郊外……といっても二十三区に隣接するこの市に奇跡的に残っていた老人の里山。

 周りはすべて開発され、住宅やビルやモールやその他の建造物が所狭しと軒を並べている。

 そこに病院を建てようという計画だ。

 里山のことを知っている多くの近隣住民たちから表立った反対はない。

 新しく町に越してきた住人たちは大歓迎だ。

 しかし古くからその地に住まうごく一部の住民たちは里山に関する奇妙な云い伝えを自身の記憶に留めており、唯一それだけが病院建設の懸念材料だ。

「それは……」

 と、しばらくしてから遠北が老人に問いかける。

「例の、あの『精神障害に冒される』といった噂でしょうか?」

「ふん!」

 老人が鼻を鳴らす。

「精神障害という言葉で伝わっておるのか、今では……。まあ、それは良い。だが気が狂うのは結果でしかない。それにあれは言葉では上手く表せんのだ。あすこの一部は、ごく普通の意味で地球ではない。そういうことだ。それ以上にも以下にも表現できん。あるいは空気が違う、気が違う、論理が違う、法則が違う、とでも言うしかなかろう。むろん、原因は知らん。いつからなのかも、わからん。文献的にずっと封印されてきたのでな。だが、そんなに昔のことではなかろう。せいぜい江戸後期くらいからだと、わしは睨んでおる」

「いったい、どんな変化が起こるのです」

 老人の話す新手の都市伝説には興味を惹かれなかったが、礼儀として遠北が訊く。

「言った通りだよ」

 老人が遠北に答える。

「気が狂う。場合によっては身体の一部も狂う。しかし脳機能が傷害されている一部の精神障害者は狂わん。植物も動物も大型犬でも狂わんようだ。もっと頭の良い動物についてはデータがない」

「しかし、それは……」

「変化は、ごくゆっくりとしか起こらんらしいからな。加速する方法があるかどうかも知らん。……せいぜい気をつけることだな!」

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