2 要因

「ケホン」

 と咳をして往来に立ち止まる。

 M街の歩道に人影は疎らだが、深夜二時ともなれば当然だろう。

 混雑が酷いので、昼間はここを歩く気がしない。

 ……かといって最寄駅から仕事先の出版社までの位置関係から通過しないわけにもいかない。

 科学雑誌の編集者といえば、端から見れば格好良く見えるのかもしれないが、若手の掛足靖彦(かけたり・やすひこ)は現時点で単なる使い走りだ。

 それもいつまでその状態が続くのか、先が見えない新米だ。

 一般に流布する噂とは異なり、雑誌の編集長は思った以上に首のすげ替えが多い。

 老舗の文芸誌のように名物編集長が気力切れを起こすまで永遠にそれを支配するという風潮は今ではもうないのだ。

 現在の掛足の上司である珠洲江里子(すず・えりこ)はその点例外で、もう五年近くも『サイエンス・トピック・ジャーナル誌』の編集長を務めている。

 だがこれは、少なくとも今のところ珠洲に出版社を渡り歩く気がないからだろう。

 現状に満足しているのかどうか、それはまだ二十代前半の掛足には見当がつかないが、珠洲からそういったオーラは感じられない。

 そして掛足のその直感は珠洲に対する的を得た評価でもある。

 編集者としてはズブの素人の掛足だったが、人を見抜く、あるいはその人の本質を直感する能力には恵まれていたようだ。

 けれども物心ついてから現在に至るまで掛足にはその自覚がない。

 さらに不幸なことに、その能力を己の将来設計に役立てる時間も残されていない。

「ゴホン」

 深夜の歩道で立ち止まり、ジャケットの裏ポケットからティッシュぺーパーを取り出すとまた咳が出る。

 胸に厭な感じがする。

(感染(うつ)ったかな?)

 本日、珠洲に指示されて最初に向かった取材先は大学病院だ。

 知っての通り、いずれの病院も院内に蔓延する病原体の種類の多さでは引けをとらない。

 種々の病気の患者が集まる場所が病院なのだからそれは至極当然のことで、最近では話題にさえ上らなくなったが、いわゆる抗生物質への耐性菌は日々刻々とその種類と数を増加させている。

 治験で安全性が確定されている抗生物質が効かない、あるいは病院側に効果的な対処法がない菌株も残念ながら減ることなく、全世界で着々と新型の検出数を増やしている。

 さらにインフルエンザに至っては、まるで世界を牛耳る裏世界の誰かが巧妙に糸を引いているかと想像を逞しくしたくなるほど――絶対数は少ないとはいえ――種々の家畜からヒトへ、そしてヒトからヒトへの感染拡大が日常的茶飯の現象になっている。

 感染ルートがおおよそ確定された例が四半期ごとに増えている。

 もっとも未だ人類に感染の経験がなく、また一度大流行すれば人類の存亡までも懸念される鳥インフルエンザの大流行こそ発生していなかったが……。

「ゲホ、ゲホ、ゲホ……」

 掛足が珠洲に命じられたのは、しかしそういった病原体とは直接関係がない、人工の組織培養元物質とでも呼べば良いのか――あるいは他に相当する用語があるのか――よく判らない、コード名『GLC‐37』という化学物質の取材だ。

 研究担当主任の生天目信也(なまだめ・しんや)教授によると、単に『無生命細胞』で良いらしい。

 もっとも、その用語で対象に対する理解が深まるかと問われれば少なからず疑問符がつく。

『いわゆる寒天培地の進化系でして、それがそのまま』

 望みの細胞に変化するという。

『患者組織と同じ遺伝子を導入できますから、生体移植に関し、拒絶反応は生じません』

 とも加えて説明される。

 まるで御伽噺を聞いているような気分だが、ついで教授から、

『詳細な機構や組成/成分割合などは特許権利化の関係がございますので誠に申し訳ございませんが』

 今ここで回答することができないという。

 すなわち研究の主要部分が体良く取材拒否されたわけで、これでは何のために大学病院まで足を運んだのかわからない。

 掛足は一気にがっくりしてしまう。

 材料が少な過ぎて記事にならない。

 そう思ったときのことだ。

 掛足の脳裏に、

『まぁ、そんなことだろうと思ったので、あなたを行かせたのよ!』

 という珠洲の眉をひそめた無言の表情が浮かび上がる。

『でもまぁ、取材の真似事くらいは出来たでしょ?』

 すなわち、ここで引き下がってはいつまで経っても一人前の記者として認めてもらえないわけで、だから一度はそのまま、

『ああ、そうですか?』

 と答えて苦笑いし、その場から遁走しようとした掛足だが、その考えを翻し、気力を振り絞り、質問を続ける決心をする。

 そこで――

『しかし教授は、どうして大学の研究室ではなく病院の方でご研究を?』

 と尋ねてみる。

 だが返ってきた答えは、

『この時代、このご時世、この経済状態でしょう。基礎研究には予算が付きませんよ』

 との憂いを含んだ嘆きなのだ。

 ついで――

『代議士に仕分けられるのは、いつも基礎科学ばかりで……』

 と続けられては掛足としても立つ瀬がない。

 仕方がないので、その点について突っ込んでみると、

『ええ、そのために通常の患者検体と同じルートで検査費用を病院側に支払って必要な情報を集めているんですよ』

 と取り敢えず苦しい台所事情だけは引き出すことに成功する。

 それを会話の糸口とし、現時点での研究成果についてそれとなく仄めかしてみると、

『うーん、そうですね。率直に云えば組成探求のところで停滞しています』

 との答え。

 そこで掛足は結局自分が取材したのはすべて夢物語だったと悟る。

 研究が組成の探求状態だということは、たとえば何かの反応に役立つ触媒を探しているような状態といえる。

 現在ではコンビナトリアル・ケミストリーという、組み合わせ理論に基づく実験手法が発達してきているものの、神の手による偶然がまだまだ幅を利かせている研究分野が触媒研究だ。

 すなわち多種多様の候補品を集めてみたものの実質的にはまだ何もはじまっていないという状態。

 だから最後に生天目教授から、

『ここだけの話なのですが、系列大学の病院なので検査費用は若干割引されます』

 と予想がつかないわけでもない新事実を明かされても教授から新米記者に向けた一種のジョークとしか思えず……。

「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……。ゲエッ!」

 口から吐き出した胃液に血が混ざっている。

 掛足靖彦は、その後もしばらく咳き込み続け、やがてその場に崩折れるとのた打ちまわり、遂に瞳孔を開いて気を失う。

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